明治天皇遥拝所のある天香具山頂上から、北の方角に下りて行くと、天香山神社の本殿がある。
天香山神社本殿(あめのかぐやまじんじゃ)
さらに下りて行くと「波波迦の木」がそびえ立っていた。
この大きな波波迦の木の皮で天香具山の牡鹿の骨を焼いて、吉凶を占ったという。
さらに、このような石碑もあった。
天神の夢のお告げが神武天皇にあり、天香具山のこの場所にある赤い埴土(はにつち)と白い埴土で天平瓮(あまのひらか)を80枚、更に厳瓮(いつへ)を造って祀ったという。
「定」によると、祭神は櫛真神(くしまちのかみ)であり、波波迦の木や埴土は、まさにその為に存在している。
神社の入り口付近
入り口の鳥居の額
神社の裏から入って表へ出てきた格好になった。天香具山の始めの登り口へと続く道。
さて、再び気になるのは、万葉集の例の舒明天皇の歌である。
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)
この歌には、天香具山から海原が見え、カモメ(かまめ)が飛んでいる描写があるが、現在の香具山は内陸の奈良盆地にあり、当然ながら海もカモメも見えない。
しかし、古代の歌だから、昔は海だったのではないか、という推論も成りたつ。
実際、約6,000年前には「縄文海進」という現象で、この奈良盆地は奈良湖という大きな湖があったらしい。これは明日香村の「亀石」の伝説にも残っている。
川原寺から現在の当麻寺あたりまで湖水があったようだ。しかし、その湖水も弥生時代(3世紀頃)には、ほとんど消滅したらしい。
舒明天皇の即位は629年~641年である。
400年経っても、大きな池として湖水が残っていたとして、それを「海原」と詠むだろうか?
また、「煙立ち立つ」は炊事のための竈の煙と理解されているが、遠くの山の上からハッキリ見えるほどの量だろうか。
さらに、根本的なことだが、たかだか150m余りの、しかも奈良盆地の標高100mを差し引けば、実質50m程度の高さしかない山と言うより丘に近いこの天香具山から「国見」ができるのか?、名勝とされるのは何故か?
そして、「とりよろふ」とはどういう意味か?
奈良にある「天香具山」。丘と形容した方が適切と思える低さで、初めて見た人は、それ、と信じられない。
以上の疑問に、古田武彦氏は、その著「古代史の十字路」で明快に論じている。
即ち、舒明天皇が詠んだ「天香具山」は奈良のこの山ではなく、九州の別府にある、と。
先ず「海原は」の語句であるが、古田氏の調査によると、万葉集に出て来る「海原」を詠んだ歌は、全て「池」ではなく「海」について歌われており、柿本人麻呂も、あの大きな琵琶湖のことを、「海原」とは歌っていないという。従って、飛んでいるカモメも海を飛んでいるのである。別府湾の海原にも、カモメがシベリアから11月頃飛来してきて、翌年2月頃戻って行く。
また、「国原は煙立ち立つ」の語句だが、竈の煙と理解するより、温泉の湯煙と理解した方が自然で鮮やかなイメージが湧く。「民のかまど」という語句が書かれているわけでも無いのだから。
別府の湯煙 http://goo.gl/NTSqCv 別府市観光協会提供 今でも400カ所から立ち上る。
歌の中に「大和」という語句が2つあるが、後ろの「大和」の語句の原文は、実は「八間跡」となっており、この文字列を「やまと」と読む例は全く無く、これは「はまと」と読み、「浜跡」のことではないか、八を「は」
と読む例は存在している。別府には「浜」の字地名は多いが、そこには温泉が湧き出ていたのだろう。
浜脇と呼ばれる地区がある(https://goo.gl/2FiUN9)が、そこには浜脇温泉があり、もともと「浜湧き」の意味だったという。この近くの海抜150mくらいの丘に、歌に詠まれている「登り立」の名前の字(アザ)があり、そこに立ってこの歌を詠んだのではないか、と古田氏は指摘している。
確かに、そのあたりからなら、温泉から上り立つ湯煙や、海原を舞うカモメの姿が自然に見下ろせる位置であろう。
そして最初の「大和」の語句であるが、これも万葉集の原文には「山常」とあり、これを「大和」と読む前例はない。ヤマツネと読んで、その中のツを省いて「やまね」と読む方が自然ではないか、と古田氏は言う。
つまり、「山根には群山あれど とりよろふ 天の香具山」と読むのである。「山根」は、山の連なり、支葉をなす連山の意になる。
では「とりよろふ」とは何か?これは、「とりわけ立派に装っている」の意味らしい。
従って全体の意味としては、「山並みには多くの山々が群がっているけれど、なかでも一番目立ち、整っているのは、天の香具山だ」となる。
ところが、現実の天の香具山は、これまで述べてきたように、山と呼ぶには抵抗のある低さで、大和三山の畝傍山(199m)よりも低い貧弱さである。とても「とりよろふ」状態ではない。
また、 歌の終わり近くにある「あきづ島」(蜻嶋)の句の「あき」は、国東半島東南、別府湾入り口、大分空港の西に「安岐町」(2006年市町村合併で国東市の一部となる)があるが、その安芸(あき)であり、「つ」は別府湾のこと。「島」は一定の領域の意味で、ここでは別府湾周辺一帯を指す。大和の意味ではない。
では、九州別府には、この歌にぴったりの山が有るであろうか。有るのである。
この写真を見ていただきたい。
右端にそびえる山こそ、真の「天の香具山」なのである。
この山の写真は、昨年(2014年)5月に志高湖から撮影したもので、「鶴見岳」が現在の山名になっている。左の大きな山は由布岳。
なぜ、「天の香具山」から「鶴見岳」に名前が変更されたのか?
