隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

『白バラの祈り~ゾフィー・ショル 最期の五日間』

2007年03月31日 17時31分27秒 | 映画レビュー
 教科書検定の記事が新聞に載っていた。戦争末期の沖縄での集団自決が軍の強要によるものかどうかはさだかではない、ということで、「日本軍に強いられた」とする記述が「集団自決に追いやられた」というふうに検定のチェックが入ったという。
 軍から手榴弾を渡された、という事実からだけでも、その行為が軍による無言の強要にあたる、というのは当たり前の解釈のように思えるが。
 こういう「変更」が今、なんで?というのは素朴な疑問。憲法、靖国問題、慰安婦についての安倍の不可解な発言などなど、ひそかな流れができつつあるって、そういうものを感じる。
 というなかで、『白バラの祈り』をDVDで観た。ドイツは、トラー率いるナチスが国を動かした消すことのできない過去の事実を真正面からとらえて、国として取り組んでいるときく。南京大虐殺など、政治家がいまだにおかしな「愛国心」から事実をゆがめて発言を繰り返すこの国を、私たちはいつになった誇れるんだろうね(この他人事な発言もマズイんだろうけど)。

■ふつうの女の子のふつうの日常が…
 映画の冒頭のシーンが今も頭から離れない。ミュンヘンに住む主人公のゾフィーが女友達(兄の恋人)と顔を寄せて、ラジオ?から流れる敵国の音楽、ビリー・ホリデイの歌を、本当に楽しそうに口ずさんでいる。英語の歌詞を覚えたばかりなのか、ちょっとごまかしながら歌うところもほほえましい。戦争中とはいえ、こんなふうにひそやかな時間を楽しみながら、ふつうの大学生として暮らしていたようすがうかがえる、せつないシーンだ。
 戦争を知らない私たちは、年配の人から聞いたり、映画や本からしか知り得ないんだけれど、戦争中にもこういう日常があって、その狂気の時間と穏やかな(ではないだろうけど)生活のはざまで生きていたんだろうと想像する。生活の場が戦場になってしまったかつてのベトナム、そしてイラクの場合や、太平洋戦争末期の沖縄などは、日常がすべて侵される厳しい状況になってしまったんだろうけど。
 とにかくゾフィーには、大学生として勉強する時間は残され、その一方で婚約者は東方戦線に出征しているという、そんな毎日だったわけだ。
 夜になると、アジトとなっているビルの一室で、ゾフィーは兄や同士の男たちにまじって、ナチスの非道や戦争の実態を訴えるビラの作成にあたる。ナチス政権末期となる1943年には、すでにスターリングラードでの大敗などが国民には隠されていた頃なのだろう。その事実を知らせ、自由を訴える活動を、この非合法組織である「白バラ」は続けていた。思想とか、そういうものを越えて、ただただ平等の自由を求める姿が淡々と描かれる。
 そして兄のハンスは、郵送するビラ以外の余ったビラを大学の構内に配るという決意を仲間に訴える。

■運命が変わった冬の早朝のシーン
 早朝の大学構内、兄と妹はコートに身をつつみ、マフラーを巻き、緊張した面持ちで歩く。手には大量のビラの入った小さなスーツケース。回廊の上階から順に、ビラの山をところどころに置いていく。緊迫した場面だ。
 若い二人の表情からは、緊張と高揚と、そして何より信念に裏打ちされた誇らしささえ伝わってくる。
 ゾフィーの余ったビラをすべて置いていこうと少し焦るところから、ああ、もう逃げればいいのに、と見ているほうは声をかけたくなる。あなたたちの結末はわかっているよ、だから、もう逃げてよって。おかしな話だけど。
 結局、ゾフィーが最後に上階の手すりから大量のビラを落とし、それが舞い落ちて、下にいた学生たちが大騒ぎになる。そして連行される二人…。
 この短いシーンは、どんなサスペンスにも負けない緊迫したもので、朝の冷たい空気さえ、画面から漂ってくるようだ。
 ふつうの女子学生だったゾフィー、ふつうの感覚で正しいことを訴え、たぶん楽しい時間を友人や婚約者と過ごせることを祈っていたゾフィーの運命が急変した、冬の朝のできごと。

■圧巻は、尋問と裁判のシーン
 圧巻は、ゲシュタポの尋問官モーアとの尋問のシーンと、裁判のようす。
 あとで知ったのだが、このときの資料が90年代に当時の東ドイツで発見されて、白バラやゾフィーのことが知られるようになったとか。そして、この映画の脚本もその資料に忠実に書かれたという。
 若いゾフィーはベテランのモーアと真正面から対決する。罪をのがれようとかごまかそうとか、そんな迷いは何もなく、自分の信念を冷静に訴える。ときに激昂するモーアの怒りに脅えることなく、感情的にならずに論理的に主張する。ナチスの非道、戦争の実態を臆することなく訴える。こんな尋問には慣れているはずのモーアが、ときに言葉に窮し、迷いの表情さえみせる(私にはそれが感じられた)。
 裁判で死刑が決まったあと、訪れた両親の面会を受け(「お前たちを誇りに思う」と励ました父親が秀逸)涙を見せたゾフィーの前にモーアが現れる。「誤解しないで。この涙は両親に会ったから(後悔や恐れの涙ではない)」と言うゾフィーを見るモーアの表情が印象的。相反する立場や思想をもつ若い女性を、まるで今まで見たことのない人種を見るような目で眺め、そう、一種の畏敬の念さえいだいたような、そんな雰囲気が伝わってきた。
 そして、裁判のシーン。のちに「司法テロ」とさえ言われた裁判らしいが、裁判官フライスラーの一方的なくだらない醜い審判は、見ていても気分が悪くなる。何十年たった、こんなノンキな時代に生きる私の心さえ怒りであふれさせる。
 その裁判官に向かって、ゾフィーは言う、「この次、裁かれるのはあなたです!」(忠実には、「この次、ここに立つのはあなたです」)。

■まるでベルトコンベアー
 駆け足のように、五日間が過ぎていく。若い政治犯の裁判がこんなふうにあっけなく結審となり、ふつうは90日くらいあるとされる猶予期間もなしに刑が執行される。当時のナチスがいかに末期にあって、狂気の時代を進んでいたのかがわかるようだ。
 そんななかで、同室で彼女を見張る任務を担わされた女性も、実は政治犯としてとらわれている。その女性の控えめだが温かい対応がゾフィーに向けられる。また「特別です」と言い、最後にたばこを与えて、兄や同士との短い別れの場を設けてくれた女性職員のはからいがせめてもの救いだけれど、それでも、人としての尊厳などどこにも示されない、死刑までのベルトコンベアー。見ている私たちでさえ、心の準備ができぬままに、彼女は処刑される。
 
 牢の窓から青空を見上げるゾフィー、「太陽はまだ輝いている」と言う健気なゾフィー、一人になったときに怒りとも恐れともつかないような叫び声を発するゾフィー、神に「見捨てないで」と祈るゾフィー。
 こんな最期は誰にもあってはならないもの、という怒りとともに、彼女が生きたしるしと、私たちがそれぞれに自分に問いかけなければならないものがなんなのか…、そういうことを、今私はかかえたままで、身動きができなくなっている。

 「白バラ」については、こちらをどうぞ。
 ゾフィーを演じたユリア・イェンチがすばらしいです。あの目に圧倒されました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2007年のサクラ | トップ | サクラ症候群 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。