毎年宿泊する民宿「若葉」に宿泊、1日目は天理市の石上神宮をレンタサイクルで目指す。
先ず天理市を目指し、地図で見ると明日香村から10km余りだったので1時間程度で着くかと思ったが、甘かった。なだらかな上り坂が多く、2時間半以上かかった。これは169号線から51号線に進むときにあった夜都岐神社の入口にある鳥居。春日大社と関係深いらしい。左折する。
どうやら天理教の本部周辺に来たらしい。石上神宮は右折の標識もある。
うーむ、凄い。天理教は中山みき(女優みたいな名前だ)が天保9年(1838年)教祖として始めた神道系の教団で、和歌と数え歌形式で教典ができているという。黒住教、天理教、金光教、大本教は、出口王仁三郎によると同じ流れの中にあるらしい。
天理教本部と大学、高校、中学校、小学校等が集合して建設されている。アメリカにあるモルモン教のソルトレークシティみたいだ。
案内標識に従い、石上神宮を目指す。
そんなに大きくなく控えめな神社というべきか。
京都の下鴨神社のように長い参道ではなく、しばらく歩くと社殿が見えてきた。
その途中に山の辺の道の標柱があり、まわりに鶏が放し飼いされていた。
これが石上神宮の拝殿。こじんまりしている。古代、神宮と名のつく神社は、伊勢神宮と石上神宮だけだった。物部氏の総社でもあり、この神宮に全国各地から徴発した莫大な量の神宝類を、桓武天皇のとき平安京に移すにあたり、15万7千人余りの夫役を要したという。それほど巨大な勢力を物部氏は持っていたわけだ。
物部氏の祖はニギハヤヒと言われており、新羅史の昔氏でもあり、遠くバビロニアのアル・ウカイルからシャキィ族としてインドに移動し、さらに中国の河南省へ移動し「宛」という製鉄基地を作り、さらに満洲に侵入し濊族となり扶余族と合体した。
さらに朝鮮半島から九州熊本に移動し日本第2の王朝(第1の王朝は北部九州の東表国)である「多婆羅国」を建て、さらに日本海岸を移動し、但馬海岸から上陸後、先に近畿地方を占領していた苗族主体の「秦王国」に代わって物部王国を広げていったものと思われる。
物部氏の神庫(ほくら)。拝殿奥の禁足地にあるため、塀の隙間から撮影。
西暦369年に作られた「七支刀」も昭和の時代までここに保管されていた。刀の裏側には、金文字の象眼で「百済王世子、奇生聖音、故為倭王旨」とあり、百済王の世子が倭国の王になった、とはっきり書いてあるのである。ちなみにこの王は「景行天皇」のことである。
石上神宮の祭神は、布都御魂大神、布都斯魂大神、布留御魂大神の3神で、始めの2神はともに刀の霊であり、布留御魂大神は「十種の神宝」であるが、「布留」というのはシュメールの「ウル」に由来するのでは、と思っているが証明はできない。
さて、昼からは来た道を戻って大和三山のひとつ、橿原市の天の香久山を目指す。帰りは下り坂なので1時間半で戻って来れた。
再度離れて違う角度から。ご覧のように非常に低い山で、標高152.4m。
看板が出てます。
なんなく頂上に着くと、樹間からもうひとつの大和三山の畝傍山が見えます。 しかしこの場所を除いて展望なし。
万葉集に天の香具山を読んだ次のような歌がある。
舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)
歌の中に「海原」とか「かまめ(カモメ)」とか出ているが、奈良は内陸なので海も見えないし、カモメも飛んでいない。当然、天の香具山の頂上からもそんな景色は見えない。謎だ。
国常立神社です。宮下文書によると、日本の神々の潮流は大きく分けて3つあり、一つは国常立命、二つ目は国狭槌命、三つ目はスサノオ命となっている。
国常立神社。「宮下文書」によると、7代821年続いた第1神朝のあと、15代1849年続いた第2神朝があり、そのあと国常立命以降7代506年続いた第3神朝があったとするが、第1神朝は中央アジアのミタンニ、ヒッタイトの時代で、第2神朝は殷の建国当時に接触した北狄の時代、第3神朝は満洲の扶余族の時代で、このとき国常立命系と国狭槌系に分かれたと思われる。もちろん彼らが日本列島にやって来たわけである。
すぐそばに明治天皇遥拝所。
当時は見晴らしが良かったのだろうが、現在は樹木が伸び放題で全く展望がきかない。
ここで明治天皇について考えてみたい。