おそらく、この山が「天の香具山」であることがバレるとマズイからだろう。
現在の鶴見岳の高さは、1,375mで由布岳の1,583mよりも低いが、古田氏によると、「日本三代実録 巻14 清和天皇 貞観9年(867年)2月」に、平安時代における鶴見岳の大爆発の様子が詳細に報告されている。
即ち、鶴見岳山頂には、青池、黒池、赤池の3つの温泉があったが、正月廿日、それが雷のような大爆発で沸騰し3日間流れ落ちた。爆発で方丈(3m四方)の岩が飛乱した等の記述がある。
現在の鶴見岳山頂は、斜めに削られた格好をしているが、これは867年の噴火によるものであり、噴火以前の舒明天皇の即位時(629年~641年)には、更に高く、由布岳より高くそびえ立っていた可能性もある(由布岳は2200年前に大噴火を起こして以来、噴火の記録なし)。
「倭人興亡史」(耶律羽之)によれば、九州東北部には紀元前1000年頃から「東表国」という海人系の日本最古の国家があったという。
その首都は現在の宇佐八幡宮の地で、副都心に当たる地が別府らしい。
別府湾を含む豊後国(大分県)の古名は「安萬(あま)」であり、現在、別府市内に「天間(あまま)区」がある。http://goo.gl/N7oTk7
「天間」の「間(ま)」は、山・島・玉など、古代日本語において最も多い接尾語であり、語幹は「天(あま)」である。この地帯が和名抄の伝える「安萬」の地帯であることを現在も裏付けている。
大分県の南部は「南海部(あまべ)郡」に属しており、別府湾東南の佐賀関半島には「北海部(あまべ)郡」があった(2005年市町村合併で両者とも消滅 https://goo.gl/iZAv7w)。
新行政地名にとって代わられて、「あま」の地名が消えたところもあるにせよ、和名抄にいう「安萬」は、別府湾を含む、より広範な地帯であったろう。なぜなら、「安萬」という言葉は、本来「海人(あま)」の意であり、古来、海洋民としての海人族の拠点があったことを示すが、「別府湾」を抜きにして拠点を形成することなど到底考えられないからである。
大和の飛鳥は「海人族の拠点」ではなく、大和の山に「天(あま)の」と冠すべきいわれはなく、別府周辺の地帯こそ、「天の」と冠するにふさわしい場所なのである。(以上、古田氏の指摘)
鶴見岳には「火男火売神社(ほのおほのめじんじゃ)」が有り、山頂(上宮)と中腹(中宮-御嶽権現)と山麓(下宮-鶴見権現)の三宮から成り立っている。
主祭神は「火の迦具土命(ほのかぐつちのみこと)」であり、その意味は、火の山のカグツチ。
即ち、「かぐ」とは、”神聖な”を意味する「か」と、”不可思議な”を意味する「奇(く)」が結合したもの。
「つち」は「津ち」の意味で、「津」は港、「ち」は、神以前の、「神」を示す古名である、と古田氏は指摘。
つまり、カグツチとは”不可思議な神聖さを備えた、港(別府湾)を支配する神”の意味と成り、鶴見岳が、古代に「天の香具山」と呼ばれたであろう理由は、「天(海人)」の大領域中にあった「カグツチの神」の山、という意味がふさわしかったからであろう。
古代の海人たちが、船で別府湾に戻って来たとき、最初に眼前に現れるのが「天の香具山(鶴見岳)」の偉容であり、上陸後も、どこからでもそびえて見える姿に、畏敬の念を抱いていたのであろう。
天の香具山の後ろには、由布岳、九重連山等が連なっており、まさに「山根には群山あれど とりよろふ 天の香具山」の歌にふさわしい場所である。
では実際に、この山に登ってみよう。
歩いて登ろうとすると、「奈良の天の香具山」の10倍近い高さなので大変だが、交通機関を利用すれば楽に登れる。
自動車が便利だが、無い場合は別府駅から亀の井バスの別府湯布院線のバスに乗車し、クネクネした山道を上って行き、標高503mの「別府ロープウェイ」で降車し、そこの高原駅からロープウェイで、1300mの鶴見山上駅まで10分程度で登れる。
別府ロープウェイの高原駅
山頂は貞観の大噴火で吹き飛び、広い斜面が形成され、そこへ5月になるとミヤマキリシマが咲くようになった。
由布岳も目の前に見えます。
火男火売神社の上宮の祠が山頂にあります。
