広島の山

隠された古代史を明らかにする

古代探訪 伊勢・奈良の旅(3)

2014-09-14 01:43:01 | 歴史

次は桜井市初瀬にある長谷寺を目指す。地図で見ると近そうに見えたが、民宿からレンタサイクルで国道を通って2時間。

駐輪場の係りの坊さんが、よくも明日香からレンタサイクルで来たなー、と呆れていた。近鉄大阪線で長谷寺駅で降りて、門前市を冷やかしながら15分も歩くと到着するのでこの方が楽。

長谷寺の創建時期の詳しいことはわかっていない。初瀬山中腹の傾斜地に南側を正面として建っている。入口の仁王門から本堂まで399段の屋根つきの階段(登廊)があるのが特徴。

本堂は巨大で京都の清水寺と同じく懸造りになっている。奈良時代創建後、7回焼失。現存の本堂は江戸時代(1650年)完成。花の寺としても有名で、私が訪れたときも牡丹がたくさん咲いていた。山の傾斜地に建っているので、歩き回ると結構疲れます。

Hasedera YanetukitourouYanetukitourou1 Yanetukitourou2Touroutobotan

Botan

Wakinohuukei

 

Miorosutourou           

Gojyuunotou

Butai


古代探訪 伊勢・奈良の旅(2)

2014-09-12 01:03:42 | 歴史

 Tourougun1saru_2

 

Tourou

 

 

 国道から猿田彦神社に入る。

Sarutahikotorii 猿田彦は「道ひらきの神」と言われるが

 

『秀真伝』には、「我は伊勢の祖、サルタヒコ」とあるように、伊勢を中心とする近畿地方(大和)の王であり、中国の秦帝国が漢に倒されたとき、中越と南Sarutahiko2 越の秦人は、多く日本に亡命してきたが、その子孫であろう。また、「宮下文書」には大物主家(ユダヤ系)と猿田彦は兄弟関係になっているから、猿田彦もユダヤ系であろう。

実際、「伊勢音頭」はユダヤ語で解けるという(川守田英二『日本ヘブル詩歌の研究』)。

例)ササ、ヤートコセー(汝ら喜び欣べ、エホバは沈めた)

  ヨーイヤナー(エホバは憐れみふかし)

  アーリャリャー(われエホバをほめ祀る)・・・等

猿田彦たちは、朝鮮半島を渡って九州の吉野ヶ里に「倭奴国」を建てた後、中国地方を通って大和に移動し、「秦王国」(大和朝廷)を建てたようだ。

イセ(伊勢)はイスラエル、サルタヒコ(猿田彦)はエルサレムの意味かも知れない。

さて次は外宮だ。バスから「ダビデの星」の刻まれた燈籠を眺めながら10数分で外宮前に到着。

Gekuumae

大きな雨雲に覆われている。

 

Gekuuhenohasi

ミニ宇治橋。内宮よりも小さい。

「左側通行」と書かれている。

Gekuuiriguti_2

深く御辞儀をする参拝者。宮崎神宮の入り口に似ている。

 

   

Gekuu カーブを描きながらしばらく進むと、外宮正宮。豊受大御神を祀っている。

しかし、ここも鳥居を潜ると撮影禁止。ちょっと離れて撮影。

Gekuuenkei 更に離れて撮影。ボケてます。

内宮と似た構造でした。

Kazenomiya 雨がポツンと降り出したので、急いで別宮の風宮へ。

小高い丘の登り口にあった。

Humei

これも風宮?

 

Takanomiya 高いところにあるので、多賀宮(豊受大御神荒御魂「とようけおおみかみのあらみたま」)と呼ばれているらしい。

 

だいたい皆、同じパターンで造られている。

Tourougungeguu 本降りにならないうちにと、外宮から出ると、また燈籠群が。

さて、次は飛鳥だ。

 

近鉄伊勢駅から橿原神宮駅まで行き、タクシーで今日の宿「民宿若葉」へ。岡寺の参道沿いにある。急な坂道を上っていくと、後ろからぞろぞろ外人(ジジババ部隊)たちがついてくる。

どうやら私と同じ宿に泊まるらしい。

Somin

 

