夕映えに

陽が落ちるまで輝きたい、くさぐさの記録(日々の出来事、読書、スポーツ、友だち)

 阿弥陀仏とは  「親鸞」(新聞連載中 五木寛之著 山口晃絵) 

2009-03-14 08:09:51 | Weblog

   「明日ありと思う心の仇桜、夜半嵐の吹かぬものかわ」
    これは親鸞の言葉で、子供の頃母からもよく聞かされた言葉の一つ
    です。

   今、五木寛之氏の「親鸞」が幾つかの新聞に掲載され、今日でほぼ
   半ばになったようです。(1年間掲載ー昨年9月から)
                

       親鸞(範宴はんねん 幼少時代比叡山での修行を終え山を下り、
    悟りをうるため、不眠不休の好相命がけの回峰行、100日の
    念仏行を行なったが、み仏とは出会えずの苦悩の毎日であった。

   そして法然との出会いで、ついに「阿弥陀仏」と言う仏に帰依する。
    法然は、一見 猟師とみられる男が拝んでいる姿に声をか け     
       「誰を拝んでいるのか。」と、 それに対し男は、
      「法然様をおがんでいます。」と答えた。法然は、

   「神でも仏でもない阿弥陀仏というありがたい仏さまに念仏を・・・
    指を拝んでも仕方がないが指先がさす月の光こそ、阿弥陀仏の
    光明じゃ。


   そして末法の世の中、親が子を捨てる、子が親を殺す、それを
    救えるのは仏でありお釈迦さまの教えじゃ。・・・・人はみな平等
    であるが平等に生きるのは難しい。しかし、平等にすくうとされる
    のが、阿弥陀さまであり、唯一の仏さまじゃ。

       学問、身分、持戒,善行など関係なく、生きている者をすくい、
    浄土 へと 迎える仏さまじゃ。

   生きるために殺生をしなければならぬ人も、恥多き生業(なり
    わい)の人も貧しさゆえに悪を犯す人も平等にすくう。その仏を
    呼ぶ声が 念仏じゃ。と・・・・・・
法然の教えが親鸞へと・・・・

   親鸞の教え「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人に
    おいておや」の原点です(悪人正機説)
     
      
     わたしなど、神も仏も遠い人間です。子供の頃伊勢神宮のそばに育ち
     神宮に勤める父を持ちながらも、神に導かれることもなく、神仏は遠きに
     あるものでした。
        ただ戦時下で日本は神風が吹くから、敵をやっつけることが出来る
      とだけは、何故か信じていました・・・・・。

     仏に関しては、家は(住んでいるところが)仏教徒(葬式など)です から、
     仏壇には、花を備え、お経は唱えなくても拝みます

     今の世の中、非人間的な事があまりにも多く、わたしなど、短絡で
    すから、「人を殺したら、自らも死ぬべきか、もしくは、死刑を」と思い
    ますが、現世にも何か通じるものを感じ、改めて、法然や親鸞の教えに
     「 南無阿弥陀仏」を思いました。  

     五木寛之氏の渾身の作品です。 

    5月から始まる裁判員制度です、「人が人を裁くこと」の難しさを思
    います。70歳以上は辞退できるそうですが・・・・