東の方角を見ますと、別府湾と志高湖も見えます。
「奈良の天の香具山」は、太古から山裾の部分が浸食されながらも、失われずに残った部分であり、火山などではないが、この別府の鶴見岳は、まさに”迦具土”の山であり、由布岳等の群山を従え別府湾を見下ろす眺めは、「奈良の天の香具山」から下方を見る眺めとは、月とすっぽんの違いがある。
愛媛県松山市に「天山(アメヤマまたはアマヤマ)」という標高51mの低山があり、伊予国風土記には、天上にあった山が落ちて来るとき二つに分かれて、片端が倭国に落ち、もう方端が松山に落ち、故に松山に落ちた山を「天山]と呼んだと記述されているが、このことを古田氏は、「火山爆発」説話である、と指摘し、貞観の大爆発までに何度も爆発を繰り返した、瀬戸内海周辺の最大の暴れ火山「鶴見岳」を原点とする「爆発、落下説話」が各地に作られることになったと言っている。
尚、同様の説話がアマノモト山として阿波国風土記にもある。こちらは、「倭国」が「大和国」となっているが、本来、「倭国」とは「チクシ」の意味だったが、後代の「転化訓み」で「やまと」と訓まれるようになったのではないか、と古田氏は述べている。
今度は、上の写真の右隅にある志高湖に行ってみよう。
別府ロープウェイから志高湖までは、バスで6分程度だが、実質的に1日1本のバスしか運行してないので(帰りのバスも同様)バス時刻表を正しく把握してスケジュールを立てておく必要がある。http://goo.gl/nPm6Cn
志高湖
静かで美しい湖。志高湖は、灌漑用水として湿地を堰止めて造られているが、伝説があり、美しい女の鶴見岳を巡って、男の由布岳と祖母山(1,756m)が争ったが、最後は鶴見岳が由布岳を選び、身を寄せ合った。恋いに破れた祖母山は涙を流し続け、それが志高湖になり、敗北を恥じて日向国境まで退いて深い樹林で身を隠したという。
それほどまでに、古来から鶴見岳は注目を浴び、賞賛され、不可思議な神聖さを放ち続けていた、まさに「天の香具山」であったと言えるだろう。
志高湖から南東へ約1km離れた所に神楽女湖があるので、そこへも行ってみよう。
神楽女湖行きバスは、毎年6月下旬に湖の脇に花菖蒲(30万本)が咲く時期の土日しか運行しないので、遊歩道を歩いて行くことになる。
神楽女湖は、志高湖の数分の1の小さな湖で、その名前は、平安時代に湖のほとりに鶴見岳社の歌舞女が住んでいたという伝説から生じたと言われているが、鶴見岳の貞観の大爆発で湖が出来たのだろうか。だとすれば、カグヤマの「カグ」を取ってカグラメ(ラは接尾語)とネーミングした可能性が高い。
この点からも、鶴見岳が天(海人)のカグ山と呼ばれたことを推測できる。
神楽女湖
神楽女湖からも、由布岳と鶴見岳の美しいシルエットを眺めることができる。
見終わったら、帰りのバスに乗るため志高湖畔まで戻ろう。夕方の1便しかないので、乗り遅れないよう早めに戻る。
普通、行き帰りのバス停は道路をはさんで別々のことが多いが、このバス停は共用。ベンチ代わりに木の切り株に腰掛けて、別府駅西口行きのバスを待つ。
ここで、ちょっと整理してみよう。
「奈良の天香山神社」の祭神は、「定」によると櫛真神(くしまちのかみ)であり、元の名前は大麻等地神(おおまとのちのかみ?)で創建古し(不明)となっている。
この神と鶴見岳の「火の迦具土神」は関係が全く見えないが、頂上に有る国常立神社の境内社である高靇神(タカオカミ)http://goo.gl/ZCQ。J8zについては、「日本書紀」の一書に、火の迦具土がイザナミから生まれた時、その熱さでイザナミが焼け死んだことに怒り、イザナギが火の迦具土を十挙剣で斬り殺し、そのとき生まれた神のひとつが「高靇神」とされている。
つまり、「九州の天の香具山(鶴見岳)」の神である「火の迦具土神」を奉ずる勢力を倒して、「奈良の天の香具山」の高靇神を奉ずる新しい勢力が誕生した。
さらに言えば、九州には先に王国があったのだが、あとから日本列島に侵入してきたグループに倒され、そのグループが日本列島を乗っ取り、統一したのではないか。
このことに繋がる舒明天皇時代の状況について、日本書紀と中国の「旧唐書」の倭国伝を比較すると明らかになる。
