国際税務研究ブログ

こんにちわ、TOKYO在住の税理士、木村俊治と申します。国際税務のことについてアレコレ書いています。木村国際税務研究所も

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(8)ショーワ・トラスト

2015-10-08 17:25:53 | 税務小説
八章 ショーワ・トラスト
□マッカーサー資金
足立は変な小説を読んだ。それにはこう書かれていた。『・・・一九八〇年代の初め、別なことが起こった。フェルディナンドとイメルダが太平洋戦争で日本がかき集めた膨大な金塊「ゴールデン・リリー」を各国の秘密預金にあづけたのだ。たとえば、預け先が日本の場合は、大阪にある三和銀行の信託部門へ数十億ドル規模の金外信託としてあづけている。
(シーグレーブ夫妻のCDassets二から日本分だけ抜粋)
USD単位一〇億ドル二〇.〇〇〇〇
USD
二.〇〇〇〇
USD
〇.〇五二〇
USD
〇.〇〇八三
USD
八.三〇〇〇
USD
USD
〇.一〇六〇
USD
六.〇〇〇〇
USD
一二.〇〇〇〇
USD
〇.〇五二〇
USD
〇.〇〇七〇
USD
〇.〇〇五〇
USD
〇.〇一二〇
USD
〇.〇〇七〇 銀行名
USD単位一〇億ドル四六一.三五一三
USD
五.〇〇〇〇
USD
〇.〇〇五〇
USD
〇.〇一七〇
USD
二.〇〇〇〇
USD
〇.〇四〇〇
USD
〇.〇〇八八
USD
〇.〇四〇〇
USD
〇.〇〇七〇
USD
〇.〇〇八〇 銀行名
東京銀行 成田信用金庫本店
スタンダードチャータード東京 東京銀行
埼玉銀行 三和銀行大阪
シティコープ東京 東京銀行
シティコープ東京 東京信用銀行
シティコープ東京 ウエルズファーゴ東京
日本・スイス長崎 スタンダードチャータード東京
三菱銀行東京 千葉県ナショナル銀行
住友銀行大阪 シティバンク、シティコープ東京
埼玉銀行 千葉県ナショナル銀行
成田信用金庫本店 成田信用金庫本店
シティバンク長野 シティバンク、シティコープ東京
シティバンク長野 シティコープ本店東京
成田信用金庫本店 ウエルズファーゴ東京








マルコスとイメルダが一九八〇年代に三和銀行の香港支店(実際に存在したかは確かめていない、三和は昭和三九年(一九六四年東京オリンピックの年)香港へ進出している。香港には為替・金取引ができる銀行が八七行もあり、為替管理・売買は自由だったので、三和の本店からキャピトルフライトしたカネ・金塊・美術品がおおいに活躍したはずだ。日本の商社やメーカーがODA取引で決済する場合は商社・メーカーの香港支店勘定に入金されることになっており、ODA資金を払う輸出入銀行などを通じて香港経由で決済されていたのだ。例の「カワサキ資金」(一九七七年フィリピン・カガヤンデオロに鉄鉱石の焼結工場(シンターコーポレーション)を立ち上げた。その時のODA資金、三〇年間無利子融資)も三和銀行の香港支店を経由したことが分かっている。マルコス全盛の時代だ。
太平洋戦争で、天皇家に属する「ゴールデン・リリ-」が明らかになる。そのファンドはアメリカ側では「ショーワ・トラスト」と呼ばれ、日本側では「マッカーサー・ファンド」と言った。トラストの設置はロバートB.アンダーソン。「ゴールデン・リリィ」自体は、フィリピンにマルコスが管理していたが、もともとは、マッカーサーとランズデール大佐が日本軍から取り返したものだった。
それを実行した人の名称は巷では、「マッカーサー将軍の部下、民政局のマッカート准将」だったり、「エンパラー・ヒロヒトの内大臣、キド・コーイチ」だったりしている。
番号  名義人 単位 一〇億ドル 銀行名 国名
七 Severino Sta. Romana USD 五.〇〇〇〇 Sanwa Bank, Hongkong China


