国道から猿田彦神社に入る。
『秀真伝』には、「我は伊勢の祖、サルタヒコ」とあるように、伊勢を中心とする近畿地方(大和)の王であり、中国の秦帝国が漢に倒されたとき、中越と南 越の秦人は、多く日本に亡命してきたが、その子孫であろう。また、「宮下文書」には大物主家(ユダヤ系)と猿田彦は兄弟関係になっているから、猿田彦もユダヤ系であろう。
実際、「伊勢音頭」はユダヤ語で解けるという(川守田英二『日本ヘブル詩歌の研究』)。
例)ササ、ヤートコセー(汝ら喜び欣べ、エホバは沈めた)
ヨーイヤナー(エホバは憐れみふかし)
アーリャリャー(われエホバをほめ祀る)・・・等
猿田彦たちは、朝鮮半島を渡って九州の吉野ヶ里に「倭奴国」を建てた後、中国地方を通って大和に移動し、「秦王国」(大和朝廷)を建てたようだ。
イセ(伊勢)はイスラエル、サルタヒコ(猿田彦)はエルサレムの意味かも知れない。
さて次は外宮だ。バスから「ダビデの星」の刻まれた燈籠を眺めながら10数分で外宮前に到着。
大きな雨雲に覆われている。
ミニ宇治橋。内宮よりも小さい。
「左側通行」と書かれている。
深く御辞儀をする参拝者。宮崎神宮の入り口に似ている。
カーブを描きながらしばらく進むと、外宮正宮。豊受大御神を祀っている。
しかし、ここも鳥居を潜ると撮影禁止。ちょっと離れて撮影。
内宮と似た構造でした。
小高い丘の登り口にあった。
これも風宮?
高いところにあるので、多賀宮(豊受大御神荒御魂「とようけおおみかみのあらみたま」)と呼ばれているらしい。
だいたい皆、同じパターンで造られている。
さて、次は飛鳥だ。
近鉄伊勢駅から橿原神宮駅まで行き、タクシーで今日の宿「民宿若葉」へ。岡寺の参道沿いにある。急な坂道を上っていくと、後ろからぞろぞろ外人(ジジババ部隊)たちがついてくる。
どうやら私と同じ宿に泊まるらしい。
翌朝、宿の提供するレンタサイクルで近くにある橘寺(聖徳太子が生まれた場所?)へ 行く途中の民芸店の前にあった、巨大な「蘇民将来」像。
伊勢の宇治山田駅周辺を歩いた時も、民家の表札に「蘇民将来の子孫」という札を付けた家が多かった。猿田彦たちが大陸から伝えたものだろうか。
道を挟んだ反対側にある川原寺から撮影。
その川原寺(かわらでら)。建物は焼失して礎石だけだが、7世紀頃、斉明天皇の川原宮跡にその菩提を弔うために天智、天武両天皇によって建てられたとされる。
「川原寺」の名前が、教科書等で見慣れた、二人の侍童を伴った聖徳太子像(以前の一万円札に載っていた)の掛け軸の絹地にうっすらと墨書されていたらしい。これは何を意味するか?太子時代の日本には侍童を従える習慣はなかったという。
会津八一博士が中国の友人から送ってもらったという出土品の拓本が、早稲田高等学院の授業で示されたが、これが御物の聖徳太子像と、うり二つだったという。
川原寺は七世紀頃、多くの仏菩薩像が安置され、仏教行事のために大陸調の伎楽を専門的に執り行うようなっていたことが解っている。太子と殆ど関係ない川原寺に、中国からこの画像が届き、それが法隆寺に移管され、聖徳太子像として喧伝されたということらしい。
もちろん、中国人が描いた中国人の画像であり、聖徳太子とは縁もゆかりもない人物だったのである。
そもそも聖徳太子は実在したのであろうか?
結論から言うと、存在しなかったらしい。が、モデルは居た。百済の王である「威徳王昌」であった。名前の中の「徳」と「昌」 を抜き出して、逆さにし「聖徳」と呼んだ。また、その父「用明天皇」も存在せず、モデルは威徳王昌の父である「聖明王」らしい。
なぜこんな手の込んだ事をしたかというと、「倭国」から「日本」に国名が変わったことにその原因があった。
白村江の戦いで新羅、唐の連合軍に敗れた「倭国」は新羅に占領され、九州の大宰府が接収された後、首都が九州から秦王国のある近畿地方に移された。このことを『唐書』では、「日本もと小国、倭の地を併せたり」と表現している。
飛鳥の「藤原京」は秦王国の首都だったが、これが「もと小国」で、日本府になって、邪馬壱国のあった九州の倭国や関東の倭人国家を併せたことを言っている。
670年に倭国から「日本」に国号が変わったが、「新羅」の意味はボルネオ語のシラヒースで「日の出」の意味だから、「日本」とは「新羅」の同義語ともいえる。
これらの作業を戦勝国同志である唐に対し秘密で行った新羅は、国家宣言たる「日本書紀」のなかで『隋書』に対し、整合性をとらねばならなかった。
『隋書』には、608年裴世清が答礼使として倭国に来て、倭王アマタリシヒコ(男性)と会ったことが書かれているが、新羅王子たる舎人親王が、新羅と百済と九州の王国の歴史を下敷きに脚色した「日本書紀」には、当時の天皇は推古天皇(女性)となっていた。そのため矛盾を解消するために「聖徳太子(男性)」を捏造した、らしいのだ。つまり、答礼使が会ったのは聖徳太子ですよ、と言いたかった訳だが、倭国の描写として阿蘇山の様子も書かれており、近畿地方でないのは歴然としている。
また、推古天皇のモデルもあり、新羅王の真平王妃たる金摩耶のようだ。
次は檜隈(ひのくま、現在は檜前)地区だ。
檜隈地区は明日香村の西南部を占め、実に古代大和朝時代の天皇の陵墓が全てここに含まれる。文武天皇陵、天武、持統天皇陵、キトラ古墳、高松塚古墳、etc...
5世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島から大挙して渡来人(東漢氏〈やまとのあやうじ〉)がこの檜隈地域にやってきて、『吉備郡史』によると「大和の如きは事実上、漢氏の国」と書かれている。人口の8割から9割が朝鮮渡来の人々で占められた場所に、古代天皇家の陵墓がひしめき合っている事実をどう考えるべきか。
天皇家は、朝鮮半島を渡ってやって来た、と解すのが自然であろう。
文武天皇陵
「檜隈安古岡上陵」と記してある。
日本書記には第28代宣化天皇が536年に即位すると檜隈廬入野宮に都を定めたとあるが、それが今から行く檜隈寺跡。
檜隈寺跡と於美阿志神社は同じ場所にある。
(つづく)