国際税務研究ブログ

こんにちわ、TOKYO在住の税理士、木村俊治と申します。国際税務のことについてアレコレ書いています。木村国際税務研究所も

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(7)美人スッチーの失敗

2015-10-08 17:23:50 | 税務小説
□美人スッチーの失敗
一九五九年のことだが、米国空路勤務の日本人スチュワーデスが宝石を密輸して発見された。場所は、サンフランシスコ空港で、彼女はスーツケースに時価五万ドル(当時)相当の小粒のダイヤ(約四千粒、四〇〇カラット、八〇グラム)を隠しもっていたが、タラップでつまずいて四千個が滑走路にばらまかれたのだ。一面、ダイヤがキラキラして銀世界のようになった。これがすぐ、その場にいあわせたFBIに御用になり、フーバー長官は日本へ捜査官を派遣し、東京租界のギャング団を摘発した。・・というのは実は真っ赤な嘘で、「この女が元経済科学局(ESS)のある高官の情婦であり、過去に日銀倉庫や三井物産・三菱商事のダミー会社からくすねられたダイヤを持ってニューヨークのダイヤモンド街、ユダヤ人が経営する貴金属店に換金に行くためサンフランシスコに到着する」と何者かにリークされていたのだ。*
このように日本には、日銀ダイヤ以外にも多数の略奪ダイヤがあり、ある輸入商の推定によると、その当時、外国から輸入(密輸を含む)されていた貴石類は、代表的な宝石商四軒の合計で数十万カラットあったというのだから、日銀に集められた国民の供出ダイヤ(一九四四年)は政府報告のように一六万カラットどころではなく、おそらく六〇万カラットを超えており、日銀以外にもやはり六〇万カラットはあったのではないだろうか?とワシは推測している。なおダイヤ一カラットは〇.二グラムなので、六十万カラットは一二〇キロ。
GHQは一九五一年、九月サンフランシスコ平和条約の締結とともに日本から去ったように報道されているが、GHQの民間情報教育局(CIE)はその後も数年にわたって日本に残り、国務省の出先機関米国大使館要員(CIA要員)として活動していた。スッチー・ダイヤ事件の情報提供者は元、参謀第二部(GⅡ)のウイロビー准将だった。フィリピンGHQ時代からGⅡ部長としてマッカーサーに使えていたウイロビーは一九四五年八月三〇日、バターン号で厚木へついた。ウイロビーは根っからのファシストで、民政局(GS)部長のホイットニーや同次長のケーデイス大佐とよく衝突した。米国務省(中国派)の指針をホイットニーが間に受け、新憲法に非武装中立的で、おまけに共産勢力の合法化や労組の争議権創設などをもちこもうとする左翼指向があると決めつけていた。ウイロビーは民間情報教育局(CIE)と組んで新憲法を創案する直接の担当者であるケーディス大佐を追い落とすためスパイを配置し日常の観察をした。後に出てくる日本人婦人との不倫騒ぎをマッカーサーに言いつけた。彼らを追い落とす必要を感じていたのだ。
一方、ホイットニーはフィリピンGHQの行政手腕が買われマッカーサーの信任を受けている。日本へはウイロビーに遅れること三か月、十二月にやってきた。フィリピンではマッカーサー軍政の後始末をしていたようだ。何しろ、ホイットニーは名うての弁護士で、フィリピンに十五年も住み、鉱山開発まで手を広げていた。彼は大金持ちになったが、バギオ近郊のベンケット金銅鉱山の経営をマッカーサーと共同で行ったことがその源泉らしい(増田三〇〇p)。
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マッカーサーの日本統治の手法は生き残った比較的リベラルな政治家を通じて日本国民を統治する間接型のものだった。当時、同じ敗戦国のドイツやイタリアの連合国による統治方法は、ヒトラー、ムッソリーニの政党、軍部が滅んだので、政府というものが存在せず、連合国欧州最高司令官による軍政(連合国軍隊による直接型の集団統治体制)という形態をとった。一方、日本は政党政治家、官僚などの統治機構が生き残ったので、それを活用する間接統治(総司令部→民政局→内閣・省庁→国民)を採用した。ただし、ドイツ全土、ベルリンの占領が四カ国(米英仏ソ)の分割統治であったため、占領政策がうまくいかなかった点を考慮し、米軍(四五年約四〇万人)、英連邦軍(四六年約四万人)、豪軍(同、一万四千人)の西側陣営で固め、事実上アメリカが独占した。ソビエト赤軍は北方四島までの占領にとどめた。中国は内戦が激化したため、日本へ軍隊を送る余裕がなかった。