天皇が戦後、マッカーサーの私邸(現アメリカ大使館)をたずねて、ゴールデン・リリィのことについてその処分方法を話しあったかどうかは日本のどの文献を見ても書かれていないし、誰も語ろうとしない。また、近年のアメリカの戦後史をひも解くパープル暗号解読の外交文書やCIA記録(「ファミリィ・ジェムストーン」)などもそこまでは言及していない。しかし、巷ではその金の塊を日本では「マッカーサー・ファンド」、アメリカでは「ショーワ・トラスト」と呼んでお互いに他国の管理下にある金だと云って責任をとらないものになっている。
□アンドー
「アンドーはギャングの親分です。しかも天皇の弟、タカマツ宮とはすこぶる親密な関係にあります。彼は内閣の閣僚とも昵懇なら、数都市の闇市の『王様』とも懇意だし、特に日本の将軍たちとは極めて親しい。彼の幕僚の十人の内九人までは軍人出身です」
「戦前日本の外務省は『いかがわしい人文化人の一群』を利用したものです。その連中がまた、帰ってきています。アンドーはそのエンジェル(財政的援助者の意味)の一人で、タカマツ宮が保護者、聖者カガワ(香川豊彦)が組織者というわけです」
「アンドーは何百人かの日本人の女を手元にもっていますが、西洋の女も十数人サービスさせることができます。白系ロシア人、ドイツ人、イタリィ人、元ナチの役人の情婦、移住者の娘、スパイ。これらの女の多くは接待係、電話交換手、通訳などになって総司令部で働いています。ある女はアンドーのやり方は気にいらないが、『借金があるので』と言っていました。またマリアというロシア人の女は、アンドーのために『特別任務』についています。アメリカの将校と週末を山間の静養地で過ごした日本人の女にアンドーが一万円円払ってた事実も私は知っています」(略)「私がやったように、まず、以上のことを全部綜合して、
それから推測してご覧なさい。アンドーは財産隠匿に躍起となっている皇室か、それとも財閥かの『傀儡』(かいらい)投資家かもしれない。降伏後日本の将軍たちが隠匿した膨大な軍需物資をもらった男かもしれない。あるいは、日本の地下組織の参謀本部とでも言うような組織の俸給支払者(ペイマスター)かもしれない」N大尉は今度彼がアンドーを訪問―社交的にーする時、一緒に行こうと(マーク・ゲインを)誘ってくれた(三八二p)。下線筆者 女中たちが部屋を出入りし始めたが、どの女もアンドーから送られたダイヤモンドの指輪をはめていいた、女中たちはお菓子とグッケンハイマー(Guggenheimer)のウイオスキーを運んできた。これはこの国では一財産を意味する。「アメリカからの友人は皆いつもここへご案内するんですよ。総司令部だけでも二百人から三百人の友人がいます。みんな大変忙しくしていられるのですから、時には気晴らしが必要ですよ」と彼は言い、彼のお客の名前を若干挙げた。ある将官、ある判事、二、三の有名な将校、二、三の特派員、連合国使節団の一、二人(三八九p)。
六月一〇日 東 京
朝、アンドーはリー・マーチン、ウオーカー、私の三人をタカマツ宮邸に連れて行ってくれた。アンドーが殿下と内談しているあいだ、私たちは小さな応接間で待っていた。そして飾りの多い家具や骨董(こっとう)や、円柱のある二階建ての建物をとりまく手入れの行き届いた野菜畠などを眺めていた。タカマツ宮は天皇にはあまり似ていない。体格もよく姿勢もいい。いかにも敏捷そうな顔だ。降伏前は海軍に籍をおき、軍部内の各派は自分の派に引き入れようとさかんに働きかけたが、彼はついに極右の一派と結びついた。私たちは丸い輪を作って話をした。アンドーが殿下の隣に座を占め私たちは質問した。(略)私たちは揃って退出するときも、アンドーだけは後に残ってぐずぐずしていた。そこで廊下にあった訪客簿を見る時間をえたのだが、それには占領軍の最高首脳部の人たちの名前も記されてあった(三九〇p)。
