カルトvsオタクのハルマゲドン/虚業BLOG

オタクと政治に関するBLOG

1999年11月17日から30日

2012年03月27日 01時23分39秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


11月30日(火)

 宮台真司さんの授業聞きに都立大へ行く。2週あいだ開けたので、都立大の駅名をしばらく思い出せなかった。ちなみに都立大学前駅には、都立大は今はない。今日は宮台博士は休講。休講の掲示見て、「ミヤダイ」の表記はほんとは宮台ではないのだと知る。オカルトな私は本当のほうの表記で姓名判断して、ふむふむなるほど、とか思う。
 駅前で『広告図像の伝説』(荒俣宏、平凡社ライブラリー)買う。

 自分の部屋に戻る。家賃払う。

11月29日(月)

 朝4時半起床。母の社会参加欲求につきあう。母の友人たちと介護保険の話などする。時間がなかったのと私の準備不足であまり突っ込んだ話できず。
 風邪ひきそうだったので風邪薬飲む。
 その後住所書きの単純作業延々する。子供のころはこういう単純作業いやだったなあ、と、パートのおばさんに愚痴る。子供は退屈に弱い。別に大人になっても単純作業が好きなわけではない。コンピュータ導入すれば、と思う。しかし打ち込みという単純作業をするのはやはり俺かと思い、陰鬱な気持ちになる。
 設計士さんと現場監督さん、壁材の見本持って来る。検討。
 その後単純作業に戻る。
 猪が村の川に出たという話を、父の友人が持ってくる。父に連絡する。父、大喜びで買い物から戻り、猟犬三匹連れて飯も食わずに飛んで行く。
 父戻る。猪の姿を見ることはできなかったそうだ。猟犬一匹、猪追ったまま行方不明になる。その日のうちに、その犬は自力でウチに戻ってくる。
 私は単純作業を続ける。退屈で眠くなる。寝ないで作業を続けることにどれだけのメリットがあるのだろうか、と、思う。何もない、と思う。居眠りする。
 居眠りから起き、単純作業を続ける。今日も泊まっていけ、と言われる。泊まることに何かメリットがあるだろうか、と、考える。何もない。東京へ戻る。

 足立真一さんの掲示板に書きこむ。足立真一さんから電話来る。色々バカな話をする。

11月28日(日)

 夕方起きる。実家へ行く。電車の中で『消えるヒッチハイカー』読了する。『ウィガン波止場への道』(ジョージ・オーウェル、ちくま学芸文庫)読む。
 田舎は寒い。物凄く寒い。地元民に言わせるといつになく暖かい冬なのだそうだ。それはそうかもしれない。だが、やはり東京とは一ヶ月から二ヶ月ぶん相当の気温差がある。ところで私の母はヒトの話を聞くという能力がない。色々母の都合をまくし立てられる。母が言い分を言い終えたとこで散会就寝になる。寒さで風邪っぽくなっていたので風邪薬飲む。寝る部屋へ行く。、暖房なし。人間のいない部屋というのは芯から冷たい。息白い。とにかく就寝する。

11月27日(土)

 身体中の筋が突っ張ってる。寝て過ごす。

11月26日(金)

 午前3時ころ、ディグさん来る。レニングラードカウボーイズ聞かせてもらう。そろそろ寝ます、とディグさんに言って、就寝。

 午後3時起床。風呂に入ろうとするが、銭湯休み。うろうろする。出掛けに、近所のお茶屋さんでアールグレイ茶二つ購入、手土産にする。
 「大川興業」のライブ観に、中野へ。中野サンプラザの場所確認するため東京ウォーカー買う。場所わかる。中野サンプラザの正面で、妹を待つ。待っている途中、岡昌平さんと、鈴木邦男さんの姿を見かける。声はかけず。入場時間の6時になっても妹の姿見えず、妹たちの携帯電話の番号の控え出掛けに探しても見つからなかったので、不安になって実家に電話する。筆記用具持ってこなかったので電話口で記憶しようとする。単純記憶能力はそうとう錆びついていて、さっぱり覚えられない。妹の片方と合流。もう片方はまだ来てないとのこと。チケットはもう片方は自分のぶん持っているとのことなので、とにかく入場する。中でもう片方と合流。
 誘った妹が「もし面白くなかったらごめんね」と言う。「歌と違って、ギャグはいつでも同じものをするわけにいかないから、当り外れがあるんよ。でも、観る側が『育てよう』という姿勢がないとね」
 「大川興業」のライブ観る。原子力ネタ、ライフスペースネタなど。体張っているところに共感。政治は娯楽だ、という姿勢に一方的共感。「大川興業」の場合、観客を絶対的安全圏に置こう、という姿勢がある。ように感じる。それはハテいかがなものかな、と思うが、お笑いの姿勢としては原則的にいいと思う。「大川興業」のギャグは「がきデカ」的だなあ、と思う。私は「がきデカ」を高く評価している。全体主義的行動のおかしみ、という点で、レニングラードカウボーイズを連想する。「大川興業」のライブは楽しめた。
 妹の一人は終電が早いので、最後まで観ずに帰る。残ったほうの妹とタイ料理食べ、近況を聞く。せっかくこっちにいるのだから、こういうものたくさん見ないとね、という話など。高給取りの妹に今日のライブのチケット代を奢ってもらう。 

11月24日(水)、25日(木)

 宮路兼幸さんのアシに行く。行く前は役に立てるかどうかドキドキだったが、宮路さんは温厚な方で、アシ使いが上手で、ストレスを感じずにアシさせていただけた。
 プレイステーション2の話する。プレステ2はDVD機としては役立たずなのでは、という話を伺う。今まで、マルチメディア機というのはたくさんあったが、いずれもヒットしなかった。マルチメディア機ということは、一つ一つの機能では専用機に劣るということだ。重要なのは、リモコンだ。ビデオは、リモコンで操作する。コントロールパッドでは操作しない。DVDをコントロールパッドで操作するのはストレスが伴う。今まで不成功だったマルチメディア機はコントロールパッド操作だった。子供は堪え性がない。ファミコン、スーファミがヒットしたのは、カートリッジを差せばすぐにゲームできたからだ。プレステやセガサターンはCDを収め、蓋をすることでプレイできた。。プレステ2のソフトはスライド式だ。スライドが収まるまでの時間が、子供には耐えがたい。

11月21日(日)から23日(火)

 記憶にない。

11月20日(土)晴

 山本夜羽(玄田生)さんと、ほしのえみこさんの結婚式。
 スタッフは駅に9時半集合の予定だった。松代さんから電話。予定が若干狂う。駅降りる。昔住んでいた築25年のアパートの前歩く。取り壊されている最中。少しおボケになられていた大家さん、逝去されたのだろう。あの大家さんには支払いが済んでいないぶんがあった。もうこれで返せる機会を永遠に失ってしまった。そのことを思い、少ししんみりする。

 教会に着く。スタッフ間で打ち合わせる。予定より色々遅れる。掃除する。机出す。椅子出す。教会がお茶を用意下さったので啜る。親族挨拶の準備しなくてはならなくなる。机動かす。椅子動かす。お茶を出す。

 受けつけ係をする。鈴木邦男氏、堀内満里子さん、川端智子さん、藤間紫苑さんなど記帳。式のリハーサルが終了。式が始まる。写真屋さんの機材、邪魔なので教会の支持に従ってどける。式を覗く。本格的なカトリック式の結婚式を拝見する機会はそうそうない。パチモンはよく観るけど。式終了。親族の集合写真撮影の準備。テーブルなど移動。
 地階で他の列席者休憩。軽食の用意。記帳を見ると町田ひらくさんもいらしていたようだ。顔は拝見しなかった。
 午後一時半。松代さんに退出したい旨伝え、退出させてもらう。
 ネクタイを白から普通のものへ取り替え、電車に乗り、大宮へ。

 えだの幸男さんのオープンミーティング、午後2時から4時まで。私は3時10分ころ着。質問タイムになっていた。これで二回えだのさんの演説聞き逃した。先月は原子力行政について、今月は司法・裁判・国会討議にういて、だったようだ。実に残念。介護保険について一つだけ質問する。
 終了後、珍しくえだの幸男さんを交えてお茶会。えだの幸男さんの言うには、普段は党から国会内を優先させよ、と言われるのだが、選挙が近いだろうから、という理由で、交流会に残ることができるようになった、とのこと。話させていただく。お茶会終了後、「つぼ八」へ移動。えだのさん交え15人ほどで呑む。政界の話など色々聞かせていただく。あまり寝てなかった私は途中で酔いが回り、眠ってしまう。
 労組の話とか、民主党地方部のトホホな話とか、色んな方から聞かせていただく。アルバイトの口、一個見つかる。
 ちょうど読んでいた『時代の風音』(堀田善衛、司馬遼太郎、宮崎駿。朝日文庫)の中で宮崎駿がこんなこと言っていた。
「アメリカのハリウッドの映画会社を日本の企業が買うでしょう。そうするのじゃなくて、百億円出してくれればいいのです。いや、アニメーションにじゃないのです。そのお金で五年間映画を作らない映画会社をつくって、そのなかで論議して考えるってことをやったら、日本のいい映画はできるんじゃないかと思うんです」
それはハテどうかな、とは思うが、あくせくしないでいい、という特権を持っている人間は少ないのだから、ちとのんびり構えよう、と、思ってみる。

11月19日(金)晴

 ディグさんから電話。山本有三記念館見に行く。

 RB67さんから電話。『消えるヒッチハイカー』(新宿書房)見つからない、とのこと。

 白のネクタイ購入。

 足立真一さんから電話。日本のアニメの海外市場への版権、とか、そのあたりのことの情報をいただく。

11月18日(木)

 新宿へ。山本夜羽さん、ほしのえみこさん、松代さん、もう一名で、結婚式当日に関する打ち合わせする。山本夜羽さんから、北海道のカトリック信者は貧者が多く、東京のカトリック信者はインテリが多い、という話、神父さまには有名な不良神父さまに来てもらう、という話など伺う。

 RB67さんとハイチ料理食べる。アメリカ西海岸への夢を膨らませる。

11月17日(水)

 結婚式出席の際恥かかないようシャツ購入。本屋に自転車置いといたら移動されていて、げ、と思う。が、撤去されていたわけでなく見回りの親切なおじさんが移動しておいて下さったのだとわかる。

1999年11月1日から16日

2012年03月27日 01時20分38秒 | Weblog
11月16日(火)

 都立大へ。若干寝坊する。宮台真司さんの授業を途中から聞く。以下、教養課程「社会学」のメモ。

教養過程「社会学」宮台真司講師

 言明可能性条件と生活世界内機能

 「言明可能性条件」と「生活世界内機能」の例として、吉幾三の「ウインナーコーヒー」のエピソード。上京したばかりの吉幾三が喫茶店でアルバイトをしていたときのこと。マスター不在のとき、客がウインナーコーヒーを注文した。吉幾三はコーヒーに、ウインナーソーセージを二本付けて客に出した。客はウインナーソーセージをかじり、コーヒーを飲んで帰っていった。というエピソード。(これを宮台真司は「吉幾三問題」と呼ぶ)
 ヴィトゲンシュタインの後継者クリプキは「言明可能性条件」ということを言っている。人間が会話をするには、ある言葉があるものを差す、ということが「任意の第三者」を連れてきたとき「判断が一致する」という予期があって成立する。だが常に「任意の第三者と判断が一致する」かどうかは実証できない。有限個の操作の中で確認することはできない。
 カール・ポパーKarl Popperは「カラスは黒い」か? という例を挙げている。「任意のカラスは黒い」これは理念だ。現実の中で確証はできない。
 「我々は理念的な(実証不可能な)期待(予期)をもって行動する」ことを、ヴィトゲンシュタインは発見した。
 私たちは生活の中でさまざまな信頼・予期を前提としている。だが、この予期は、たまたま今まで裏切られることのなかった期待にすぎない。(これが「言明可能性条件」と「生活世界内機能」の問題である)

 社会学の再帰性

 「人の行為」と、「社会イメージ」は、互いに再帰し合う。ケインズ理論では、不況になると人は貯蓄をはじめ、不況は更に悪化する。「貯蓄は反社会的ふるまいだ」とケインズは述べた。
 「人の行為」は、社会と自己言及的関係にある。社会は暗黙の前提(予期)によって裏打ちされている。
 「社会イメージ」を記述する学問が、社会学だ。社会学の呈示する社会イメージの浸透により、人々の行為は変化する。

 尊厳の問題。近代化には「宗教」が必要であった、という問題。「隣人愛」の意味

 DIGNITY、「尊厳」の問題。「尊厳」とは存在を祝福するような、善きこと。キリスト教的神の概念と呼応する。

 近代天皇制は、ヨーロッパ留学をした伊藤博文のアイデアによって作られた。島宇宙的な「村」を超えた「国家」という共同体に尽す、という制度だ。近代化には動員が必要だ。動員には宗教的基盤が必要だ。日本にそれがないことを留学した維新の元勲たちは痛感した。それゆえ、近代天皇制が作られた。

 「公」、パブリックとは、想像もつかないような嗜好を持つ、まるっきりの他者と共生するための想像力のことだ。

 キリスト教で言う「隣人愛」とは、お隣と仲良くしましょう、という意味ではない。親を捨てよ、故郷を捨てよ、自分に敵対するような隣人を愛せ。…こういうありそうもない「愛」をイエスは実践したと信じる、これがキリスト教の「隣人愛」だ。
 キリスト教は戒律を捨てた初めての宗教だ。ユダヤ教は戒律でできあがっている。戒律に従っていられるのは豊かな恵まれた人だけだ。貧しい者は生活のために戒律を破らなくてはならない。戒律は、それを守れるほど恵まれた者を救い、それを破らなくてはならないほど恵まれない者を見捨てる。…今やイエスによって神との契約は新ためられた、とするのが「新約」だ。
 「隣人愛」は、異邦人パウロがローマに布教するさいクローズアップしたものだ。
 キリスト教は、はじめ、ギリシャ語を話す商人たちに信仰された。彼らは国を持たない。どこの共同体にも所属しない。流浪の民だ。共同体に支えを持たない人々の心の支えとなったのが、キリスト教だ。キリスト教的伝統(カトリック)は、共同体を超えた正しさ(普遍)にある。

 「宗教」について

 宮台真司による「宗教」の定義;【前提を欠いた偶然的なもの(端的・イニシアルなもの)を、無害なものとして受容する(馴致する)装置の総体】
 端的なものとは、「なぜこの世に私はいるのか?」、あるいは「出会い」のように偶発性に左右されるもの、これらが「端的」なものだ。

 過去の「宗教」の定義にはどんなものがあったか。

 1;超自然的、超経験的な事柄への信念(18世紀、人類学発展以前の定義)
 …この問題点;人の知る現実は常にローカルなものでしかない。この定義のままでは、たとえばUFO研究者が宗教者になってしまう。比喩表現としては、そうは言える。だが、ここで捉えようとする「宗教」からは外れる。

 2;聖と俗の別。聖なるものに関わるコミュニケーションの総体(19世紀の定義)
 私たちは「聖・俗」という概念をずっと持ってきた。聖概念は、たとえば祭りの時間であり、シメナワによる結界だ。
 …この問題点;なにが「聖」であるのか確定できない。「聖」の定義は、「非日常的興奮・熱狂」だ。ではデモ行進は宗教的か? あるいはダンスは宗教的か? 

 3;パラマウント・リアリティ。至高の現実。コスモス。
 現実はピラミッド型の階層を持ち、その階層の最上位を語るのが宗教だ、とする説。
 …この問題点;憲法は宗教か? 人権概念は宗教か? 科学的探求は宗教的体験とは、言わない。社会学の求める構成要件を充たさない。

 以上、「社会学」のメモ。

 宮台真司さんに授業の後、挨拶する。びっくりされる。「どうしたの?」と問われる。『美しき少年の理由なき自殺』で天ぷら学生を拒まないとあったので、と応える。研究室の場所と、ゼミの教室案内していただく。「時間があったら話ができるのだけど、あいにくこの後予定を入れてしまっていて」と宮台さん。「できるだけこれから毎週来ます」と私。
 山本直樹と対談したことを伺う。「山本直樹はみな計算づくで描いているんじゃないか、と思っていたのだけど、会ってみたら、どうもそういうわけじゃないようだった。なんていうか、感覚的な。鎌やんみたいなタイプだと想像してたんだけど、全然違うタイプだったね。あまり人と話するタイプじゃないし。鎌やんは社交的でしょう」社交的な漫画家なんて珍しいし、私の場合は客商売の経験値が人よりたまたま多かっただけで、本質的には内向的ですよ、と思ったが、それは言わなかった。

 ゼミまでは時間が随分ある。学食でご飯食べる。ぶらぶらする。ところで都立大は無意味にブラブラたむろしていられる場所がない。そういう場所の重要さを宮台さんは著書で言っていたが、職場がまさにそういう場所なんだな、と思う。

 宮台さんのいらっしゃらないとき宮台さんの研究室のドアの張り紙を見ると、青ボールペンで以下のような落書きがへたくそな文字で書いてある。

「宮台君へ。『あんた気持ちワルイノ』消えろよ。『あるいは君のまわりでは、まわりの空気がくさる。くさってもいいけど、税金もらってくさらせるなよ。』」

 以前、エヴァのテレビ版終了直後、ガイナックスの扉にスプレーで「天誅(ただし『誅』の字は言ベンだけ)」と落書きしてあったのを思い出す。悲しくなる。

 宮台ゼミの教室に早めに着席し、『世界の教科書にみる戦争の教え方』(別技篤彦。朝日文庫)読んで時間潰す。宮台さんが言うには、他の学校の学生や、社会人や、高校生などもゼミに参加しているとのこと。小さな教室がぎゅうぎゅう詰めになる。高校生らしい茶髪の男女3名も入室。授業前に彼らは宮台さんのところへ挨拶に行く。礼儀正しくて良い子だ。
 宮台さんが入室し、ゼミ開始。学生がテキスト(本)を読み、その内容についてレジュメ(梗概)を作り、発表する形式。学生の発表を宮台さんが聞き、間違ったことを述べていないか確認する。理解が怪しいところを宮台さんが指摘し、訂正する。この回の学生さんは本質を我がこととして織り込む訓練がまだできていないようだった。自分の言葉が他者にどう伝わるか、ということへの配慮ができるほどの賢明さ経験値をまだ得ていなかった。以下、レジュメを元にしたメモ。レジュメの日本語の指示代名詞、論理帰結が怪しいので、誤解の幅が多いレジュメだった。以下、読解しにくいとこ多いと思う。私もよく判ってない。学生さんの発表は、ここまでで一区切りの内容です、という読点に欠けていた。上滑りしていたと思う。そのため聞くこちらに緊張と集中力をえらい要求していた。それは学生さんがそのことに無頓着だったからだ。言葉と言葉の論理構造が正確なら、高度な内容も読者にストレス与えること少なく伝わるものだ。高度な内容をストレス少なく理解することは人間にとり快感だ。以下、快感から遠いと思う。
(以下、うざったい方はここまでジャンプしてください)

