年休が取れたので、5月19日から4泊5日で、昨年に続き京都・奈良の古代を探ることにした。
新幹線で朝10時過ぎに京都駅に到着。先ずは下鴨神社から。バスを降りて横丁の方から進んで行くと、いきなり真っ赤な楼門が現れた。
中に入ると広い境内。鴨神社(賀茂神社)の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と言われ、外来の神。鴨氏は秦氏と深い関係があり、秦氏は弓月君に連れられて1万8千人の一族と一緒に朝鮮半島の辰韓を経て大和に来ている。
秦の始皇帝の子孫ともいわれるが、中国の「資冶通鑑」によると、中国の天山山脈北側、カザフスタン南部にバルハシ湖があり、そのそばに「弓月国」という国があったと記されている。バルハシ湖は弓のような三日月の形状をしており、その形状から国名ができたと思われる。宗教はキリスト教(佐伯好郎博士)だったという。
興味深いことに、彼らは自分のことを「ヤマトゥ」と呼んでおり、ヘブル語では「ヤー・ウマトゥ」と発音し、「ヤハウェ(神)の民」という意味でもある、との説がある。すなわち、「大和」の発音「ヤマト」は、秦氏が故郷で呼んでいた名前を大和地区・大和時代に付けたのではないか、ということだ。秦氏は大和から京都に勢力を広げた。
舞殿の向こうに本殿があるが、中は撮影禁止。で、右方にある御手洗川(みたらしがわ)へ。
輪橋(そりばし)がかかっており、土用になると清水が湧いてきて、その泡が「みたらし団子」の発想になり、全国に広まっていったとのこと。
御手洗社(井戸の上にあるので井上社ともいう)
御手洗川から見た輪橋、楼門、本殿を囲む塀。
参道沿いに京都にあるのに「奈良の小川」という小川が流れており、気持ちがよい 水音を響かせている。
下鴨神社は世界遺産に登録されており、この参道を覆う「糺の森」も静かですばらしい。参道は長く1kmくらいあっただろうか。
さて次は上鴨神社に行こうとしたのだが、バスを乗り間違えてあらぬ方向に進んでいる。金閣寺のそばを通り抜け、どんどんバスは進んでいく。どうしたものかと思案していると、「平野神社」の大きな看板が道路沿いに出ていたので次のバス停で降りた。
平野神社参道。この神社も行くつもりだったのでちょうどよかった。
今上天皇が、2001年12月18日の会見で、日韓共催サッカーに関して「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べている「生母」がこの高野新笠のことである。
平野神社の祭神は今木神、久度神、古開神、比咩神の四座で、平安京遷都によって京都に遷座した。今木神の今木は今来のことで、百済系渡来人を意味する。平城京の時代に田村後宮にあった今木大神は、高野新笠と山部親王が祭祀していたことが判明している(Wikipediaより)。
百済系の桓武が天皇になるのと連動して、その母である高野新笠の祭神を擁した平野神社の地位も一挙に上がっていた。
この平安京遷都の経済的後ろ盾になったのも秦氏といわれる。
さて次は広隆寺。この平野神社から南に200m余りバス通りを歩き、交差点を西に渡ったところに京福電鉄北野線の北野白梅町駅がある。そこから途中、1度乗り換えて太秦広隆寺駅まで短時間で到着。
駅のすぐ近くに広隆寺があった。
大きな楼門を通りぬけると、正面には上宮王院太子殿(本堂)が。
カメラのシャッターを押した直後に、受付のおばさんが飛んできて、「場内は一切撮影禁止です!」と、ソフトに咎められた。で、写したのはこの1枚だけ。
広隆寺は603年秦河勝が建てたもので、秦氏一族の拠点でもある。何度か火災にあっているが、焼けずに残った例の半跏思惟像の弥勒菩薩は、木の材質から朝鮮半島の辰韓から持ってきたものと言われている。
受付から新霊宝殿に至る通路に「十善戒」なるものが掲げてあり、これが「モーゼの十戒」とそっくり。やはり弓月君がユダヤ・キリスト教も運んで来たのであろうか。
秦氏は藤原氏と縁戚関係を結んだあと、名前を藤原氏に変えたようだが多くの子孫がいる。
明治維新後、「君が代」を作曲した林廣守は秦河勝の三男の末裔といわれ、羽田孜元首相も秦氏の子孫といわれる。
さて今回の京都の旅はここまで。明日からは明日香(奈良)だ。
京都から近鉄急行で「橿原神宮前」へ、所要時間1時間10分程度。タクシーで明日香村東端の岡寺のそばの民宿「若葉」まで約15分。
民宿「若葉」(岡寺から一昨年撮影)。山に囲まれた静かな環境。うぐいすの鳴き声がうるさいくらい聞こえる。3年連続の宿泊で今回は4泊5日。元旅館を改造し、各部屋和室の個室。1泊2食付で¥6,300。朝夕食ともにすごいボリューム。
1日目は、「若葉」のレンタサイクル(1日¥800)に乗って飛鳥川沿いのサイクリングロードをのんびり漕いで行く。
写真の自転車がそのレンタサイクル。
いよいよ今回の第1探検地である「甘樫の丘」展望台への案内板へ到着。「甘樫丘」には古代7世紀頃、蘇我蝦夷と入鹿の大邸宅があったという。展望台まで徒歩で250m。