マークゲイン『ニッポン日記』井本赳夫訳 一九六三年筑摩書房から刊行された。原著は一九四八年七月に英文で上梓され、一九五一年九月(サンフランシスコ講和会議の時)に翻訳本が発刊されている。内容はオリジナルのままだ。

そして時が過ぎ、ワシのクライアントとして登場する某社長も実は東大→大蔵省の超エリートだった。・・・彼(クライアント氏)が言う。「・・・財閥解体に関する公式要求くらいでたらめで、また誤解を招くようなものはなかったな。GHQも、政党も、内閣も、新聞も、皇室さえ財閥と手を組んだ。財閥は君も知ってるとおり復活したんだよ」洋の東西南北を問わず、戦争と女と金はついて廻るということさ・・・。
神田のガード下では時々、小雨がぱらついている。中野行きの最終電車もそろそろ終電時刻が近づいた。ワシも聴き疲れてカウンターで寝ていたようだ。足立はこう思った。「そろそろ起こしてやるか、永遠に眠りこまれたら事だからな」と。
□皇室の隠し財産か
以前は、例えば、「スイスの銀行にある口座の情報は、日本の課税当局に提供されることはない」と信じられていたかもしれない。しかしながら、日本・スイスの間の租税条約も改正され、改正後の租税条約は、情報交換における自国の課税利益による制限の撤廃及び金融機関保有情報へのアクセスを明記しており、租税条約に基づき、日本の課税当局が日本の居住者のスイスにある銀行口座の情報を要請することも可能となっている。日本・スイス間の租税条約を改正する議定書は二〇一一年一二月一日に発効しており、改正後の規定による情報の交換は二〇一二年一月一日以後に開始する各課税年度について認められることとなっている。
「ところでニガよ、天皇さんが終戦まじか、スイスの赤十字に一千万スイスフラン(現在価値で五千億円)寄附した話は知ってるか?」
「そんなの知らんよ、またジィーさんホラ吹いてるな」
「イヤイヤ本当のことだ。これはシーグレーブ情報じゃない」。
□昭和天皇「七つの謎」
《加藤康男『昭和天皇「七つの謎」一〇天皇の財布と「隠し財産」』(WILL・二〇一四.一〇月一九一p-一九二p)
要旨『終戦間際、これまであまり知られていないが、天皇の財産を海外に移す計画が行われた。敗戦がせまった昭和二〇年四月、良子(ながこ)皇后のお名前でスイスの赤十字国際委員会(ICRC)に対し突如として一千万円スイスフランと云う巨額の寄付を提示していたことがわかった。この文書は国際赤十字とイギリス外務省の公文書のやり取り(F〇/三六九/三九六九、FO/三六九/三九七九)でわかったのである。
日本側の提示に対して、連合国の極東委員会(Fer Eastern Commission)-対日政策委員会がこれを却下する。戦勝国の没収権を守るためである。ところが、日本赤十字委員会はこの決定をアメリカの裁判で覆した。一九四九年、秘密裏に送金がある銀行からある銀行へ送金されたのである。寄付はBISにある横浜正金銀行の「天皇の『日本の秘密口座』である特別勘定」から「国際赤十字のスイスにある銀行の表口座」に振り替えられたとある。なお、送金日は一九四九年五月末、それまでにスイスの横浜正金銀行預金はスイス政府によって凍結されていたが、それを解除しておこなわれたという。現在に至っても宮内庁関係者のだれもが「知らないカネ」となっている。』
問題はここからである。現在の価値で五千億円というカネがそれで、全部だったかということだ。仮に天皇の財産が日本赤十字の出資金に変わったのであれば、(社)日本赤十字社は財産を公開して、国または宮内庁、あるいは財務省として登録していることを明かにすべきである。参考までにいえば赤十字社の二〇一三年三月三一日現在の基本金(一般法人の資本金に相当)は二五億円だった。現金預金は三七億円なので、その中に入っているとは思われない。マッカーサーが持ち出しちゃったのかな?財務省が着服しているのかな?横浜正金の次の東京銀行、その次の東京三菱銀行、その次の三菱東京UFJに渡ってスイス支店口座にあるのかな?