 『ルーマン社会システム論』(新泉社)
(以下、赤文字は鎌やんによる解釈)

 1;社会学の観察には、「区別」と「指示」がある。社会というシステムを「観察」するのが、社会学の仕事だ。「観察」行為は、観察者が、a;何かを基準として社会を区別(カテゴライズ)すること、b;区別した内容について述べること、の二つに分かれる。
 2;観察は、さまざまなシステムに適用できる。観察はシステム内部での操作だ。観察は、(観察のために)選び出された「区別」に拘束される。観察者は観察対象(社会)の中にいる。観察のため用いる区別から、観察者は自由ではない。
 3;観察者は自分自身を観察することができない。観察者は観察の盲点となる。「第一の観察者」を、「第二の観察者」が観察することで、この盲点を克服できる。これを第二次的観察と言う。第二次的観察でも、観察をしている観察者自身は観察の盲点になる。他の観察者に比べ第二の観察者が特権的な位置にいるわけではない(「第一の観察者」の盲点を「第二の観察者」は観察できるが、それは「第二の観察者」が「第一の観察者」より優れているから、ではない)。「第一の観察者」が、時間を置いて別な区別を用いて、「第二の観察者」になることはできる。(観察者は反省的に自身を含めた過去を観察することができる)
 第一次的観察のみで捉えた世界は、単層的脈絡(特定の区別で固定された領域)からなる、二値的世界。第一次的観察は自分を除いた世界の全てを単純に区別し説明できる。だが一時的観察で見る世界は単純で一面的だ。
 第二次的観察で捉えた世界は、重層的脈絡を持つ。人は立体的に選択肢を比較することができるようになる。第二次的観察によって、人は自分がどう行動するのが、望ましい結果を得ることになるのかを知る。

 観察は常に「パラドキシカル」に(矛盾・逆説を孕んで)構成される。嘘つきのパラドクス。
 「全てのクレタ人は嘘吐きだ」と言うクレタ人。
1;パラドキシカルな発言は完全な記述(全てのクレタ人)を目指すが、その発言は自分自身をその中に含まなければ完全性に到達しない。パラドキシカルな発言は自己準拠的構造を持ち、その発言は自分自身にも当てはまる。
2;パラドキシカルな発言は対立項(嘘つきと嘘をつかない人)を含むため、その発言はある区別を用いている。
 第二次観察者は、観察のパラドクス及びその脱パラドクス化のテクニックを観察することができる。第一次的観察では、パラドクスを解決できない。第二次的観察によってパラドクスは解決できる。問題に対する別の機能的に等価な解決の模索が可能。
 観察の理論が観察について述べていることは、理論そのものに対しても当てはまる。

 社会診断について。
 第二次観察を適用することにより、社会はどのようにして自分自身を観察するのか、その際に社会は何を視野に収めるのか、という問題を提起。「リスク」について、「道徳」について。

 「リスク」について。
 リスクは観察によって決定する。リスクは第二次観察に平行する。リスクは第二次観察によって生まれる。
 ウィトゲンシュタインによれば、観察がなければ論理ゲームは成立しない。

 *;「リスク」と「安全性」という区別
 未来は未知だからリスクがない、ということはない。(未知である未来の問題。「だろう」の問題)
 「リスクがない」だろう、という、決定者の問題。

 *;「リスク」と「危険」の区別
 損害は、決定に焦点を置けばリスクの問題となり、外的要因(環境)に焦点を置けば危険の問題となる。
 前近代社会では、損害は外的要因(運命・不幸)のせいにできた。このとき選択は関係ない。選択の幅がなかったから。「**は危険だ」という言い方は外的要因に損害の責任を置いている。
 近代社会は、リスク社会である。自身で選択することは、リスクを負うことである。
 「リスクと危険という区別は、リスクのある行動の社会的な局面に、すなわち、決定者が誰であり、自らは決定に加わらないのに損害を受ける当事者は誰なのか、その決定が誰にとってリスクであり誰にとって危険なのかに、特に照準を当てるのである」

 *リスクのコミュニケーション
 他者が自分と同じ視点で観察している、ということは期待できない。さまざまな観察者が少なくとも共存できるような相互了解の形態を保っていくことが求められる。決定者(当事者)には、決定することへの賛否を決定できない。

 「道徳」について。
 道徳は、コミュニケーションの特殊なあり方である。
 倫理学は、「道徳の問題に関わりを持ち、道徳を反省しようとする」記述である。

 道徳的コミュニケーションは、以下の性格を持つ。
 「善悪」(という第一次的観察)のみで世界を区別する。人間を尊敬と軽蔑(という単層的脈絡)に位置付ける。
 全てのことは「善悪」(という二値)で評価できる。
 道徳的コミュニケーションはコンフリクト(対立)を絶えず生み出す、もしくは激化させるという問題を孕む。

 倫理学は、道徳を内部から反省し、善悪を指標として認知的に記述しようとする。(社会学は外部から観察する)
 基礎付けの倫理学は、道徳的判断が正当・合理的であることを示すための究極原理をもちだそうとする。普遍的で統一的な、合意を得られるような道徳観を確立し制度化させることがdきる、という仮定に基づく。
 反省の倫理学は、道徳的判断の基礎づけを断念し、道徳的自体の認知的記述に自らを制限する。

 機能的に分化した近代社会は道徳的コミュニケーションによっては統合されえない(社会学的観察)
 社会学は反省をうながす契機になりうる。第一次的観察(道徳)の盲点を社会学はとりあつかう。

 以上、レジュメを元にした。
 以下は宮台さんの語るところをメモしたもの。

 社会学と倫理の関係で、ライフスペースの例が挙げられる。

 これは「言明可能性条件」と「生活世界内機能」というクリプキの概念にあたる問題だ。
 「言明可能性条件」とは、このライフスペースのミイラの場合、「誰が見ても死んでいるだろう」という条件、それはどういう条件か。どういう限定がなされるか。「誰を連れてきてもそれをそう呼ぶだろう」任意の第三者と判断が一致するだろう、という予期。
 ライフスペースの主張は第一次的観察だ。これを正しく批判するためには第二次的観察が必要となる。これを、社会学コミュニケーションと言う。
 「生活世界内機能」とは妥当性の主張である。「これは死んでないんです」ライフスペースはこれが妥当であると主張する。

 ライフスペースの話をいったん離れ、道徳の問題を考えよう。

 ある発言、ある主張、ある価値判断には、発言者が必ずしも意識しない波及効果が生まれる。道徳の価値判断(第一次的観察)は、問題の隠蔽化の危険を孕む。そのことを社会学は第二次的観察しなくてはならない。

 第一次的観察の中にいる限り、人は、盲信的になる。道徳・善悪判断は良いか悪いか、第一次的観察者には判断できない。それに対し、第二次的観察は反省的になる。

 ルーマンと倫理学の関係を考えよう。ルーマンは行政の専門家だった。

 倫理学のルーツは行政学である。ある価値判断をし、それを実行するのが良いか悪いか、善か悪か、という学問が、行政学だ。ルーマンは、善悪という価値判断ではなく、システム合理性という価値判断がむしろ重要だ、という結論に至った。これは無原則に善いとか、善行であるから良い結果になるはずだ、という捉え方ではなく、与えられた前提からどういう帰結が生まれるか、ある統一されたシステムの条件と波及効果を見極めようとするのが、社会学の視点、ルーマンの視点だ。

 生活世界内機能は、ある生活世界内で、そういうものだ、これはこういうものだ、という同意が機能している、ということだ。だが、現代では、おのおのの生活は断片化し、島宇宙化している。自分にとっての生活世界内機能が「任意の第三者」にそのまま適用されることを期待できない。

 ライフスペースの問題はまた、宗教と社会(の共存可能性)の問題だ。宗教と社会という問題は、本来的に解決不能な問題だ。宗教は救済機能を持つ。救済機能を持つためには、宗教は社会より大きくなければならない。キリスト教は国家という社会より大きいから救済機能がある。宗教はそれに求められる機能効能からして社会より大きい。(この問題対策のため西洋の歴史はプロテスタント抵抗派の宗教改革運動、カトリック普遍派とプロテスタント抵抗派の宗教戦争を必要とした)

 臨界点クリティカルポイント

 私たちは、臨界点クリティカルポイントの問題を重視しなくてはならない。とりかえしのつかないことを想定するのが近代社会である。死はとりかえしがつかない。尊厳死の問題はその視点から捉えなくてはならない。

 内発性の過剰と、自己愛

 多くのロマンチシズムはナルシシズム、保身に見える、というのがルーマンの視点だ。短絡的自己愛は醜い。これを否定し克服するのは展開的自己愛である。第二次的、第三次的観察を織り込むことだ。

 政治も、文学も、内発性の過剰に支えられる。ベタな政治活動、ベタな文学活動は、ベタな自己愛でしかない。こういう人は、政治活動も文学活動もしないほうが良い。内発的であるのか、自己愛的であるのかは、他者を計る判断基準になりうる。
 内発性であるかどうかは、自己反省的であるかどうかである。自身のナルシシズムを相対化しようとするかどうかだ。

 ハーバーマスとルーマンの論争があった。
 ハーバーマスは、リベラル左派だった。ナチズムを否定したが、共産主義なら良い、とした。
 ルーマンは、そういう思考そのものがダメなのだとした。同時に誠意への敬意を主張した。必要な賢明さの不足を危惧した。

 政治と文学の問題。(江藤淳も取り上げている)
 社会を生きるには内発性は必要。過剰な内発性は、政治か、文学で表現される。たんに「政治家になりたい」、たんに「漫画家になりたい」、たんに「小説家になりたい」というのは、承認欲求にすぎない。

 宮台真司氏が「過剰な内発性」を見る政治家は二人いる。田中角栄と小沢一郎だ。田中角栄は、人間は何に弱いのかよく知っていた。人間は金に弱い。情に弱い。田中角栄は陳情に来るどんな人物であろうと、その家族一切について調べてから会った。田中角栄に会った人は、田中角栄が自分についてよく知っていることに皆感動した。(人は己を知る人のために死ぬ)田中角栄に会った人は、皆、田中角栄の熱心な支持者になった。田中角栄は共同体を利用し、田中角栄自体は共同体を超えていた。そこの点を、小沢一郎は持たない。小沢一郎は理想主義者で集金能力はあるが、人が何に弱いのかについて、鈍い。

 

 以上、メモ。次回はジャン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』(新宿書房)について。


 11月16日の授業で判らなかった用語・それに関連する概念を自習してみました。

 エンカルタ98で、判らない言葉を調べてみました。
 メタ言語と対象言語(うそつきのパラドックス)、 ウィトゲンシュタインの哲学(言語ゲーム)、ポッパー(反証不可能性)、ハーバーマス、分析哲学と言語哲学(論理実証主義)

 また、『岩波思想・哲学辞典』でも以下の言葉を調べてみました。
 指示、対象、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス、メタ言語/対象言語、自己言及、認知活動、反証可能性、言語ゲーム、クリプキ、モデル理論、記号論理学、様相論理、解釈

 

 エンカルタ98より

 メタ言語と対象言語 メタげんごとたいしょうげんご Metalanguage and Object language
 対象についてかたられる言語を対象言語といい、この対象言語についてかたられる言語をメタ言語という。「机」や「緑の」という言葉は対象言語であり、これらについてかたられる「名詞」や「形容詞」という言葉はメタ言語である。あるいは、英語の文法書を日本語で書いた場合、英語は対象言語であり、日本語はメタ言語になる。
 うそつきのパラドックス
 さまざまなパラドックスや詭弁(きべん)は、対象言語とメタ言語の混同から生じる。たとえば「クレタ人はうそつきだ、とクレタ人がいった」という古代ギリシアから有名な「うそつきのパラドックス」は、最初のクレタ人は対象言語で、後者はメタ言語であるという違いを混同することによって生じる。これは、「だれも目的語を飲まない。『水を』は目的語である。それゆえだれも水を飲まない」という詭弁と同じ性質のものである。(参照)
"メタ言語と対象言語" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ウィトゲンシュタインの哲学
 ウィトゲンシュタインの哲学は、「論理哲学論考」の中で展開された前期思想と、「哲学探究」に代表される後期思想にわけられる。しかし前・後期ともに、哲学を、言語を分析する活動であると考える点では一貫していた。
 「論理哲学論考」
 「論理哲学論考」においては、言語は要素命題といわれるそれ以上分割することのできない最小単位によってできあがっているとされる。しかし、日常つかわれる言葉は、複雑で混乱している。そのような言語と対応して世界のほうも表面は複雑で錯綜(さくそう)しているが、分析によってそれ以上分割できない原子的な事実へとたどりつくことができる。ウィトゲンシュタインによれば、要素命題は、この原子的な事実をそのままうつしているのである。
 このように事実と正確に対応している命題、つまり科学における命題だけが意味のある命題だとウィトゲンシュタインはいう。それゆえ、これまで形而上学によってかたられた文や、倫理的な文は無意味なものになってしまう。「論理哲学論考」は、「かたりえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉でむすばれている。このような考え方にウィーン学団の論理実証主義者たちは強く影響され、形而上学的命題などは無意味なものだとしてすてさった。
 ただし、ウィトゲンシュタイン自身は「かたりえないもの」の領域をみとめ、それについて無意味にかたることのないよう、いわば逆方向から言語の限界づけをおこなったのだとも考えられている。
 「哲学探究」
 「哲学探究」では、「論理哲学論考」の言語観は否定され、より実際の言葉の使用の場面に目がむけられる。言葉はさまざまな状況でいろいろなやり方でつかわれており、「論理哲学論考」で想定したような統一的な言語など存在しないと考えられるようになった。
 このような、さまざまにことなった言語の活動を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよんだ。科学者には科学者の、神学者には神学者の「言語ゲーム」があり、言葉の意味はその言葉がつかわれている実際の文脈によってきまる。ウィトゲンシュタインは、哲学の仕事は実際おこなわれているこのような「言語ゲーム」を記述することにあると論じた。"ウィトゲンシュタイン,L." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ポッパー Karl Raimund Popper 1902~94 ポッパーは「探求の論理」(1934)において、科学は基本的に帰納的学問だという常識をくつがえし、「反証可能性」という考えを提出した。科学理論というのは仮説にすぎず、その仮説のもとで観察によってそれぞれの言明をたしかめるのであり、もし別の観察によってその言明が間違いだとわかった場合には、この科学理論はただちにすてさられる。このような反証の試みによって理論が間違いにならないかぎり、この理論はうけいれられる。しかしその理論はあくまで仮説にとどまり、確実な科学理論などどこにも存在しないと主張した。
 「開かれた社会とその敵」(1945)では、ポッパーは民主主義の立場をとり、プラトンやマルクスの政治理論のもつ全体主義的傾向を批判した。"ポッパー,K.R." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 ハーバーマス Jurgen Habermas 1929~ ドイツの哲学者、社会学者。ホルクハイマー、アドルノなきあとのフランクフルト学派第2世代の中心的人物。デュッセルドルフに生まれ、ゲッティンゲン、チューリヒ、ボンの各大学で哲学、社会学をまなぶ。「公共性の構造転換」(1962)によって一躍有名になり、以後、ハイデルベルク大学、フランクフルト大学で教鞭をとる。1971年以降は、現代文明世界における人間の生活条件の研究を目的とするマックス・プランク研究所の所長をつとめる。
多産な著作活動
マルクス主義者であるにもかかわらず、ハーバーマスの著作活動はきわめて多方面におよぶ。カント、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ観念論哲学とウィトゲンシュタイン、ポッパーといった英米系の哲学との間の生産的対話をこころみ、ミード、パーソンズらの社会学的議論にも造詣(ぞうけい)が深い。ポッパーやアルバートといった批判的合理主義者との実証主義論争、ガダマーとの解釈学論争、ルーマンとのシステム論争も有名。主著に、「理論と実践」(1963)、「認識と関心」(1968)、「コミュニケーション的行為の理論」(1981)などがある。"ハーバーマス,J." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 分析哲学と言語哲学 ぶんせきてつがくとげんごてつがく Analytic and Linguistic Philosophy 英米を中心に展開された20世紀の哲学運動。論理実証主義や日常言語学派の総称。哲学の本来の活動は、言葉やそれによって表現される概念をはっきりしたものにすることだという考え方を共有している。このような言葉の分析によって、言葉の混乱によって生じた哲学的な諸問題を解消することを目的にしている。
 論理実証主義者たち
 ケンブリッジ大学のラッセルのもとに、分析哲学の歴史において中心的な役割をはたすウィトゲンシュタインがやってくる。彼は最初の主著「論理哲学論考」(1921)において哲学は言語批判だと主張し、言葉は世界の像であるという、ラッセルの論理的原子論と同様の考えを展開した。
 この時期のウィトゲンシュタインにとって、意味のある文とは、世界の像である自然科学の命題だけであり、自然をこえた、神や倫理についての文は無意味な命題であった。
 ラッセル、ウィトゲンシュタイン、マッハなどの影響をうけ、哲学者と数学者のグループが、1920年代のウィーンで論理実証主義といわれる運動をはじめた。シュリックとカルナップが中心となり、ウィーン学団は分析哲学の歴史の中でもっとも重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事は意味の分析であり、新しい事実の発見や世界全体について説明することではない。
 論理実証主義者は、意味のある文は分析的命題と経験的に確認できる命題の2つであるとした。分析的命題は、論理学や数学の命題であり、つかわれている言葉によってそのただしさはきまる。経験的に確認できる命題というのは、少なくとも原理的には感覚経験によって検証されるこの世界についての命題である。このような命題にのみ意味があるとする意味の検証理論によれば、科学的な文だけが事実についてのただしい主張であり、形而上(けいじじょう)学や宗教や倫理に関する文は、事実についてはなにもいっていないことになる。
 ポッパーによる批判
 しかしこの検証理論は、ポッパーをはじめとする哲学者たちによって徹底的に批判された。ウィトゲンシュタインも自らの「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953)に結実する新しい思想を展開する。この本で彼は、日常の場面での言葉の使い方に目をむけ、言葉の多様な姿を明らかにした。
 言語ゲーム
 その過程で「言語ゲーム」という重要な考えが生まれる。科学者、詩人、神学者などはそれぞれことなった言語ゲームをおこなっている。したがって、ひとつの文の意味は、その文があらわれる文脈、そしてその文がつかわれている言語ゲームのルールから理解されなければならない。ウィトゲンシュタインによれば、哲学とは言葉の混乱によって生まれた問題を解決する作業であり、そのような問題の解決の鍵は日常の言葉の分析であり、言葉の適切な使用なのである。"分析哲学と言語哲学" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