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マッカーサーはフィリピン時代から日本の統治方法を研究していた。最初は軍政部門(GS)による直接統治を考えていたようだが、日本の官僚機構がまだ機能している実情がわかるとにわかに「軍政部」を廃止し、本国から弁護士や学識経験者を呼んで「民政局」を新設した。そして日本の民主化の最大の問題、天皇制の存続と主権在民、軍隊を廃止し交戦権を認めない新憲法の起草に取り組んだ。ケーディス次長らに憲法草案を練らせ、芦田内閣、松本国務相の主催する憲法問題審議会の古い体質の憲法には目もくれず、マッカーサー草案(一週間で書き上げたといわれる。)を政府に送って、それに沿った憲法案が作られ有無を言わさず、枢密院、貴族院を通過させるというやり方である。
ともかくそういう重用案件が民政局(および経済科学局)によって進められるようになったのでGⅡのウイロビィーは面白くなかった。そして、GHQ内の泥仕合が始まるのである。マッカーサーに取り入りたいためだけに数々の怪奇事件がおき、国政を無駄にしたのである。その中にこのスッチーも巻き込まれたということらしい。
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ホイットニーが推し進めた新憲法(明治憲法を改憲したという説もある。)は「天皇シンボル化」、「主権在民」、「戦争・軍備の放棄」が特徴で一九四八年五月三日公布された。ところがそのころから次第に東西の対立が鮮明になり、冷戦構造が大きく歴史の行く手を遮り始める。一九四九年中国毛沢東軍が蒋介石軍を台湾に駆逐し中国本土を掌握した。また、ソビエトが体制を確立し朝鮮半島の北側を占領した。満州にいたロシア系朝鮮人、金日成を平城へ送り込むと極東アジアがにわかに緊張した。アメリカは日本の軍部を解体し、財閥を解体し、軍需工場を破壊、解散させて日本の弱体化をはかっているどころではなくなった。「逆コース」といわれる流れにそって、日本を防共の砦とするため再軍備、兵器産業の再開、軍需物資の生産を開始するのである。とりわけ、一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争が勃発すると日本にいる米軍は大半が朝鮮に移動した。右に向かって走り出したのだ。ウイロビーたち、GHQのタカ派が主導権を握った。日本版「レッド・パージ 」のあらしが吹き、戦争責任者たちは解放され、治安部隊(警察保安隊)や海上防衛軍(海上保安庁)の幹部に採用されていった。
□皇室財産の解体
皇室財産処理の過程で、皇室の世襲財産範囲を拡大解釈し、国家管理や税負担を忌避しようとする天皇・宮内省の要求は、この後、内閣法制局や終戦連絡中央事務局(以下、終連)などの折衝担当レベル、ヨシダ外相やイリエ法制局長官ら政府上層レベルを介してGS(民政局・ホイットニー代将)に伝えられる。GS側の反応は、皇室財産問題、皇族特権廃止問題など、いずれも天皇の希望にかなうものではなく、皇室の徹底的な民主化を求めていた。
なお、国内政治勢力において、折衝を通じてGHQの意図を汲みとり、妥協可能な法制づくりをめざす人々と、GHQ内のリベラル勢力と接点のない人々の間で、意見の相違が生じていた。
内閣法制局や終連を抱える外務省が前者に位置し、天皇や宮内省、マキノ元内大臣ら旧側近者が後者に位置する。そのため、ヨシダ外相は、GS側から保守勢力の総本山とみられ、嫌悪感を抱かれてしまう。しかし、ヨシダは、あくまで天皇や宮内省の代弁者に過ぎなかったのであり、保守の総本山は、天皇、宮内省、旧側近者であった。ホイットニーやケーディスらGS局員も、ヨシダや自由党の背後に天皇と宮内省が控えていることを察知していたであろうが、東京裁判の進行する微妙な情勢下、天皇に矛先を向けるわけにはいかず、宮内省首脳を標的と定めるようになる 。
□軍需物資の解放