翌朝、宿の提供するレンタサイクルで近くにある橘寺(聖徳太子が生まれた場所?)へ 行く途中の民芸店の前にあった、巨大な「蘇民将来」像。

伊勢の宇治山田駅周辺を歩いた時も、民家の表札に「蘇民将来の子孫」という札を付けた家が多かった。猿田彦たちが大陸から伝えたものだろうか。

Tatibanahi その橘寺の入り口。

 

Sekihi

 

 

 Sisi

  

Mon        

  

Enkei

  

道を挟んだ反対側にある川原寺から撮影。

 

その川原寺(かわらでら)。建物は焼失して礎石だけだが、7世紀頃、斉明天皇の川原宮跡にその菩提を弔うために天智、天武両天皇によって建てられたとされる。

往事は飛鳥寺、大官大寺などとと並ぶ大寺であったという。Kawaharaderaatoti

 

「川原寺」の名前が、教科書等で見慣れた、二人の侍童を伴った聖徳太子像(以前の一万円札に載っていた)の掛け軸の絹地にうっすらと墨書されていたらしい。これは何を意味するか?太子時代の日本には侍童を従える習慣はなかったという。

Shoutokutaishizou

会津八一博士が中国の友人から送ってもらったという出土品の拓本が、早稲田高等学院の授業で示されたが、これが御物の聖徳太子像と、うり二つだったという。

川原寺は七世紀頃、多くの仏菩薩像が安置され、仏教行事のために大陸調の伎楽を専門的に執り行うようなっていたことが解っている。太子と殆ど関係ない川原寺に、中国からこの画像が届き、それが法隆寺に移管され、聖徳太子像として喧伝されたということらしい。

もちろん、中国人が描いた中国人の画像であり、聖徳太子とは縁もゆかりもない人物だったのである。

そもそも聖徳太子は実在したのであろうか?

結論から言うと、存在しなかったらしい。が、モデルは居た。百済の王である「威徳王昌」であった。名前の中の「徳」と「昌」 を抜き出して、逆さにし「聖徳」と呼んだ。また、その父「用明天皇」も存在せず、モデルは威徳王昌の父である「聖明王」らしい。

なぜこんな手の込んだ事をしたかというと、「倭国」から「日本」に国名が変わったことにその原因があった。

白村江の戦いで新羅、唐の連合軍に敗れた「倭国」は新羅に占領され、九州の大宰府が接収された後、首都が九州から秦王国のある近畿地方に移された。このことを『唐書』では、「日本もと小国、倭の地を併せたり」と表現している。

飛鳥の「藤原京」は秦王国の首都だったが、これが「もと小国」で、日本府になって、邪馬壱国のあった九州の倭国や関東の倭人国家を併せたことを言っている。

670年に倭国から「日本」に国号が変わったが、「新羅」の意味はボルネオ語のシラヒースで「日の出」の意味だから、「日本」とは「新羅」の同義語ともいえる。

これらの作業を戦勝国同志である唐に対し秘密で行った新羅は、国家宣言たる「日本書紀」のなかで『隋書』に対し、整合性をとらねばならなかった。

『隋書』には、608年裴世清が答礼使として倭国に来て、倭王アマタリシヒコ(男性)と会ったことが書かれているが、新羅王子たる舎人親王が、新羅と百済と九州の王国の歴史を下敷きに脚色した「日本書紀」には、当時の天皇は推古天皇(女性)となっていた。そのため矛盾を解消するために「聖徳太子(男性)」を捏造した、らしいのだ。つまり、答礼使が会ったのは聖徳太子ですよ、と言いたかった訳だが、倭国の描写として阿蘇山の様子も書かれており、近畿地方でないのは歴然としている。

また、推古天皇のモデルもあり、新羅王の真平王妃たる金摩耶のようだ。

 Kawaharaderaannnai

 

Kawaharagaku

 

Kawaharaguhukudera

  

 

 

次は檜隈(ひのくま、現在は檜前)地区だ。

檜隈地区は明日香村の西南部を占め、実に古代大和朝時代の天皇の陵墓が全てここに含まれる。文武天皇陵、天武、持統天皇陵、キトラ古墳、高松塚古墳、etc...