 

 『岩波哲学・思想事典』で、判らない言葉を調べてみました。
 指示、対象、嘘つきのパラドックス、ラッセルのパラドックス、メタ言語/対象言語、自己言及、認知活動、反証可能性、言語ゲーム、クリプキ、モデル理論、記号論理学、様相論理、解釈

 

 指示reference;指示という概念は、固有名のような単称名辞が、フレーゲの本来の意味での「対象」を名指すさいの、記号と対象との間の関係のことである。
 クリプキは、固有名は概念の助けを借りることなく直接特定の個体を指示するが、それをなしうるのは、その個体を命名した時点から、その名を用いている今この場面まで因果の連鎖が途切れることなく続いているからだと考えた。

 対象object;主観・主体と対比して使われる客観・客体にあたる。客観・客体とも訳される。心が目指し向かう事柄のこと。目標、主題。狭義には対象とは文の主語によって表される実体的なものであるが、述語によって表される、もののもつ性質・関係・事態・事実を言う。フレーゲでは固有名によって指示されるもの、一般的には指示的行為によって示されたもので、性質・関係などの特性が帰せられるもののこと。

 嘘つきのパラドックス(エピメニデスのパラドックス);これを厳密な形式的言語に即して扱い「真理」概念に重要な洞察を得たのはタルスキ。タルスキは、ある言語(対象言語)の中の文の真偽を決定するには、その言語より一段上のレベルの言語(メタ言語)の中でその定義を行なうべきだと考えた。対象言語より豊かなメタ言語を使い、二つの言語の区別を守れば、対象言語の真理はメタ言語内で再帰的に定義できることを示した。

 ラッセルのパラドックス;「xはxの成員ではない」という条件を満たす集合xを全て集めた集合を「ラッセル集合r」と定義する。このとき、ラッセル集合rはrの成員だろうか。
 1;もしrがrの成員なら、rを定義する条件により、rはrの成員ではない。
 2;もしrがrの成員でないなら、これはrを定義する条件を満たすのでrはrの成員である。
 1,2より、「Aならば非-A、かつ非-AならA」となり矛盾する。

 メタ言語/対象言語;目下の考察対象となっている言語を「対象言語」、その考察の成果を述べるのに用いられる言語を「メタ言語」という。日本語で書かれた英文法書の例の場合、英語が対象言語、日本語がメタ言語である。日本語で書かれた日本語文法書の例では、対象言語メタ言語ともに日本語である。メタ言語と対象言語の区別は絶対的ではなく相対的である。英文法書が完全であるためには、全ての英語表現について文法的説明を行なわなければならないから、メタ言語である日本語は対象言語である英語を何らかの仕方ですべて含んでいなければならない、このことをメタ言語は対象言語より本質的に豊富であるという。(参照)

 自己言及self-reference;再帰性reflexivenessの一種。自己指示、自己参照とも言う。「嘘つきのパラドックス」や「ラッセルのパラドックス」のように、二律背反を惹き起こす。「この文は日本語で書かれている」(ここで「この文」は当の文全体を指示するものと解する)のような構文論的自己言及は、内容空虚である。  「あらゆる命題は疑わしい」という懐疑主義のテーゼや、「あらゆる意識は虚偽意識である」というイデオロギー論の強い主張は、真であると仮定すると、自己適用self-applicationによって、疑わしいもの、偽なるものとなる。つまり自己破壊に陥る可能性がある。

 認知活動;知覚・判断・推論・問題解決・記憶・意識・感情・学習・遂行・言語理解・言語使用・談話などを指す。

 反証可能性;言明が偽とされる可能性を「反証可能性」という。ポパーは経験科学的言明とそうでないものを区別するという「境界設定問題Abgrenzungsproblemを解くために『探求の論理』[1934]においてこれをを方法論的基準として提案した。ポパーによれば、言明(あるいは理論)は、反証可能であるときそしてその時にのみ経験科学的である。
 ポパーによれば、言明もしくは理論は、それと論理的に矛盾する「基礎言明」(観察可能な出来事を述べる言明)を持つならば、反証可能である。たとえば、「すべてのスワンは白い」という言明は、時空上のある領域における黒いスワンの存在を述べる基礎言明が真であるときに反証される。これに対して「人間のすべての行為は利己的である。見たところそうでない行為にしても、そうでないように見せるという利己的関心からなされている」という主張は、論理上、この主張と矛盾する基礎言明が存在しえないから反証不可能であり、非経験的科学的言明に分類される。(参照)

 言語ゲーム;ヴィトゲンシュタインは「命題は実在の像である」とする従来のテーゼを破棄した。代わって登場するのが、言語活動をゲームになぞらえるアナロジーであり、言語使用の多様性への着目である。出発点となったのは過渡期の数学論であり、彼はそこで数学の公理をチェスの規則に類比する形式主義の考えに批判的検討を加え、そこからあらゆる構文法はゲームであり、任意であるという結論を引き出している。
 「言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。われわれが真偽の問題、命題と事実との一致と不一致の問題、肯定、仮定、問いの本性の問題を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現れているからである」
 言語ゲームは方法概念であると同時に事実概念であるという両義性を持つ。
 方法概念としての言語ゲームは考察のために設定される一種の文法モデルであり、類似や相違を通じて言語の働きを明かにする比較対象に他ならない。言語ゲームの諸規則は哲学的考察の目的に応じわれわれが構成するのである。それを通じてわれわれは言語使用の諸条件、すなわち、その場面でのさまざまな語の目的と働きを明確に見渡すことができる。
 他方で言語ゲームは、言語活動が人間の多様な生活形式に根ざした「自然史」に属していることを表現する事実概念である。言語ゲームの多様性は、言語使用の基盤である人間生活の多様性に由来する。その多様性を無視して一般化を行ない、言語を生活の土台から切り離して抽象化するとき、悪しき哲学的誤謬が生ずる。その意味で言語ゲームの考察は、さまざまな哲学的困惑に対して治療的効果を発揮する。(参照)

 クリプキ;アメリカの哲学者。クリプキ・モデルと呼ばれる様相理論のモデルを考案。モデル理論で多くの業績を残す。

 モデル理論;モデル理論では、論理的言語の意味はある対象領域(モデルの領域)上で指示的(外延的)な解釈として与えられる。
 現代論理学の初期においては、形式論理言語で正確に書かれた理想的な公理的理論体系はその理論が意図する対象領域の構造(標準モデル)を完全に特徴づける、と無批判に想定されていたが、ゲーデルは不完全性定理[1931]を示し、これを否定した。また、言語的レベルの証明可能性概念が捉えうるのは標準モデルだけでなく、非標準モデルをも含む(一般に無限個の)モデル群に対する恒真性概念である(完全性定理[1930])ことを示した。
 モデル理論には、古典的モデル理論(タルスキ)の他に、
1;集合論のモデル;内部モデル(ゲーデル)、強制法(コーエン)、プール値モデル(ソロヴェイ、スコット)
2;カテゴリー論的モデル;層理論、トポス理論
3;可能世界モデル(クリプキ);直観主義論理、様相論理

 記号論理学;現代の論理学の最大の特徴は、日本語や英語のような自然言語の文で表現されている論証を研究するために、論理学者によって人工的に作られた言語を用いるという点にある。形式的体系formal system と呼ばれるこうした人工言語は、言語の妥当性に関わる限りの自然言語の特徴を再現することを意図している。それゆえ、それ以外の自然言語の要素は捨象される。自然言語における論証は、形式的体系のなかでそれと対応する論証に照らして、その妥当性の判定が行われる。
 フレーゲによれば、もっとも単純な文は名前と述語から構成される。例;「ポチ(名前)は犬だ(述語)」。
 より複雑な文を構成する手段には二つある。
 1;否定や条件法といった命題結合詞。
 2;「すべての」「少なくとも一つの」といった表現に対応する量化子quantifier。これは述語論理の言語である。
 名前;アルファベット小文字で表記 a,b,c
 述語;アルファベット大文字で表記 F,G
 否定;¬  条件法;→ 
 「すべての」(全称量化子);∀
 「少なくとも一つの」(存在量化子);∃
 述語論理で、「どんな犬もいつかは死ぬ。ポチは犬だ。従って、ポチもいつか死ぬ」を表記すると、以下のようになる。
「∀x(Fx→∃yGxy)、Fa、よって、∃yGay」
(「Fx」=「xは犬だ」、「Gxy」=「xは時点yで死ぬ」、「a」=「ポチ」)

 様相論理;必然性と可能性の論理。
 命題様相論理の構文論は通常の命題論理に□(「必然的に」)と◇(「可能的に」)という二つを加える。
 標準的公理系はS5と呼ばれる、以下のものである。
 P→P トートロジー
 □P→P もし必然的にPならば、Pである
 ◇P→□◇P 
 □(P→Q)→(□P→□Q)
 ◇P→¬□¬P
 推論規則は二つ。「PとP→QからQを導け」「Pから□Pを導け」 

 解釈;現代論理学では、記号に意味を与えることを言う。述語論理学では、ある論議領域unverse of discourseを確定し、述語記号に特定の性質や関係を対応させること。

11月15日(月)

 記憶にない。 11月16日の日記へジャンプ

11月14日(日)

 午前10時、ほしのえみこさん他一名と結婚式の打ち合わせをする。

 午後1時30分。池袋駅で砂さんと待ち合わせ。砂さんが遅れる。砂さん寝てるかもと心配になって電話しようとする。電話番号書いてあるメモを持ってこなかったことに気づく。えーと、メモ帳にある名簿で砂さんの電話番号知ってそうなのは。東浩紀さんにどきどきしながら電話する。電話が途中で切れる。砂さんいらっしゃる。東浩紀さんにごめんさいでした、と再度電話する。

 紀伊国屋書店に関する件、砂さんとRB67さんで情報交換。太田出版の活躍、紀伊国屋の態度、など有益な情報をいただく。いずれこれはTINAMIXにアップされる。
 東浩紀さんがフランス、イギリスで体験したことなどを砂さんから伺う。以下は砂さんから伺った、東浩紀さんの考え。フランスにはサブカルチャーは存在しない。フランスにはメインカルチャーしかない。それだけフランス革命は徹底的だった。フーコーが、国家、刑務所、学校を類比させた本当の意味がわかった、フランスという国はまんま学校的刑務所的だからだ。あれは比喩ではなかったのだ。日本人である東さんがフランス思想をすること、という行為に懐疑的になってしまったそうだ。イギリスは居心地が悪くなかったそうだ。アイルランドはお伽の国のようだったそうだ。イギリスにはしっかりとサブカルチャーがあるそうだ。イギリス全土どこであろうと、サブカルチャーはサブカルチャーだけで流通できるそうだ。日本では、サブカルチャーが他のサブカルチャーと流通するためにはいったんメインカルチャーを通らなくてはならない。流通の転換が日本では必要だ。そしてそれは遠からず起こる。今回の紀伊国屋書店の件もそういう視点からも捉えられて良い。以上、砂さんから伺った話。

 RB67さんの主張。流通は良きものをセレクトして民衆に与える、というかたちであってはならない。アメリカの例。アメリカは日本とは比べ物にならないほど児童ポルノの規制が徹底している。ヌーディストビーチの写真集がある。これには子どものヌードも映っている。それが書店に並んでいることにクレームは多く来る。だが書店はそれを書店からなくそうとはしない。芸術とされているヌーディストビーチの写真が、取り締まられるべきかどうかは、判例を待つべきだ。それまでは書店はそれを置く。判断は購入者がすればいい。売れるから置く、という側面はあるだろう、だが、判断の材料を多く置くことが書店の使命だ、という哲学がそこにある。以上、RB67さんから伺った話。

 午後5時。新宿コマでディグさんと待ち合わせ。惑星ピスタチオの演劇『白血球ライダー2000』観る。
 惑星ピスタチオは、テレビのヒーローものなどの、安っぽくオタクなテレビでの共通体験で観客と言語の共有を図る。それは自身(演者と観客)の現実体験の貧困さを、ギャグとしてメタ視させる機能がある。そこが面白い。だが、これを繰り返すと、この貧困な語彙だけでは表しにくい表し得ないものがあることに気づいて行く。演者はその問題を演者自身に突きつけるようになっていく。今回のピスタチオは、そのことの模索をしている。結果として失敗している。だがのたうとうとする姿勢はいいと思う。テーマについての考察がまだまだ甘く、演者たちの中できっちりと整理されていない。結果観客には難解なものになった。演者自身何を語りたいのか言語化に苦しんでいるのだと思う。新人が多く、発声活舌が怪しく聞きとりにくいところが随所にあり、そういう人はまた身体での表現も独り善がりで観客との共感に失敗しているが、新人を多く参加させてみた、ということが、小さく纏まってしまうまい、というピスタチオの姿勢を表しているのだと思う。
 ディグさんもほぼ同意見。 

11月10日(水)から13日(土)

 記憶にない。

11月9日(火)

 宮台真司さんの授業は火曜日にある、と聞いたので、都立大へ行く。

(この間あったことはおいおい書きまする)

11月1日(月)

 東京に戻る。

1999年10月21日から30日

2012年03月27日 01時19分50秒 | Weblog
10月31日(日)

 見合いの仲介をしてくださったかたのところへ。労をとっていただいたことの礼を言う。父母の話を真に受けないでほしい旨、伝える。

10月30日(土)

 見合い。心配だったようで仲介の小父さん小母さんも臨席。どこの家も、体裁ばかり気にして、結局次の世代を不幸にしよう不幸にしようとしているんですね、といった話などする。相手方に失礼はなかったと思う。

10月29日(金)

 実家に戻る。みいちゃん家に行く。あまり歓迎されない。『よのなか』(宮台真司・共著)を置いてくる。みいちゃんの顔見る前に帰宅。ところで私は本当にみいちゃんのことが好きなのだろうか。自我形成の未熟な他者に、理想の自身を投影しているだけなのではないだろうか。そこが自身の抱えるパターナリズム。ナルシシズム(自己愛)を自惚れ、ダブルスタンダード(二重規範)を二枚舌、と置きかえるように、パターナリズムを日本語に置きかえると、老婆心。

10月28日(木)

 着色の作業があるので、一旦東京へ戻る。よっぴいて着色する。手間取る。『まんがサイエンス』見つからない。実家に送ったかな? 作業終わらない。あじまるさんから電話。レヴォ、委託で置いてくださる、とのこと。色々あじまるさんに愚痴を聞いてもらう。

10月27日(水)

 学研のひみつシリーズを苦労して穿り出す。みいちゃん家にそれを持っていく。中学校までの理科は、これで十分対応できるはずだ。あと、あさりよしとおの『まんがサイエンス』があれば完璧だ。自分の中のパターナリズムに辟易する。よほど気をつけないと、随分と押し付けがましい行動を自分はとってしまうだろう。

10月26日(火)

 親戚3軒巡る。みいちゃん家でみいちゃんの祖母と伯父と色々話する。昨日ほど険悪ではない。フラットな状態になる。みいちゃんの今までについて、知らなかったことを聞かせていただく。みいちゃんのこれからについて、色々話する。

10月25日(月)

 土曜日の見合いの仲介をしてくださった方に会う。えらい大病を患ったのだと伺う。うちの親の言うことを真に受けてえらいご苦労おかけしたこと判明。申し訳なく思う。

 散髪する。髪を少し脱色する。

 みいちゃん家に行く。空気が険悪。みいちゃん家では、私は親戚だから「イナモン」ではないだろう、という前提で見ていたが、私がこれ以上ないくらい「イナモン」であることに、気づいたようだ。みいちゃんが私と話しようとすると、みいちゃんは伯父に根性焼きされる。みいちゃんに歴史の続きを教える。居たたまれない感覚から、うまく教えられない。みいちゃんが塾行った後、みいちゃんの祖母と伯父と話する。今まで親戚の誰にも言ったことないことを色々明かす。

10月24日(日)

 (10月13日から23日までの行動はメモをしてあったが、この日以降にはメモがない。日付は記憶に頼る)

 引き続き労働。客はがくんと減る。お遍路さんに行くにはどうしたらいいか一番札所に電話する。
 閉店後、みいちゃん家に行く。みいちゃんの母(Cさん)から、介護の現場について話を伺う。以下、そのときのメモ。Y市は全国から見て最も介護福祉の遅れている地方のようだ。

