広島の山

隠された古代史を明らかにする

京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(4)

2014-09-11 17:38:19 | 歴史

御所から出て、同志社大学の前を通り、橋を渡って再び市バスに乗る。

Busstop「河原町正面」のバス停で降りる。

10mバックして路地に入ると、小さな川があった。

 

Takasegawa1浅い川で生活用の小さな橋もかかっていた。

 

Takasegawa2_2
水も澄んでいた。

Takasegawa3しばらく歩くと、石の橋がかかっていた。

Takasegawa4_2
川の名前が「東高瀬川」となっている。

Takasegawa5uenokutibashi
橋の名前が「上の口橋」となっている。目的地は「下京区三の宮通り上ノ口上ル岩滝町」なので、いよいよ近い。

Furoya橋を渡ると風呂屋が。なんとなく怪しい雰囲気。路地を進むと、、、

 

Jyuukyo_4
ここだ!   

 

鎌倉時代中期、後嵯峨天皇の後任天皇のイザコザから嫡流である持明院統と庶流である大覚寺統から交互に天皇を立てることになった。これが南北朝時代のきっかけである。

持明院統である北朝の後小松天皇は、実は足利義満が後円融天皇の妾である康子を奪って生ませた子供であり、さらに義満の庶子の足利貞成を崇光天皇の子で皇位継承者である栄仁親王の養子にした後に、栄仁親王とその実子の治仁親王を殺害し、足利貞成を貞成親王として伏見宮家を継がせた。そして貞成親王の子が後花園天皇になったのである。

つまり、後小松天皇から孝明天皇までの北朝の系譜は、「足利天皇家」とも呼ぶべき存在であり、偽朝である北朝を倒して、南朝系の新しい天皇を立てて明治維新を実行しようというのが薩長連合の密約であった。

そのために、先ず、頑迷な攘夷論者である将軍家茂を毒殺し、次に孝明天皇を、妾で岩倉具視の義妹である堀河紀子邸におびき寄せ、便所に潜んでいた伊藤博文が忍者刀で刺殺した。

その堀河邸の場所がこの岩滝町なのである。

角を曲がって2軒目の前に来て、あっと驚いた。

Aizukotetubiru
堀河紀子邸の代わりにこんな建物が、、、

 

Aizukotetu
近寄ってみると、なんと「会津小鉄会」の文字が!

京都の「指定暴力団 会津小鉄会」の本部が建っていた。

公安調査庁の調べでは、暴力団の6割は被差別民が占めているという。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=YRFmzRKvx7I

ところで、伊藤博文の所属していた松下村塾も、毛利氏の鉢屋衆の流れを汲む被差別民の忍者集団と推察されている。そして、孝明天皇が、この場所で刺殺されたのが慶応2年(1866年)12月25日。会津小鉄会が結成されたのが2年後の慶応4年なのである。

孝明天皇殺害場所の証拠隠滅封印を狙って、伊藤博文が、同じ被差別民集団の会津小鉄会に譲渡管理を依頼したのではないか。ヤクザの管理下にあれば、一般人も近づきにくく秘密も漏れないからである。

Kotetubiru2裏(高瀬川)側からみると、風呂屋の隣で、車が出かけているビルが会津小鉄のビルである。

Birutosauna_3
要塞のようなビルである。後でわかったのだが、この辺りは「五条楽園」とも言われ、いわゆる旧赤線・遊郭のあった処で2010年の10月まで「五条楽園」の看板が橋の上にかかっていたらしい。

 

蛇足だが、民主党の幹部にM議員がいるが、外務大臣のとき、焼肉屋を経営している外国人(韓国人)から違法献金を受領して外務大臣を辞職したが、週刊誌等では暴力団員との派手な交際が露見するのを防ぐために辞職したと指摘された。

M議員は、若い頃、京都の解放同盟の青年部長だったといわれる。暴力団の6割が被差別出身であることと併せれば、M議員と交遊相手の暴力団員は同じ被差別出身の友人だったのではないか。

ここで被差別民について調べてみると、インドがその淵源のようだ。

紀元前1000年以上前に、アーリア人がインド北西部のパンジャブ地方に侵入したときに、肌の色に基づく差別を、原住民自治区の設定というかたちで実行しながら侵略支配した。

そのときバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラと4つの階級からなる差別カーストをつくったのだが、この枠内に入らない「アウト・カースト」たる「不可触民」も発生した。

不可触民は、文字通り触れると穢れる人間として扱われてきた。インドではダリットともアンタッチャブルとも呼ばれる。屠畜業者(マハール)、皮革労働者(チャマール)、人糞処理の清掃人(バンギー)等が彼らの主な職業であり、穢れは「死」「産」「血」「体からの分泌物」より生じると考えられ、次々伝染するとされてきた。不可触民に対しては、見ることも、近づくことも、その声を聴いてもいけないとされた。恐るべきことである。

この思想が全世界に発散され、日本列島にも波及したのではないか。

カーストは親から受け継がれるもので、生まれた後にカーストを変えることはできない。したがって、子々孫々まで同じ職業を世襲しなければならない。1950年にカースト制度は禁止されたのだが、2001年のインドの国勢調査においても、1億6600万人以上もの不可触民が存在しているという。

http://www.youtube.com/watch?v=yMbtWTUQd7c

 

更に古代(紀元前)マガダ王国の時代、もう一つのアウト・カーストである「ヴラーティヤ(漂泊民、種姓外者)」が発生した。彼らは農耕を営まず、粗末な荷馬車であちこち移動し、ターバンを巻き、突き棒と特殊な弓を携えていた。

彼らはおそらくサカ族であり、スキタイ族と同系で、「契丹秘史」には「東大古族」としるしてある。彼らはインドから出発して朝鮮半島で「禾尺」となり、日本列島で「山窩(さんか)」となった人々である。

山窩は日本列島においては、九州の人吉盆地が発祥の地であり、刀伊の乱で権力を得て武士となり、鎌倉時代から江戸時代まで政権を握り、現代においては、薬剤師、医師、公務員、国会議員、元総理大臣等、あらゆる分野に広がっている。

さて次は渉成園だ。この会津小鉄会のビルから約150m離れた場所にあり、枳殻邸ともいう。紫式部の書いた「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人である源融(みなもとのとおる)の住んでいた別荘といわれている。

Kikokuteia現在、東本願寺の飛び地境内地になっており、東本願寺から200m東に離れた場所でもある。しかし、、、

 

Kikokutei_6
なんと、無情にも入園受付時間を過ぎていた。

 

Kikokutei2時計を見ると4時過ぎ。勝手に夕方5時くらいまでは入れるだろうと思い込んでいたのが甘かった。

 

Kikokuteigaijin
同じ境遇の外人さん(^^;

 

Kikokutei1
しょうがないので、半開きの門から中を撮影。

 

Kikokuteikawara
塀の上の屋根瓦。「本願寺」の名前がある。

京都の旅はここまで。これから近鉄で奈良の明日香村まで行き、民宿で4日間の宿泊だ。


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