□国外財産調書法
時すでに来たれり、国税庁は国外蓄財をターゲットに、「居住者」がその年の一二月三一日において、その価額の合計額が五千万円を超える国外財産を有する方は、その国外財産の種類、数量及び価額その他必要な事項を記載した「国外財産調書」を、その年の翌年の三月一五日までに、住所地等の所轄税務署に提出しなければならないことになった。
対象者は金持ちの個人であり、法人には適用されない(法人は全世界バランスシートを出さなければいけない。)。だがしかし、法人に擬制して、たとえば、リヒテンシュタイン法人(外国法人)として、ジュネーブに財産が五千万円以上ある場合も、リヒテンシュタイン法人への出資額として国外財産を形成することになる。なお、タックスヘイブン税制という厄介なものが日本税法にあり、リヒテンシュタイン法人の運用益は個人の「雑所得」を形成し、確定申告がいる。そして、「情報申告」を怠った場合は六か月以下の懲役が適用される(場合がある。)。このように罰則付きで情報申告を厳しくしたのは、金持ち層の相続税対策として海外離脱、海外蓄財が急増したためであろうが、旧体制(エスタブリィシュメント)や宗教団体の理事、財団理事、社団理事、ヤクザ、ナリキン、多国籍企業の幹部、そして、相続地策として海外へ資金を持っていった農家の人たちなどがターゲットとなるようである。
最後に一言、居住者とは天皇陛下を含む国民全体である。
□最悪の評価
皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。
 「戦前、皇室には予算として年額四五〇万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約一六億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」
 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。
先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。
 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。
□『天皇のロザリオ』
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。
 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、二・二六事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の四七%の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。
 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。
 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。一九三八(昭和一三)年一二月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 
 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」
 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。
□究極のキャピタルフライト
 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。
 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。
 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和一九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に六六〇億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」
 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。
 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
《:著者としてこれらのことを全面的に支持するものではない。やはり『昭和天皇実録』を読んだ後でなければ》
□旧軍財産
 旧軍財産活用のためには、適切な管理とそのための確実な引継ぎが必要であったが、終戦時には陸海軍の財産管理自体が混乱していたうえに連合軍の管理が加わったため、その第一歩は全くの混乱状態にあった。
昭和二〇年九月二四日、GHQとの覚書「日本軍隊より受領し、且受領すべき資材、補給品、装備品に関する件」により 詳細な指令が出された。