「旧唐書」では 先ず、「倭国は古の倭奴国なり。」と言って倭国が九州であった認識を表現している。
ついで、倭国の貢献記事として次の2つの年を「旧唐書」が掲載していることを古田氏は指摘している。
1)貞観(日本の貞観時代ではなく、中国史の貞観時代)5年(631年)、使を遣はして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣はし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
2)22年に至り、又、新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。
1)の貞観5年は、日本史の舒明3年にあたるが、「日本書紀」の舒明紀には、矛盾したように見える記事がある。
(舒明2年)秋八月の癸巳の朔丁酉に、大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日を以て大唐に遣わす。
(舒明4年)秋八月に、大唐、高表仁を遣わして、三田耜を送らしむ。(中略)冬十月の辛亥の朔甲寅に、唐国の使人高表仁等、難波津に泊れり(後略)。
(舒明5年)春正月の己卯の朔甲辰に、大唐の客高表仁、国に帰りぬ。送使吉使雄摩呂、黒麻呂等、対馬に到りて還りぬ。
「旧唐書」には「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」と中国の使節が目的を達成できなかったことが書かれているのに、この舒明3年の出来事が「日本書紀」には書かれていない。逆に舒明2年、4年、5年の中国の使節に関する出来事が、「日本書紀」には書かれているのに「旧唐書」には書かれていない。
何故だろうか?
そして、「旧唐書」の内容は、高表仁が倭国の王子とトラブルを起こして帰国した内容だが、「日本書紀」の方は、舒明天皇が、寒風のなか、高表仁を迎える準備をしてくれた事に対し、高表仁が大いに感謝したことが舒明4年の(後略)部分に書かれている。すこぶる良好な両国関係の描写である。また王子のことにも触れていない。なんか変である。
これについて、古田氏が、またもや明快な論証を、その著書「失われた九州王朝」で展開している。
即ち、高表仁が朝命を帯びて向かった「倭国」は大和には無く、九州にあったのであり、九州の王朝こそ倭国を代表する正統な王朝だったのである。舒明天皇のいた大和は、この時点では東の辺境の新興豪族国家という認識であり、代表権のない地方豪族という認識から、正史たる「旧唐書」には「日本書紀」に記載された交渉は取り上げられなかったのである。
また、「日本書紀」の筆者も、自国の大和とは無関係な九州王朝の交渉ごとなど知る由もないため、「旧唐書」の事件を記載しなかったのである。
高表仁は、舒明3年に倭国の正統代表国の九州王朝に赴いたがトラブルを起こし帰国し、舒明4年に再度日本列島に赴き、今度は近畿大和に至り、友誼を結ぶのに成功した。日本列島への軸足を、九州から近畿大和へ移し始めたと言えよう。
また2)については、中国の貞観22年(648年)だから、倭国の大化4年(孝徳天皇)に当たるが、孝徳紀には遣唐使の記事が全く無いという。これも、遣唐使の手続きをしたのが「九州王朝」であったため、近畿天皇家は、そのことを知らなかったのであろう。
また、「日本書紀]全体を通じて、天皇家が唐に対して「新羅に附して表を奉ずる」という方法をとった形跡は無いので、これも近畿天皇家が関わった出来事ではない証明になる。
この時点でも、まだ倭国の正統代表国は「九州王朝」だったのである。
ところで「旧唐書」には、「倭国伝」とは別に「日本伝」がある。
「日本伝」の唐への朝貢記事と「日本書紀」の朝貢記事は、「倭国伝」とは違って、矛盾なく双方一致している。
つまり、近畿天皇家が、九州王朝に替わって晴れて日本代表になってからの記事だからだ。
「旧唐書」は、日本国とその国号の成立について、次のように述べているという。
1)日本国は倭国の別種なり。