日本軍隊は一九四五年八月一四日をもって解体し、持っている軍需物資、工場、その他の財産を公共団体とか組合とか通産省とか民間企業(軍需産業でない)にひき渡す閣議決定をした。その他の財産の中に、昭和一九年七月に実施した救国のための国民からのダイヤモンド、その他の貴石、希少金属の買い上げ品が含まれていた。ダイヤは全国のデパートを通じ、各地の交易営団(三菱系)や中央物資協会(三井系)に集められた。そのうち、工業用ダイヤは中央物資協会を通じ軍需工場などへ送られたものもあるが、大粒の装飾用ダイヤなど大部分は軍関係者、内務省、大蔵省、通産省、宮内省などにおいて管理された。しかし終戦を迎えるにあたり、これらの物資はいったん日銀地下金庫へ集約することになり日本各地からダイヤが東京へ運ばれた。一九四六年三月時点のGHQが調べた日銀のダイヤは一六万一千カラットで、二億五千万ドル相当だったとする 。しかし、その過程には多くの不正があった。
□隠匿物資の摘発
戦後しばらくして隠退蔵物資事件が摘発された。旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなったためである。その後、この資金がツジ・カロクなどを通じて政界に流れていることが分かり、その調査のため衆議院に「不当財産取引調査特別委員会」が置かれた。日本国憲法に規定された国政調査権をフル活用し、政界・財界の大物を次々と喚問。これがアシダ内閣の早期瓦解につながった。また検察には「隠匿退蔵物資事件捜査部」が設置された。この隠匿退蔵物資事件捜査部は、東京地方検察庁特別捜査部の前身にあたる。
 □天皇放出ダイヤ
第〇四九回国会 決算委員会 第六号、 昭和四十年九月三十日(木曜日)では次のようなやり取りが行われている。
(略)
○松永説明員(国有財産局長) それは先ほど来申し上げましたように、要するに占領期間中に接収をしている金なりダイヤモンドなり、これは米軍が管理し、全部握っておったわけでございますから、日本政府はそういうことは全然わからなかった。ただ、国内で当時民間の方々が金を接収されつつあるという事情は、それは現象としてはわかっておりましたが、それが幾らになり、どういうふうに管理されているかということは、これは米軍のやっておりましたことで、日本政府は全然わからなかったわけでございます。
○山田(長司)委員 ただいまの答弁で、大体通貨基金に充てられたプラチナの、日本政府が保管数量についての明確な点が出なかったということはわかりました。
 次に伺いますが、これは当然ダイヤの処理にあたって結論が出されなければならない問題でありまするので、国有財産局長に伺っておきますが、戦時中に皇室から軍需大臣に対して下賜されたダイヤモンドが三千五百九一一個、百一一・八五カラットありました。それからプラチナが百一一匁(匁=三.七五グラム、約四〇〇グラム)三八あった。それから金が一匁二六。皇族から供出された白金が百五匁七五、それから白金と金のまざりの品が一一匁六、ダイヤモンドが二百八一五個、八・二六カラット、ローズダイヤが六百六一八個十三・九五カラット、右の保管処理はどうなっていたか、この点を、国有財産局長、わかったならばお答え願います。
○松永説明員 説明員をして説明いたさせます。
○上国料説明員 ただいま御質問の点でございますが、これらのものが接収されまして、(宮内省へ)返還されたというようなことになっておりますが、その中にいま御質問のありましたものが入っているかどうかという点は確認されてないわけでございます。
(略)
○山田(長司)委員 大蔵省の前の局長でありますが、その局長は、ダイヤの数をこう発表したことがあります。これは吹けば飛ぶようなダイヤということを言って、ずいぶんダイヤを軽視しているなという印象を持ったことがありましたが、ダイヤの数は百四十九万八千九十三個、こういう数字を管財局長が発表したことがあります。この点については、もう何十年もたっておりますから、ダイヤの数に間違いがあるかどうかをここで確かめておきたいと思います。百四十九万八千九十三個、こういう答弁をされたことがありますが、いまでもその数には間違いありませんか。
○松永説明員 これは押谷先生の要求の資料として最近提出しました資料によりますと、ダイヤの個数は百四十九万八千四十六個となっております。先ほどの先生のおっしゃった九十三より若干減っているわけであります。これは先ほど申しましたように、返還になったダイヤがございまして……。