 介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を得るには、学科試験と数ヶ月の実務研修が必要だ。ケアマネージャーへの受験資格がある仕事は、社会福祉士、看護士、介護福祉士など20種ある。これらの団体では講習会がある。ケアマネージャーは動くことで金になる。
 だが、受験資格はあっても、当人にその意欲があっても、資格試験を受けることができない、という問題がある。個人的に受験しようとしても、実務研修する期間、休職することができない。皆が一斉に試験を受けると、仕事する人がその期間いなくなるからだ。受験意思ある者を犠牲にしている。そのため団体トップが、受験者を恣意的に選別することになる。これは、試験が年に一回しかない、というのが問題だ。
 社会福祉協議会は、半官半民の組織だ。
 社協は民間レベルまで福祉を広げる目的で作られた広報機関だ。国が平成元年に立てたゴールドプランというのがある。ホームヘルパー、在宅介護支援センターなどが必要となる。本来は市町村の福祉課などが請け負うのだが、全国的に社協がそれを委託で引き受けている。新法以前は社協は補助金で運営されていた。新法以降、社協は、半官半民、将来的には独立した企業へ発展することが望まれている。
 だが、我がY市の局長(武川勉市長)には介護事業という発想がない。Y市長は、福祉のために金を出さない、と公言している。で、実際に出さないという政策だとのことだ。「介護保険があるから福祉を切り捨てる」というロジックだそうだ。結果、要支援要介護認定を受けた者はリハビリすることにより保険対象から外れ、介護サービスが受けられなくなる。
 Y市武川勉市長と社協は、ヘルパーが足りないからサービスができない、と宣伝している。だがこれは嘘だ。ヘルパーはいる。Y市の社協はデイサービスとヘルプサービスのうち、ヘルプサービスを切り捨てようとしている。介護認定が始まると、今社協を利用している者のうち30%ははじかれる。結果、ヘルパーが活動する時間と支払う給与とのバランスから、ヘルプサービスは赤字になる、と、Y市社協は判断した。介護保険から人的に動いた企業に対して、時間単価4020円が支払われる。
 Y市では、退院したが在宅できない人を、武川勉市長の経営する「老健」(白樺荘)へどんどん送っている。Y市のこの老健は、3、4年前に作られた。老健は特養ホームではない。老健は誰でも作れる。特養ホームは福祉事務所を通さないと入れない。Y市の老健は、市役所が受付をしている。これはおそらく法律違反ではないか? Y市の市長選に落選した栗原元市長は福祉に力を入れる人だった。

 といった話伺う。耳慣れない言葉が多く、理解できないことが多い。ポイントとして、ケアマネージャーの試験が年に一回しかないというのは非合理である、という整理を自分的にはした。その件について、えだの幸男議員に訊いてみよう。えだの幸男議員は福祉厚生が専門だから、この関係について事務所に行って勉強させてもらおう。もう一点のポイントは、Y市は市長の選択を誤った、ということだ。さて、こちらのほうのことは、どう対応するのがいいのかな。

 えらい久しぶりにみいちゃんに会う。ちょっと見ない間にみいちゃんはぷくぷくと横に成長していた。ルックスのことを言える資格は私にはないが、これ以上肥えると私が後悔してしまいそうだ。頼む、みいちゃん、心の空虚を食物で埋めようとしないでおくれ。

 みいちゃんに理科を教える。歴史を教える。鎌倉幕府を覚えることが何の役に立つのか判らない、と、みいちゃんが言う。もちろん何の役にも立たない。歴史で重要なのは明治維新以降だ。教えている途中でみいちゃんの伯父が色々知ったかぶりをされるのが、なかなか迷惑で少し困る。みいちゃんに、あるもの渡す。

 帰宅.。父母も帰宅している、と、荷物で判明。父母は既に就寝。
 みいちゃんに渡したもの見返し、あ、これはみいちゃんの家族に見られたら相当まずいものだ、と気づく。あまり考えないで就寝する

10月23日(土)

 前日の続きの客層。絶対数は減る。それとは別に通常の客層も来る。通常の客層は時間に妙にルーズで往生する。閉店後、利用客から、隣店の客への苦情を申告される。隣店の客に説明し理解を求めお願いする。

10月22日(金)

 午前5時10分起床。前日の続きの客層に対応。客の要望に間に合う。国際電話など、いくつかの試行錯誤。
 組合の奉仕活動参加。草むしり他。
 この日もみいちゃんの祖母パートに来るも、ほとんど話できず。

 パートのおばさん退勤後、桟橋係留の2人用エンジン舟の点検。浸水に気づく。水抜きの栓を抜く。店に戻り、客の応対。
 日没後再びエンジン舟を見ると、桟橋に係留された状態で沈没している。舟のロープをとって岸まで手繰り、岸へ上げようと試みる。桟橋からロープを外す。ずぶずぶと水中に舟は完全に沈む。船底に残った空気のため、転覆する。
 岸からロープを手繰り舟を引く。舟が座礁する。
 考える。転覆しているのだから、船内に空気を送れば浮くだろう。ドウコウ缶を用いて試みる。頭の中で予想したほど空気を人力では船内に送れないと判明。失敗。
 闇夜の状態では作業困難なので、屋外照明を点けようとする。工事中のためスイッチの位置、不明。(後日聞いたところによると屋外照明は工事中のため点かないのだそうだ)
 タイヤブルを使用。キー部分が錆びていたが、幸いにしてタイヤブルのエンジンは簡単にかかる。タイヤブルに舟のロープを結び、岸に引き上げようと試みる。舟の高椅子がブレーキになり、失敗。考える。
 人力で舟をひっくり返そうと思う。そうすればブレーキになっている椅子が邪魔にならないはずだ。水に入って、踏ん張る。人力で舟をひっくり返すのは不可能だと判明する。
 その間も、店に来客複数。閉店するに閉店できない。妹から電話。今夜は帰ってきて店番を手伝って欲しいと妹に頼む。ものすごく不機嫌になる妹。妹よ、私がどれだけしんどい思いをしているのか、少し同情してくれ。
 タイヤブルでひっくり返そうとする。タイヤブルが水に入れるよう、足場を作るべく、色々作業する。タイヤブルで舟を持ち上げようとする。失敗。
 テコを用いればどうだろう、と考える。試みる。失敗。考える。流されないようエンジン舟のロープを岸に繋ぎ、タイヤブルでテコを用いる試み。失敗。
 タイヤブルで舟を強引に引いてしまうと、エンジンと座席が壊れる。そこでタイヤブルで押し出してみる。水中の浮力を利用してエンジン舟をひっくり返そうとする。舟の床と舟底の隙間は空洞になっている。そこへの浸水がいっそう進行していることが判明。いっそう重くなっている。人力でどうにかするのは不可能だ。
 びしょ濡れになりながら考える。父が私を手元に置きたがるのはこういう時のためだ。父と二人がかりででもこのエンジン舟との格闘はしんどい作業だ。まして一人でどうすればいいのだ、と、思う。だが、これはブルーカラーの仕事だ。オーナーの仕事ではない。とも思う。
 みいちゃんのことで望外なことがあったから、その反動でこんな目に今自分は遭っているのかな、と、オカルトな思考をする。
 何が喜ばしいことで、何が辛いことなのかは、動物としての人間環境とは別な、文化文明による規定に制限されているのだ。だから、今置かれているこのことを不幸だと私が感じるのは、文化文明の方向付けの問題でしかないのだ、などと、脳内では無駄な思考が回転する。
 気温がこの時期にしては暖かく、無風なのは自分にとって運がいい。その意味、不幸だと思うのは自己憐憫しすぎだ、と、考える。
 エンジン舟をこのまま放置しておくわけにはいかない。考える。
 エンジン舟のロープをタイヤブルに結ぶ。タイヤブルでエンジン舟を持ち上げ、とにかく岸に上げる。舟底の栓を開けるべく、プライヤを取りに店へ。
 舟のもとへ。プライヤを使用して栓を抜く。どっ、と水が出る。栓を置きに店へ。店に妹がいる。若干言い争う。妹に頼みごとをして、舟のもとへ。
 舟を人力でひっくり返そうとする。不可能だと思い知る。タイヤブルで舟を掲げる。斜めになったので、舟は更に水を放出。その上で、人力でひっくり返そうとする。動く。ついに舟がひっくり返り、転覆状態から通常状態になる。エンジンを外す。引き上げに成功する。

10月21日(木)

 午前5時10分起床。普段と違う客層が大量に来る。慣れない事柄の対処で胃がチリチリする。合理的であるかのような客の要望に応えるべく、さらに胃をチリチリさせる。試行錯誤強いられる。国際電話、国際ファックス、代理店への連絡など繰り返す。幸いにして客層は概ね良質。午後9時閉店。精算。ものすごく疲れていたので、午後9時半、マッサージに行く。あまり上手ではないマッサージ師にあたる。

1999年10月11日から20日

2012年03月27日 01時19分11秒 | Weblog
10月20日(水)

 午前4時50分起床。車で別棟へ。母の社会奉仕欲求の代役する。午前6時帰宅。開店。パートのおばさんと話する。私の仕事はブルーカラーの仕事だ。ホワイトカラーを生産するため私が受けてきた教育は私にとってほとんど役に立たない、という話。現場と指揮指導者が乖離していることが、日本の業病だ。現場を知らないエリートほど始末に終えない者はない、指導者のツケは現場が払うのだ。といった話。労働。午後9時閉店。

10月19日(火)

 午前5時15分起床。寒い。みいちゃんの祖母、9時出勤。びっくりするほど暇。みいちゃんの祖母と色々話する。私がマンガの仕事を畳んで実家に戻ると私の母が嬉々としてあちこちに吹聴してるのだそうだ。マンガの仕事の基盤を作るにしては早過ぎないか、とか、この家に嫁に来る者は大変だとか、結婚を焦る必要はないとか、みいちゃんの祖母に言われる。自分で誰か見つけてこないのか、とか、好きな人はいないのか、とか訊かれる。…これはひょっとして誘い水をしているのだろうか。さんざん悩んだ末、「聞き流してくれて構わないけど」と私が口を開く。「みいちゃんを嫁さんに欲しい、と言ったら、困りますよね?」
「どうぞ」と意外な応えが来る。
「本当ですか? ボクは本気ですよ」
「どうぞ貰ってやってください」
嬉しさのあまり猟犬三匹連れて駈回る。このままでは撥が当たる、そうだ、お遍路さんに行こう、と思う。
「あれは良い子じゃないけど」と、みいちゃんの祖母が言う。
「日本一幸せにしてみせます」私は興奮する。
みいちゃんの伯父が、みいちゃんの祖母を迎えに来る。みいちゃんの伯父と話する。嫁さんをどうするとか訊かれるので「みいちゃんを嫁さんにしたい」と伝える。二人帰宅。みいちゃんの母から電話。月曜か火曜あたり伺う旨伝える。みいちゃんに電話する。えらい久しぶりにみいちゃんと話する。あれ、みいちゃん中2になってたの。
 ディグさんに今日起きたことを伝える。「からかわれてるんじゃないですか?」と、ディグさん。
「そんなことはない。これから色々大変なこと多いだろうけど、ボクは頑張りますよ」と自分を鼓舞する。

 コアマガジンから電話。単行本発売日が2000年6月5日に決定する。

10月18日(月)

 午前5時起床。実質的労働は午前7時までの2時間。午前9時半、みいちゃんの祖母、パートとして出勤。お願いしていたエンゲルス(コインカウンター)が来る。みいちゃんの話などする。みいちゃんの母、福祉の職場での不合理に直面しているらしい、と伺う。後日直接話伺う、と、みいちゃんに会いに行く口実作る。本日、予想外に店は暇。暇過ぎて往生する。午後4時半、パートのおばさん退勤。私の実質労働開始。午後6時閉店。エンゲルス用いて精算。以後精算往生しないで済む。みいちゃんのこと想いつつ就寝。

10月17日(日)

 午前5時15分起床。店番ほか。ウォルフレン読み返す。日本の権力は、ヒエラルキーが高くなるほど責任を負わないですむ、というかたちをしているのだ、と、気づく。それは正当なことではない。本来は、権力はヒエラルキーが高いほど、リスクが伴い、責任が伴う。責任あるからこそ、権力を与えている、というのが、たぶんホッブス以来の権力の正当性。午後6時閉店。精算に往生する。みいちゃんの祖母に電話。明日、来店時、エンゲルス(コインカウンター)買ってきてくださるようお願いする。夜、マンガ執筆試みる。あきらめる。

10月16日(土)

 午前5時15分起床。店番、肉体労働、ゴミ収集・回収、処分場へ。精算に往生する。夜、珍しく兄妹そろう。マンガ執筆試みる。うまくいかない。午前1時ころ就寝。

10月15日(金)

 午前5時15分起床。父母、不在になる。店番他する。パートにいらしてくださったおばさんに愚痴る。午後9時閉店。精算に往生する。マンガ執筆を試みる。資料が足りない。うまくいかない。

10月14日(木)

 寝ないまま実家へ。いくつかの用件を引き継ぐ。10月30日に見合いをせよという話、聞く。ちなみに見合いは三回目。今年に入ってからは二回目。それとは別な見合い話を携えた来客。ボイラーをエコロジーかつエコノミーに改造する話も持ってきてくださる。改造費はエコノミーとは言えない。こちらの見合いの件及び改造の件は保留させていただく。応対中、寝不足のため眠くなる。席を外し、仮眠。その後肉体労働。エナジートロン届く。就寝。

10月13日(水)

 ネームする。もう時間的に間に合わないと判断し、今回は断らせていただく。またと得難いビッグチャンスだった。

 実家へ行く準備する。安眠のため、エナジートロンを宅配便で送る。

10月12日(火)

 前日から起きたまま、ネームに取りかかろうとする。これも遅れに遅れている。もう遅すぎるかもしれない。

 朝4時ころ、インターネット覗いているとき、湯が切れたので水を魔法瓶に注ぎ、電源入れたところで、バチンと音を立てて停電する。停電は自分の部屋だけのようだ。ブレーカのせいではない。漆黒の闇。東京電力に電話しようとする。繋がらない。考える。ISDNだからターミナルアダプタに電気が通らないと電話通じないのか。便利なものは不便だ。自転車で外を巡り、公衆電話の場所を確認。携帯電話必要だな、と思う。30~40年ほど前は電化製品なんか日本のほとんどに存在しなかったんだよな、ご飯は薪で釜で炊くほうが本当は美味しいし、肉も炭で焼くのが一番上手いんだよな。電気がないと食料保存が難しいか。などと思う。どうしようもないので、眠くなかったが、布団に入る。

 昼、起きる。以前大家さんから教えてもらった電気工事屋さんへ電話。今日は不在とのこと。東京電力に電話。ヒューズを交換したらどうか、と、電話口で言われる。部屋に戻り、確認。東京電力に再度電話。確認。電器屋へ行き、ヒューズ購入。部屋へ戻り設置。電気回復。

 光通信の営業が携帯電話のセールスに来る。手続きする。

 郵便物の転送届を出す。手続きに一週間かかるそうだ。困ったな。

 前の部屋の不動産屋へ行き、引っ越したことを伝え、鍵を返す。

 銭湯に行く。

10月11日(月)

 前の部屋の不動産屋から電話。鍵を貸してほしいとのこと。一つ渡しに行く。

 夜、一水社イラスト完成。宅急便で送る。

 前の部屋と自転車で数回行き来。荷物運ぶ。

1999年10月1日から10日

2012年03月27日 01時17分32秒 | Weblog
10月10日(日)

 コピー機のサービス員に来てもらう。本来は設置依頼してもらわないと、と、言われる。え、そういう意図でこちらとしては数日前電話したのですが。意思を伝達するのは難しい。それはそれとして、コピー機は無事直る。

 ディグさんから電話。夕食一緒しようと誘われる。ディグさん、Z社の実技試験を終えたところ。えらい緊張したそうだ。緊張ほぐすべく愚痴聞く。私の部屋でお茶呑みながら試験の内容など伺う。

 よっぴいてイラスト描く。

10月9日(土)

 午前中、東京ガス来る。元栓開けてもらう。

 午前中、東京電力来る。電力現在10Aだが、30Aにして欲しい、と要望する。電線の太さの関係で15Aまでしかできない、と言われる。それでとりあえず我慢する。

 一水社のイラスト、遅れに遅れている。描きだす。コピー機が不調。久しぶりに絵を描くと、絵が思うとおりに描けないことに気づく。破綻はしないが対象が動かない。

10月8日(金)

 朝、鳩のマークの引越しセンターの集積所へ向かう。八王子市。京王線。駅から歩く。遠い。タクシー使えば良かった。番地が表札に出ていないこと、集積場近くに行ってから気づく。田舎ってそうだよな。昔、高校の後輩が、大学の下宿に番地を頼りに訪ねに来たとき、ようそんなことできるなこいつは、と、びっくりしたけど、都内ならそれはできて当たり前な。そういう想定で八王子を歩いて、自分の想定は誤っていたこと気づかされる。田舎ではそれは無理なんだ。迷いつつも、鳩のマークのトラック発見し、辿り着く。事情説明し、荷物を開け、必要なものを取り出す。宅急便で部屋に送って下さい、と、お願いし、差額分支払う。

 たぶんこの日だったと思うが、コアから連絡。今回の『ぷちみるく』は落とすことに。落とすという選択肢を向こうが呈示下さったことに正直ほっとする。コミックス、2000年12月発行予定が6月発行予定になったそうな。

10月7日(木)

 早朝、足立真一さんから電話。声のトーンが暗く、一日つきあって欲しいと言われる。埼玉へ行く。行きすがらの電車の中で眠りこけ、駅を寝過ごす。あかん。今、オレ、オネムの時間だ。足立真一さん宅へ着。空腹だったのでファミレスへ。道中、自分の状況を足立真一さんへ説明。「え、そんな状況ならそう言ってくれればいいのに」と、言われる。すみません、早朝だったので声暗かったのね。ヒトのこと過剰に心配しすぎました。ファミレスで大量に食べ、話し、足立真一さん宅へ戻る。昼、別れ、自分の部屋へ戻る。

 東京ガス、東京電力に引越しの連絡。
 鳩のマークの引越しセンターに連絡。実家に送る荷物、まだ集積場にあるとのこと。明日取りに行くと言う。
 夜間、前の部屋を掃除。風呂沸かして入る。洗面器がなくて往生。幾つか荷物自転車で運ぶ。

 たぶんこの日の深夜だったと思うが、砂さんから引っ越し祝いの電話いただく。TINAMIXの裏話など聞かせていただく。色々慰めていただく。大切なのは動機付けをいかに維持するかだ、ということに同意する。

10月6日(水)

 ディグさんからの電話で目を覚ます。ディグさんに少し引越しの残り仕事手伝ってもらう。前の部屋に起きっぱなしの荷物をいくつか運んでいただく。駅の南側の店をディグさんから教えていただく。アールグレイ茶購入。『AERA』購入。

