「新潟の図書館は日本一」について 

いよいよ大先生のお出ましです。大先生も庶民も等しく公共図書館利用者ですので、みんなが利用しやすい形を探していけばいいですね。で、斎藤惇夫先生は図書館の棚をいつご覧になってこの文章を書かれたのでしょうか。数年前の状態でしょうか。

斎藤先生は、4年くらい前に新潟市で講演をなさいまして、読み聞かせボランティアを「困ったボランティアがいる、新潟にはいないだろうね」「子どもに本を手渡す資格」「気をつけよう、暗い夜道とボランティア」などとおっしゃいました。
 確かに、良く練習しないとか、自分が目立ちたいとか、本なんか適当に持って来ればいいとか、そういう人もいます。会の約束を守らないとかね。病的な人かなと思うときもあり、自分もそうかなと思ったり、ボロボロになったときもありました。

 でもね、やっていくと少しずつ自覚してそれぞれの個性を発揮し、それなりの形になっていくと思います。ぐるぐるといろんな方向を回る人もいると感じています。自分もそうだと思います。そういうボランティアはどうしてそうなるのか、私は一生懸命聞いて尋ねて様子を観察しました。私自身も迷走しました。「みんなすごーく低いところから始めるんだよ」という公民館の方の言葉がヒントでした。
 だから最初の段階で切り捨てないで欲しい。公共施設だからね。あなたの私設図書館じゃないし、ボランティアはあなたの子分ではありません。一生を子どもの本に捧げるほど思い詰めるつもりもあんまりありません。自分がいいと思う本だって、他から見ればいいと思う人もいるだろうし、思わなもい人もいる。本を読まなくても大きくなれます。
 
 「みんなすごーく低いところからはじめる」ボランティア、それを「本」に当てはめたらどうでしょう。
みんな低ーい(いわゆる玄人から見ると)ところから始め、いろんな寄り道をして楽しみ、ぐるぐる進んでいきます。そのぐるぐるを楽しみながら一生終わる、それでいいじゃん、と思うようになりました。いい人生って何かなと探しながら、一生終わるのと同じこと。お姫様が好きな時もある、しょうもない絵に惹かれるときもある。
 例えれば、自分で「どうしてあんな服が好きだったんだろう」と過去の自分にあきれる時もあるけど、それを延々とくり返して生きていくのと同じことです。

 それから、「欧米並みに 新潟で可能になる」というのは、今はやりの「欧米か?!」と突っ込ませていただきます。妙齢(?)の女性からの突っ込みを、喜んでいただけると願いつつ。

 それから「子どもへの思いの深さ」ですが、
その思いの深さが、「子どもをペットのようにいとおしむ」に傾いていたことを指摘したいと思います。それは「子どもをよい聞き手に育てる」という某先生の言葉に何の批判もされなかったという事実にあらわれています。「私の大切な子どもたち」と声を震わせるおばさまもいらした。
 エッセーに書かれた研修会が40年くらい前から始まっているそうですが、その研修があるにも関わらず、本離れが進んだのですよね。逆に言えばその研修と共に本離れが進んだのでは?と、もう一度突っ込むことにします。某先生の語録「数十年後に効果があらわれ」たのです。効果はどう出たでしょうか。現実をしっかり見たほうがいいですよね。

 それから、「日本一の図書館」っていう発想は、危なくないですか。「日本一」をお好きな人は、それ以外を低く見ることはありませんか?


 真壁伍郎先生の投稿ですが、学校図書館のことなので私のような門外漢にはいまいちよく分かりません。ただ、真壁先生にお願いしたいのは、ご自分でお気づきかもしれませんが、先生は権力者であるということを自覚していただきたい、ということです。
 弱者というのは、偉い人やお上に、つい擦り寄ってありがたがる癖があります。私もそうでした。生身の人間なので複雑な感情があることを、もちろん年長者でいらっしゃるからご承知のことと思います。「図書館のおかげでよい本に出会えた」などと学校図書館への感謝の言葉など、いくらでも出てきます。図書館OBや先生を囲む会などいくらでもあり、そこでは相手をねぎらう言葉のオンパレードでしょう。
 できたら、付け加えるなら、現役の子どもの意見を聞いたらどうでしょうか。どうして利用者が減っていったのか。ただ子どもが忙しく、他の楽しみが増えただけなのか。ではなぜハリーポッターはあんなに好まれたのか。
 子どもの気持ちになってください。子どもにとっては、相手が偉く、立派であればあるほど、近寄りがたくなるのではないか。偉い人に嫌われないよう気を使い、ついには子供同士で傷つけあっているのが今の状態ではないか、と言わせてください。効果があらわれたのです、と。
 
 前述の研修会のような「研修」で「目の肥えた質の高い」職員が配置され、子どもの身の丈に合った本当の文化から目をそらし、上から見た「良い本」だけが備えられた結果、利用が減ったのではないか、と思うのです。それこそが感謝と対極にある、声なき声のように思えるのです。
 「質の高い」人たちが「自分は質が高い」と思っているもんだから、他人を見下す問題が起こっていたことは、たびたびこのブログで書いてきました。

 
 『児童文学論』に、リリアンスミスが今まであった本を処分し、良い本を入れた結果、図書館が良くなったというような記述がありました。私には、今まであったその本を楽しんでいた子どもの笑いざわめきが、切り捨てられたように思えてなりませんでした。そのような研修を受けた職員が満遍なく配置されるよりも、能天気なパートさんがいたほうが、まだましです。

 調べ学習の本は、そりゃ、専門知識があったほうがいいだろうけど、文学は好みの問題だから、その子が好きな本は、誰がどう言ったって好きなんだからと思ってくれる人がいいな。

 沼垂幼稚園の本の部屋は、先生が選書した本から様変わりしました。保護者のみなさんが変えていきました。未就園児の集団読み聞かせも、かしこまって聞く形から、子どもが突っ込みを入れたり言葉に合わせてわさわさ手足を動かしたりする雰囲気に変わっていきました。集団相手のあと、個別に読む時間もとりいれました。「どれでも読んであげる」と言われて子どもはとてもうれしそうに本を選んで持ってくると、私には見えます。私たちはそのことを大切にしたいと思っています。
 
 
 



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