広島の山

隠された古代史を明らかにする

京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(写真をクリック)

2012-06-23 19:10:40 | 歴史

昨年に続いて今年も、5月22日から26日までの5日間、京都、奈良、そして大阪の古代史を探訪することにした。

先ず22日に新幹線で京都に着くと、206番系統の市バスで「祇園」の八坂神社へ。

八坂神社は、四条通りと東大路通りの交差点にあった。

Kousatenそのため車の往来が激しく、便利ではあるが、風情欠ける。まあやむを得ないか。

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車が途絶えた瞬間に四条通りから西楼門を撮影。

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楼門の左右に狛犬が威嚇しているが、左側の狛犬には角(ツノ)がある。

Tunonasi右側の狛犬は角なし。

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楼門をくぐるとまた狛犬が。角あり。

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同じ狛犬を正面から。

Tunonasidaizaこちらは角なし。

由緒によると、八坂神社の祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫命と八柱御子神となっている。

八坂神社と呼ばれるようになったのは明治維新からであり、それ以前は「祇園社」「感神院」等と呼ばれていた。渡来人の八坂造(やさかのみやつこ)が住んでいたため、「八坂」の名前になったようだ。

「祇園」はインドのジェータ・ヴァナの漢訳で、「祇樹給孤独園」の略。インドの祇園精舎の守護神であった牛頭天王、別名祇園天神の分身を陰陽家が除疫神として吉備の海浜に伝えて祀ったもので、平安朝の始めに京都の八坂に遷した(神道理論大系-鹿島昇編)。

「牛頭」とは、ゴーシールシャーの漢訳であって、広義にはインド西部の西ガーツ山脈全体を指し、狭義にはその一角にあるゴア地方を指す。

一方、素戔嗚尊は新羅のソシモリという地に居たとされ(日本書紀)、韓国語で「ソシマリ」「ソモリ」は牛頭または牛首を意味するので、牛頭天王=素戔嗚尊となる訳である。

さらに「神道理論大系‐鹿島昇編」によれば、

セム族はアラビアから出発してオリエント各地に分散し、アモリ人、アラム人、アッシリア人、フェニキア人、カルデア人などに別れた。アモリ人はフッリ人とともにシリアのウガリット港をつくったが、ヒッタイト人やクレタ人と同じく「牛に乗った天候神」をもっていた。彼らはその天候神をダゴンと呼び、その息子の牛頭神をバアルと呼んだ。 

のちにユダヤ人はバアル神を敵視して自らヤーウェ神と契約したと考えたが、実は予言者モーゼはバアルの神官であって、ヤーウェ神はダゴンとバアルを合成したものであった。

だからユダヤ教は実はバアル教の変形で、分裂以前のユダヤ人はフェニキア人の信仰と同質の信仰を持っていたのである。

ウガリットをはじめテュロス、シドン、アルワド、ビュブロスなどのフェニキア諸港では、神々は後のカトリックと同じように三位一体の組み合わせになっていた。
 父神エル(ダゴン、ギリシャのクロノス)、その子バアル(エジプトのオシリス)、その母または妻(アシュラ・トゥ・ヤンミ、アナト、アラメア、イシュタル、ギリシャのイシス)という三体である。 

シドンなどではエルはバアルと同化していた。バアルは天の主バアル・シャミム、山の主バアル・レバノン、前山の主バアル・ロシュとも呼ばれた。またアシュラ・トゥ・ヤンミは海の支配者で海の上を歩く神であった。

バアル神は再生のシンボルで、生け贄の牛が流した血の中から新たな生命が再生すると考えられていた。この考えは後にミトラス教によって受け継がれ、ローマやスペインの闘牛になった。フェニキア人がバアル神を祭るとき、しばしば人間を生け贄に捧げたのも同じ再生信仰であった。


『三国遺事』古朝鮮の条は檀君桓因を帝釈天としているが、帝釈天とはシャクラ・デヴァーナム・インドラ(釈迦提桓因陀羅)というヒンズーの神である。しかもインドラ(因陀羅)はインド固有の神ではなく、元来カッシュ人やミタンニ人のインドラ神であり、フェニキア人のダゴン神と同一の神である。