 電気ポットが見つからない。お茶が飲めない。どうやら、誤って実家に送ったらしい。

 足立真一さんから電話。モデムとターミナルアダプタの繋げ方質問される。ごめん、私にはわからない。TOMMIさんの連絡先紹介する。 

 電気ポットを求め、箱を開封。昨日25箱くらい開封した。ほぼ同数開封。

 テレビ、屋外アンテナの配線がないので、室内アンテナ繋ぐ。フィーダ線をケーブルに繋ぐプラグが見つからない。新品購入。テレビの映り、メチャメチャ悪い。工夫が必要なようだ。

 疲れたなー、風呂入りたいなー、と思う。お茶飲んでから考えよう、と、ポットを求め箱開封作業続行。

 常用していた電気スタンドがないことに気づく。ああ、アレを入れた箱、誤って実家に送ったのか。予備があったので大過ない。が、実家に取りに行かないと。

 実家へ電話。大量の荷物が実家へ行く旨伝えようとする。なかなか話が通じない。父母が遊ぶために私の仕事を犠牲にせよという主旨の話を、善意いっぱいで真面目にお語りくださるのを聞く。私は疲れていたので激昂する。

 ポットが存在しないことを確認。新品を購入。沸かす。湯を捨てる。沸かす。お茶を飲む。ささくれた感情がようやっと和らぐ。

 電気使いすぎたらしく、ブレーカ落ちる。大きいものに替えないと。

 こんぴーた配線繋ぐ。こんぴーた用の電源コードが見つからない。どうにか配線する。無事立ち上がる。

10月5日(火)

 コピー機リース元へ連絡。ご自身で運んでください、と、婉曲に言われる。

 引越し屋さん、9時ころ着。引越し作業開始。ウンザリするほど疲れる。

 昼、荷物をトラックに積み終える。溢れて積み切れない荷物が幾つか発生。あとで手作業で運ぼう。

 新居に荷物入れる。数えなかったけど、50箱は越えている。引越し屋さんに伝えなかったので、風呂の道具、荷造りされている。新居に搬入されたので、実家へ送ってください、と引越し屋さんにお願いする。
 本当は前の部屋に置いていくつもりだった。まだ前の部屋の契約残っているので、その間、風呂は前の部屋のを使用するつもりだった。

 3時ころ搬入終了。

 このくらいの広さ、この程度オシャレでない部屋が私に合っている、と思う。

 4時ころNTTが工事に来る。

 電灯つける。ちゃんと点かない。大家さんへ、一応報告に行く。

 荷物のどこに電話機が見つからず往生する。探す。おかしい、なぜないのだ。実家に送ったか? さんざん探す。電話機を設置する場所に箱詰めした状態で置いといたので気づかなかった、と、判る。ターミナルアダプタと繋ぐ。無事通話できる。ディグさんと豊川稲理さんに電話。夕食一緒する。

 夕食後、豊川稲理さんの部屋に寄らせていただく。コーヒーご馳走になる。

 前の部屋の掃除をする。 前の部屋の照明機は自分が持ってきたものだ。前の部屋の照明機を外し、新居のものと取り替える。無事点く。新居と前の部屋と自転車で数回往復。6日の明け方まで荷物整理。

10月4日(月)

 コピー機のリース元と連絡つく。サービス員があとから連絡する、とのこと。

 引越しに備え、実家に送るもの、捨てるもの、古本屋へ売るもの、新居に持って行くもの、分類する。

 新居は半分の大きさ。家賃も半分。風呂なし。荷物を半分以下にしないと、収納できない。荷物のほとんどは本。

 昼ごろ、按摩屋へ連絡。5時半から空いていると言うので予約。3時ころ、激烈に眠くなる。入浴。

 按摩屋へ。物凄い凝りだと言われる。尾底骨まで凝っていたようだ。首と足の裏に灸してもらう。血の循環が悪く、足の裏では灸の熱を感じにくい。

 引越し屋さんの要望で、本棚3個畳まなくてはならない。そのために、そこに収納してあった本、箱詰めする。凄い量。5日の明け方、ようやく本棚を畳む。

 就寝。

10月3日(日)

 昼、鳩のマークの引越しセンター、見積りに来る。それで起床。
 けっこうな金額に。自分の懐は痛まないので頼むことにする。5日に引っ越そうと思う、と引越しセンターに伝える。

 散髪。散髪待っている間に、あ、按摩屋行かないと閉店する、と、気づく。散髪すんで行くが、按摩屋は閉店。

 粗大ゴミをまとめる。凄い量になる。捨てる本をまとめる。凄い量になる。
 数回古本屋へ足運ぶ。そうとうな量処分する。

 リースのコピー機を運ぶので、リース元へ連絡とろうとする。

10月2日(土)

 古本を処分。疲れたので按摩屋さんへ行く。予約いっぱいだそうで、翌日にする。

 3日の午前2時ころ、MYさんから電話。近況等聞く。
 MYさんの職場の同僚、25歳の女性、性知識が皆無で、25年分の人生を歩んでいるとはとても思えない、という話、伺う。営業職なのだが、マニュアルにある説明以外なにも話題を持っていず、会話を客とできないことに当人が気づいた。共学の高校で運動部に所属し、卒業後幾つか職場を転々とした。遊ばない人で、休日は家で編物などをしている。以前、告白された男性とつきあっていた時期があった。順当な手続きの後、性交渉を求められ、彼女はパニックを起こした。彼女は性知識が全くなく、今でも全くない。男性の思考を彼女は全く理解できず、男性の表情を全く読むことができず、男性上司の善意の忠告を、忠告として処理できず、男性上司のぶっきらぼうな部分に恐怖してしまうのだそうだ。営業職を続けるのは、たしかに厳しいかもしれない。日本の性教育の貧困を体現しているねえ、などと、朝7時ころまで電話する。

10月1日(金)

 郵便局へ。定額貯金解約。

 古本を処分。

1999年9月21日から30日

2012年03月27日 01時16分19秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


9月30日(木)

実家から実印と印鑑証明来ないので実家へ電話。書留で送ったはずの郵便物が実家に届いていない、と実家から言われる。郵便局へ行き、調べてもらう。届いているはず、とのこと。

不動産屋へ。敷金礼金など支払う。保証人の用紙もう一枚貰う。鍵を受け取る。

NTTへ引越しの連絡。電話番号かわらないように、と、近所に引っ越し先探したのだが、市が違うので電話番号変わる、ということ、判明。がく。それなら引っ越し先の探し方も違ったのだが。

郵便局へ行き、保証人の用紙、書留で再投函。
実家に電話し、その旨伝える。電話中に、郵便が届いていた、と、判明。ムダガネ使わせられた。
そうとうな量荷物を実家に送る旨伝えようとするが、話が通じない。

駅前で1000円のお菓子買い、それを手土産とし、大家さんに挨拶。

目星をつけていたレンタカーの店、閉鎖している。不況は凄いな。別なレンタカーの店に行き、トラックの金額を訊く。台数が少ないので、予約から手配まで時間がかかる旨言われる。

実家で金出してくれるそうだし、引越し屋さんにお願いしようか。

9月29日(水)

朝7時半起床。疲労回復。ところで、哺乳類の一生の鼓動回数が決まっているように、人間が生涯起きていられる時間も決まっているのではないか、という与太話がある。だとしたら私はずいぶんムダ遣いしているしその点では実際の年齢より老化しているだろう。閑話休題。
9時ころ作業開始。11時ころ作業ぶんの原稿終了。残りの原稿は先生が友人に頼んでいる。それを待つ。待つ間、KY先生の次のマンガの原稿を少し手伝う。
2時ころ、原稿着。作業開始。7時ころ、作業終了。

駅前の公共自転車置き場へ。電車に乗る。新宿ロフトプラスワンへ。8時ころ着。満席。なんとか座る場所確保。宮台真司氏、宮崎学氏の姿見える。保坂展人氏は欠席のようだ。メモしながら話聞く。以下、メモ。

盗聴法は、法務大臣が、ではなく、与謝野馨通産大臣が熱心に推進している。通信族の利権が関係している。

宮崎学氏;

自民党旧経世会と公明党の間には、田中角栄時代以来、太いパイプ、腐れ縁がある。
自自公の連立は、自由・自民併せても過半数に数が足りない、そのため法案が自民党の思いどおりに通らない、という危機感から、旧ケイセイ会のパイプを掘り起こし、復活させたものだ。
(盗聴法で、宮崎学氏は公明党を揺さぶるべきだと考えそのように行動した)
公明党は1964年誕生した。社会的弱者・経済的最弱者層を支持基盤とした。これらの層は、共産党が狙っている層でもあったが、公明党はその層の支持を得た。公明党は弱者救済を旗印にしていた。そのことと、盗聴法推進は、矛盾する。

期待できる議員は、55年以降生まれた議員だ。社民党の福島瑞穂、保坂展人、民主党の円よりこ議員など、盗聴法に反対した議員は、ゲキテツ国会のとき(安保のころか?)以上の抵抗をしている。盗聴法に反対した議員を、何らかのかたちで応援したい。新左翼出身・日教組出身・労働貴族の議員は、アホで、ろくでもなくなっている。

まず推進議員の与謝野馨や、八代英太を落とせ。八代英太の選挙区には、沢たまきという、良い候補者(タマ)がいる。八代英太に投票せず、沢たまきに投票しろ。
小選挙区制は、「受からせる」のは難しいが、「落とさせる」のは案外簡単だ。
上手にタレント議員を使う、という手段を、左派ブロックは考えるべきだ。ピンポイントで、ターゲットとなる候補を落とすための起用だ。これは自民党が今までやっていたことだ。左派ブロックも同じ手段で自自公に脅威を与えるのは検討に値する。それは個人的なコネを使っても、できる。

145国会を通じ久しぶりに政治に関与してわかったのは、敵がなんと矮小で弱いのか、ということだ。そして盗聴法に関してはその矮小で弱い敵に負けた。負けたのは悔しい。勝つにはどうしたら良いか、と、考えた。

左派ブロックの再構成を計る必要がある。左派に力がないのは、左派が一丸になれなかったからだ。だが、太平洋ブロックには社共協力による知事も生まれた歴史がある。



宮台真司氏:

盗聴法は、アメリカの盗聴法をモデルにしている。だが、アメリカの盗聴法にはあって、日本の盗聴法からは抜けている厳格化要件、条文が幾つかある。そこが重要だ。それによって、アメリカでは考えられなかった利権と運用可能性が発生する。

権力対反権力、という図式は、もう説得力がない。却って同じ国家に住むことの共同利害の宣伝になる。

盗聴法は、厳格化要件を削除したことによって、共同利害に反するような、特殊な利権が発生する。そこのところを、説得力ある言葉を探し、伝えなくてはならない。

日本では、投票率が高い地域ほど、民度の低さをあらわす。田舎ほど動員され組織票となる。

これはシステムだけではどうにもならないところがある。メンタリティの変革を必要とする。教育の問題でもある。

日本では、自分の所属集団の利害がパブリックだと思われている。所属集団・仲間の範囲を広げるため、近代天皇制があった。パブリックには、共同体バージョンと共生バージョンがある。共生バージョンは、自分には想像もできないようなメンタル思考を持った他者といかに暮らしていくか、ということだ。西欧では共同体バージョンのパブリックは19世紀に終わり、今では通用しない。

盗聴法は、盗み聞きされるかどうか、という左翼的煽りではなく、異議申立て機会を奪うことの重要性、という伝え方が大事だ。共同体的動機付けではなく、共生ロジックによる動機付けを。

官僚は頭が良い。そして必ずしも悪意ではない。「行政効率がいい」ことが彼らの善意だ。だが、その善意の結果は、市民倫理とぶつかる可能性がある。そこが大事だ。官僚のパブリック感覚は、省益を「公」への奉仕だとしている。

玄田生氏が聞きに来ていた。鎌やんは玄田さんと少し話しさせてもらう。
「新国旗国歌コンテスト」というアイデアを伺う。どんな国旗が望ましいか、どんな国歌が望ましいか、大々的に募集をする、というかたちの運動だ。これは対抗のためにあって良い。そしてたぶんこの運動は面白い。運動は面白いことが大事だ。参加した気になる・させることが大事だ。

9月28日(火)

月曜に夜更かししていると、火曜朝3時ころ曽さんから電話。そろそろ寝よう、と思っていたとこだったが、曽さんのネームの翻訳をする。朝6時翻訳終了。別の紙に書き写す。眠くて字が乱れる。パンを買ってきて食べ、曽さんからFAX受信の準備ができた、と、朝7時に電話来る。曽さんにFAXする。えらい時間かかる。曽さんが荷物は送らなくて良い、いずれ取りに行く、と言うが、おお。それならそうともっと早く言ってくれたまえ。

眠かったが、昼からアシの仕事行かないとならないので、眠るわけにいかず。見ていなかったFAXに気づく。19日付でMYさんから。えらい久しぶりな。挨拶と、以前MYさんから被った迷惑と、以前詫び損ねたことと、近況を書いて送る。朝9時半か。相手方の受信時間として適切ではないかもだが、今送信しないと送信できるときがない、と考え、送信する。
午前11時、MYさんから電話。わりと適切な時間の送信だったことがわかる。後日ゆっくり話しよう、と、電話終える。

KY先生のアシに行く。午後4時ころから激烈に眠くなり、ベタがはみ出る。先生にお願いしてコーヒー貰う。効かない。先生にお願いして夜12時に一旦仕事中断してKY先生の仕事場で仮眠させてもらう。

9月27日(月)

あ。 えだの幸男さんのポスティングデー、昨日だった。と、思い出す。

曽さんの置いて行った荷物、3箱ほど箱詰めし、船便で送る。重労働。けっこう金かかる。まだだいぶ荷物残っている。

足立真一さんから電話。ネタを拾う。

9月26日(日)

ディグさんと昼食食べる。就寝。

9月25日(土)

早朝、KUMA氏から電話。ネームを作らなくては。良い話が来ると、自分はそれをできるはずがない、それに見合う資格がない、と、心底で感じるのはなぜなんだろう、今ここでこそ全力を投じるべき時なのに。そして誰か知人にそのチャンスを持っていかれたら、心底腹立たしく感じることは間違いないのに。

「MATRIX」ディグさんから薦められたので見に行く。
ディグさんは「MATRIX」絶賛。どこぞで幾原監督が「MATRIX」をあまり誉めていなかったのは、幾原と同じテーマ(現実世界への脱出)を、「MATRIX」のほうが幾原より面白く描いていることを嫉妬しているだろう、演出による説得力が良い、というのがディグさんの意見。
足立真一さんは、仮想現実の中でしか強がれない・仮想現実の中でこそオレは最強なんだと強がっている、貧弱なオタクに痛くないよう痛くないよう作った映画だ、との評価。
昨日聞いた「荒川強啓デイキャッチ!」では、宮台真司氏が、いくつ引用があったかカウントして見た、と言っていた。オタク言語で作られた良い映画だ、というような評価だったと記憶する。

映画館入ると、もう始まっている。途中から見る。立見。見ている間は愉快だった。
もう一度頭から見る。よほど重要な伏線を見てなかったのだろう、と思っていたら、ほんの数分見てないだけだった。空腹で、2度目は寝てしまう。
事前情報下手に聞きすぎてしまったせいもあるかもだが、すごく出来の良いパチモン、と、いうのが自分の感想。銃撃戦はカッコ良かった。
仮想現実と、リアルな現実が、完全に等価に描いてあり、どちらを選択しても構わない、というのが製作者の視点だと思う。それははていかがな物か、と、私は思う。推測だが、もっとテーマ性の深かったシナリオを、観客が苦痛を覚えないよう覚えないよう削った果ての、そして観客が快楽を覚えるよう覚えるよう撮った映画だと思う。成功はしている。

ディグさんは娯楽性への感受性が自身若干鈍い・経験値が低いことを自覚し、そのことを強く求めるようになったので、その文脈で「MATRIX」を好意的に評価したのだと思う。それはディグさんにとって良いことだと思う。

足立真一さんは自身への客観視、他者の視点で自身を見た実存の正確な把握、ということに今こだわっている。その文脈で「MATRIX」の観客に対しやたら優しい点が気になったのだと思う。

ディグさん、来る。「MATRIX」その他について話する。ディグさん、泊まっていく。

9月24日(金)

午前10時頃、KY先生の残り原稿来たのでアシ仕事開始。台風のため外は雨。午後4時半、仕事終了。雨あがっている。帰宅。就寝。

9月23日(木)

午前2時頃、足立真一さんから電話。数時間話する。

午前8時頃、曽さんからFAX。曽さんに電話。仕事から帰ってきたら連絡する、と、伝える。

COMITIA申し込みしようとする。休日で郵便局開いていないことに気づく。

HPの表紙を作ろうと思い、スキャンする。スキャナーの具合がおかしい。黄色く変色してスキャンされる。スキャナーが汚れているのでもなさそうだ。

午前11時、KY先生のアシに行く。午後3時ごろメチャメチャ眠くなる。夜11時半、手持ちの原稿がなくなったのでKY先生の仕事場で就寝。

9月22日(水) 雨

寝て過ごす。夜11時ごろ起きる。

9月21日(火) 雨

自分の原稿、下絵8ページ進む。

1999年9月16日から9月20日

2012年03月27日 01時14分56秒 | Weblog
9月20日(月) 晴

曽さんの荷物、箱に詰め、船便へ出す。まだたくさん残っている。

不動産屋数軒周る。

9月19日(日)

夜8時まで轟沈。曽さんにFAX。通じない。電話試みる。通じる。

「インターネット自殺毒本」読む。クヒヲ大佐の人柄が良い形で滲んでいる。

9月18日(土)

昼、ディグさんから電話。「マトリクス」観よう、との誘い。えだのさんのオープンミーティングに行くから、と、断る。

大宮へ。えだの幸男さんのオープンミーティング。今日の議題は「日本の財政はいつまでもつか」。以下、メモ。

日本の一年間の支出は約80兆円。これは50兆円の税金と、30兆円の借金によって賄(まかな)われている。支出の三分の一が借金だ。もし、家計の三分の一が借金だったら、家計はパンクしている。

日本の、溜まっている借金は、約500兆円(国債と借入れの合計)。隠れている借金もあるが、100兆円も違わない。だいたいこの数字。

日本の一年間のGDP国民総生産は、約500兆円。日本人が一年間飲まず食わずで生み出す富とほぼ同額の借金を日本はしている。家計に置きかえるなら、年間収入と同額の借金をしている。

