◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆天照大神とはどんな神様(その7)

2013-11-27 10:56:15 | ◆天照大神とはどんな神様
 伊奘冉尊は夫君の伊奘諾尊より先に薨じたとされている。その死因は、最後に火の神を生んだ時、陰に大火傷を負ったためとされている。しかし秀真伝の伝えはこうだ。
 花杵(素戔鳴尊)はその名とは逆に生まれながらにして粗暴であった。父母の神はこれによって大変に悩み、我が児のシム(血脈)の欠点を補うため、熊野宮を建てた。花杵はその山に火を付けて大火事を起こした。母の尊がその火を防ごうとして、火の神の軻過智神を勧請したが、この神の手違いにより、火に焼かれて亡くなられたのである。その他には、花杵の粗暴を直さんとして、加持祈祷(の様な祈り)の折、軻過突神の火で大火事になり、大火傷を負い死亡したとも言う。
 天照大神は日高見(仙台の近く)のヤマテ宮より原見山(富士山)の安国宮に移り、気力のなくなった父神に変わり政の中心に座ることとなる。江戸城の大奥や、世界史に出て来る後宮の話はよく知られているが、同じような制度が秀真伝にでてくる。重臣八十杵尊の薦により天照大神の后12名が選定され、それぞれ東西南北の局に配されたのである。椋杵命の益姫持子とその妹の早子が北の典侍、東の典侍に棚機姫小妙、東の内侍に桜内の女、瀬織津姫穂の子、南の典侍にその妹花子、と以下12名の名すべてが記録されている。書紀の記述で素戔鳴尊とのウケイで生まれたとされている田心姫、湍津姫、市杵島姫は北の早子が生んだ三つ子(竹子、田奈子、湍子)と記されている。
 その後、大神の後ろ立てである高天原の長老、豊受の君が甍じ、何かと世情不安の兆しが見え始める。体調を崩した伊奘諾尊も甍じ、多賀の宮に埋葬される。12后の一人で気立の良い瀬織津姫が内宮に選ばれる。
『東西南北の 局は替り 宮仕え その中一人 素直なる 瀬織津姫の 雅には 君も階踏み降りて 天下る日に 向津姫 つひに入れます』
  天下る日とは正式に皇位を継承した日を表すものと考え、その日に瀬織津姫(向津姫)を皇后にしたのである。    
 素戔鳴尊は、若狭の今の籠神社の処にあった朝日宮に豊受神のお参りに行く。そこで赤土命の女早吸姫を見染め、妃としたいとまだ生存していた父神の伊奘諾尊に願う。しかし素行が悪く父の君に信用がないために、いまだ自分の宮を待たせてもらえなかった。これを理由に赤土側から断られる。
 大神と素戔鳴尊は小さい時から一緒に暮らしたことが少ない。大神は幼くして仙台の豊受君の処で、君としての教育をされた。かなり年下の尊は熊野で両親と昼子姫と暮らしていた。自分は皆から疎まれているのに、兄は有能と言われて政を継いでいる。よくある話で兄に対する敵愾心は、その気質からして、かなりのもので有ったと思う。宮がない尊はブラブラして大内の北の局に出入りするようになる。北局は持子とその妹の早子のところで、二名は皇后になった向津姫より美人であるとの自負があった。大神の寵愛も大きかったが、教養や雅に欠けたため、后妃として向津姫が選ばれたのだ。二名はこれを恨みとし、大神に対しても反抗的になった。
『北の局 姉妹休めとて 内にいれ』
 とある。その内に、素戔鳴尊は妹の早子と密通してしまう。このことが大神に知れ、豊姫を新に北の局に昇格させる。持子・早子は降ろされて、若狭の朝日宮の女官に左遷されることになる。
『北の局 下り嘆けば 素戔鳴が 堪まりかねてそ 剣持ち 行く早子が 押し止め 「功ならば 天がした」花子姫 きたれば穂を 隠す 見ぬ顔すれど 内宮に告げ』
 それを聞いて、素戔鳴尊は烈火の如く怒りだし、新に北の局になった豊姫を殺そうと剣を持ち出す、早子はそれ押し留めて「豊子を殺して何になるの、機を窺って天下を取りなさい」と唆す。その時、向津姫の妹の花子が通りかかる、両名はその場を取り繕い、何事もない素振りをするが、花子は総てを察して姉の向津姫にその事を告げる。
『ある日高天原の 行幸あと 持子早子を 内宮に召す 日に向津姫 曰ふは 』
 あなた方の悪行は総て明白なのですよ、御笥飯得を(余禄をつけて)あげます。筑紫にいって暫く謹慎して居なさい。おとなしく行いを慎んでいれば、お上のお怒りもそのうち解けましょう、その時は力になってあげましょう、分かりましたね。平易に言えばこのようなことであろう。しかし気位の高い両名にとっては、堪え難い言葉であった。今まで、見下していた向津姫に、首を切られたのである。これが素戔鳴尊が暴れだした直接の原因である。そのなす業は前述の如く狂気じみていて、
『「汝汚く 国望む 」道なす歌に 天が下 和して巡る 日月こそ 晴れて明るき 民の両親なり 素戔鳴 岩を蹴散らし なお怒る 君恐れ増し 岩室に 入りて閉ざせば 天が下 昼夜も紋無し』
 と五七調で淡々と経過を追っている。おなじ波乱の経過を先代旧事本紀の記述で追ってみよう。「写し絵の如く」とか、「鏡に映る如く」はまったく寸分違わない時の表現に用いられる。書紀と旧事本紀はまさにこれに当てはまる。それを追ってみよう。



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