5世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島から大挙して渡来人(東漢氏〈やまとのあやうじ〉)がこの檜隈地域にやってきて、『吉備郡史』によると「大和の如きは事実上、漢氏の国」と書かれている。人口の8割から9割が朝鮮渡来の人々で占められた場所に、古代天皇家の陵墓がひしめき合っている事実をどう考えるべきか。

天皇家は、朝鮮半島を渡ってやって来た、と解すのが自然であろう。

 文武天皇陵

「檜隈安古岡上陵」と記してある。

    Monnmuryou

 Monnmukeijiban

 

  

 日本書記には第28代宣化天皇が536年に即位すると檜隈廬入野宮に都を定めたとあるが、それが今から行く檜隈寺跡。

Hinokumaannai

檜隈寺跡と於美阿志神社は同じ場所にある。

 

Hinokumaomiasijinnja

 

Hinokumameiban

Hinokumasennkatennnou

Hinokumatou

 

 

    

                                                                  (つづく)

 


京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(3)

2014-09-11 21:48:46 | 歴史

『九鬼文書』の蘇民将来は、「漂浪神は九鬼家に泊まり、その夜嵐があったが、九鬼の一族のみが助かり、他の人々はすべて滅びてしまった。神の出発の後、九鬼家の軒下には☆印(かごめ紋)のついた木の札が下がっていたので、人々はこの漂浪の神はスサノオであったことを悟った」となっている。

この☆(かごめ紋:三角形を二つ組み合わしたもの。ここでは☆を便宜的に使用))はダビデの星といわれ、今日でもイスラエルの国旗になっているが、伊勢神宮の石燈籠に見えるように伊勢神宮のシンボルマークにもなっているし、また神代文字のなかにもあって研究者を不思議がらせている。

さらに『公事根源新釈』百一祇園御霊会十四日も、祇園社すなわち京都八坂神社の祭りとして、
「武塔天神の速須佐雄神が、南海の女子に夜這いしたとき、弟の巨旦将来が泊めることを断り、兄の蘇民将来が泊めた。
 八年の後、武塔天神は八王子とともに蘇民を訪れて、茅の輪を作ることを命じ疫病の難を避けさせた」と述べ、「また祇園の縁起にいわく」として
「天竺の北の九相国に吉祥園があり、その城に牛頭天王がいて武塔天神ともいった。
沙渇羅(サラ)龍王の女を后として八王子を生み、八万四六五四神の眷属があった。
御霊会のとき、四条京極で栗飯を奉るのは蘇民将来の由緒という」と述べる。

ここで「サラ龍王の女」というのはもちろんサバの女王ビルキースである。
「九相国」の相がイスラエルのスを、「吉祥園」の祥がエルサレムのサをそれぞれ残したと考えるべきであろう。

ソロモン時代のユダヤ人はバアル教を信仰していたから、「牛頭天王・武塔天神」とはバアル神、またはバアル神を奉じるソロモンのことであった。

 

以上から、ソロモン王=バアル神=牛頭天王=武塔天神=檀君桓雄=素戔嗚尊 となるわけである。

 

 

Ekijinja
八坂神社の境内にある「疫神社(えきじんじゃ)」

祭神は「蘇民将来」

 

Honden八坂神社本殿

 

 

Haiden_2
拝殿

 

 

Mitudomoe三つ巴の献灯

三つの巴は、新羅の朴氏、昔氏、金氏を表す。

現在の韓国の国旗は二つの巴になっているが、これは昔氏が九州の熊本に去って多婆羅国(現玉名市)を建て、残りが二氏になったため。

さて次は京都御所へ。

201系統のバスで、赤レンガの同志社大学の向かいで降りる。

Nagaikabe_2
中に入って驚いた。とにかく広い。

 

Nagaikabe2
我が家の数千倍の敷地である。築地(土塀)が延々と続く。

 

京都御所の見学は一般公開日を除くと、インターネット、郵送、御所直接窓口のどれかを通して予約申し込みをしなければならない。インターネットが一番簡単で速いので、この日の予約を宮内庁HPから申し込んでおいた。パソコンで印刷した予約券を入り口(清所門)で提示して中へ。