天皇家や国民が軍需省に供出したダイヤモンドが盗まれたり、天皇家に返されたりしたが、日銀の倉庫に残ったものの総計は一六万一千カラット(約一五〇万粒)と定まった。金・銀・プラチナなどの貴金属は日銀倉庫の残量はなしということで発表されていないが、米軍が日銀倉庫で接収管理した全ての金銀の在庫から正式に持ち出した白金三千四一九キロを約六トンの金塊と交換し、イヤーマークをつけてニューヨーク世界銀行で保管した。そして、その後、日本がIMF(一九四六年、第一回年次総会ワシントン)に加盟すると五五トンの出資請求があったのでその六トンを充当し、残り四九トンは市場から購入したとされている。
日本銀行の金保有高は、戦前(一九三七-四一)の間にアメリカに推定六〇八トン(約九〇〇〇億円)を現送して軍事物資や石油、兵器などを購入している。残りの金がどれくらいあったかまったく統計がない。そして、四五年から五一年までは金銀準備高はGHQが管理していたので日本側の統計がないということになっている。ところが一九五二年には九一トンと言う数字が示された。その後も日銀の金銀(正貨)の有高(トン数)は発表されないので、まったくの推定(ロンドン金取引所会員調べ)だが約七〇〇トン前後であろう。しかし、日銀にはなくても製品に組み込む金の量や、IMFや世界銀行への現物出資は獏大で、おそらく眼に見えない保有量は世界一ではないかといわれている。これに対し、アメリカの金の保有高は一九四九年が絶頂期で二万一千七〇七トンあったといわれる。現在は八千トンクラスだからその当時は日本やドイツから没収した金塊、プラチナなどもたくさんあったかもしれない 。
□新税三法案について
昭和二一年一月一〇日、日本産業経済新聞は、財産税、法人戦時利得税、個人財産増加税の三法を最高司令部(SCAP)の許可を受けて政府原案を一〇日に発表すると報じた。「これら画期的な財産税等の創設に当り、課税の適正な実現を期する観点から、脱税を極力防止することが肝要なので、この際相当徹底した措置を検討している。すなわち、預貯金、公社債等に就いて預貯金の証書または通帳、公社債またはその保管証、登録済証等には「申告済み」の表示をし、物の買い置きなどにより財産を隠匿せんとする者に対しては適宜の方法により検査を行う等財産の補足に、ありうる限りの手段を講ずる所存である。なお、最近流行の贈与、寄付による財産の散逸を画する者に対しては贈与者、寄付者の財産に加算して課税するように考慮している。今や我が国は悪性インフレーションでつぶれそうである。したがって、この際一回限りの財産税等の課税により国民経済の破たんを防止し、その派生すべき「幾多の害悪」を取り除くためこれらの法律を施行する。」と結んでいる 。

大蔵書記官、ワタナベ・キクゾウーによれば財産税の「納税義務者」は、個人、法人を問わず課税される。個人は、六月一五日(新旧通貨交換日)において「日本国内に住所がある個人」、「一年以上日本に居住している個人」、「日本に財産がある非居住者(外国人は課税されない)」である。引揚者(日本国籍の引揚者)はその日から三年以内に帰国した者の財産に課税される。また、法人については同月同日において「日本に本店・主たる事務所を有する内国法人」、「日本に財産を所有する外国法人」である。
「財産の所在」については、居住者は「全世界にある財産」が課税対象で、非居住者は「国内にある財産」だけが課税対象である。したがって、天皇家の場合も「居住者=全世界」課税である。国内にある財産を特定して非居住者に課税するシステムは今の所得税法・相続税法と変わらない。したがって、国の内外に財産が所在するかどうかは非居住者財産について云々する場合に必要な事実関係で、仮に天皇財産がスイスに保管されていても香港上海銀行に保管されていても(見つかれば)課税される。株券(株式証書)が国内にあれば国内財産、国外にあれば国外財産だが、いずれにしても居住者であれば全世界課税なのである。