借金しているのは国だけではない。区、市も借金をしている。これらの総額は200兆円弱。

国と地方合わせて、約600兆円の借金がある。(ダブルカウントの分がある)

返済方法には、3つある。

1;国の財産を売る。
2;インフレにする。…インフレになると借金している人間は助かる。100倍のインフレになれば、借金の重みは100分の1になる。だからインフレが進行しているときは借金するほうが得だ。ちなみに現在はデフレなので借金は損だ。
3;税金で返す。

それぞれの問題点:

民間企業にはバランスシート(複式簿記)があるが、国にはバランスシートはない。大蔵省ですら、国の財産を把握していない。たとえば、皇居は売れるか? 仮に売れる物全て売ったとして、約100兆円。
ここには政治判断が入る。たとえば国公立大学を外国資本に売ってしまって良いかどうか。情報・通信・交通などを外国資本に売ってしまって良いかどうか。

今年(平成11年度)の予算のうち、借金は約4割。(30兆円)
この借金を解消するためには、30兆円の歳出カットするか、30兆円の増税をするか、どちらかしかない。

歳出カットはどこまでできるか?
公共事業は約10兆円。公務員の給与は約10兆円。義務教育費が約3兆円。社会保険(国民健康保険)の国の負担が約10兆円(健康保険は三分の一が国の負担。国の負担をカットすると医療費は個人あたり4倍になる)。

公務員の給与一律カット、というのは合理的でない。官庁に勤めているホワイトカラーの公務員は、全公務員のうち約一割である。ここは、場合によっては削るというのもありえるかもしれない。

だが、主な公務員は、警察官であり、教員であり、ゴミ収集員である。圧倒的に給与が高いといえるか? 数を減らせるか?(たとえば、銀行員ならば一律30%カット、ということができるだろうが)

民間に売えば? たとえば国立病院の民営化がされている。民営化された元国立病院は経営を成り立たせるため多くの患者を扱おうとする。結果、保険料という形で税金が多く流れて行く。流出の形が変わるだけでは意味がない。

歳出削減は、頑張れば、20兆円くらいはできる。

アメリカではレーガン政権のとき大幅減税した。その結果景気が回復し税収が増えた、と一般に思われているようだが、そうではない。

アメリカには、巨大な軍事費があった。これを削減したのだ。アメリカも。景気の足を引っ張らないように考慮しながらだが、増税したのだ。アメリカの軍事費に相当するのは、日本では公共事業くらいか。
道路公団は赤字で大変だ。今まで挙げた数字に、道路公団の赤字分は含まれていない。これは別勘定になる。

国は倒産しない、と、俗に思われている。だが、国も借金を増やし続けていれば、潰れる。

国のする借金にも、利息がつく。年間50兆の税金、うち、10兆は利息の支払いに使われている。元本の支払いではない。地方でも10兆の利息払い。計20兆の利息払い。

利息はある段階から加速度的に増える。

国は国民から借金している。

郵便貯金などを通じ、中期国債ファンド、国債に国民の貯金は流れている。

国債は買ってくれる人がいるから成立する。現在30兆の国債がある。国債を国民が買えなくなると、成立しない。高齢化が進み労働人口の割合が減ると、トータルの貯金額が減る。結果国債が売れなくなる。(団塊世代が老人化するまでのここ10年15年が最後の猶予だ)

外国から金を借りると、円の価値が下がる。日本企業の社債も売れにくくなる。日本は輸入国だ。円安になると、ドルに対して、円をその分多く発行しなくてはならなくなる。インフレになる。

インフレのとき、外国に流れる金を減らすことができるか? 減らせない。

個人の単位では、インフレによって借金支払いは楽になる。
国はインフレによっても支出が増えるので、借金は増える。(メキシコはそれで破産した)

財政は国民が支払えない限界を超えたところで、ドスンと落ちる。

今年、高校卒業生の4割に、職がない。
公共事業を、仮に今、パタッと止めると、150万人の失業者が出る。
公共事業に10兆投資すれば、短期的には、総生産は500兆円だから、0.2 %利益が回る。それは当然だ。今わずかに景気回復している、というのはそれだ。だが状況は全く改善していないのだ。

国民が払えなくなるデッドラインを考えなくてはならない。年金等は、老人が自然増するので、支出は自然増する。
10年15年のうちには、国内で国債を処理できなくなる。

個人消費が伸びていない。これは深刻だ。たとえば住宅着工については、今、大優遇税制になっている。だが、公務員しか住宅着工をしていない。民間は将来に不安を覚え、消費せず、貯蓄している。個人消費はGDPの50%を支えている。公共事業は借金によって賄われている。不健康だ。

税制再建が必要だ。ばら撒くのはもうやめよう。将来必要になる、財源を減らしたときには出来ないもの、たとえば老人ホームなど社会保障に関わる物は今のうちに作っておこう。だが、道路事業はストップしなくてはならない。10年くらいかけて財政の規模を縮小しなくてはならない。
必要でない道路などというものはない。だが、今、更に新たな道路を、というのは、サラ金に追いまくられているときに新しいテレビを、新しい自動車を買おうというものだ。
サラ金に追いまくられていたとしても、おばあちゃんが倒れたらおばあちゃんを病院に連れて行くだろう。

国の金で、土建業者を、社会保障事業に転換させなければならない。これは案外うまくいくのではないか。特に地方では。

盗聴法、ガイドライン法案などの時、いつか来た道を日本はまた歩んでいるような気がする、という意見があった。必ずしもそうとは言えないと思うが、今のまま、ズルズルと泥沼に、という点では、日中戦争がズルズルと戦火拡大し、太平洋戦争に至った、という過去に似ている。

国会議員には、「ばら撒き予算仕方ないよね」という空気がある。小渕的空気だ。この流れを変えなくてはならない。

以下、質問と回答。

質問;郵政省役人は運用能力がないので、郵貯の運用は大蔵省に任せている。
えだの;郵貯は不良再建の山。郵貯は一番安全と思われているが、実は一番不良債権が多い。

えだの;日本は人件費が高い。中国は人件費が安い。大量生産の製造業では、日本は今後中国や東南アジアに敵うはずがない。(アメリカも景気が良いと言っても、製造業は全く伸びていない)日本は、新技術で勝負するべきだ。
大企業を守るべきではない。蒲田に代表される技術を持った中小企業をこそ守るべきだ。小渕的現状では、蒲田的なものを切り捨てようとしている。
責任ある政治家の態度は、短期的対処法はない、と正直に述べることだ。そして次なる段階に速やかに移行させることだ。

以上、メモ。

オープンミーティング終了後、天下国歌を語る会参加。鷲野さんからお話伺う機会得る。
民主党と自民党の対立軸は、天下りに代表される利権政治を是とするか非とするか、そこだけだ。よく憲法解釈など古い対立軸を持ち出し、民主党は右も左もいておかしいじゃないか、という批判が民主党に対して外部からなされるが、その批判は意味がないし、民主党にそういうことを求めてもある意味お門違いだだ。
政治上の課題、対立軸は、護憲か改憲かという古い対立軸以外にいくらでもある。だが最も優先させなくてはならない対立軸は、利権政治を是とするか非とするかその一点だ。民主党はそのために存在する政党であり、それが解決された後で、また別な対立軸で政界は再編されなくてはならない。



帰宅途中、紀伊国屋で「インターネット自殺毒本」(相田くひを著、マイクロデザイン社)、「論座」10月号(朝日新聞社)、「身捨つるほどの祖国はありや」(宮崎哲弥著、文芸春秋)、「イェルサレムのアイヒマン」(ハンナ・アーレント著、みすず書房)、「全体主義の起源」1巻(ハンナ・アーレント著、みすず書房)、「個人と社会」(オルテガ著、白水社)購入。
ああ、オレは馬鹿だ。「論座」なんか「東浩紀・宮崎哲弥対談」以外読む気ないのにこんなに金を浪費して。図書館で借りて読めば良いじゃないか、と自虐する。
「SAPIO」のゴー宣立ち読み。「教科書を作る会」の内輪もめが描いてある。見たいものだけ見ようという方々が集まっているなら当然起きるべきして起きたと思う。

「野獣系でいこう!!」(宮台真司著、朝日新聞社)読了。表紙が素晴らしい(笑)。宮台真司氏はエロライターの心意気がよくわかっていらっしゃる。

香港の曽さんから留守電。曽さんにFAX試みる。通じない。

9月17日(金)

10時からKY先生の仕事の約束だったが、遅刻。12時半出勤。天気曇。

午後8時頃作業終了。帰宅。天気雨。

9月16日(木)

(前日から)午前2時頃、KY先生就寝。一人で作業する。帰宅してもいい、と言われていたので、帰ろうかどうしようかちょっと悩む。帰ると起きるのがきついな、と思う。KY先生の仕事場で就寝。妙に眠れない。

昼、先生が起きてきたので作業再開。午後3時頃から猛烈に眠くなる。午後4時まで作業。雨のなか、自転車で一旦帰宅。

池袋へ。リブロへ行く。「野獣系でいこう!!」(宮台真司、朝日新聞社)購入。
待ち合わせ場所を迷い、電話し、更に迷い、ああ、ここか、と、辿り着く。コミケの知識経験の蓄積について有益な提言伺う。

夜12時過ぎ帰宅。就寝。

1999年9月1日から15日

2012年03月27日 01時12分11秒 | Weblog
9月15日(水)

朝5時、MAさんの原稿終わる。

東京の部屋へ帰宅。寝る。

夜10時頃、目が覚める。KY先生に電話。KY先生のアシ作業しに、自転車で向かう。(続く)

9月14日(火)

MAさんのアシする。

9月13日(月)

不動産屋へ行く。更新しない旨伝える。

茨城へ。MAさんのアシ作業する。

9月12日(日)

足立真一さんとこで、夕方目覚める。よさこい野郎さん来る。ちょっと話する。眠りこけながら、「ファミコン探偵団」クリア。足立真一さん就寝。私は帰宅。
「学校を救済せよ」(宮台真司、尾木直樹。学陽書房)読む。とても面白い。

9月11日(土)

この日は、私にとってこの秋一番のイベントである「ホシヅルの会」があった。8月に実家でめちゃツライ労働の日々を送る中で、やっとこで参加料振込みしていた。

実家の部屋で目が覚めると、午後1時半。あ。寝過ごした。もう「ホシヅルの会」には間に合わない。とほ。生の小松左京見損ねた。(後日聞くとこでは生小松左京はいなかったそうだけど)

人間は人生の三分の一を眠らないとならない、ということを忘れていた。

意気消沈し、バスに乗って駅へ。駅で考える。予定空いちゃったから、みいちゃんに会いに行こうかな。電車来る。電車に乗って東京へ。オレって意気地なしだなあ。

東京に着いたのは午後5時。HYさんと足立真一さんから留守電。HYさんに電話。留守の様子。留守電に吹き込む。足立真一さんに電話。9月4日に行こうとしていた絵の勉強しに行く約束する。出かける前、念のためHYさんに電話。通じる。ほぼ同じにHYさんが私に電話したが、通じなかったそうだ。どういうことかな? それはそれとして、取材に関することとかお話させていただく。HYさんとの要件終了。足立真一さんとこへ。

バス。電車。バス。足立真一さんの住む埼玉はそこかしこに堆肥やら牛の糞やらの匂いが漂う。そういう季節なのかな。足立真一さんと話をする。劇場版ナデシコを観ようと薦められる。遠慮する。絵を描く。足立真一さんからアドバイス受ける。

BGVにエヴァ劇場版かけてもらう。つい、観る。見終わった後、やはりこの映画のメッセージは宜しくない、という話を足立真一さんに力説する。庵野の直観力は素晴らしい。だが庵野にはロジックがない。人生経験の幅も狭い。そのことそのものは必ずしも否定されるべきではないが、この作品にとって、作者による限界がメッセージの点で明らかになっている。
個体としての他者と、立場の違いによって発生する他者性の区別がこの作品にはない。綾波とカオルくんを、「わかりあえるかもしれない、という、祈り」と劇中で解説しているが、綾波とカオルくんはともに(醜いオタクである)シンジのアニマ、自我の投影であり、どのみちシンジ(庵野)は他者を見ていない。一面においてそれは正直なメッセージだが、もう片面の真実、(自身にしか愛情を感じない/他者に愛情を感じない/愛情を求めているが与えようとしない)ということから作者は目を背けている。矛盾するメッセージ。そこに作者は無自覚だ。無自覚で混乱しているゆえに、受け取る視聴者は、個々人ごとにあまり程度の宜しくない誤った哲学(オカルト)を内面に構築するだろう。そこが宜しくない。
エヴァ世界はオカルト世界の中にある。作者にとって世界はオカルトなんだろう、と足立真一さんに言う。『ソフィーの世界』の言葉を使うなら、哲学とオカルトの関係は、本物の恋愛とポルノの関係だ。ポルノを本物の恋愛と錯誤するのは危険だ。
オカルトは真中にブラックボックスを置き、その周囲にブラックボックスを示唆する雑学を散りばめた形をしている。
たしかに個人にとって世界は見通しがたいし、全てを見通すことは個人にはできない。
だが、オカルトにおいては、非合理で不可解なブラックボックスが存在すること自体を真理の証明としている。ブラックボックスが「真理」であり、ブラックボックスの存在が「真理の証明」、という同語反復論法だ。理性による解析は、そこにはない。これを「超越的」思考と言う。世界がわけわからない代物であるのは、神のせいだ、と、超越者を設定することで、思考停止する。
「超越的」思考を克服するのは、「超越論的」思考だ。世界は見とおしがたい。個人個人の人間にとって、世界は不可解だ。だが、個々の非合理的現実は、高いレベルで、合理的科学的に人間に把握できる。人間の心は不可解だ。だが、フロイトの発見した「無意識」というモデル(超越論)を用いることにより、人間の非合理的行動は「超越論的」に理解説明が可能だ。人間の行動は不可解だ。だが、マルクスの「下部構造」「上部構造」というモデル(超越論)を用いることにより、人間の不思議な行動は「超越論的」に理解説明可能だ。
シンジはオカルト世界を作中否定できていない。自覚も批判もできていない。このシンジの位置は作者の練度に制限されている。
作者にとり、他者の世界はイコールオカルトなのだ。それは正しい世界認識ではない。少なくとも、「現実に帰れ」というメッセージが自己矛盾を起こしている。そのことへの作者の直感が、ラストのシンジの行動とアスカの台詞を吐かせている。(その、直感に正直な態度は非常に尊いものだ)

といった話を足立真一さんにする。オカルト世界観がなぜ恐いのか、足立真一さんにはピンと来ない、と言われる。なるほど、と思う。ここは重要な点だ。これは宿題にしよう。

足立真一さんから「ファミコン探偵団」薦められる。する。食事行く。
足立真一さんの冬の同人誌のマンガのネタ、二人で考える。お馬鹿なメイドもの。

足立真一さんとこで就寝。

9月10日(金)

MAさんのアシ作業、朝5時までする。途中で一度寝ていいと言われたが、電車の中で寝ればいいやと思って、眠らず作業する。(後でこれは失敗だったと気づく)

東京の部屋に戻らず、茨城から、そのまま実家へ。電車の中で「権力の予期理論」(宮台真司)、「オリエンタリズムの彼方へ」(カン尚中。岩波書店)読もうとするが、寝不足で脳味噌が腐り果てて全く文意を追えない。マンガ家は頭が悪くなる。無理して読もうとすると読解できないという理由でこれらの本に悪印象持つかもしれない、と、気づき、読もうとするのやめて電車の中で寝る。乗換駅、2回寝過ごす。普段の倍近い時間食って田舎の駅に。

駅のバス停で学生らしき人々がたむろっている。ひょっとして後輩さんたちかな? とも思うが疲れていたので声かけず。バス停に車来る。サークルの後輩さんの車。乗せてもらう。

実家へ。学生時代所属していたサークルの合宿、私の実家で開催してくださるようになって、たぶんもう10年になるのかな。直接の後輩でなく、学部の違う後輩さんたちの合宿。ありがたやありがたや。

眠すぎたので寝る。2時間ほど寝て、起きて、合宿に参加。食後、テーブルトークRPGに混ぜてもらう。

Sさんにえらい久しぶりに会う。ここのページ見てる、という話伺う。少しだけ会話。

寝ようと思うが、いつものごとく自分は父母の手によって自分の就寝スペースからロックアウトされている。外に出て、どうにか部屋に戻り、就寝。

9月9日(木)

(前日から)

掲示板のレス溜めていたので、8月以降について返信を試みる。二人ぶんで挫折。てゆーかこんな濃ゆい返信にわざわざしないでいいだろオレ、省力化しろ。とか思う。
いかがわ四郎さんとこのチャットで遊ぶ。

眠り損ねたまま、電車に乗って、茨城のMAさんとこのアシに行く。自分の力弱さを確認。作業途中で眠くなる。

(翌日へ)

9月8日(水)

HYさんに郵送。遅くなってごめんなさい。
曽さんから頼まれていたことについて、FAXしようとする。あう。国際電話、止まってる。料金払い損ねていたか。ごめん曽さん。
MAさんから電話。とりあえず明日手伝いに行く、という話に。
いつ自分の原稿描けばいいのだ。と、一瞬頭をよぎる。それはあとで考えよう。(翌日へ)

9月7日(火)

(前日から続き)

朝4時アシの仕事一旦終了。夜食を買って食べ、朝6時までKY先生の仕事場で「戦争論妄想論」読む。KY先生の仕事場に泊まる。

昼からアシ仕事。おお。寝る直前に物食べると、お腹の調子が良くないものだなあ。夜9時頃KY先生の仕事終了。自転車で帰宅。

にゃんこMICさんにお願いがあって電話する。興味深いお話、伺う。自分の仮説は正しいようだ。

9月6日(月)

(前日から続き)

朝4時頃アシ仕事一旦終了。一時間ほどKY先生の仕事場で「戦争論妄想論」(教育史料出版会)、宮台真司氏による、小林よしのり氏批判の部分、読む。KY先生の仕事場に泊まる。

昼からアシ仕事。身体がバキバキ言っている。昨日の筋肉痛だ。(翌日へ)

9月5日(日)