中の待合所で数十人がまとまってガイドの案内で標準参観コース(約1時間)へ出発。

先ずは「御車寄」から。

Okurumayose
昇殿を許された者が正式に参内するときの玄関。この玄関を上がると「萩壺」と呼ばれる中庭があり、ちょうど清涼殿の裏側にあたるのだが、我々一般人は当然ながら入ることはできない。

Kugyounoma
「虎の間(公卿の間)」。もっとも格の高い公卿が参内したときの控えの建物の間。

Tenjoubitonoma
「鶴の間(殿上人の間)」。同様に次格の諸侯、所司代の控えの間。

 

Sinnokurumayose
新御車寄。大正天皇のために作った車寄せ。現在も使用。

 

 

Kenreimon
次は「建礼門」。我々は清所門から築地の中に入ったわけだが、天皇と外国の賓客だけがこの門を通ることができる。「狭き門」だ。

Jomeimon建礼門から御所に入ると、すぐ前(北側)に「承明門」がある。ここを通って紫宸殿に上がるわけだ。
    

 

Shishinden1
承明門の柱の間に見えるのが紫宸殿。我々は門の外から眺めるのみ。

 

Shishinden2

 

Shishinden3Shishindensetumei

 

Shishindengaidoガイドさんが承明門と紫宸殿の説明をしている。

 

 

現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれる里内裏のひとつ。内裏は皇居のことで天皇の住まいだが、内裏はしばしば火災にあい、内裏修復完成までの間、貴族の邸宅などを仮皇居として天皇の住まいに充てられるようになった。これを「里内裏」と呼ぶようになった。

桓武天皇は延暦13年(西暦794年)に、長岡京から平安京に遷都したが、166年後に初めて内裏が火災にあってから、その後も度々再建と火災を繰り返し、いつしか廃墟となり、「里内裏」が日常の皇居となった。

京都御所は、元弘元年(1331年)光厳天皇の即位から明治2年(1869年)の東京遷都までの538年間を皇居として使用されたが、やはり何度も火災と再建を繰り返し、安政2年(1855年)に再建されて以来、現在に至っている。

紫宸殿では、大正天皇と昭和天皇の即位礼が行われている。

さて次は隣にある清涼殿。

Seiryoden2
別棟の御常御殿ができるまでの永い間、天皇の日常生活の場として使用されていた。

Seiryoden清涼殿の前に広がる東庭は白砂敷きで、正面に呉竹、南寄り軒下近くに漢竹が植えてある。

Seiryoden3_2

Seiryoden4
建物は入母屋檜皮葺の寝殿造りで紫宸殿と同じだが、床ははるかに低く内部は間仕切りも多くなっている。

南廂を「殿上の間」といい、蔵人や公卿などが伺候し奉仕した。殿上人というのは、ここに昇殿できる者のことである。

 

次は御池庭。

Oikeniwairigutiこの入口を通って右側に200mくらい続いている。

 

 

Oikeniwa1_3入ってすぐ右にある欅橋

 

 

Oikeniwa2_2庭石もふんだんに。

 

 

Oikeniwa3_3
小雨が降り始めました。

 

Kogosho御池庭に面して西側にある「小御所」(こごしょ)

天皇が将軍や諸侯と対面される場所らしい。昭和29年焼失。昭和33年復元。

Otunegoten1_3
御常御殿(おつねごてん)。15室の書院造。清涼殿が居住様式の変化に対応できなくなったため、豊臣秀吉の時代に別棟として建設。安政2年(1855年)再建。京都御所のなかで最大の御殿。

Otunegoten
剣璽を奉安する「剣璽の間」も備えられている。

 

Otunegotenmima
御常御殿の待合の間?3間あるひとつ。

 

Otunegotenmima2同上。

 

Osuzumisho_3
コースには含まれてないが、御常御殿の北隣に見える御涼所(おすずみしょ)

Osuzumisho2
御涼所の庭。

 

これで京都御所の見学コースは終わり。

次は、今日のメインイベント孝明天皇暗殺現場の岩滝町だ。


京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(5)

2014-09-11 17:44:05 | 歴史

毎年宿泊する民宿「若葉」に宿泊、1日目は天理市の石上神宮をレンタサイクルで目指す。

Dsc_0383先ず天理市を目指し、地図で見ると明日香村から10km余りだったので1時間程度で着くかと思ったが、甘かった。なだらかな上り坂が多く、2時間半以上かかった。これは169号線から51号線に進むときにあった夜都岐神社の入口にある鳥居。春日大社と関係深いらしい。左折する。