「財産の帰属」については、信託財産のように委託者が不明な場合がある。その場合誰の財産として課税するのかが問題となる。この法律では受益者に課税することにしている。たとえば宮内省が天皇家の財産を一括管理し、各企業へ出資しているケースでは、天皇家が受益者で、信託機関である宮内省長官(キド)が受託者ということになろうか。また、さまざまな財団、社団、匿名組合、免税団体を経由して投資されている場合も実質的に宮内省に信託された財産の一部と考えることができようか。なお、株式の投資先が軍需産業や拓殖会社、台湾銀行、朝鮮銀行、南方金庫、外国特殊銀行などの場合は、軍需・特需財産として没収されているので株式の評価額はゼロだと考えられる。また、外国にある財産・会社でも、占領国等(アジア一七カ国)における処分(没収、略奪)にまかされるので、財産税で課税される居住者の国外財産は少ないと考えられる。
「非課税財産」は、普通の生活に普通に必要な財産(家具、什器、衣服、その他これに准するもの)の子であり、金持ちは金持ちなりの財貨物ということにある。もちろん、金万家のぜいたくな家具はダメ。天皇財産も課税されるのであるが、祭祀用の宝物(家宝)などは定義があいまいなので納税義務者の判断にまかせられたようである。皇居の土地、建物は別令で除かれたが、天皇家御料地は土地として課税された。
「公債・社債・株式等の評価」については、取引所相場、非上場の株式は収益の状況を勘案する。
「外地株等の評価」については、賠償問題や在外資産に対する政府の保証の問題等が決まらない限り、その評定はほとんど不可能・・なので、これら株式は「一応別問題としておき」、「課税価格を決定しておき」、後日、これらの問題が「はっきりした時」、「適当なる評価によって改めて追加決定する外方法はない」と逃げている。結局有耶無耶になった。
「本邦施行地外にある財産等の価格」についても「外地株等の評価」と同様である。
「財産調査委員会」の設置については、米の値段が一升八〇銭だったのが五〇円もする無茶苦茶な物価の真っただ中にあり、とても決められないので財産調査委員会に基本的な評価方法を決めさせ、各地方には財務局に不動産評価委員会を、各税務署には個人財産調査会及び法人財産調査会をおいて評価決定することにした。だから、評価官次第の評価額が出された。もちろん恣意的な評価にならざるを得ない。
脱税に加担した者は三年以内の懲役、税額の三倍から一〇倍以内の罰金。
なお、個人財産増加税、法人財産増加税は昭和一五年四月一日から昭和二〇年八月一五日までの間の財産増加額に課税されるもので、その税率は増加額が三〇万円を超える場合、一〇〇%すなわち、没収と同じ効果が・・「これが税だといえるのか、マッカーサーは何を考えている」と財閥系企業、財閥家や金万家たちが怒ったという話は聞かない。
「いつの世にも上(政府)に政策あれば、下(納税者)には対策があるのだ。外国、外国、マネロンだ」とワシ。大分酔いつぶれた。頭がボーとしている。
□天皇財産についてSCAPの考え方
国会図書館憲政資料室の所蔵の資料を調べた足立は「皇室財産」についてGHQとSCAP間で話し合われている資料の少なさに愕然とした。多くの皇室財産はやみの下に葬られたのだ 。
極東委員会が一九四五年二月ワシントンに設置された、戦勝国全体により日本を占領管理していく最高決定機関で、米国のほかソビエト、英国、中国、オーストラリアなど参加する。東京には極東委員会の下部組織、対日理事会がおかれ(四月五日)、GHQ抜きで直接日本政府と交渉できるようになる。今までGHQあるいはSCAPとして独り決めしてきたマッカーサーはこれらの諸機関が動き出す前にすべてを決める必要がある。特に天皇制の存続については、中国、ソビエト、オーストラリアが強硬に反対しており、戦犯としても裁く可能性が高くなっていた。マッカーサーは戦争犯罪人の処刑、象徴天皇、憲法制定を急いだ。そのためには天皇の財産をはきだしてもらわなければいけないのだ。

一九四六年九月一日のホイット二ーからワシントン宛ての発信文書では「八月三一日付けの改正案第八八条《皇室財産・皇室の費用》から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのか」という、FEC(極東委員会)のイギリス代表の質問の文書に答えて、マッカーサー元帥は「第八八条には、七月二日のFEC原則の四一dに従って、天皇の財産への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだ」と回答している 。