2)其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
3)或いは曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、と。
4)或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたり、と。
1)の「倭国」は、この「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指しているので、九州王朝のことである。
今言っている「日本国」(近畿天皇家の国)は、その倭国の別種である、といっている。
2)は、中国の視点から見れば、日が昇る東にあるので、とりあえず問題はない。
3)は、 「倭国自ら」となっているので、「九州王朝」が「日本」と名乗ったのが始まりであり、近畿天皇家が初めて「日本」と名乗ったのではないことを理解する必要がある。
4)は、今ここで述べようとしている「近畿天皇家の日本」は、元は一小国だったが、その国が九州王朝を征服併合し、「日本国」の名前を継承したことを述べている。
ここで「旧唐書」の信頼性について検証してみよう。
「旧唐書」は中国の王朝の正史である「二十四史」のひとつで、唐の成立(618年)から滅亡(907年)までを記録し、もともとは「唐書」と呼ばれていたが、のちに「新唐書」が出来たので「旧唐書」と呼ばれるようになった。
五代十国の後晋の時代に編纂された。
重要な点は、唐朝が自身の朝廷内に日本から来た知識人を抱えていたことにある。717年の第9次遣唐使に同行して入唐して以来770年に73歳で死去するまで、唐朝内で次々と昇任して唐朝にとどまった安倍仲麻呂がその人である。
「旧唐書」における唐朝の対倭、対日本認識は、当然この仲麻呂の検証を経ていたはずであり、従来の史書とは異質の卓越した資料的信憑性を持っているのである。
さらに、仲麻呂以前には630年の犬上三田耜、703年の粟田真人、山上憶良等の遣唐使が派遣され、仲麻呂以後も804年の橘逸勢、空海、最澄等の遣唐使から日本列島内の情報が提供され再確認され、量的にも質的にも旧来の中国史書とは比較にならない正確度をもっていたのである。
これは、日米交渉の正しい歴史資料が、日本側よりも米国側に保管されていたのに似ている。
古代から現代まで、日本の官僚機構は真実を隠蔽する性癖が有るのである。
さて663年、古代日本史上最大の戦争である「白村江の戦い」で、倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗北を喫し、その後の日本の歴史に多大な影響を与えた。
「冊府元亀」外臣部によると、その「白村江の戦い」の3年後の666年(麟徳3年)正月に泰山にて封禅の儀をあげる旨を、664年(麟徳元年)7月、唐の高宗が命を天下に発した。
「白村江の戦い」に勝利した高宗は、四方の夷蛮の諸王を統治する古の聖天子の盛儀を再現しようとしたのである。そのため、諸王は麟徳2年10月に洛陽へ、諸州の刺史は同12月に泰山に集まるよう命じられた。
665年(麟徳2年)8月以後、百済にあった劉仁軌は、新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使いと共に西還し泰山に向かった。
さらに「冊府元亀」帝王部には、665年(麟徳2年)10月に洛陽を発った高宗に従駕した夷蛮諸国の中に「倭国」も加わっていることが書かれているが、近畿天皇家の「日本書紀」天智紀には、これに対応する天智4年(665年)の記事がない。
この絢爛たる盛儀に参列してないからこそ記事がないのである。つまり「倭国」代表として参列していたのは、「白村江の戦い」に敗北した九州王朝だったのである。
ここで疑問が湧くであろう。いかに友好国であるとは言え、一旦滅んだ百済を再興するために、万の軍隊を異国の地に派遣する「倭国」と、「百済」との深い関係は、どこに発するものであろうか。
雄略天皇のときにも、高句麗と戦い敗死した百済の蓋鹵王が、475年に漢城(広州)を放棄して百済が滅亡に瀕したが、蓋鹵王の子である文周に、白村江南岸の「熊津」の地を賜った。