01_2
どんどん自転車を漕いで行くと、なにやら凄い建物が、、、

 

02どうやら天理教の本部周辺に来たらしい。石上神宮は右折の標識もある。

 

03
うーむ、凄い。天理教は中山みき(女優みたいな名前だ)が天保9年(1838年)教祖として始めた神道系の教団で、和歌と数え歌形式で教典ができているという。黒住教、天理教、金光教、大本教は、出口王仁三郎によると同じ流れの中にあるらしい。

04屋根の上に波のように屋根が続いている。

 

 

02天理教本部と大学、高校、中学校、小学校等が集合して建設されている。アメリカにあるモルモン教のソルトレークシティみたいだ。

 

案内標識に従い、石上神宮を目指す。

05ほどなく石上神宮の鳥居が見えてきた。

そんなに大きくなく控えめな神社というべきか。

06京都の下鴨神社のように長い参道ではなく、しばらく歩くと社殿が見えてきた。

07_3
その途中に山の辺の道の標柱があり、まわりに鶏が放し飼いされていた。

0813
こんな金色の鶏も。14

15

 

16
なんかエリートが集まっているようで、、、

 

17こちらは木に登った鶏さんです。

 

18
こんな具合にも。木登りが好きなんですね。

 

09さて、いよいよ拝殿への楼門です。  

 

10isonokamijinnguuhaidenこれが石上神宮の拝殿。こじんまりしている。古代、神宮と名のつく神社は、伊勢神宮と石上神宮だけだった。物部氏の総社でもあり、この神宮に全国各地から徴発した莫大な量の神宝類を、桓武天皇のとき平安京に移すにあたり、15万7千人余りの夫役を要したという。それほど巨大な勢力を物部氏は持っていたわけだ。

物部氏の祖はニギハヤヒと言われており、新羅史の昔氏でもあり、遠くバビロニアのアル・ウカイルからシャキィ族としてインドに移動し、さらに中国の河南省へ移動し「宛」という製鉄基地を作り、さらに満洲に侵入し濊族となり扶余族と合体した。

さらに朝鮮半島から九州熊本に移動し日本第2の王朝(第1の王朝は北部九州の東表国)である「多婆羅国」を建て、さらに日本海岸を移動し、但馬海岸から上陸後、先に近畿地方を占領していた苗族主体の「秦王国」に代わって物部王国を広げていったものと思われる。

13hokura物部氏の神庫(ほくら)。拝殿奥の禁足地にあるため、塀の隙間から撮影。

西暦369年に作られた「七支刀」も昭和の時代までここに保管されていた。刀の裏側には、金文字の象眼で「百済王世子、奇生聖音、故為倭王旨」とあり、百済王の世子が倭国の王になった、とはっきり書いてあるのである。ちなみにこの王は「景行天皇」のことである。

11yuisho石上神宮の祭神は、布都御魂大神、布都斯魂大神、布留御魂大神の3神で、始めの2神はともに刀の霊であり、布留御魂大神は「十種の神宝」であるが、「布留」というのはシュメールの「ウル」に由来するのでは、と思っているが証明はできない。

14yanegawara石上の名の刻まれた瓦。  

 

 

 

 

さて、昼からは来た道を戻って大和三山のひとつ、橿原市の天の香久山を目指す。帰りは下り坂なので1時間半で戻って来れた。

Kaguyama01これが天香久山

 

Kaguyama02接近して

 

Kaguyama03再度離れて違う角度から。ご覧のように非常に低い山で、標高152.4m。

 

Kaguyama04nabunken奈良文化財研究所のそばの道から入る。

 

Kaguyama05こんな感じの登山口

 

Kaguyama06

看板が出てます。

Kaguyama07なんなく頂上に着くと、樹間からもうひとつの大和三山の畝傍山が見えます。 しかしこの場所を除いて展望なし。

万葉集に天の香具山を読んだ次のような歌がある。

舒明天皇の歌
 「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)