イギリスは、皇室財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場をとる旨伝えている 。

四六年七月二日、FEC原則(主権在民、天皇制の廃止または民主的改革、閣僚の文民条項など)が決定されFECの審議結果を米陸軍参謀長に伝えた。
皇室財産については、国有化するが、世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化もしくは財産税による課税は憲法、法律が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている 。
マッカーサーは七月六日、七月二日のFEC原則のプレス発表を抑えるようFECへ要請している。
八月三〇日、貴族院定刻憲法改正特別委員会を設置し、以後議会審議が行われている。
八月三一日(書誌番号一七五)は、改正案第八八条(皇室財産・皇室の費用)から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのかという、FECのイギリス代表の質問を伝えている。
九月一日(書誌番号一七六)は、書誌番号一七五に対するマッカーサーからの返信で、憲法第八八条には、七月二 日のFEC原則の四-dに従って、天皇の財産への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだと回答している。
九月一七日(書誌番号一九一)は、イギリスは、皇室の財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場を取る旨伝えている。
九月一九日(書誌番号一九四)は、皇室財産についての審議結果を陸軍参謀長に伝えるもの。一九四六年七月二日のFEC原則に基づいて、皇室財産については、天皇の世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化は憲法が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている。

マッカーサーが極東委員会の始動をにらんで日本国憲法の作成を急いだことは定説であり、マッカーサー自身、次のように述べている。「占領が極東委員会の審議に依拠していたとすれば、憲法改正が成就されていなかったであろうと、私(マッカーサー)は確信している。なぜならソ連が拒否権をもっていたのだから」と 。

ただし出来上がった憲法草案はあまり評判が良かったとは言い難い。
「マックダーモット氏の意見によれば占領政策は驚くほどうまくいっているが、憲法草案の内容については深く憂慮している、とのことだった。彼は、この憲法はひどい出来だと考えていた。原型も発想もアメリカ人のものだし、当の日本人がたいしてわかってもいないのにアメリカ人に押しつけられてただ受身的に受け入れているだけだ」からという 。
だが、FEC原則(新日本国憲法に関するFEC-〇三一/一九文書)では、「天皇制」の存続可否についての判断は国民が自由に表明する意思(国会での新憲法の成立)により決定されるとしているので、中国、ソビエトの天皇制廃止には論拠がなかったといえる。
『日本における政治の最終の形態は、日本国民の自由に表明された意思によつて決定されねばならないけれども、天皇制を現在の憲法上の形態において保持することは、前記の一般的な諸目的に合致するものとは考えられない。従つて、日本国民に対し、天皇制を廃止するか、またはそれをいつそう民主的な線にそつて改革するよう勧奨しなければならない。もし日本国民が、天皇制は保持すべきものではないと決定すれば、その制度が弊害を及ぼさないための憲法上の保証は、明らかに必要ではないが、憲法は、第一項の要求するところに一致しなければならず、また次の事項を規定するものとする。
もし日本国民が、天皇制を保持することを決定するならば、第一項、第三項に列挙されたものに加えて、次のような保証が必要となるであろう。
a 内閣が、立法部の信任を失うとき、それは総辞職するか、あるいは選挙民に訴える。
b 天皇は、新憲法によつて彼に与えられた権能以外にいかなる権能も有しない。彼は、あらゆる場合に、内閣の助言に従つて行動する。