この鍵は、「神武天皇」にある。
「神武天皇」の名は、8世紀に淡海三船が付けた漢風諡号であり、日本書紀では「いわれひこ(磐余彦)」とも呼ばれているが、倭人では無かった。
実は、扶余族の王(仇台)であった。
ウラルトゥ(現アルメニア)からシルクロードを通って、匈奴と関係を持ちながら満州に登場した部族と、インドからベトナムの文郎国を経て河南省の宛に移った徐氏が合流した国が「扶余」である。
「三国志」扶余伝には、「漢末、公孫度海東に雄張して外夷を感服す。扶余王仇台更めて遼東に属す。時に句麗と鮮卑強し、度、扶余が二虜の間に在るを以て扶余の女を娶る」とある。
扶余族の王、仇台は公孫度と同盟し、公孫氏が朝鮮半島に南下して帯方郡を建てると、仇台もその地に至り伯済国を建て百済王仇首となった(「周書百済伝」「隋書百済伝」)。
「契丹集史」第17章、五原支配では「イカヅチワケ」が扶余王仇台になっており、「秀真伝」第24,扶桑国蓬莱山の紋では、神武を「蓬莱(ハラ)の大君」または「ワケイカヅチ天皇」と記されている。
以上から、扶余王仇台=イカヅチワケ=ワケイカヅチ=神武=いわれひこ と分かる。
また、玉依姫は神武の母であるが、「山城国風土記」逸文には、玉依姫が「カモワケイカヅチノカミ」を生んだという記事がある。
一方、「桓檀古記」によると、「伊都国はイワレヒコの故地である」とあるので、朝鮮半島を侵略して百済を建てた神武が、余勢を駆って九州にも侵略し「伊都国」を建国したことも分かる。
つまり、百済と伊都国(倭国)は、神武天皇(扶余王仇台)を建国の父とする、「兄弟国」同士だったのである。
神武(仇台)の評価について、「隋書」百済伝には「百済の先は高句麗より出ず。東明の後に仇台という者あり。仁信に篤く始め其の国を帯方の故地に立つ」とある。
「百済人」と「倭人」という異人種同士の国民であっても、建国支配層が同じ扶余族であり、とりわけ神武に対する敬愛の念が、滅んだ百済を再興するために出兵、という白村江の戦いにつながったことは間違いないだろう。
仇台は、朝鮮史では仇首王と呼ばれ、在位は214年~234年となっているので、これが神武の在位期間となり、日本書紀のBC660年即位は虚偽捏造となる。
では、捏造の理由はどこにあるのか?
白村江の戦いで敗れた亡命百済人の子孫である「道鏡」が、自分が天皇になろうとして、百済建国の祖王である神武を「日本建国の祖王」に改ざんしたのである。
勿論、「BC660年」という文言が、そのまま日本書紀に書かれているわけでは無く、実際には「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」となっている。渋川春海が1677年に「日本長暦」において逆算同定したものである。
もともと日本書紀は舎人親王が編集したものであり、日本建国の祖王は、以前述べた「東表国」の王である孝昭天皇から始まり、孝安-孝霊-孝元-開化天皇と続けて書かれていたはずなのである。
百済系の先例を捏造して、百済王敬福の子である道鏡一族を天皇にしようとしたのである。その成果として、道鏡の兄の「文鏡」が「光仁天皇」になれたのであった。
「秀真伝」では「道鏡が『書紀』を改ざんした。内容が矛盾しているのはそのためである」と述べている。
『書紀』に仏教用語が多いのも、道鏡が僧侶だったからである。
さらに「秀真伝」では、「道鏡が、天下の古書を皆悉く探りて削除し、以てこれを焼失す」と述べ、「皇太神(天照大神)は、舎人親王の自筆の『書紀』では陽神(男神)だったものを、道鏡が陰神(女神)に改ざんした」とも述べている。
天照大神を女神として孝謙天皇(女性)に擬し、道鏡を天照大神の弟スサノオに擬し、その子を天照大神が養子とした「作文」を先例として、皇位を盗もうとしたのである。宇佐八幡宮神託事件がそれである。
ここで卑弥呼についても考えてみよう。
「晋書」倭人伝には、「乃ち女子を立てて王となし卑弥呼と名づく。宣帝の平らげたる公孫氏なり。其の女王遣使して帯方に至りて朝見す。」と書かれている。