 歌の中に「海原」とか「かまめ(カモメ)」とか出ているが、奈良は内陸なので海も見えないし、カモメも飛んでいない。当然、天の香具山の頂上からもそんな景色は見えない。謎だ。

Kaguyama08そして小さな神社があります。

 

Kaguyama09国常立神社です。宮下文書によると、日本の神々の潮流は大きく分けて3つあり、一つは国常立命、二つ目は国狭槌命、三つ目はスサノオ命となっている。

Kaguyama10_2右が境内社の竜王神、左が国常立神社。

 

Kaguyama11雨乞いの竜王神

 

Kaguyama12国常立神社。「宮下文書」によると、7代821年続いた第1神朝のあと、15代1849年続いた第2神朝があり、そのあと国常立命以降7代506年続いた第3神朝があったとするが、第1神朝は中央アジアのミタンニ、ヒッタイトの時代で、第2神朝は殷の建国当時に接触した北狄の時代、第3神朝は満洲の扶余族の時代で、このとき国常立命系と国狭槌系に分かれたと思われる。もちろん彼らが日本列島にやって来たわけである。


Kaguyama14tennouすぐそばに明治天皇遥拝所。

当時は見晴らしが良かったのだろうが、現在は樹木が伸び放題で全く展望がきかない。

 ここで明治天皇について考えてみたい。

 


京都・奈良・そして大阪 古代探訪の旅(4)

2014-09-11 17:38:19 | 歴史

御所から出て、同志社大学の前を通り、橋を渡って再び市バスに乗る。

Busstop「河原町正面」のバス停で降りる。

10mバックして路地に入ると、小さな川があった。

 

Takasegawa1浅い川で生活用の小さな橋もかかっていた。

 

Takasegawa2_2
水も澄んでいた。

Takasegawa3しばらく歩くと、石の橋がかかっていた。

Takasegawa4_2
川の名前が「東高瀬川」となっている。

Takasegawa5uenokutibashi
橋の名前が「上の口橋」となっている。目的地は「下京区三の宮通り上ノ口上ル岩滝町」なので、いよいよ近い。

Furoya橋を渡ると風呂屋が。なんとなく怪しい雰囲気。路地を進むと、、、

 

Jyuukyo_4
ここだ!   

 

鎌倉時代中期、後嵯峨天皇の後任天皇のイザコザから嫡流である持明院統と庶流である大覚寺統から交互に天皇を立てることになった。これが南北朝時代のきっかけである。

持明院統である北朝の後小松天皇は、実は足利義満が後円融天皇の妾である康子を奪って生ませた子供であり、さらに義満の庶子の足利貞成を崇光天皇の子で皇位継承者である栄仁親王の養子にした後に、栄仁親王とその実子の治仁親王を殺害し、足利貞成を貞成親王として伏見宮家を継がせた。そして貞成親王の子が後花園天皇になったのである。

つまり、後小松天皇から孝明天皇までの北朝の系譜は、「足利天皇家」とも呼ぶべき存在であり、偽朝である北朝を倒して、南朝系の新しい天皇を立てて明治維新を実行しようというのが薩長連合の密約であった。

そのために、先ず、頑迷な攘夷論者である将軍家茂を毒殺し、次に孝明天皇を、妾で岩倉具視の義妹である堀河紀子邸におびき寄せ、便所に潜んでいた伊藤博文が忍者刀で刺殺した。

その堀河邸の場所がこの岩滝町なのである。

角を曲がって2軒目の前に来て、あっと驚いた。

Aizukotetubiru
堀河紀子邸の代わりにこんな建物が、、、

 

Aizukotetu
近寄ってみると、なんと「会津小鉄会」の文字が!

