「新潟の学校司書これからも成長を」に寄せて 

もう一人の大物の登場です。

学校や教育に関わる人には、研修や自己研鑽が必要なのは言うまでもありません。
で、研修の内容について、個人的な意見を言わせていただきます。

1 子どもが主役という立場をはっきりさせてください。子ども文化について研究が進んでいるということさえ、わたしたちボランティアは知らされなかった。

2 新潟市に昔からあったという、その研修会ですが、その表裏をもう少し調査していただき、その上に立った研修をお願いします。
 その研修会関係者に「寄付」を求められることがありました。で、寄付の行き先について明らかにされませんでした。「あいまいでいいものもあるのよ」という言い方でうやむやになっていました。12年くらい前だったでしょうか、「まどみちお」展が市立美術館であったときも、寄付を求められました。「そう?」と少しだけ寄付し、寄付人名簿や礼状が届きました。でもそれは、全国巡回している大きな展覧会なので、寄付が必要なものではなかった。
小澤俊夫昔ばなし大学も、東京で数千円のものが新潟で5,6万円だったので、そのへんのいきさつもお聞きしたい。まともな研修や講座ならば、収支報告はきちんとされるべきものだというようなことも、研修に入れていただきたい。誘致する実行委員長は18年の夏に、東京子ども図書館の講座の講師として発表されましたね。あまた図書館員が大勢いる中で、なぜ正職員でないその人がその役目を言いつかったのか。
 自分たちが投書欄に投書すれば、自分たちの教え子がいそいそと動きだすとお考えでしょうか。斎藤惇夫氏に「暗い夜道」扱いされた私たちで、いいんでしょうか。「産む機械」と表現した某大臣と似た発想ではないですか?

3 「良い本を紹介すれば子どもは読書に導かれるという概念」の他に、「子どもが面白いものを好み、落ち着きがないという資質」を否定せず、それを認めて引き出して「面白いものの一つに本もあるかな」と自然に感じられるような、ゆったり見守る感性を、司書に持ってほしいです。

4 ブログに書いた先生方は、新潟の子どもの近代化に大きな役割を果たされました。すばらしい業績です。で、その調子で、一つの価値観が正しくそれ以外は正しくないというような意識を一歩進め、多様な価値観を認める社会になるよう貢献してほしいです。ドリトル先生に出会う機会も、いまどきの本に出会う機会も、子どもには保証されるべきものでしょう。権威者は自分の研究や自分がお世話になった先生が大事でしょうが、赤の他人である子どもやボランティアをその枠にはめ込まないように。本よりも人の方が大切です。
 良い本に向かえという大義名分の陰で、仲間同士傷つけあうような事態が起こっていたことは何度も書きました。それは、お国のためという大義名分での戦争のときに仲間同士の殺し合いがおこるのと構造は同じです。権威者からみると「ユルくてずぼらで見苦しい」ように見えるかもしれませんが、だれでもそこから始まるのだということを認めてほしいです。だれでも心に闇があるでしょうし、闇が子どもを成長させるとも感じています。嘘をつく子もいるでしょう。もしもそうなら「なぜそうなったか」を穏やかに追求すればいいことです。
 教育とか司書としての成長は、それらを認めることから始まるのではないかと思います。 
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