原文は、「・・・。宣帝之平公孫氏也。其女王遣使至帯方朝見。」となっており、これを「宣帝の公孫氏を平らぐるや・・・」と読む学者がいるが、誤読である。
「之」は、名詞と名詞、名詞と動詞の結合に使い、「其」は、一般に前文の中の名詞を指し、この場合、公孫氏を指す。
一方、先に述べた「隋書」百済伝には、「百済の先は高句麗より出ず。東明の後に仇台という者あり。仁信に篤く始め其の国を帯方の故地に立つ。漢の遼東太守公孫度、女を以て之に妻わす。」
と、あるので、公孫氏の女(むすめ)を仇台(神武)が妻にしたことが解る。「公孫氏の女」は卑弥呼のことなので、卑弥呼が神武の妻になったことになる。
また、「宋書」百済伝は、「百済は遼西を占領した。百済の出先機関を晋平県という」と述べるが、この百済は、「扶余」の事で、のちに百済を建てた仇台が、公孫度から遼西を割譲させたことを言っている。
これらのことを『日本書紀』では、「神武が大物主命(公孫氏)から領地を譲り受け、事代主命(公孫度)の娘ヒメタタライスズ(卑弥呼)を娶った」と表現している。
遼西の出来事を、日本列島の出雲に、道鏡が置きかえたのである。
道鏡の捏造は、まだある。「神武東征」も創作した。
亡命百済人の子孫である道鏡一族の繁栄を図るには、百済を建国した神武(仇台)を顕彰することが最良の方策である、との信念に基づき、九州を侵略して伊都国を建国した後、本州には進軍せず朝鮮半島に戻って死去した神武を、始めから九州を治めていて、その後、大和まで東征して日本列島を統一した「正当性」のある天皇である、と創作したのであった。
神話の創作は、そう簡単にできるものではない。亡命百済人の子孫の道鏡は、「百済建国伝説」を下敷きに、登場人物名と地名をアレンジして、「神武東征」を創作した。
大林太良は「日本神話と朝鮮神話」(ゼミナール日本古代史下)の中で、神武東征説話と百済建国伝説のいきさつの著しい類似について次のように述べている。
『神武東征伝説について「古事記」と「日本書紀」とを比較すると大きな相違がある。
「日本書紀」では東征の主体は徹頭徹尾神武天皇になっているが、「古事記」ではそうではなく、神武とその兄イツセ(五瀬命)の二人が主体になっている。
詳しく言えば、神武東征の前半では主人公はイツセであるが、後半では主人公は神武天皇(イワレヒコ)である。
そして前半のイツセが活躍する部分は、「海上航海」の部分であって、イツセが陸上にあがってトミビコ(登美毘古=長髄彦)と争うと、たちまちやられて死んでしまう。これに対してイワレヒコの活躍したのは東征の後半部分であり、主人公として「陸上」戦を戦い成功する。
従って、「古事記」における神武東征の話は、「海の兄と陸上の弟が二人して国覓(くにまぎ)に出かけたが、海の兄は死んでしまい、陸の弟は成功して建国した」とまとめることができる。
ところが百済建国伝説も、その基本構造が、この神武東征伝説と一致しているのである。
百済の王家の祖先は、扶余・高句麗の系統を引くことを「三国史記」の百済本紀に、次の如く書かれている。
「高句麗の祖先の朱蒙が、北扶余から難を逃れて卒本扶余へやって来た。そしてそこの王の女を娶り、長男の沸流、次男の温詐の二人の子供をもうけた。ところがそこに、朱蒙が未だ扶余にいたときにもうけた子供の類利が母とともに北扶余からやって来たので、朱蒙は、あとから来た類利を自分の太子にした。
そこで後妻の子である沸流・温詐の兄弟は、自分は太子になれないので落胆し、扶余の国を出て、新しい国を求めて南下した。そして漢山にいたり、今のソウルの北の負児岳に登って住むべき国覓をした。
ところが兄の沸流は海岸の方に行って住もうとした。皆が諫めたにもかかわらず、沸流は自分の民を引き連れて海浜(今の仁川付近)に行って国を作った。
他方、弟の温詐は内陸の河南慰礼城に都し、国を十済と号した。
さて、海岸の方に行って住んだ沸流は、土が湿っていて、水は塩気が多いという不健康地なので永住できず、弟の住んでる河南に戻って来た。
すると河南の慰礼城は非常に繁栄していて、人民が安楽に暮らしている。それを見て沸流は、自分には目が無かったと恥じて自殺してしまい、沸流の臣下は皆温詐の部下たちと合体し、これが後の百済となった」