イ. 対象物件は、日本軍隊に属する全ての武器、弾薬、軍装備等の戦用品並びに職員等の使用に供された備品又はその他の財産(土地、建物等も含まれる)。
ロ. 陸海軍財産のうち戦用とならぬものは日本政府に返還する。
ハ. 返還資材等の受領機関に内務省を指定する。
ニ. 内務省は受領物品の記録を保存し、その処置を明らかにせよ。
 財産返還の受領機関を内務省と指定した本指令は、政府の国有財産の管理体制に変更を求めたものではなかったものの、結果的には国有財産管理体制の二元化(大蔵省と内務省)とも解され、実行上大きな支障を来すことになった。この結果、GHQから返還される財産は、内務省(地方庁)が受領し、大蔵省(財務局、管財支所または出張所)に引き渡すこととする体制がとられた。こうして返還される国有財産の取り扱いは定まったが、各現地における実際の引継は相当な困難を伴うものであった。現地部隊の実地立会いのもと台帳、目録を作って引継ぐべきところ、立ち会う現地部隊の解散等で確認が困難となるものや終戦の混乱時に財産台帳を焼却したものなどもあって、確認の手段を失っていたものも多かった。
 さらに、大蔵省が引き継ぐものは、土地、施設等の処分困難なものが多く、加えて終戦のどさくさの中で施設の破壊、盗難等も見られ、管理・保全上の観点から、陸海軍の財産管理者をそのまま大蔵省の職員として引継ぎ、国有財産の調査確定にあてることとした。
 なお、内務省(地方庁)から大蔵省へ引継ぐ旧軍財産について、その処理に円滑を欠き混乱状態が続いたので、旧軍財産の返還については直接大蔵省に引き継ぐことを要請する申請書をGHQに提出し、再々にわたり要請をしたものの、成果はなかった。
ちなみに全国の引継財産のうち、土地面積は二,六九九km二にのぼり、その広さはざっと神奈川県の総面積を上回る程の膨大なものであった。
□戦争利得の除去及財政の再建
一九四五年十一月二四日発令のGHQ、「SCAPIN三三七 ESS/FI」という文書がある。その中で、第三条に、「皇室財産も本計画の適用を免るることなし。」の規定がある。
税率は最低二五%から最高で九〇%と一四段階で設定された。一人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いが、政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、天皇財産を 別にすれば実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであった。

なお、当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQの承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われた。このように、国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた点に留意する必要がある。
そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われた。富裕層(一五〇〇万円超)の一〇〇人からしてみると、保有した財産の大部分は没収されたが、保有国債は一〇年超の新国債で支払いを保証されたということになる。
国会図書館憲政資料室の所蔵の資料を調べた足立は「皇室財産」についてGHQとSCAP間で話し合われている資料の少なさに愕然とした。多くの皇室財産はやみの下に葬られたのだ。
極東委員会(FEC)が一九四五年二月ワシントンに設置された。戦勝国全体により日本を占領管理していく最高決定機関で、米国のほかソビエト、英国、中国、オーストラリアなどが参加する。東京には極東委員会の下部組織、対日理事会がおかれ(四月五日)、GHQ抜きで直接日本政府と交渉できるようになる。今までGHQあるいはSCAPとして独り決めしてきたマッカーサーはこれらの諸機関が動き出す前にすべてを決める必要がある。特に天皇制の存続については、中国、ソビエト、オーストラリアが強硬に反対しており、天皇を戦犯として裁く可能性が高くなっていった。マッカーサーはこのため、戦争犯罪人の処刑、象徴天皇憲法制定を急いだのである。そのためには天皇の財産をはきだしてもらわなければいけないのだ。

一九四六年九月一日のホイットニーからワシントン宛ての発信文書では「八月三一日付けの改正案第八八条《皇室財産・皇室の費用》から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのか」という、FEC(極東委員会)のイギリス代表の質問の文書」 に答えて、
マッカーサー元帥は「第八八条には、七月二日のFEC原則の四一dに従って、天皇の財への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだ」と回答している 。
