「かえるの日」後日メモ

豊島由香のブログです。2006年5月の「かえるの日」公演後から始めました。演劇のことや、日々の出来事などつづっています。

「父を葬る」

2014年05月19日 | 舞台などの感想メモ
燈座「父を葬る」作:石原 燃 演出:キタモトマサヤ
インディペンデントシアター1st 3月20日(木)


これまで生かされてきた時間のなかで、「みんな繋がっている」ということについて学ばされ、それは1度の学びではなくて、いろんな形で学びなおし、人生のいろんな大事なときにその思いを見つめることが多くあった。繋がっているという感覚は、救いや歓びをくれるものであり、同時に罪の意識、自分を問い直すものでもあるみたい。
このたび、「父を葬る」を観て、その「繋がり」のことをまた学ばされ、いろいろ思った。


チラシの裏に「東日本大震災後の東京。ある日、娘のもとに父の訃報が届いた」とある。

遺骨を引き取った娘の部屋へ父があらわれた。
父と娘の会話、娘は面倒そう、そっけない、だけどずっとその底辺に娘の震動を感じ、ひきつけられる。表情、身体から滲み出てくるもの。そして徐々に彼女のこれまでの生活や、父に対する愛憎、葛藤、職場での苦しみ、抱える孤独が話されて、彼女の犯している行為も推量されて、何が震えていたのか知らされる思いがする。

彼女の台詞で「(原発の)デモでみんな浮かれている」というような台詞があって、心に残った。それはもちろん作品としてデモ全体を批判するものではないように思って、もしかしたら何かしらポツッと黒い点のようなものはあるかもしれないけれども、そう言わずにおれない彼女の状態のほうが強く伝わってくる(あらためて大熊ねこさんは素晴らしい俳優さんだと思った)。


作品のなかの現実で生きた父はもういない、だけど父のいのちのはたらきともいえるようなものがやっぱり残っているように思った。霊魂とかそういうことではなくて、というか、そういうことはわからないけれど、まず、ごく普通にもらっている尊い奇跡として。
娘が見ている父は死んだ時点で以前の父のまま固定化してしまうものではなくて、ずっとあの娘に届き、はたらきつづけてくれるもののように思う。それはやっぱり娘も求めているからじゃないか。求めることと、はたらきかけられることと、それは同じことかもしれない。

父は過去に娘や家族をないがしろにした。そしていま娘は父にキツイ言葉を投げかける。父はむしろ、その言葉を引き受けたいのだろうか。


父の終盤の台詞。
窓の外へ、客席へと投げかけられる。
近しい人間関係における傷つけあいだけではなくて、じつはもっと大きなものから個人が傷つけられているのだと知らされる。
劣悪な職場、貧しさに苦しむ生活、危ない現場に追いやられ背負わされ、蓋をされている人びと。友を思う父のやさしさ。しかし父はただその大きなものの責任を糾弾するだけではない、自分の責任をも問い詫びる。


世界は繋がっている、ってあらためて思った。
あの娘のような人に、父のような人に、太郎さんのような人に、そこかしこで起こっているつらい状況に、実はみんなが繋がっている。この私も繋がっている。突きつけられるものがある。父の言葉のつぶては私の心にも届くものだ。




アフタートークで作家の石原燃さんと横山拓也さんのお話も聞けてよかったな。

当日パンフに目を通すと、演出のキタモトさんが「ご来場いただいたお客様には、ズシッと重いモノを持って帰っていただかなればならないかもしれないけれど、そういう演劇が存在して然るべきなのだと思っている」とあった。
確かにズシッと重い、けれど、観ることができてとてもよかった。
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