◆神代の案内人ブログ

…日本の古代史についてのブログです。…他の時代もたまに取り上げる予定です。

◆「蘇我太平記」第五章 丁未の役 その3

2011-08-17 15:05:17 | ◆蘇我太平記
 蘇我氏に競う相手は最早いない。崇峻天皇を馬子の一存で帝の位に押し上げた事は群臣達の周知の事実であった。その崇峻が次々と国家の大事となる決定を、馬子の意向を尊重し同意を得ることを無く、実行に移したのでないか、馬子と崇峻の間に隙間が出来ても不思議ではない。以後馬子は崇峻の言動に強く干渉を入れってくる。天皇とは名ばかりの鬱鬱賭した日々、若い崇峻天皇の不満が高まるのは当然であったと思われる。そこが我慢のしどころであった。己の心の底を見せず耐え忍ぶ術が必要であった。己を過信し、つい油断する。若さ故の不注意であろうか。書紀にはその経過が詳しく記している。
 崇峻天皇五年十月四日、山猪が献上された。書紀には天皇、猪を指して日はく『いつの時かこの猪の首を断つる如く朕が嫌しと思うところの人を断らん』とのたまう。多くの兵仗を設けること常より異なる事ありと述べている。この話は六日後の十月十日にすでに馬子に伝わっている。馬子からすれば多くの周囲からの反対を押し切って天皇に据えてやった皇子である。にもかかわらず何たる放言と顔を真っ赤にして怒るのも次元を低くして考えれば理解が出来る。十一月三日東の国から大量の貢物が届きその受け取りの儀式を兼ねた作業があった。天皇はその儀式に参列することになっていた。馬子は東漢直駒に命令し、宮中で天皇を殺し、その日のうちに倉梯岡に埋めてしまう。馬子に密告したのは大伴連から出て天皇の傍に仕え、身の世話をする小手子であると書紀には本文ではなく参考副文として記録している。天皇の寵愛が衰え見向きもされないのを恨み、供の者を馬子のところに使いにやったとしている。天皇を凌ぐ権勢並びない蘇我馬子であっても白昼宮中で在位の天皇を殺す大事をやってのけた事に、当然駒との密命が噂となり、やがて公然の事実として広まってしまった。馬子は駒に何かと気を使っていたと考えられる。「大臣はこのわしに頭が上がらない」と駒は周囲に粗暴な振る舞いが目立ち、ついには馬子の妾川上姫に手を出し自分の妻としてしまう。馬子は川上姫が突然に行方不明になった真実を知り、怒髪天を突き、駒を捕らえ殺してしまう。口封じの為もあったろう。
 額田部炊屋姫は欽明天皇の第二女であった。母は正妃の堅塩姫であり蘇我稲目の娘である。容姿は美しく、振る舞いも整い品があり、平たく言えば、才媛であり佳人であった。敏達天皇の息長広姫が夭折し、後の皇后として敏達天皇に嫁いできたが三十四歳の時、敏達天皇が疫病で逝去、政情混乱の末崇峻天皇が後継となるが、五年後に馬子のため暗殺される。皇位の継承には群臣の臣・連の権勢争いが根底にあり必ず荒れた。しかし今回は天皇が暗殺され非常の事態であった。他年の宿敵であった物部本家が滅び、間の緩衝が無くなり、蘇我氏と天皇家の二頭が向き会うことになる。炊屋皇后には敏達帝との間に竹田皇子ガ居たが、この時すでに死亡か、病弱であったか、書紀には記載がなく不明である。馬子は物部守屋との争いに勝利した最大の功績は厩戸皇子にあると考え、後継候補としていたと思う。厩戸は父用命も母穴穂部皇女の蘇我氏の出であり、蘇我血脈の真っただ中で己の手足となり動いてくれると期待していたと思う。年はその時十九歳、少し若いが十分に資格があった。考えられる反対者は炊屋皇后である。実は炊屋皇后と敏達帝との長女は厩戸皇子に嫁いでいたが、既に死亡したか何かの原因でもあろうか記録も少なく不明である。反対の理由がその辺りに有ったのでないか。厩戸が未だ若い事もあり群臣は一致して炊屋皇后を後継者の中継として皇位を継ぐ様に幾重にも要請し、最後にそれを受諾したのである。最初の女帝推古天皇の誕生である。補佐役として厩戸皇子が重責を担う事となった。これが名高い聖徳太子である。
<この章終わり>


◆本館「神代の案内人」ホームページはこちらです





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。