『三国遺事』の檀君説話の内容はすべてフェニキア人のダゴン神と同一である。

『三国遺事』によると、檀君桓雄に関する説話は次のようになる。

(1)檀君桓因(帝釈天)の庶子に桓雄がいた。
(2)桓雄は天符印(三種の神器のこと)3個を受けた。
(3)桓雄は風伯、雨師、雲師らと部下3000人を率いた。
(4)桓雄は太伯山頂に降り、そこを神市とよんだ。

驚くことに、この説話はオリエントのダゴン神話の忠実な翻訳であった。

フェニキア人の町ウガリットはラス・シャムラともいうが、この地で発見された粘土板のバアル神話をユーフラテス上、中流のダゴン(ヤーウェ)-バアル神話と合わせると次のようになる。

(1)ダゴンの息子にバアルという神があった。彼はセム族の雷雨神ハダデ(ハッドゥ)と同一の神とされ、雨によって豊饒を授けた。

(2)バアルがエルの権威を脅かしたため、エルはヤムに宮殿を譲った。しかし、バアルはコシャル・ワ・ハシスがつくった2本の棍棒によってヤムを無力にして王となった。

(3)バアルは死の神モートに招かれ、「雲、風、雨、そしてすべての宮廷人」を連れていった。そしてバアルはいったん死ぬが、妹のアナトによって再生する。

(4)バアルは「君」「土地の主人」「雲の乗り手」「雷雨がつくれる山々の神」「ツァポーンの高きところの主」とよばれた。ツァポーンとはラス・シャムラの北のジェベル・エル・アクラと解されている。

このうち(1)は上部および中部ユーフラテスの神話であり、(2)、(3)、(4)はラス・シャムラのテキストである。
『桓檀古記』三聖紀全は「桓雄が神市に天降った」と述べているが、「神市」とは実はジェベル・エル・アクラのことであった。

してみると、檀君桓因の「檀」はフェニキア人の神、ダゴンの漢訳であり「因」はインドラの漢訳である。だから、檀君桓因でバイリンガルになっているのだが、このことは、イラン高原からパンジャブをへて、インドラ神をガンガ流域に持ちえたアーリア人と、アラビア海からダゴン神を持ち込んだフェニキア人との混血民族が、檀君桓因をインドから朝鮮に持ち込んだことを示唆している。

日本の蘇民将来説話を調べてみると、吉備真備著という『三国相伝陰陽宮轄ほき内伝』は次のように述べている。

【天竺吉祥天王舎城の王様を商賁帝といい、帝釈天に仕えて牛頭天王ともいった。顔は牛のようで頭には角が生え鬼のようであった。そのために妻もいない。ある時帝釈天の使いが来て、「南海の頗梨采女をもらえ」といったので、牛頭天王は喜び勇んで南海に赴いた。

八万里の行程のうち三万里に及ばない鬼の国、広遠国で人馬ともに疲れてしまう。その国の鬼の王、巨旦大王に一夜の宿を乞うが断られる。するとそこにいたはしためが、
「東の広野に蘇民将来の庵があります。貧しいけれど慈愛のある人です。そこで宿をお求めなさい。」
とすすめた。牛頭王がそこへ行くと蘇民将来は乏しい食料を彼に給して歓待した。翌日、
「私の隼鶏という宝船で行くと速いでしょう」
と自分の乗船を貸した。
 牛頭王は無事南海に着きそこで21年を過ごした。そして頗梨采女との間に8人の王子を得、眷属も八万四六五四神になった。
 やがて后妃や一族をつれて広遠国に攻め入り巨旦らを殺し、あのはしためを助け出した。

はしためは「急々如律令」の文字を書いた桃木の札をたもとに入れておいたのである。
 そして牛頭王は広遠国を蘇民将来に与えて、
「後の世に寒熱の病気にかかればそれは我々のせいである。だが、お前の子孫だけは病にかからないように26の秘文を授けよう。五節の祭礼をたがえず26の秘文を収めて厚く信敬せよ」といった。】

この説話の骨子は次のようになろう。
(1)帝釈天に仕える牛頭天王は帝釈天の命によって、妻を求めて南海に行く。