◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆「蘇我太平記」第七章 聖徳太子の諫言その2

2011-09-28 15:12:12 | ◆蘇我太平記
推古十五年七月三日、大礼小野臣妹子を隋に使いとし、通事として鞍作福利を添えて出国させた。ただそれのみ書紀には記述されているが、歴史で名高い太子の隋国王に宛てた国書を妹子は携えて行った筈である。
百濟・高麗から相次いで僧呂や、堂塔建立に不可欠の大工、左官、瓦士、絵師、仏師が来朝しそれらの力は我が国の技術面、経済面で発展を加速させた事は明かである。しかしその流は広大な大陸の平原・関中の先進技術を百済・高麗を介しての受け入れであった。航海技術の進歩により大陸からの直接導入の道を探るのが前方に開けた大きな道である。太子らの頭脳集団が選んだ最良の道筋は、大国隋の皇帝に直接国書を奉呈し国交を開くことであった。半島を通じこの列島の世情、経済、政治面の変遷は可成詳しく隋の情報筋が知るところであったと思う。中国には古来女帝の存在の歴史はなく、女性は生を受ける次元が異なる者とされていた様に思われる。その女性を自身の利に走り天皇に選んだ事に馬子の人としての人格が疑われていたと推測する。最近この話はあまり話題に登らないが、隋への国書に、太子は事もあろうに『日出ずる国の天子、日没する国の天子に致す。恙無きや』と切り出している。不勉強でその後に続く文を知らないが、戦時中、軍部は此の勇ましい出だしの文を引きだして聖徳太子を讃え、国民の戦意高揚に利用した。[我が国はおとこを日子(彦)、女を日女(姫)と言う。女と男は同じ日から生まれ同格だ]「日が勢いよく昇る東の国の王から日が沈む西の国の皇帝に訊くのだが、近頃間違ったことをしていないか・・・」『我が国で同格の女の天皇を選んだ事をとやかく言っているようだが、間違っていないか』の意味だと思えてならない。馬子はこの大切な手紙を太子に書かせ、一種の踏み絵にしたのでないかと最近フッと思うことがある。用命天皇の死後、後継ぎに厩戸皇子ではなく、己の利を目的人して崇峻天皇を据え、その天皇を殺し、更には敏達天皇の皇后を引き出して推古天皇としたことを、全て馬子の常軌を逸した行動と皆が思っている事実、太子自身の不満がどの程度のものか・・・太子は賢明のひとである。この罠には乗らなかったのである。


◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。