「明日ありと思う心の仇桜、夜半嵐の吹かぬものかわ」
これは親鸞の言葉で、子供の頃母からもよく聞かされた言葉の一つ
です。
今、五木寛之氏の「親鸞」が幾つかの新聞に掲載され、今日でほぼ
半ばになったようです。(1年間掲載ー昨年9月から)
親鸞(範宴はんねん)は 幼少時代比叡山での修行を終え山を下り、
悟りをうるため、不眠不休の好相行や命がけの回峰行、100日の
念仏行を行なったが、み仏とは出会えずの苦悩の毎日であった。
そして法然との出会いで、ついに「阿弥陀仏」と言う仏に帰依する。
法然は、一見 猟師とみられる男が拝んでいる姿に声をか け
「誰を拝んでいるのか。」と、 それに対し男は、
「法然様をおがんでいます。」と答えた。法然は、
「神でも仏でもない阿弥陀仏というありがたい仏さまに念仏を・・・
指を拝んでも仕方がないが指先がさす月の光こそ、阿弥陀仏の
光明じゃ。」と
そして末法の世の中、親が子を捨てる、子が親を殺す、それを
救えるのは仏でありお釈迦さまの教えじゃ。・・・・人はみな平等
であるが平等に生きるのは難しい。しかし、平等にすくうとされる
のが、阿弥陀さまであり、唯一の仏さまじゃ。
学問、身分、持戒,善行など関係なく、生きている者をすくい、
浄土 へと 迎える仏さまじゃ。
生きるために殺生をしなければならぬ人も、恥多き生業(なり
わい)の人も貧しさゆえに悪を犯す人も平等にすくう。その仏を
呼ぶ声が 念仏じゃ。と・・・・・・法然の教えが親鸞へと・・・・
親鸞の教えの「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人に
おいておや」の原点です。(悪人正機説)
わたしなど、神も仏も遠い人間です。子供の頃伊勢神宮のそばに育ち、
神宮に勤める父を持ちながらも、神に導かれることもなく、神仏は遠きに
あるものでした。
ただ戦時下で日本は神風が吹くから、敵をやっつけることが出来る
とだけは、何故か信じていました・・・・・。
仏に関しては、家は(住んでいるところが)仏教徒(葬式など)です から、
仏壇には、花を備え、お経は唱えなくても拝みます。
今の世の中、非人間的な事があまりにも多く、わたしなど、短絡で
すから、「人を殺したら、自らも死ぬべきか、もしくは、死刑を」と思い
ますが、現世にも何か通じるものを感じ、改めて、法然や親鸞の教えに
「 南無阿弥陀仏」を思いました。
五木寛之氏の渾身の作品です。
5月から始まる裁判員制度です、「人が人を裁くこと」の難しさを思
います。70歳以上は辞退できるそうですが・・・・