長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

【ななとこまいり】

2010-11-10 13:16:48 | 日記・エッセイ・コラム

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昨年の12月に野田のななとこまいりをやった。

その頃の私の状況は、大阪ローカルな世界にはまっていたようなのだ。
此花区の伝法という、わざわざ観光したいと思う人は、どう考えても少なかろうと思う町を、わざわざ散策したりもしている。
6月に大和田(梅田)街道行をやって、大阪の町の見方が変わったのかも知れない。
10月に彦根城へ出向く予定が中止となり、それなら紅葉のシーズンにでも行こうとなっていた。
それが諸般の事情で年内は完全にアウトとなり、とうとうひこにゃんに会えなかったにゃん。
そのことも大きく影響しているのであろう、どうやら古い町並みに焦がれているようなのだ。
此花区のお隣となる福島区に、野田という所があるが、戦火から免れ古い家並み等を今尚残す町である。
実は父方の祖父母の、終焉の地となった町なのだ。
だから此花区とは違って、私にとってはまんざら知らぬ場所ではない。
私がまだ中学生の頃だったろう、先に祖父が逝った。
それから数年経ち、もう私が大学に通うようになった頃に、祖母も身罷った。
二人が住んでいた家は借家で、鰻の寝床のように細長い、古い木造家屋だったように記憶する。
祖母が亡くなるのを待っていたかのように、その古家は取り壊された。
だから祖母のお葬式を終えてしまうと、私にとってはもう関りのない町となり、暫くこの地に訪れることはなかった。
たまに野田恵美須神社に詣でることはあったが、ここは玉川という地名になってしまっている。
玉川には野田藤発祥の地があり、毎年美しい枝垂れの姿が観られるのだが・・。
江戸期に遡れば、恵美須神社を中心として野田村があったそうなのだが、千日前線が地下を通る府道29号大阪臨海線を隔てて東側は、今ではもう野田ではなくなっている。

回り合わせだろうか、昨年あたりから様々な用事が出来、再び野田の地に訪れるようになった。
JR環状線野田駅近くに、栄湯という銭湯があるのだが、時としてここで一風呂浴びることさえもある。
野田駅前を北港通と分岐した国道2号線が通っているが、その道路を隔てた南側が野田の町になる。
ずっと南に下って行けば、野田の半分近くの面積を占める、大阪中央卸売市場に突き当たる。
中央市場の南側には安治川が流れていて、川向こうは西区の川口である。
野田の東端は前述の通りだが、西端は野田6西の筋まで伸びている。
この道路は北口がENEOSのガソリンスタンドと、リバーガーデン福島という大規模マンションに挟まれている。
此花区との境目となり、ENEOS側は此花区西九条で、リバーガーデン側が福島区野田である。
野田の駅から見れば、東側は直ぐに途切れて、町は西に広がっている、そんな風に感じるのではないだろうか。
土蔵や大正時代に建った長屋が、補修を重ねながら今も残っていたり、本当にレトロな風情漂う町並みである。
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勿論新しく建て替わった家や、それにマンションなんかも、あちらこちらと建っている。
マンションの前に土蔵が建っていたりする。
そんな新しい建物と古い家並みが、コラボレーションしている町なのだ。
江戸末期から明治の中頃まで、野田村には田んぼが広がり、水路が村を廻っていたそうだ。
明治も後半になると、野田村の近くの臨海部には、住友伸銅所や日本紡績等の工場が建った。
この工場地帯と結ぶ大野町通が田んぼを貫き、やがて道に沿って町屋や長屋が建ち並ぶこととなった。
明治の終盤から昭和初期にかけ、田んぼはどんどん長屋に変わって、ついには無くなってしまった。
田んぼのあぜ道や水路が道路になっていった。
そんなこんなで、迷路のように路地がたくさんあったりする。
昔の道の名残なのか、石畳も所々で残っていたりもする。
町を航空写真で見ると、田んぼの区画割りや水路の形状が、町の基礎となっているのが分かるそうだ。
ところで住友伸銅所は公害問題で移転し、1931年(昭和6年)その跡地に中央卸売市場が設けられた。
嘗て付近には百間堀川が流れていて、1964年(昭和39年)に埋め立てられたとのこと。
中央市場が出来るまでは、その百間堀川の東岸の鷺島に、雑喉場の魚市があったそうだ。
雑喉場の魚市は天満の青物市 や堂島の米市と並び、大坂三大市場として賑っていたのだ。
その雑喉場の魚市に渡す雑喉場橋が、百間堀川に架かっていたそうだ。
それを顕彰する碑等が、西区江之子島となる、木津川橋の手前に設けられているが、野田にも雑喉場橋の親柱が残されている。
それはさて置き、此花区伝法散策に続いて、今度は福島区野田のお地蔵さん巡りをやってみようと思い立ったのだ。
試しに友人を誘ってみたが、これにはさすがに誰も乗って来なかったよ・・・。
12月6日大安吉日、地味にひとりでお地蔵さんを巡る、野田村ブラリ散策行とあいなった次第。
この野田の町には、自治会ごとでお世話している、お地蔵さんが十一箇所もある。
その他にお稲荷さんと妙見さんの祠と、珍しいお狸さんの石仏が祀られている。
七箇所のお地蔵さんを参る、「ななとこまいり」というのがあり、願い事が叶うそうである。
私は全部に参ったので、いったいどうなるのだろうか。
お地蔵さんには全部ではないが説明書きがあったりして、そこには番号も書いてあったが、私は順不同で気の向くまま、縦横無尽に野田の町を闊歩した。
って言うか、路地から路地を迷い歩いているうちに、お地蔵さんに行き着いたというのが正確な表現だろう。
お地蔵さんの地は、大地を意味するそうな。
大地の恵みとは、人の衣食住から金銀財宝に至るまで、様々なものを生み出す源である。
お地蔵さんも人に様々な恵みを与え、皆の生活を護ってくれることから、その名が由来するのだそうだ。
安産・健康・長寿・智恵・豊作・求財などにご利益ありとされる。
おんかかか びさんまえい そわか(真言)
堤地蔵→玉河塩屋地蔵→源正地蔵→北向火除地蔵→同慶地蔵→宝大明神(お稲荷さん)→延命地蔵→出世地蔵→柳原地蔵→妙見宮→新堀北向地蔵→子安地蔵→兼平地蔵→源吉大明神(お狸さん)
以上のように巡って来た。