展望台に着くと、地元の方々だろうか、7~8人の老人たちが集まって遠くを指差しながら場所の確認をしていた。それを横で盗み聞きし、これが大和三山のひとつの「畝傍山」と確認。畝傍山は死火山で高さ199m。麓に神武天皇陵と橿原神宮がある。
次にその東に、これも大和三山のひとつ、「耳成山」。これも死火山で可愛い円錐形をしている。139m。
残りの三山のひとつ、「天の香具山」(152m)だが、耳成山の南東方向にあるはずなのだが、とうとう判らなかった。天の香具山は他の2つの山のように独立峰ではなく、他の山の尾根部分が侵食されて残った一部が「天の香具山」と呼ばれるようになったため、初めて探す場合、形が判りにくいためと思われる。
しかし、この山が一番霊験あらたからしく、他の2つの山には「天の」の冠はついていない。香具山は「香山」とも呼ばれていたとのことで、香山=カヤマ=伽耶(朝鮮半島)から来た人々の山と解せなくもない。
大和三山を結ぶ三角形の中に、秦王国の首都たる「藤原京」が存在した。左の写真は昨年撮影した藤原京跡地。
さて、ここには「見瀬丸山古墳」と呼ばれる奈良県最大、全国でも6番目の大きさの前方後円墳が見える。この見瀬丸山古墳を次に目指すことにし、出発。
歩道上をレンタサイクルで進んで行くと、前方にバス停のようなものが立っていた。
近づいてみるとバス停ではなく、古墳の案内板だった。丸山古墳もある。菖蒲池古墳、植山古墳、孝元天皇陵、丸山古墳の順に見ていくことにする。
先ずすぐ近くにある菖蒲池古墳に行ったが、魅力のない雰囲気の林の中に、シートをかぶせた捨てられたような小さなブロックがあり、地下への入り口には金網の扉でカンヌキがしてあった。暗くて中がよく見えない。全く興味を惹かなかったので写真も撮らずすぐその場をあとにしたのだが、広島に帰ってちょっと気になってインターネットで調べてみると、これが「世界遺産リスト」にノミネートされた重要古墳らしい。
「藤原京」の南北に走る朱雀大路の南延長線上に位置し、藤原京時代の被葬者と思われる。そのときトレンチの跡は埋め戻したためか見えなかったが、昨年11月にトレンチを掘って、現地説明会も行なったようだ。
YouTube: 今日は飛鳥・菖蒲池古墳 2010/11/27
次に500mほど歩くと、植山古墳。推古天皇の古墳に比定されているが、造成中で立ち入り禁止。この古墳の写真も撮れなかったので、他の方(「飛鳥三昧」さん)のHPから拝借。
http://sanzan.gozaru.jp/kohun/kfs/ueyama.html
東西40m、南北27mの方墳で2石室の双室墳。
さらに進んでいくと交差点があり、池の中に深い森。
右に進んで行くと、たしかに宮内庁のいつものパターンの案内板があった。
孝元天皇剣池嶋上陵とある。
スロープを登っていくと、ほどなく陵墓が現れた。
孝元天皇は金官加羅初代の王であり、奈良に墓があるはずもないので、この陵墓の比定はでっちあげだろう。
さて次は丸山古墳だ。今来た道を途中まで戻って、ヤタガラス大明神の前を通り進んでいくと、、、
全長318m、幅210m、後円部の直径155m、高さ21m、前方部の高さ15mの前方後円墳。
奈良県最大で、日本全国でも6位の大きさ。
場所が、橿原市の見瀬町、五条野町、大軽町の3町にまたがっており見瀬丸山古墳ともいう。
後円部に登ると、同好の士があとから登って来られた。横浜から来られたとのこと。
この古墳の被葬者は例によって不明だが、「蘇我稲目」が有力だ。
横穴式石室の全長は、28.4mで全国最長。石室正面の花崗岩は100トンを超え、明日香の「石舞台古墳」を上回る。しかし現在は後円部だけ、宮内庁の管理下にあり、中を覗くことはできない。ここから800m余り南に欽明天皇陵がある。
このそばに謎の石像「猿石」のある吉備姫王墓がある。
明日香には、猿石、亀石、酒船石等、変わった石造物が多い。
ここでは「酒船石」を考察する。
岡寺の近くに竹林があり、
横たわっている。
そばにある説明板には、酒をしぼる槽では?とか、庭園の施設では?
とか書いてあるが、
上から見るとこのような直線と円と楕円の溝が刻まれていることが
わかる。鹿島昇氏は、ユダヤ教の一派である「カバラ」の「生命の樹」(セフィロト)の模型ではないか、と指摘した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:TreeOfLife.svg
確かに、そっくりである。
Wikipediaによると、カバラでは、世界の創造を神エインソフからの聖性の10段階にわたる流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であるとし、酒船石の直線の溝は神の流れで神的属性の間を結ぶ小径なのである。
そうすると、弓月の君がカバラの神官も連れてきたか、あるいはそれ以前から関係者がこの地にいたということになる。
伊勢神宮への参道にある灯篭に刻まれたユダヤの六芒星や、太秦の広隆寺にある十善戒、そしてこの酒船石と、近畿地方の広い範囲にわたって古代ユダヤの痕跡が残されていたわけである。
(つづく)