朝5時ごろ起きる。見ると、曽さんの荷物、人間ほどもある大きさのバッグに二つ。それでも収まりきらず、残りは郵便で、船便で送ってくれ、と曽さんが言う。了承する。
「このバッグも、郵便で送ったほうが良いんじゃないか?」と曽さんに訊く。
「どうやって?」と曽さんが応える。
…難しいのかな。まあ、飛行機で持って行ければ、それが一番簡単だよね。なにも私の仕事増やすことはない。

バッグは物凄く重い。殺人的だ。アパートの階段を下ろすとき、二人がかりでもしんどいので、ゆっくりと転がして下ろす。

バッグには底に小さな車輪が付いている。上部に引っ張る取っ手がある。それで引こうとする。重過ぎて動かない。無理をすると取っ手がちぎれる。
曽さんが機転を利かせ、バッグの底の方をビニル紐で縛り、取っ手を作る。それで引っ張る。なんとか動く。二人で、一つずつバッグを引く。

100メートルほど引いたところで、曽さんの引いていたバッグが動かなくなる。調べると、底の車輪が一つ壊れたのだと判る。どうしよう。
…同人誌運ぶときのカートがあるじゃないか。あれに載せてみよう。と、考える。少なくとも荷物を半分箱詰めして分けるだけでもだいぶ楽なはずだ。

…本当は台車があったんだが、と、思う。Nに貸したまま返ってこない。奴め。くそ。おのれ。と、忘れていた怒りを思い出す。…台車が今ここにあればずいぶん楽なのに。こういう時に台車は必要なのに。「イベントのとき以外はいらないでしょう」とはふざけたこと言いやがって。今度こそとり返してやる。どんなことしても。…待てよ。同じこと、前考えたな。実行したな。そうか、紛失したって言ってたっけな。返せよなあオイ。お前はそんなだから。…誠意ある態度ってものがなあ。と、恨みつらみが渦巻いたが、気分を切りかえる。

カートとダンボール箱持って、バッグのところへ。車輪の壊れたバッグをカートに載せる。収まる。ダンボール箱は不要なので近くのゴミ捨て場に置いて移動。カートの扱いは私のほうが慣れているので、カートのほうを私が引く。

部屋から250メートルほどの地点で、曽さんが引く、壊れていないほうのバッグも、車輪が壊れる。私は走って部屋に戻る。ついでにゴミ捨て場に置いたダンボール箱回収する。もう一つのカートを持ち、自転車に乗り、曽さんの元へ。

車輪の壊れたバッグを新しいカートに載せる。自転車はコンビニの近くに置いておく。移動開始。

私のほうが曽さんより体力がやっぱりあるんだなあ、と、思う。私はわりと体格がいい。そのことで得したと思ったことはなかったが、やはり体力は体格にある程度比例するんだな、と、思うことが、8月15日の人力荷物運びのときにもあった。非常に単純で古めかしい結論。
曽さんの体格は、中学生のようだ。
私も、ディグさん、足立真一さん、いつきこうすけさんと並ぶと、その中では一番背が低かったりするのだが。余談でした。

部屋から500メートルくらいのところで小休止。部屋までタクシーを呼べば良かった、と後悔。
遅れてきた曽さんがカートを乱暴に放す。カートが倒れる。カートのパイプが曲がる。あうち。乱暴に扱わないで下さい、曽さん。

駅。ホームまで下ろすのに、エスカレーターがない。人力で下ろす。しんどくて死にそう。

飛行機の時間間に合うか? 電話したほうが良いんじゃないのか? と曽さんに尋ねる。
ギリギリ間に合う。と、曽さんが応える。

電車に乗せるのは人力で移動。すごくしんどい。

乗り換え。エスカレーターで上る。曽さん一人でこの荷物を運ぶのは無理だと思うので、成田までつきあうことにする。

成田エクスプレスの中で、曽さんと色々話する。

荷物運びを付き合ってくれてありがとう、と、曽さんが言う。よかった。最後に曽さんに嫌な思いをさせなくて。曽さんが私に好感を持って発ってくださるなら、大成功だ。

日本に来る前、曽さんは香港でけっこういい条件の契約でマンガを描いていた。だが、曽さんは日本で成功したいと思っていたので、当時仕事を熱心にしなかった。日本に来て、考えが変わった。来て良かった。来なかったらずっと、「日本にさえ行けば…」と思っていただろう、と、曽さんは言う。
「やはり経験て大事だね」と、曽さんに応える。

日本のアシ先で、仕事場の仲間と話したそうだ。マンガは金のために描くんじゃない、楽しいから描くんだ、自分の描いた物が10年後20年後残るから描くんだ。曽さんはそう言った。仕事場の人々は冷笑したそうだ。生活するために描くんだと。
曽さんはアシして稼いだ金の多くを、家族に送金している。…「生活のために描くんだ」と曽さんを冷笑した人々は、おそらく現実には経済的に自立していないのだろう。実家から通い、アシ代は自分の小遣いにしているのだろう。経済的に自立できていないから、精神が依存しているから、生活者に劣等感を覚えているから、「生活」「生活」と言うのだろう。そう曽さんに訊いてみた。その通りのようだ。

鎌やん、香港に遊びに来いよ、と、曽さんが言う。
「金がたまったらね」と応える。色々話する。

「俺、5年後には、日本で一番有名なマンガ家になっているよ。…頑張ろう」と、曽さんに豪語する。

成田空港。空港用のカートがある。カートにバッグを積替える。エレベーターに乗る。成田空港のエレベーター、なぜこんなに小さいのだ。

「香港の空港に、弟を呼んである。荷物たくさんあるから、と、弟に言ってある」と曽さんが言う。

チェックインに向かう。もう時間がないから、と、別な窓口を係員に教えられる。

手荷物…ここまで苦労して持ってきたバッグを測ると、重量オーバー。手荷物扱いで送ると、7万円を越えるそうだ。そんなには払えない。

二つあるバッグのうち、一つのみを手荷物とし、もう一つは船便で運ぼう、と、曽さんと打ち合わせる。それでも重量オーバーで一万円強かかるが、その程度は仕方がない。

フライト時間ギリギリなので、曽さんとはそこで別れる。

曽さんのげろくそ重いバッグ…40キロ以上あるそうだ…を、カートに積み直す。往路を戻る。二人で来た道を、死にそうに重い荷物抱えて帰る。

駅から部屋までタクシーで帰る。死ぬような思いして部屋に曽さんのバッグを運び入れる。ぜえはあぜえはあ。ちょうど昼12時。

以上、午前中、朝5時から昼12時までの出来事。

今日からアシスタントに行く予定だ。KY先生に一時間遅れる旨電話し、シャワー浴びる。自転車に乗り、KY先生の仕事場へ。

力仕事した後だったので、やや不安だったが、さほど問題もなくアシ作業する。(翌日へ続く)

9月4日(土)

早朝3時ごろ、足立真一さんから電話。「見映え」について気づいたことなど話するうち、じゃあ、今から足立真一さんとこへ絵の勉強しに行く、という話になる。出かける準備をする。
朝7時ごろ、曽さん、帰宅。曽さんは、アシ先での連載終了の打ち上げに参加していた、とのこと。
私は今から足立真一さんとこに行こうと思う、と曽さんに告げる。曽さんが驚く。自分は今日までしか日本にいない、翻訳を手伝ってくれ、と曽さんが言う。
そうだったか。…って、帰る仕度まだ曽さん何もしてないじゃないですか。帰れるのですか? とは思ったが、翻訳を手伝うことにする。足立真一さんに電話してその旨伝える。

翻訳作業、開始。曽さん、体調が悪いのはまあいいが、私に向かってゲップをするのは勘弁されてください。 疲れてくると、発音をはっきりさせないと話が通じないので、やや大声でまくし立てる感じになる。
昼1時すぎ、翻訳作業終了。

曽さんが換金したいと言っていた切手の買取業者に連絡。海外の切手は今在庫がだぶつき、引き取り手がないという話を伺う。換金をあきらめる。
曽さんの古本を古本屋へ持っていき、売る。

今訳した曽さんのマンガの批評をする。
結局、日本にいても、どこにも遊びに行かなかったね、今度来たときはそのときこそは案内するよ、彼女と一緒に来てよ、といった話する。

曽さん、新宿に用があるとのことなので、夜あたり、何かうまいものを食べよう、という話をして、別れる。

定食屋で昼食。「サラリーマン金太郎」あったので読む。メチャメチャ面白い。食事すんだ後一時間粘って8巻まで読む。古本屋へ行き、新刊本屋へ行き、19巻まで購入。

本屋ブラブラしている間に、そういえば「権力の予期理論」(宮台真司。ケイ草書房)まだ買ってなかったことが気になる。読まないでどうする。
隣駅のデパートの大きい本屋まで自転車で行く。見つからない。どこだコーナーは。それとは別な欲しい本が色々見つかる。「権力の予期理論」発見。他のたくさんの本と一緒にレジへ。昨日のアシ代全部はたいて購入。

本屋を出る。自転車を見る。ない。嘘。どこ。盗まれた? 撤去された? うろうろうろ。ずいぶん長い時間本屋にいたからなあ。ちょっとの間でも駐輪場に置かなかったのは失敗だったなあ、返ってこないだろうなあ、幾ら損したことになるんだ、と、陰陰滅滅な気分になる。道を、ガーディアンエンジェルズが闊歩している。見るのは初めて。こいつらかなあ、とか思う。
電車で帰ろう、と、トボトボ歩くうち、デパートの出口が二つあり、自分は出口を勘違いしていたことに気づく。自転車発見。良かった。ガーディアンエンジェルズの行進の後を負うかたちで帰路へ。この人たちも何かに貢献したいのだよね、何かに貢献していると感じなければ生きていくのは辛いものね、社会貢献欲求自体は肯定されるべきものだよね、と、優しい気分になる。

部屋へ。曽さん就寝中。

「サラリーマン金太郎」19巻まで読了。10巻の、アラブのエピソードまでは非常に面白い。そこから先は質が下がる。
人生は、意外な、優れた人間と、何人出会えるか、知己となれるか。自分の認める人間から、認められるかどうか。これが大事だ。これはたしかに幸運に支えられている。努力はこの幸運の確率を上げるためになされるのだ。その幸運、僥倖を得られた喜びは、他に比較できない。その幸運が、人生を開かせる。そんな風に私は思う。
アラブのエピソードまでの「金太郎」は、その僥倖を得ていく話だ。そこには共感する。そこを面白いと感じる。
だが、それ以降は、主人公が、ビッグ・パパ、ビッグ・ママに守られていく話だ。本宮ひろ志にはビッグ・パパ、ビッグ・ママへの宜しくない憧れがある。砕いて言うと、マザコンでファザコンだ。その悪い面が後半には顕わになっている。エピソードもだれる。20年前の少女マンガのようなストーリーになっている。奥さんにストーリー練らせたのかな、と、邪推する。感心しない。

HYさんから電話。依頼ごと一つ受ける。代わりにお願いもする。

就寝。

9月3日(金)

(前日から続く)

帰宅。早朝、眠る前、「少女帝国」さんから電話。色々話する。

男性でも女性でも、オタクの世界でも活動の世界でも、壊れた人は多い、といった話をする。だが、壊れたとき、女性のほうが壊れっぷりが凄い。それは、女性のほうが、社会的により制約されているから、抑圧されているものの量が多いからだ。という話になる。

「壊れている」女性は、たいがい、「パパのお庭」に住んでいるつもりになっている。そして他者に「パパのお庭」での作法を押し付ける。
押し付けられる側にしたらとんでもない非常識であり大迷惑なのだが、「壊れている」女性は、そのことに決して気づかない。
彼女は決して自己を省みない。彼女の主観では「パパのお庭」だけが世界であり、彼女自身は「パパのお庭」の忠実で善良な住人なのだ。
なるほど、男性でも「壊れている」人はよく似た思考をしている。

念のために書いておきますが、以上の文は女性蔑視を意図したものではない。「少女帝国」さんは、セクシャリティやフェミニズムに造詣の深い文章系女性サークルさんです。

明け方に就寝。この日はそのまま寝て過ごす。

9月2日(木)

KY先生の仕事場で起きる。アシ作業する。
脳味噌がなかなか起きない。コーヒー飲みたいなあ、と、思う。KY先生は煙草もコーヒーも飲まれないので、ヘビースモーカーな私はちょっと気を遣う。煙草チェーンスモーク結局させていただきましたが。深夜、仕事終了。アシ代いただき、帰宅。

曽さん、寝ている。曽さんはもうじき日本を発つ。曽さんと暮らしたのは、約一年。

同居人は曽さんで3人目だ。もう、この先、同性の同居人(居候)を置くことはないだろう。

これは贖罪なのだ。自分自身が、地方から上京するとき、友人の誘いがなかったら決してその一歩を踏み出せなかった。その友人にそのお礼を尽くせなかった。それが人に自分の部屋での居候を勧める動機だ。

一人目の同居人とは、早々仲が険悪になり、その後つきあいがない。そのことも自分の内面で負い目になった。
二人目とは、わりあいうまくいった。
三人目の曽さんとも、わりあいうまくいった。
これで、内面のわだかまり、何かへの負い目は償ったように思う。同居人の方々にとっては関係のない話だ。私の自己満足だ。だが私にとってはこの自己満足を満たすことが大事だった。そしてピリオド。これから先は、誰かのためにではなく、徹底して自分のために動こう。

(翌日に続く)

9月1日(水)

昨夜11時に起きてから、眠らないまま、昼、学研の編集さんと隣駅で待ち合わせ。喫茶店に入り、KY先生と対面。仕事場へ。

絵はわりと簡単な絵柄に見えたので、気負いもせず、楽しく仕事させていただく。そのまま泊り込み。

夜、原稿を見ると、おそらくさらさらと先生が描いたであろう非常に上手な風景画発見。え。と、ショックを受け、色々考える。

画力と、見映え・キャラ映えはおそらく別だ。ならば私はキャラ映えについて今、今日から真剣になろう。内容・視点では誰に負ける気もしない。そして読者はキャラ映えだけでマンガ家を測る。ならば、勝てる。勝つ。(と、自分を鼓舞するために書いたけど、その後何もしていない 2000,1,11)

1999年8月22日から31日 マシウスの夜郎自大日記

2012年03月27日 01時10分43秒 | Weblog
新しい日記から、古い日記へ、という順番で表示されています。


8月31日(火)

一日中、WEBページの日記打ち込み。8月15日から後の分、あげる。こんなのもアップ。
G社編集さんから電話。明日からアシに行く。

8月30日(月)

一日中、WEBページの日記打ち込み。

8月29日(日)

コミティア参加。新刊がないので、ほとんど稼ぎにはならず。読者数人の方と話ができたのは励みになった。よさこい野郎さんから「どこでもいっしょ」借りる。終了後、豊川稲理さん、黒崎まいりさんたちと打ち上げ。

8月28日(土)

AKさんから電話。劇場版「ナデシコ」がいかにいい作品なのか力説される。
色々だらだら話する。ラブコメを描こうと思っているんだ、と、AKさんに言う。ラブコメとは、セックスに至らなければおかしい、という状況がセックスに至らないまま持続する話だ。ところで、このことは、倫理的にどう考えるべきなのだろうか。と、AKさんに訊く。
AKさんから、創作家に倫理は不要だと諭される。全くその通りだ。その瞬間、ラブコメのストーリー、2話分の着想を得る。色々話するうち、着想が4話分になる。
次のコアのマンガはラブコメになります。

7月28日から8月15日までの日記をWEBにあげる。

8月27日(金)

O次郎さんから電話。ある企画について、動こうと思う、と、O次郎さんに言う。新宿で会おう、という話に。
待つ間、暇潰しに「私の『戦争論』」(吉本隆明。ぶんか社)と「青木雄二の天下取ったる! 天の巻」(ぶんか社)購入。
O次郎さんと、トンカツ屋さんへ。色々構想練る。

「朝まで生テレビ」にえだの幸男さんが出演すると聞いていたので、観る。「日本が自立するとき」。
田原総一郎司会者が話を古い対立軸のほうへ持っていくのがトホホ。でも田原総一郎のこの癖にはもう慣れた。
オープンミーティングのとき、朝生では初めのうちに話しておかないとダメだということが判ってきた、と、えだの幸男さんはおっしゃっていたが、あまり語らず。…まあ、話が古い対立軸のほうにいくと、話すことなんてないよね。
「政策では、自民党と民主党の違いは小さい」という発言を、えだのさんはされた。「その小さいところが、重要なんだ。ガイドライン法案では国会の承認手続きを入れるかどうかとか」
…別な言い方すると、鎌やんが勝手に言葉を言い換えると、いままで自民党は、役人になんもかんも任せてきた。えだのさんは、代議士のする仕事は代議士がし、役人に任せない、というのが、主張の根幹だ(と、鎌やんは思う)。えだのさんにはその実力がある。多くの自民党政治家には、そんな実力はない。自民党政治家にあるのは、利権をどう啜るか、という嗅覚だけだ。ややこしいことは役人に任せておけ、というわけだ。
表向きの政策は、たしかに、自民党と民主党は、あまり変わらない。誰がやるのか、主語の問題なのだ。国民に対して責任を持たない役人官僚がやるのか、まがりなりにも国民の代表である代議士がやるのか。

8月26日(木)

AKさん家で起床。AKさんとビデオ屋数軒巡る。劇場版「ナデシコ」いずこも貸し出し中。AKさんIKさんとファミレスでご飯食べ、駅まで車で送っていただき、電車に乗って帰宅。

インターネット覗くと、「2ちゃんねる」に繋がらない。ちょっとびっくり。こういう事情だそうだ。

8月25日(水)

AKさんの家で、TV版「ナデシコ」、前半はAKさんから講釈され、後半を観る。
なるほど。ある意味完成度は高い。オタクの恋愛がよく描けている。キャラに新鮮味がかけらもないところは私好みではないが、「面白い」という理由はわかる。
翌日が劇場版「ナデシコ」のレンタル開始日だというので、もう一晩AKさんの部屋に泊まることにする。AKさんと一つの布団で寝る。

8月24日(火)