c 天皇は、一八八九年の憲法の第一章第十一条、十二条、十三条および十四条に規定されたような軍事上の権能をすべて剥奪される。
d すべての皇室財産は、国の財産であると宣言される。皇室の費用は、立法部によつてその支出が充当される。』(国立国会図書館憲政図書館資料 )
なお、新憲法がマッカーサー草案に基づいて出来上がっていることは周知の事実なので、これを国会が承認しても、国民の意思に基づいた多数決原理に沿った決定であったかは実質のところ、わからないといえよう。
□財閥解体を免れた准財閥銀行
既に明らかなように、財閥・銀行解体の命令を出したマッカーサーは、経済科学局のマッカート准将に対し、三和・東海・第一の三行には解体命令を留保させている。この三行の秘密預金から「田中クラブ」の支払があり、M資金騒ぎにつながって行った。
ゴールドウオリアーズによると、フェルディナンドとイメルダがサンティの死後、これらの書類を整理しているときに「三和銀行にショーワ・トラストがある」ことを発見した。このことが、マルコスのマラカニアン宮殿脱出劇(一九八六年二月)の後、同宮殿にあった資料から新政権が発見し、明らかにされている。
その資料によると、シーグレーブ夫妻は言う。「その資料によると、一九八一年までに三和銀行のショーワ・トラストは三億ドル(毎四半期)以上の利息を稼ぎ出し、年間では一〇億ドル以上だった。ある邦銀のオーナーによると天皇家は良い利回りが保証されていた。マルコス政権が三和の信託受益権のカードを正しく使ったのであれば、ショーワ・トラストに近ずくことができたはずだ。事態はそうでなく、マルコスが間違った使い方をしたのでファンドには触れられなくなり、マルコスが「天皇の黄金の百合に由来する信託財産の分け前を少し多くしろ」と言う風なこともできなくなったのだ。
もし、そう云えば、東京やワシントンはハタっと困っただろう。「東京とワシントンの連名勘定(ジョイント・アカウント)が三和の香港にある?」ニュースとして出たならきっとそうなる。戦後、日本は天皇家の生活が窮乏しており、国会から宮廷費(生活費)として毎年二万ドルを拠出すると決議していた。天皇家は欠乏しているとジェスチャーを国民に出していたのだ。第二に、マルコスたちが分け前を要求した時、タナカ・カクエイのロッキード事件に関しGM党がのた打ち回っていた時期だったからである。ロッキード事件のワイロ、日本円五億円、コダマの日本円一七億円がどこから調達されたか?(この本のどこかにカネの運び屋のことが出てくる。)検察はうやむやにして事件を終わらせてしまった。日本はマルコスどころではなく、それ以降、ODAも激減させたのでマルコス政権はあっけなく崩壊してしまうのである。もちろんアメリカ、レーガン政権もマルコスを見限っている。
□ポール・マニング『米従軍記者が見た昭和天皇』
「マンニングという人がいる、次郎」
「あ~知ってますよ、ポール・マンニング、『米従軍記者が見た昭和天皇』ですよね」
「そうだ。その中に天皇財産をかなり突っ込んで書いているんじゃよ」
引用してみよう。
『一九四四年一月、昭和天皇は参謀総長(東条)と軍令部総長(島田)から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行からBIS《国際決済銀行)の為替課長に出向している吉村侃 (かん)は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツのライヒ銀行(ライヒ銀行はスエーデン国立銀行から米ドルで借り入れたようにしている。)の信用を付け、あるいはジブラルタル経由、リスボン(ポルトガル首都)へ金塊(この金塊はアジアのどこかにあった。)を送ってBIS勘定(在ロンドン)に預金し天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。』
「それでだな、天皇家の海外財産は預金だったり、金塊だったり、米国の戦費調達社債だったりしているのがわかるだろう」
「しかも、キドが日銀や横浜正金、台湾、朝鮮、満鉄などの株券を管理し、株の配当は全部、海外に送ってプールしていた・・・というワシの推理の根拠はこれなんだ。次郎」。


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