この百済建国伝説は、外見は神武東征伝説とはかなり異なっているが、百済の場合も、海の兄と陸の弟が国覓に出かけたが、海の兄は失敗して死んでしまい、これに反して陸の弟は成功して建国し、王朝の先祖となり、神武東征伝説と基本構造が一致しているのである。
実は、百済の支配者の系統である高句麗の建国伝承も、神武東征伝説に一致しており、百済の建国伝説の前段階をなしているのである。
「古事記」の神武東征伝説には、神武軍が速吸の戸を通るとき、「亀」の背に乗ったサヲネツヒコが現れ、神武東征軍の水先案内をしたことが書かれており、次に熊野の山中では「熊」が出現し、その妖気でイワレヒコの軍は皆、昏睡状態に陥ったが、天から降った神剣の霊力で回復した。そして最後に、「八咫烏」が現れ神武軍を先導し、勝利に導く。
つまり、水界の動物である「亀」、陸界の動物である「熊」、天界の動物である「鳥」が出て来る。
そして神武軍にとって、「亀」と「鳥」は「プラスの価値」を持っているが、「熊」は「マイナスの価値」を持つ動物だと言える。
これを高句麗の朱蒙神話と比較してみよう。ここでも動物が出て来るが、順序は獣→亀→鳥である。
つまり、朱蒙は卵から生まれたので、これはけしからんというわけで、さまざまな動物のいる檻に入れられて踏みつぶされて殺されようとされたが、克服した。神武東征と同じように、陸界の動物は「マイナスの価値」を持つ存在と言える。
さらに朱蒙が建国するために川を渡ろうとすると、「亀」が現れて橋をつくり、その上を渡って行った。これは「プラスの価値」を持っている。
最後に「鳥」に関して、朱蒙が故国を出発してから、朱蒙の母が「鳩」の形をとって朱蒙が忘れた麦の種を届けてくれた。この「鳥」も「プラスの価値」を持っている。
神武東征伝説と朱蒙神話は、表面的には異なるモチーフだが、抽象化すると、両者ともに、「亀」と「鳥」は「プラスの価値」であり、陸界の動物は「マイナスの価値」という共通構造が浮かび上がる。
重要なことは、神武、朱蒙はともに、水界と天界の動物の援助を受け、陸界の動物の妨害を克服して初代の王になっている。言いかえれば、両者ともに、天界、水界、陸界の宇宙三界を支配する普遍王として王朝を建設したことを物語っている。
これは古代日本の支配者文化の系統を示唆しているのである。』
また、井上秀雄も、「日本書紀」の内容の骨子とその形式は朝鮮の史書を借りたものとして、「百済本紀」「百済記」「百済新撰」の名を挙げて断じている。
さらに鹿島昇は、「日本書紀」の天皇は、百済王と駕洛王が主流であり、借史というよりも翻案である、と言い切っている。
縷々述べて来たが、亡命百済人の子孫である学僧道鏡が、百済系一族の正当性と繁栄を図るために「日本書紀」を改ざんしたのは間違いないところであろう。しかし、「日本書紀」とは矛盾した真実を記述した他の書籍が存在しては都合が悪い。
そこで、「秀真伝」にあるように、「道鏡が、天下の古書を皆悉く探りて削除し、以てこれを焼失す」という、秦の始皇帝が行ったような暴挙に出たのであった。
しかし矛盾は、あちこちに残された。そのひとつが、問題になっている天の香具山の歌である
「山常には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 八間跡の国は」
この歌であった。
万葉集の原文を読んだ道鏡は、「これは、マズイ」と思ったのだろう。このままだと、大和ではなく、九州に、倭国の正統王朝が存在していたことがバレてしまう。それを防ぐには、どうすれば良いか。
万葉集は、もう手直しできないので、歌われてる舞台(天の香具山)を大和にあったことにすれば良い。
それで急遽、奈良にある小山を、「天の香具山」と名付けたのであろう。これで九州を、歌の舞台から消し去ることが出来る。
しかし、真実は、こうして明らかにされてしまうのである。
道鏡、敗れたり。
(完)
(参考図書) 古田武彦著「古代史の十字路」(東洋書林)、古田武彦著「失われた九州王朝」(ミネルヴァ書房)、鹿島曻著「歴史捏造の歴史2」(新国民社)