「かえるの日」後日メモ

豊島由香のブログです。2006年5月の「かえるの日」公演後から始めました。演劇のことや、日々の出来事などつづっています。

木ときょうだい

2007年09月17日 | 日々のこと
以前、ひどく自分自身が気持ち悪い頃に
ある美しい栄養士さんのおかげで、救われたことがある。
その方はテレビで
「食べ物は将来の自分なのですから」
と、おっしゃった。
それで、「なんや、私はとっくの昔からキュウリやなすびやったんや、
野菜ときょうだい面してかまわなかったんや」と思って、救われた。

近頃、その記憶はあるものの、実感が薄くなって、
あの頃のおぞましい状態も忘れて、いささか恥ずかしい感もあり
なんで感動したのか、救われたということは覚えているが
その肌触りをうしなっていたのだけど。


たぶん、問いが自分にあるかどうか、ということなのだろうな。
今日は、相似形の気づきがあって、
(だから、前とはまたちょっと違うのだけど)おもしろかった。

今日、バスの中で、強い身体のありようについて考えていた。
上半身で頑張っても弱い、もっと下半身から、と考えて
いや、もっともっと下からだ、
大地から、大地に続いて立つことなのだろう、と、思った。
これまでいろんなところで見聞きして動いてきたことがようやく
しみこんでくれたのだろうか。
重力に支えられて立つ身体には、しなやかな強さの手がかりになる手応えがあった。
だけど、今度は、なんや地球からもらいっぱなしやんか、
と思ってなんだか居心地悪くなった。

バスの窓から木が見えて、
酸素やらなんやら、木からももらいっぱなし、と思って、
またしんどいような気分になる。
だけど、私は二酸化炭素を出している。
近頃、二酸化炭素が多すぎるようだけど、
もともとは、お互いにバランスとってやりとりしていたはずだ。
あらためて呼吸してみた。
窓の閉まったバスの中で、緑に届けと思って呼吸しているなんて、
きもいヘンテコ中年女である。
乗り合わせた御方々、そんなきもい女がいたとはまずは知るまい。

しかし、そうしているうちに、
木ときょうだいなんや、木と同じなんや、と思った。
バスを降りて、町を歩いた。
お寺の塀の上、遠くに木が見えて、そのまた上にぽっかりむっくり、雲の動く。
暑いな、と思いながら息を続けた。
地面の上で重力に支えられ、風に吹かれて、呼吸して、
私も地球の一個の生き物なんやな、という「肌触り」があった。

そしたら、近頃抱えていたなんやらかんやら、
それが、問いの発動点であるが、
それは「抱える」とか、「背負う」とかいうものではないような、
問題解消したり、具体的な楽状態に変化したりするわけではないけど、
なんというのですか、押しつぶされるもんではないやろう、と思った。
それも含めての人間という生き物の自然を思った。

まだ、地球からのもらいっぱなし感はあって、
だから、それが、もらってしまうことが、何故強さにつながるのか、
うまく消化できていないけど、
おおきな手がかりを掴んだ気になっている。
どうしたって、もらって生きてるねんで、生かしてもらってるねんで、
ということを認められるようになることが強さにつながるのではないか。
と、考えはしているけど、まだ、それは私にとっては言葉が浮いている。
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