「少女革命ウテナ」劇場版、見に行く。新宿で待ち合わせ、寝坊する。AKさん、IKさん、ディグさんをえらい待たせる。ごめん。
遅れたので、「アキハバラ電脳組」を先に観よう、という計画が狂う。
ウテナを観る。うーん。
登場人物が皆変態性欲持っている、というところがよりあからさまになったのはよし。ウテナはそういう話だからだ。
生徒会長の、義父による過去もよし。善意とはそういう陰を持つものだからだ。
冒頭のぐんぐん動き回る学校のイメージはよし。ウテナらしくワケ判らないからだ。
ウテナの髪が短く、アンシーの髪が長くなったのはよし。アンシーが「男性にとっての女性」の象徴であることが視覚的により明らかになっているからだ。
しかし…ウテナカーは…いかがなものか。
アンシーが自身の意思で「外」を目指したこと。それはよし。だが、それは映像として20秒あればいい。それ以上は余計だ。
たくさんのベルゼブルカー。これは、実感としてよくわかる。「あんたばかりかっこいい思いさせてたまるものか」というやっかみ。つい先日偽者騒動ありましたし。よく判ります、実感として。ということで個人的によし。
特に後半、少しストレートすぎたように思う。幾原監督のメッセージは実にまっすぐだ。ウテナという作品は、外見的に、キラキラしく、装飾過剰に見える。バロック的装飾に満ちている。そのこと自体は、正直言って私自身の趣味にフィットするものではないのだが、幾原監督にとって必然的なものだろう。今回そのバロック趣味がやや、乏しかったのではないだろうか? 判り易すぎた。バロック的装飾と、ストレートなメッセージのきわどいバランスが、おそらくウテナという作品が、視聴者に快楽を与えている快楽の源泉なのだろうと思う。
(後日、てるき熊さんと劇場版ウテナの話をしたとき、テレビ版は必ず、決闘という形式を30分の間に盛り込んだ。それが形式として良かった。劇場版にもそういう、形式の美学がよりあるべきだった、という話を伺った。そう思う)

3人のほうを向いて謝る。ごめん。
3人、帰ろうとする。「アキハバラ電脳組」を観て行こう、と引きとめる。観る。ちなみに私は電脳組見るのは初めて。観終わる。3人に謝る。ごめん。

大雨。劇場から外に出れない。小降りになったのを見計らい、バスに乗る。
ゲーセンへ。3人がスト3をしている脇で、私は「王道の狗」読む。
4人でカレーを食う。

「ナデシコ」のビデオ観よう、と、AKさんに誘われる。ディグさんと別れ、AKさんIKさんと電車に。
カラオケへ。久しぶりに歌う。歌ったことのない歌にチャレンジ。
AKさんのお宅にお邪魔する。AKさんの姪ごさんに初対面する。

8月23日(月)

服を買う。洗濯する。
「王道の狗」(安彦良和。講談社)2巻、3巻、4巻、コミティアカタログ、「国立博物館物語」(岡崎二郎。小学館)3巻、「天皇ごっこ」(見沢知廉。新潮文庫)、「残酷な神が支配する」(萩尾望都。小学館)13巻、「青青(あお)の時代」(山岸涼子)2巻、「大問題99」(いしいひさいち。創元ライブラリ)その他購入。

8月22日(日)

午後起床。ディグさんから電話。一緒にビデオ観ましょう、との誘い。

インターネット覗く。「まったり生きたいけれど生きられない人のBBS」に、にしかた氏がイベントする、との告示が。おや。自分のいない間にそんなことになっていたのか。ずいぶん豪華なゲスト陣。私抜きでイベントするとはまた無謀な。誰が裏方して泣かされているのだろう、自分の知らない運動の広がりでもできたのかな、東京にいないと、あっという間に取り残されるなあ、寂しいことだなあ、と思う。

ディグさん、部屋に来訪。AKさんから電話。TV版「ナデシコ」を観たらとても面白かった、という話、火曜日あたり皆で劇場版「ウテナ」観よう、という話などする。

時計見る。今からビデオ観ると、イベント開始時間に間に合わない。ディグさんに事情説明し、イベント会場へ。

ビルはあった。しかし地下一階小ホールなんてところは、ない。どこだ? うろうろする。やはりうろうろしている人がいる。イベント参加しようとしている人なのかな? それにしても会場はどこだ? インフォメーションに掲示しておけ、と思う。
にしかた氏の携帯の電話番号思い出そうとする。記憶力が錆付いてなかなか思い出せない。うろうろする。やっと思い出す。電話する。
「今イベントやっているんだろうけれど」と恨みがましく切り出す。
「やってないよ。怪情報だよ、それ」
にしかた氏も、宮台真司さんからそういう怪情報が回っているということを、さっき聞かされた、とのこと。なにい。そうだったのか。騙された。
せっかく新宿まで出てきたのだから、にしかた氏と会おうという話をする。
先ほどのうろうろしていた二人連れの方が目の前を通ったので、「宮台真司さんのイベントに来た方ですか?」と声かける。頷かれる。「あれ、怪情報だそうですよ、にしかたくんに確認とりました」
なんだってえ、がっくし、と脱力される。
話を聞く。宮台真司さんのファンの方だそうだ。あれを「まったりBBS」に転載したのは自分だ、と、その方がおっしゃる。にしかた氏には興味はないが、コミケ関係でそれなりに名の通った人間だということは聞いている、にしかた氏を攻撃しているチャンネルがあって、そこにその情報があった、との説明。そのチャンネルににしかた氏も書き込んでいたので、情報は本物だと思った、とのこと。
にしかた氏がインターネットで書きこんでいる? そんなバカな。彼はそういうことは全然しない人間だ、と説明。話を聞く。こういう書き込みをしている、とのこと。いや、にしかた氏はそういうものの言い方はしない。その「にしかた氏」を名乗る人間も、偽者だろう、と説明。ではまた「まったりBBS」あたりでお会いしましょう、と別れる。

Bマニアックスヘ。店長さんは不在。待たせてもらう。ずいぶん遅くなって、にしかた氏来る。情報交換。
KUMA氏と合流。下北沢のお好み焼き屋へ。
帰宅。

インターネット繋ぐ。
ここか。怪情報の元は「2ちゃんねる」か。おお。にしかた氏のスレッド、二つも立っている。

たしかににしかた氏の偽者がいる。ちゃんとそれらしいこと言っている。これなら騙されても仕方ないかも。
こいつ、にしかた氏のことよう研究しているなあ。その労力、もう少し建設的なことに使えば良いのに。有名でもない人間の偽者するのって、楽しいか? よほどマンガ防衛同盟に幻想抱いていらっしゃるのに違いない。偽者のかたも、それを糾弾されているかたも。同じサークルの人間が自作自演マッチポンプでたぶんしているんだろうけど。違うかな。

このスレッド、いつからだ。8月16日から。ははあ、ロフトプラスワンでやったアングライベントで変な盛り上がりしたのね。(なんかこの辺見ると、マッチポンプなわけじゃないようで。トホ。みんな、夢見過ぎだよ)

「まったりBBS」に「鎌ヤソ」名義の書き込みがあったりして、なおのことややこしいことに。「鎌やん(本物)」と署名して、自分でうぷぷと思う。いつからそんな有名人になったのやら(なっていない)。

2ちゃんねるを数時間後に見直す。話が暴走している。暴走した動機の可能性として考えられるのは2つ。
1;にしかた氏の偽者だというのがバレたので、計画が狂って、切れた。
2;にしかた氏の偽者相手に本気で突っかかっていたことが恥ずかしくて、切れた。
どちらにしろ、まともに相手する意欲も萎える。
自作自演じゃなくて、偽者に対して、本気でブチ切れていたのなら、なかなか象徴的な出来事だ。…幻想なんだよね。

1999年8月第3週頃

2012年03月27日 01時09分48秒 | Weblog
8月21日(土)

目が覚めると昼12時を過ぎている。遅刻だ。えだの幸男さんのオープンミーティングへ。話の初めのほう、聞き逃す。以下、えだのさんの話のメモ。鎌やんによる勘違いもあると思うのでご注意を。
遺伝子組換え食品の話。

遺伝子組換え食品の管轄、厚生省と農林水産省での縦割りが問題となる、という辺りから話を伺う。
厚生省では、大豆、とうもろこし、ジャガイモ、ナタネ、綿の実を原材料とする6作物22品種を表示する。
遺伝子組換え食品は、消費者からすると、全て表示して欲しい。消費者の選択権。安全の確定ができないのは、消費者としてはツライ。
農作物に表示するのは、それほど難しくはない。だが、大部分は加工されて流通する。全ての加工食品について、全ての原料を確認するのは、現場サイドではかなり無理がある。
遺伝子組換え食品を一番使っているのは、畜産だ。豚や牛の餌として組換え食品は使われている。飼料の原料を全て追いかけるのはかなり無理がある。それでも国内でだけならばどうにかなるかもしれない。だがそのときにはコストとの問題が発生する。外国の安い肉との価格との差がいっそう大きくなる。
全ての食料について、遺伝子組換えがなされているか否かチェックすると、これは貿易障壁となる。輸出入が成り立たなくなる。

えだの幸男さんの考え。
(遺伝子組換え食品を使っている、という表示はあまり現実的ではない)むしろ「遺伝子組換えを一切使っていません」という表示の権利、が、大事だ。
この表示には嘘は許されない。違反には罰則を。消費者にとっては、「遺伝子組換えを使っている」表示でも「遺伝子組換えを一切使っていない」表示でも同じことだ。
現在、「無農薬」「有機農法」の表示はいいかげんな自己申告だ。「これは100%安全な食品である」という表示とするべきだ。嘘の表示をした際には、大いにペナルティを与える。
…消費者の権利を守るには、二つの方法がある。「これは間違いなく安全」であると表示するのか、「これはリスクがある」と表示するのか。

続いて、消費者契約法について。

契約書を交わさなくとも、「売ります」「買います」と言ったら、それは契約である。
契約は、民法で規定されている。民法は、明治時代に作られた。民法は戦後、家族関係のところだけは作りかえられた。契約については変わっていない。
現状に合わせ、訪問販売法は作られた。七日以内なら無条件で返せる、といったことが決められた。だが、通信販売、キャッチセールスなど、昔とは「契約」の形が変わっている。
基本的なところから考え直そう。明治時代は、契約は、一対一で取り交わすのが原則だった。対等な関係を前提としていた。キャッチセールスなどは、売る側は会社ぐるみで、個人の消費者を相手にしている。関係が対等ではない。

なぜ今まで消費者契約法がなかったのか。
大蔵、通産、郵政の三省間の縦割り行政のためだ。
サラ金については、大蔵省が自分のところの管轄だ、と言う。訪問販売については、通産省が自分のところの管轄だ、と言う。家の売買なら建設省、医療関係なら厚生省。それぞれが、自分の所管についてする(自分の縄張りに口を出すな)、と言っているが、それぞれの省庁は、「売る側」を育てるのが仕事だ(サラ金の金は、銀行から融資されている。銀行を育てるためにはサラ金を取り締まりすぎないほうが良い)。あまり「売る側」を規制するわけにはいかない。
省庁ごとに、行動はバラバラだ。結果、全体のバランスが悪くなる。被害者(消費者)の権利より加害者(「売る側」)の権利が多く守られる状態になる。
一方をプロの商売人、他方を素人とした、ルールを作る必要がある。それが消費者契約法だ。

「消費者ばかり甘やかせていいのか」という批判がある。自己責任を果たしていないのではないか、というわけだ。
大事なのは「選択する権利と自由」だ。自己責任は、最低限のルール作りがあった上での話だ。自己責任以前の問題がいくつかある。
大事なのは自己責任を徹底できる基盤作りだ。「消費者契約法」は、「売る側」に対し、プロとして最低限ここだけは守りなさいというルールだ。消費者問題で最も重要なのは消費者教育だ。

日本の従来のやり方の例として、玄倉川のキャンプの例をえだのさんは挙げる。現在、玄倉川は立ち入り禁止になっている。国民への過保護、過干渉、愚民思想だ。
リベラリズムは、自己責任だ。玄倉川の捜索費用は、自己負担だ。リスクを自分で負うこと。自己責任を前提とする。ここで重要なのは、どのくらい危険なのか、という情報だ。

別な話題へ。

消費者庁、というものが必要だ。(科学技術庁は文部省と統合されるが、)科学技術の副作用を研究する期間が必要だ。

厚生省は、三分されるべきだ。1;医薬・食品安全部門。2;社会保障・労働部門。3;老人、子どもの障害などの部門。

日本の役所は供給者の利益利害調整機関になっている、という、参加者からの意見。
えだのさんから。本質的には、行政が本当にやらなくてはならないのは、商業ベースに乗らない、遺伝子組換えの危険性などの研究だ。これには税金を投入する価値がある。その代わり報告義務は徹底されなくてはならない。

遺伝子組換え技術は、アメリカの戦略の一環だ。遺伝子組換えの特許もアメリカが持っている。国際的には、EUと日本は利害の一致する点が多いので、アメリカを包囲する戦略が必要だ。

靖国神社公式参拝について。何を「公式」と言うのか? 何を「公人」と言うのか? 千鳥が淵に、戦没者墓苑がある。国家行事として、毎年、そこで追悼が行われている。「公式」とはこういうものを言う。
靖国神社という「宗教」と、政治は、距離を置いたほうが良い。
靖国参拝を政治利用しようとする人間に対し、国民は怒るべきだ。大臣に就任する以前は靖国に参拝したことがないくせに、大臣になってから、そろって参拝をはじめるとはどういうことだ。
公人と私人の区別というのはあまり意味がない。「公式参拝」とは国家の予算品目として数え上げられてこそ「公式」なのだ。「自称・公式参拝」に過ぎない。法的には、「公人」が参拝しているだけで、「公式参拝」とは言えない。

国旗国歌法案、盗聴法案など、国会で議論するかどうかも、結局のところ、多数決によって決まる。野党の対抗手段としては、つまるところ、選挙でひっくり返すことができるかどうかなのだ。多数派に議論を拒否されると、野党にはする術(すべ)がない。

次回オープンミーティングは、9月18日(土)。以上、オープンミーティングのメモでした。



オープンミーティングの後、「天下国家を語る会」出席。玄倉川キャンプ事故について話言ったり聞いたり。

政党というものは、ある日突然出来あがるものなので、外からはしっかりした組織であるかのように見えても、実際中にいると、うひゃあ、こんなにも何にもない物なの、と、びっくりすることが多い、という話など伺う。えだのさんの周りはボランティアで成り立っている。

「語る会」の中に、私のマンガ知っている人がいた。きゃあ。少し話する。
その方が、えだの事務所のバイトの女性に、ロリコンマンガ描いている人だと私のこと紹介。性の実存について、きっつい質問たくさんされる。質問したほうはきっつい質問だという自覚はなかったでせうけど。ああ、なぜ僕はこんな目に会わなくちゃいけないのだ、と、天を仰ぐ。

8月第三週

神奈川のキャンプ場で人が流されたニュース。リアルタイムな情報を見なかったせいか、自分の見た情報は偏っている気がする。ニュース23では、放水した玄倉ダムの役人さんを取材。そこから連想。

後進国独特の、人命軽視。…国旗国歌法案制定のきっかけとなった広島の校長自殺のときも思ったのだけど、原資料がどこだったかわからなくなっているので書かなかったのだけど。
戦前、全ての学校に、御真影が置かれていた。ある学校で、火事があった。校長は、御真影を燃え盛る校舎から救い出そうと飛び込み、焼死した。美談としてその後語られた。このとき、人間の命と、御真影と、どちらが大事なのか、という議論には、日本は発展しなかった。
国旗問題で自殺した校長の話も、似た展開をその後した。…日本独特の、後進国特有の、人命軽視。
…玄倉ダム職員は、警察から、たっての願いということで、放水を、一旦停止した。5分後、「このまま止めていてもどうせ溢れるのだし」という判断で放水した。
私はその判断を、怖いと思った。彼の内面では彼がその判断の主体ではないはずだ。彼の主観では彼は何か大きな公のものに従っただけなのだと思う。その主体の不在の怖さ。イスラエルのアイヒマン。日本の美談にまとわりつく、人命軽視の風。
(後日、「天下国家を語る会」でひとと玄倉ダムについて話し合ったら、「いや、あれはそういう事件ではない」と聡されました)

ある企画。今しかやるときはないかも、と、思い至る。会いたい人間をリストアップ。

ゴミを焼却場までトラックで。作業終わり、駐車場から家まで歩いていると、みいちゃんの家の人々が車で通る。停車。ちょっと話する。肝心のみいちゃんは不在。「また遊びに来てください」と私は言う。そうじゃなくて本当は、また遊びに行きます、と私は言いたかった。

妹二人と久しぶりに話する。兄貴がやさぐれているぶん、妹たちは堅実な人生を歩んでいる。
久しく会っていなかったが、二人とも、事実を正確に話すことより、相手が望む幻想を助長する、法螺吹きな性格なのは、おや、これは面白い事柄だ、と思う。
どの道、正確さなどというものは主観的なものだ。そこには判断が含まれるのだから。
客観的事実を聞くと、聞いた相手はその人間の練度に応じて、よく練れている人は正確な事実を掴むし、練度の乏しい人はそれ相応に幻想を膨らませる。その幻想は、客観的にはその人の無知と夢見がちな性格に支えられるのだが、幻想を膨らませた当人にとっては当然の論理の帰結だ。
幻想を崩すには労力を必要とする。こちらが相手の幻想を崩して得るメリットはない。相手は夢を見たいのだから。相手の幻想につきあっているほうが、とりあえずは、メリットが多い。

仕事、20日まで、という約束に。
19日、酷く疲れ、仕事の途中で横になる。目を瞑る。二度と目が覚めないのではないかという恐怖を覚える。マッサージ師のいる健康センターへ。一時間のマッサージを頼みたかったが、遅かったので20分のみ。肩、喉、頭にしこり。帰宅。寝る。
起きる。寒気がする。喉が酷く痛い。体温計る。37度9分。風邪だ。仕事を休み、寝させてもらう。病院へ。点滴を受ける。帰宅。
荷物まとめる。仕事の代金を受け取る。随分頑張って支払いしてくれたとのこと。学生の頃なら大金だと感じた。使用する道がほとんどなかったからだ。しかし今では。これだけしんどい思いしてこの金額か。マンガはいい仕事だ。

電車で東京の部屋へ。曽さん、マンガが思うように進んでいないとのこと。メールチェック。メール20通を越えている。返信など書く。