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次のお地蔵さんはどんなのだろうって、楽しみながら巡った。
ウオールプレートにふられた番号の順番は、①延命地蔵→②兼平地蔵→③北向火除地蔵→④源正地蔵→⑤子安地蔵→⑥出世地蔵→⑦新堀北向地蔵→⑧玉河塩屋地蔵→⑨堤地蔵→⑩同慶地蔵→⑪柳原地蔵→⑫源吉大明神となる。
この番号の根拠はよく分からないが、この通りに巡って行けば野田の町を網羅できるのだろう。
①延命地蔵→②兼平地蔵→③北向火除地蔵だけでも、野田の町を縦横に歩くことになる。
野田のお地蔵さん巡りをやるなら、試しに番号通り歩いてみよう、って言いたいけど、事前に各々のお地蔵さんの位置が分かる地図を、手に入れておいた方がいいと思う。
私は前述の通り、詳しくはないにしろ野田の町を少しは見知っていたので、地図なしでもなんとかなったけれど・・・。
源吉大明神はお地蔵さんではないが、町の人気者ということで、順番に加えられているらしい。
どのお地蔵さんも、近所の人達から大切にされているので、脱帽し敬意をもって接するように心がけた。
玉河塩屋地蔵さんは一番大きく、それに一番お洒落である。
一番の古株が北向火除地蔵さんで、百年を超す歴史があるのだそうだ。
このお地蔵さんのお蔭で、空襲から免れたと言われているそうな。
延命地蔵さんの祠の鈴にぶら下げられた、布の束を見て私はハッとした。
幼くして天に召された子供たちの名前が、その享年とともにそこには書かれてあった。
お地蔵さんの涎掛けにでも、使われていた布なのだろうか?
延命とは親の願いであり、幼子たちの願い・・・。
兼平地蔵さんは、毎年地蔵盆に子供達がお化粧し直すのだそうで、なかなかの別嬪さんだった。
迷い迷った挙句、全行程所要時間は約三時間。
源吉大明神にはなんとなく見覚えがあったが、祖父母が住んでいた場所は、もう分からなくなってしまった。
子安地蔵から兼平地蔵へ行く途中、野田緑道を通ったのだが、そこにも狸の石像があった。
源吉大明神のように祀られているのでもなく、単に名も無き狸の石像らしい。
付近にはなんだか、ゑびす顔の石像もあった。
地味な散策行ながら結構面白かったし、野田の町を今一度見直す一日でもあった。
だが人に勧めようとは思わない、仲間から最近抹香臭くなってきたと指摘されていた。
野田界隈だけではなく、よく見れば町のあちらこちらに、お地蔵さんの祠は祀られている。
普段通勤通学とかに使っている道に普通にあったりもして、いちいちその総てにお参りしていたら、学校や職場に辿り着く前に、日が暮れてしまうだろう。
だからお地蔵さんにお参りする気ならば、最寄の祠の前で手を合わせ真言を唱えれば、それでよいのであろう。
お地蔵さんは抹香臭いと言うより、なんだかメルヘンチックな感じがするのは、私だけだろうか?
なま さんまんだなん かかか すたんぬ そわか
なま さんまんだなん かかか びさまえい そわか

お地蔵さんの位置の分かる記事へhttp://www.osakacity.or.jp/pdf/publications/freepaper/0801.pdf