京都の「指定暴力団 会津小鉄会」の本部が建っていた。

公安調査庁の調べでは、暴力団の6割は被差別民が占めているという。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=YRFmzRKvx7I

ところで、伊藤博文の所属していた松下村塾も、毛利氏の鉢屋衆の流れを汲む被差別民の忍者集団と推察されている。そして、孝明天皇が、この場所で刺殺されたのが慶応2年(1866年)12月25日。会津小鉄会が結成されたのが2年後の慶応4年なのである。

孝明天皇殺害場所の証拠隠滅封印を狙って、伊藤博文が、同じ被差別民集団の会津小鉄会に譲渡管理を依頼したのではないか。ヤクザの管理下にあれば、一般人も近づきにくく秘密も漏れないからである。

Kotetubiru2裏(高瀬川)側からみると、風呂屋の隣で、車が出かけているビルが会津小鉄のビルである。

Birutosauna_3
要塞のようなビルである。後でわかったのだが、この辺りは「五条楽園」とも言われ、いわゆる旧赤線・遊郭のあった処で2010年の10月まで「五条楽園」の看板が橋の上にかかっていたらしい。

 

蛇足だが、民主党の幹部にM議員がいるが、外務大臣のとき、焼肉屋を経営している外国人(韓国人)から違法献金を受領して外務大臣を辞職したが、週刊誌等では暴力団員との派手な交際が露見するのを防ぐために辞職したと指摘された。

M議員は、若い頃、京都の解放同盟の青年部長だったといわれる。暴力団の6割が被差別出身であることと併せれば、M議員と交遊相手の暴力団員は同じ被差別出身の友人だったのではないか。

ここで被差別民について調べてみると、インドがその淵源のようだ。

紀元前1000年以上前に、アーリア人がインド北西部のパンジャブ地方に侵入したときに、肌の色に基づく差別を、原住民自治区の設定というかたちで実行しながら侵略支配した。

そのときバラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラと4つの階級からなる差別カーストをつくったのだが、この枠内に入らない「アウト・カースト」たる「不可触民」も発生した。

不可触民は、文字通り触れると穢れる人間として扱われてきた。インドではダリットともアンタッチャブルとも呼ばれる。屠畜業者(マハール)、皮革労働者(チャマール)、人糞処理の清掃人(バンギー)等が彼らの主な職業であり、穢れは「死」「産」「血」「体からの分泌物」より生じると考えられ、次々伝染するとされてきた。不可触民に対しては、見ることも、近づくことも、その声を聴いてもいけないとされた。恐るべきことである。

この思想が全世界に発散され、日本列島にも波及したのではないか。

カーストは親から受け継がれるもので、生まれた後にカーストを変えることはできない。したがって、子々孫々まで同じ職業を世襲しなければならない。1950年にカースト制度は禁止されたのだが、2001年のインドの国勢調査においても、1億6600万人以上もの不可触民が存在しているという。

http://www.youtube.com/watch?v=yMbtWTUQd7c

 

更に古代(紀元前)マガダ王国の時代、もう一つのアウト・カーストである「ヴラーティヤ(漂泊民、種姓外者)」が発生した。彼らは農耕を営まず、粗末な荷馬車であちこち移動し、ターバンを巻き、突き棒と特殊な弓を携えていた。

彼らはおそらくサカ族であり、スキタイ族と同系で、「契丹秘史」には「東大古族」としるしてある。彼らはインドから出発して朝鮮半島で「禾尺」となり、日本列島で「山窩(さんか)」となった人々である。

山窩は日本列島においては、九州の人吉盆地が発祥の地であり、刀伊の乱で権力を得て武士となり、鎌倉時代から江戸時代まで政権を握り、現代においては、薬剤師、医師、公務員、国会議員、元総理大臣等、あらゆる分野に広がっている。

さて次は渉成園だ。この会津小鉄会のビルから約150m離れた場所にあり、枳殻邸ともいう。紫式部の書いた「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人である源融(みなもとのとおる)の住んでいた別荘といわれている。

Kikokuteia現在、東本願寺の飛び地境内地になっており、東本願寺から200m東に離れた場所でもある。しかし、、、

 

Kikokutei_6
なんと、無情にも入園受付時間を過ぎていた。

 

Kikokutei2時計を見ると4時過ぎ。勝手に夕方5時くらいまでは入れるだろうと思い込んでいたのが甘かった。

 

Kikokuteigaijin
同じ境遇の外人さん(^^;

 

Kikokutei1
しょうがないので、半開きの門から中を撮影。

 

Kikokuteikawara
塀の上の屋根瓦。「本願寺」の名前がある。

京都の旅はここまで。これから近鉄で奈良の明日香村まで行き、民宿で4日間の宿泊だ。