広島の山

隠された古代史を明らかにする

京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(3)

2014-09-11 21:48:46 | 歴史

『九鬼文書』の蘇民将来は、「漂浪神は九鬼家に泊まり、その夜嵐があったが、九鬼の一族のみが助かり、他の人々はすべて滅びてしまった。神の出発の後、九鬼家の軒下には☆印(かごめ紋)のついた木の札が下がっていたので、人々はこの漂浪の神はスサノオであったことを悟った」となっている。

この☆(かごめ紋:三角形を二つ組み合わしたもの。ここでは☆を便宜的に使用))はダビデの星といわれ、今日でもイスラエルの国旗になっているが、伊勢神宮の石燈籠に見えるように伊勢神宮のシンボルマークにもなっているし、また神代文字のなかにもあって研究者を不思議がらせている。

さらに『公事根源新釈』百一祇園御霊会十四日も、祇園社すなわち京都八坂神社の祭りとして、
「武塔天神の速須佐雄神が、南海の女子に夜這いしたとき、弟の巨旦将来が泊めることを断り、兄の蘇民将来が泊めた。
 八年の後、武塔天神は八王子とともに蘇民を訪れて、茅の輪を作ることを命じ疫病の難を避けさせた」と述べ、「また祇園の縁起にいわく」として
「天竺の北の九相国に吉祥園があり、その城に牛頭天王がいて武塔天神ともいった。
沙渇羅(サラ)龍王の女を后として八王子を生み、八万四六五四神の眷属があった。
御霊会のとき、四条京極で栗飯を奉るのは蘇民将来の由緒という」と述べる。

ここで「サラ龍王の女」というのはもちろんサバの女王ビルキースである。
「九相国」の相がイスラエルのスを、「吉祥園」の祥がエルサレムのサをそれぞれ残したと考えるべきであろう。

ソロモン時代のユダヤ人はバアル教を信仰していたから、「牛頭天王・武塔天神」とはバアル神、またはバアル神を奉じるソロモンのことであった。

 

以上から、ソロモン王=バアル神=牛頭天王=武塔天神=檀君桓雄=素戔嗚尊 となるわけである。

 

 

Ekijinja
八坂神社の境内にある「疫神社(えきじんじゃ)」

祭神は「蘇民将来」

 

Honden八坂神社本殿

 

 

Haiden_2
拝殿

 

 

Mitudomoe三つ巴の献灯

三つの巴は、新羅の朴氏、昔氏、金氏を表す。

現在の韓国の国旗は二つの巴になっているが、これは昔氏が九州の熊本に去って多婆羅国(現玉名市)を建て、残りが二氏になったため。

さて次は京都御所へ。

201系統のバスで、赤レンガの同志社大学の向かいで降りる。

Nagaikabe_2
中に入って驚いた。とにかく広い。

 

Nagaikabe2
我が家の数千倍の敷地である。築地(土塀)が延々と続く。

 

京都御所の見学は一般公開日を除くと、インターネット、郵送、御所直接窓口のどれかを通して予約申し込みをしなければならない。インターネットが一番簡単で速いので、この日の予約を宮内庁HPから申し込んでおいた。パソコンで印刷した予約券を入り口(清所門)で提示して中へ。

中の待合所で数十人がまとまってガイドの案内で標準参観コース(約1時間)へ出発。

先ずは「御車寄」から。

Okurumayose
昇殿を許された者が正式に参内するときの玄関。この玄関を上がると「萩壺」と呼ばれる中庭があり、ちょうど清涼殿の裏側にあたるのだが、我々一般人は当然ながら入ることはできない。

Kugyounoma
「虎の間(公卿の間)」。もっとも格の高い公卿が参内したときの控えの建物の間。

Tenjoubitonoma
「鶴の間(殿上人の間)」。同様に次格の諸侯、所司代の控えの間。

 

Sinnokurumayose
新御車寄。大正天皇のために作った車寄せ。現在も使用。

 

 

Kenreimon
次は「建礼門」。我々は清所門から築地の中に入ったわけだが、天皇と外国の賓客だけがこの門を通ることができる。「狭き門」だ。

Jomeimon建礼門から御所に入ると、すぐ前(北側)に「承明門」がある。ここを通って紫宸殿に上がるわけだ。
    

 

Shishinden1
承明門の柱の間に見えるのが紫宸殿。我々は門の外から眺めるのみ。

 

Shishinden2

 

Shishinden3Shishindensetumei

 

Shishindengaidoガイドさんが承明門と紫宸殿の説明をしている。

 

 

現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれる里内裏のひとつ。内裏は皇居のことで天皇の住まいだが、内裏はしばしば火災にあい、内裏修復完成までの間、貴族の邸宅などを仮皇居として天皇の住まいに充てられるようになった。これを「里内裏」と呼ぶようになった。

桓武天皇は延暦13年(西暦794年)に、長岡京から平安京に遷都したが、166年後に初めて内裏が火災にあってから、その後も度々再建と火災を繰り返し、いつしか廃墟となり、「里内裏」が日常の皇居となった。

京都御所は、元弘元年(1331年)光厳天皇の即位から明治2年(1869年)の東京遷都までの538年間を皇居として使用されたが、やはり何度も火災と再建を繰り返し、安政2年(1855年)に再建されて以来、現在に至っている。

紫宸殿では、大正天皇と昭和天皇の即位礼が行われている。

さて次は隣にある清涼殿。

Seiryoden2
別棟の御常御殿ができるまでの永い間、天皇の日常生活の場として使用されていた。

Seiryoden清涼殿の前に広がる東庭は白砂敷きで、正面に呉竹、南寄り軒下近くに漢竹が植えてある。

Seiryoden3_2

Seiryoden4
建物は入母屋檜皮葺の寝殿造りで紫宸殿と同じだが、床ははるかに低く内部は間仕切りも多くなっている。

南廂を「殿上の間」といい、蔵人や公卿などが伺候し奉仕した。殿上人というのは、ここに昇殿できる者のことである。

 

次は御池庭。

Oikeniwairigutiこの入口を通って右側に200mくらい続いている。

 

 

Oikeniwa1_3入ってすぐ右にある欅橋

 

 

Oikeniwa2_2庭石もふんだんに。

 

 

Oikeniwa3_3
小雨が降り始めました。

 

Kogosho御池庭に面して西側にある「小御所」(こごしょ)

天皇が将軍や諸侯と対面される場所らしい。昭和29年焼失。昭和33年復元。

Otunegoten1_3
御常御殿(おつねごてん)。15室の書院造。清涼殿が居住様式の変化に対応できなくなったため、豊臣秀吉の時代に別棟として建設。安政2年(1855年)再建。京都御所のなかで最大の御殿。

Otunegoten
剣璽を奉安する「剣璽の間」も備えられている。

 

Otunegotenmima
御常御殿の待合の間?3間あるひとつ。

 

Otunegotenmima2同上。

 

Osuzumisho_3
コースには含まれてないが、御常御殿の北隣に見える御涼所(おすずみしょ)

Osuzumisho2
御涼所の庭。

 

これで京都御所の見学コースは終わり。

次は、今日のメインイベント孝明天皇暗殺現場の岩滝町だ。


最新の画像もっと見る