PBAだより(2013年1月号vol.610)より
木は空という背景があるから(堀肇先生)
説教や講演などの用で外泊すると、大抵は真夜中の一一時頃に目が覚めます。奉仕のせいかというと、どうもそうではないらしいのです。何かが気掛かりで意識が目覚めているのでしょう。一昨年の夏の教団一泊牧師会の時でした。案の定、その時刻に目が覚めたのです。このような時、私は決まって本を読むことにしています。この夜は本というより、黙想や思索に役立つような名著の抜粋とその内容に合わせたような絵画が対になっている名言集を手にしました。普段とはやや異なった種類の読は口です。「色のついた思索」とでもいうべき世界に浸りました。目に留まった文章は次のような言葉です。
木は空という背景があるから
意味があるのです。
私の生活にはどうやらこうした意味が
欠けているようです。
だから美しさも感じられないのでしょう
(アン・モロー・リンドバーグ)
冒頭の「木は空という背景があるから、意味があるのです」という言葉が、この夜の黙想の焦点となりました。この言葉は絵を描いていた若い頃を思い起こさせました。確かに背景(バック)がどうであるかによって絵は生きもし死にもします。両者の調和がなかなかうまくいかないことを幾度も味わってきました。「空という背景」は重要です。かと言ってバックが目立ち過ぎると絵になりません。そこが難しいところです。ドラマで言えば差し詰め主役と脇役のような関係でしょう力この思索は、少々私流儀かも知れませんが、そこから聞こえてきたメッセ-ジは私の実存を触発したことは確かでした。私たちは人生において、「木」になったり「空」になったりですが、概して人は空(背景)をつまらなく思うところがあるのではないでしょうか。自分に光が当たると力を入れますが、そうでないと引いてしまうような─。しかし木を生かすために喜んで空になっている人の姿は美しく、人を引き付けるものがあります。この夜の黙想の行き着いたところは、「空という背景」になれる人は、本当の意味で「木」にもなれるのではないか、という気づきでした。「背景」とは少し意味合いが異なりますが、なぜか、ふと、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マルコ10:45)と言われたイエスの言われた言葉を思い出しました。背景になるということは、仕えるために来られたイエスの心を心とすることなのかもしれないと考えながら本を閉じました。新しい年、人から見て奇麗な木だと言われなくても、意味ある空に、という気持ちを持てたらどんなに素晴らしいことでしょうか。
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心に沁みる話でした。
自分は空に、背景になれるだろうか。
ちなみにPBAについてはこちらをどうぞ。
http://www.pba-net.com/
木は空という背景があるから(堀肇先生)
説教や講演などの用で外泊すると、大抵は真夜中の一一時頃に目が覚めます。奉仕のせいかというと、どうもそうではないらしいのです。何かが気掛かりで意識が目覚めているのでしょう。一昨年の夏の教団一泊牧師会の時でした。案の定、その時刻に目が覚めたのです。このような時、私は決まって本を読むことにしています。この夜は本というより、黙想や思索に役立つような名著の抜粋とその内容に合わせたような絵画が対になっている名言集を手にしました。普段とはやや異なった種類の読は口です。「色のついた思索」とでもいうべき世界に浸りました。目に留まった文章は次のような言葉です。
木は空という背景があるから
意味があるのです。
私の生活にはどうやらこうした意味が
欠けているようです。
だから美しさも感じられないのでしょう
(アン・モロー・リンドバーグ)
冒頭の「木は空という背景があるから、意味があるのです」という言葉が、この夜の黙想の焦点となりました。この言葉は絵を描いていた若い頃を思い起こさせました。確かに背景(バック)がどうであるかによって絵は生きもし死にもします。両者の調和がなかなかうまくいかないことを幾度も味わってきました。「空という背景」は重要です。かと言ってバックが目立ち過ぎると絵になりません。そこが難しいところです。ドラマで言えば差し詰め主役と脇役のような関係でしょう力この思索は、少々私流儀かも知れませんが、そこから聞こえてきたメッセ-ジは私の実存を触発したことは確かでした。私たちは人生において、「木」になったり「空」になったりですが、概して人は空(背景)をつまらなく思うところがあるのではないでしょうか。自分に光が当たると力を入れますが、そうでないと引いてしまうような─。しかし木を生かすために喜んで空になっている人の姿は美しく、人を引き付けるものがあります。この夜の黙想の行き着いたところは、「空という背景」になれる人は、本当の意味で「木」にもなれるのではないか、という気づきでした。「背景」とは少し意味合いが異なりますが、なぜか、ふと、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり」(マルコ10:45)と言われたイエスの言われた言葉を思い出しました。背景になるということは、仕えるために来られたイエスの心を心とすることなのかもしれないと考えながら本を閉じました。新しい年、人から見て奇麗な木だと言われなくても、意味ある空に、という気持ちを持てたらどんなに素晴らしいことでしょうか。
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心に沁みる話でした。
自分は空に、背景になれるだろうか。
ちなみにPBAについてはこちらをどうぞ。
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