15号のキャンバス

 その年、昭和47年、私は高校1年の美術クラブ員でした。夏休みに、同じクラブの友達と二人で、直江津の海岸に絵を描きに行きました。
 「必ず現地に現物を持っていくんだぞ」の美術の先生の教えの通り、15号のキャンバス、イーゼル、油絵の具などを持ち、直江津の港が対岸に見える浜にやってきました。油絵の具は乾きにくく、2枚を専用クリップで止めると持ち運びに便利なので、同じ年のおとなしい感じのその彼女とは、一緒に過ごすことが多かったのです。
 買ったばかりで砂によごれることも気にしたのでしょうか、私は防波堤近くにサンダルを脱ぎ、はだしのままちょっと離れた場所で、港のタンク群などを描いていました。昔のことで、海水浴場でもない普通の浜辺は人通りもなく、ぽっかりとあいた空白のようなイメージです。

 一時間かそれくらいたって、ちょっとそのサンダルのところに戻ったとき、数人、5,6人くらいか、男たちが集まっているのを見ました。私と目が合うと、皆一様ににやにや笑って、何か仲間うちで小さい声でしゃべっていましたが早口で聞き取れませんでした。港の労働者にしては華奢な感じで小柄、皆同じような作業服を着ていて、夏の海岸に不釣合いな、嫌な予感がして、すぐに友達のところに戻ったのです。なんで平日の昼下がりに、男の人が集まってぶらぶらしているんだろう、そんな不思議な感じが残りました。
 そして、何時間か経って帰ろうとすると、サンダルが片方だけなくなっていました。しかたなく、友達のサンダルを借りて近くの雑貨屋でビニールサンダルを買い、それで家に帰りました。お気に入りだったサンダルを片方だけ持って。
 父親に訳を話したけれどたいして叱られもせず、今はもう、その父も、家も残っていないけれど、私の心の中に、あの不安感が今もときどき現れるような気がします。
 夏になって、「ぼくのあの麦藁帽子・・」などという名セリフを耳にすると、私は「私のあのサンダル」と思ってしまい、若い頃は友達に笑い話として話したりしました。

 けれど、拉致の問題が広報され、横田めぐみさんのクラブ活動のバトミントンラケットのことが報道されたとき、私が美術部でなかったら、と思ったのです。もしも先生の助言を聞かずあの大きなキャンバスや荷物がなかったらと、あの男たちの様子を思い出し、息が詰まるような気がして、ほとんど人に話すことはなくなりました。
 
 家の経済的な事情で、高校2年に美術部をやめてしまいました。今、遠慮なく絵の具を買い、チューブから絵の具を出すとき、あの油絵の具の匂いやナイフでこねる感覚、夏の炎天下の感触を、どこかに求めているのかも知れないと思うこともあります。・・・だれでも、そんな思い出があるのでしょうね。

 私が北朝鮮のことに固執するのは、こんなことのせいかも知れない。でもそのせいで不必要な思い込みで人に迷惑をかけてはいけない、と、何度も自分に言い聞かせています。

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