四年の正月、周囲の丘の峰連に、又、河辺に、宮寺の間に猿の群れその数二十余り、鳴き、口を窄んで声を出し互いに合図をしている。近づくと姿を隠す。人々は伊勢の大神の使いあろうと噂をした。木々を取り払い見通しを良くする。その資源で柵を造り砦を築く、生活環境を奪われた猿などが人里に近くに移動して、人家の食糧・作物を狙ったのだと推測できる。六月六日に中大兄は倉山田麿呂臣に「三韓の貢物の贈呈式の奏上文の読み上げ役を致す様に」と命令し、その日に入鹿を成敗する謀りごとを明かした。山田麿呂は「承知しました」と返事をする。六月十二日天皇は大極殿の玉座に座った。古人皇子も同席していた。蘇我入鹿は疑い深く決して油断をしない人柄で、常に身を守る為に太刀を帯び、咄嗟の攻撃に備えていた。宮中には娯楽のために俳優が仕えていた、俳優は冗談を言いながら入鹿に纏わりつき、「三韓の使者が怖がっていますから」とでも言ったのであろうか、入鹿は笑いながら刀を腰から外して大極殿の席についた。倉山田麿呂臣が進み出て三韓の奏上文を読み上げる。中大兄は衛門府に命令をして十二の門を閉鎖して人の出入りを禁じ、衛門府を一所に集め慰労の贈物をする。大兄は長い槍を持ち大極殿の隅に隠れ、中臣鎌子らは弓矢を持って中大兄と共に様子を窺った。箱に隠した刀二本を佐伯連子麿呂と葛城稚犬養連網太に渡して「真っ直ぐに進み入鹿を斬れ」と命令する。子麿呂らは喉が渇き水を飲むが緊張の余り吐いてしまう。鎌子は「落ち付いて度胸を据えろ」と叱責し励ました。倉山田麿呂は上奏文を読み終りに近づくが子麿呂達が現れず、不安の余り冷や汗が顔に流れ、声が枯れ手足が振るえて止まらない。入鹿はこれを怪しんで「なんでその様に震えるのか」と問い正す。「大君の尊顔が間近でございますので、緊張が取れません。身の不覚でございます」と答える。子麿呂達は入鹿の威光が恐ろしく身が振るえて足が前に出ない。大兄はヤアーと大声で叫び子麿呂達となだれ込み入鹿の頭と肩を斬りつけるが失敗。入鹿は驚いて立ち上がる。子麿呂は刀をふりかざし入鹿の足を払う、入鹿はその場に倒れ、頭を床の打ちつけながら怒り「なんの罪でこの仕打ちを受ける。きついお調べを」と天皇に懇願する。天皇は「一体全体この様は何事だ」中大兄は頭を床に擦り付ける様に深く下げ「鞍作は山背大兄を初め次々に殺し天皇の位を狙っています。天孫の位を蘇我に譲る事は出来ません」と答える。天皇は席を立ち黙って奥に入ってしまつた。佐伯来麿呂・稚犬養網太は入鹿を斬り殺す。この日は大雨であったらしい。宮中は雨で浸かり水溜りが至る所に出来たらしい。入鹿の屍には筵が懸けられ一昼夜放置された。古人皇子は私邸に逃げ込み人に言ったと云う「韓人が不満で入鹿を殺してしまった。何と痛ましい事だ」。寝所に籠り門を閉ざして以来出て来なかつたと記されている。中大兄は法興寺に籠りそこを城として反乱の鎮圧に備えた。総ての皇子・王子・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造は悉く大兄に友好的であった。使いを遣わしいて入鹿の屍を蝦夷の基に送り届けた。蘇我氏の盟友で帰化人の漢直らは一族郎党を総て集め軍隊を作り抗戦の意図を示している。中大兄は大将巨勢臣国押を遣わして歴史では初めての君臣一体の意志であるとして漢直の衆に説いて「入鹿林太郎鞍作は我我により処罰された。蝦夷大臣も今日明日にも成敗される事は間違いない。なれば誰の為に勝ち目の無い戦いをして賊として殺されるのか」と言い、太刀を腰から外し弓を投げ捨てて立ち去った。賊は無意味な戦いを悟り軍を解いて退散した。蘇我蝦夷大臣は誅される事を予見して家宝としていた天皇記・国記・その他の珍宝を焼いてしまう。船臣恵尺は焼かれる寸前に国記を持ちだし中大兄に奉呈した。この日蘇我蝦夷とその子入鹿の屍を墓に埋葬する事を許し。又、悲しんで泣く事も許した。深く感じる記録である。
六月十四日、皇極天皇は退位。御位を軽皇子に譲り中大兄を皇太子とした。
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