イギリスは、皇室財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場をとる旨伝えている 。
SCAP公式文書によれば、皇室財産についての審議結果を米陸軍参謀長に伝えて、四六年七月二日のFEC原則に基づいて、皇室財産については、天皇の世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化は憲法が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている 。
マッカーサーが極東委員会の始動をにらんで日本国憲法の作成を急いだことは定説であり、マッカーサー自身、次のように述べている。「占領が極東委員会の審議に依拠していたとすれば、憲法改正が成就されていなかったであろうと、私(マッカーサー)は確信している。ソ連が拒否権をもっていたのだから 」ただし出来上がった憲法草案はあまり評判が良かったとは言い難い。
「マック・ダーモット氏の意見によれば占領政策は驚くほどうまくいっているが、憲法草案の内容については深く憂慮している、とのことだった。彼は、この憲法はひどい出来だと考えていた。原型も発想もアメリカ人のものだし、当の日本人がたいしてわかってもいないのにアメリカ人に押しつけられてただ受身的に受け入れているだけだからという。」(マクマホン・ボール著、A.リックス編、竹前栄治・菊地努訳、前掲書、三頁)。
□この資金は“多くの蠅”どもをおびきよせるであろう
―昭和二四年四月二日に、ガリオアエロアの見返り資金に関する司令部からの指令が出された。この日、ドッジ氏は四谷小学校を接収した大蔵省に来てワタシ(タケシ・ワタナベ)にこう言いました。その会合にはもちろんワタシの上司、イケダ蔵相、大蔵顧問のシラスさんもおられたわけです。
「見返り資金は予算の実行状態、産業及び銀行の合理化の成否を見ながら放出を加減したい。金融や財政の動向を見て効果的な調整弁にしたいのだ。復金(戦災復興会計資金)のように、袋に入れた金(カネ)を“みんながつかみどりするようなもの”にしてはならない。今日出た指令の文言は米欧州の文言と同じものを使ってある。その意味では、旧敵国だった日本を連合国並みに扱うわけである」
「この資金は“多くの蠅”どもをおびきよせるであろう」
「が、健全な開発資金にむけなければならない。しかもあらかじめ年間の計画は立てられないのだ。もしインフレが進行するなら、この金(カネ)は放出されないであろう」と言った。
そこでワタシは「“多くの蠅”というのは彼らのことですね?」と確認をとった。
ドッジ氏は確かに、「そうだ。ブラックカーテン(黒幕の直訳)やヤクザ連中のことだよ」と言った。
「それでは健全な開発資金の使い道として、たとえば、財閥解体の憂き目にあわなかった特定の銀行の資本増強の資金に使ったり、宮内省などが財産税に対抗して事前に放出した財産を公益法人とするための軍資金として使うことも許されますか」と訊いた。
ドッジ氏は「当然だよ、OKだ」と言った。
「それなら、厚生省などが社会基盤整備のため下部機関として日本各地に社会福祉協議会を作ってそれに出資を求めるなんてことも許されますか?」と訊いた。
ドッジ氏は「ケースバイケースだよ。バックに旧陸海軍(復員局)のブラック・カーテンがいなければね」と云った。
「それなら、日銀に残っているダイヤ一六万カラットを全国宝石商組合に移す資金としてその資金を使ってもよろしゅうございますか?」と訊いた。ドッジ氏は幾分いやな顔をしたが、
「あれのことは我が方の不始末もあるから既に大蔵に権限を移しておるとマッカート君も言っておるからな。一六万カラット分についてはどのように処分しようが君たちの自由だよ」と答えた。
工業ダイヤは商工省(経済産業省・通産省)にくれてやってもいいが、そのほかは大蔵省がいただく。イケダ蔵相もシラス氏もワタシ(タケシ・ワタナベ)もほっとしたのである。
そこでワタシは資金特別会計とこの資金の運用方法について各省の予算要求(というよりも陳情)にこたえ、そのカネを配ることにした。

そのクライアントは「大蔵省が連絡役となって「安本」と策定した運用計画で各省の協議会へ配ることにしたのだそうです」と言うのだ。
「どうだい?、もしこれがM資金だったとしたら辻褄があうだろう?ヨシダ先生」と得意げにそのクライアントが言った。
「驚きましたね。社長がそこまで入試のため勉強されていたなんて」とワシは驚いた。
「君、それは違うよ。ワタナベ先生はわしらの大々先輩なのだ。私たちの口頭試問の際は、脇役でいつも事務次官の隣にいるのだヨ、私もムトウ君とかウスイ君とかと一緒に受けたからね」
タケシ・ワタナベ氏はその後アジア開銀の初代総裁となった。アジア開発銀行はフィリピンマニラに設置された。マルコスとは懇意だったようだ。大々先輩は初代総裁となった。だいぶ後のことだが(二〇一三年)日銀総裁となったクロトンさんはこのクライアント社長の後輩なんだってことが後でわかった。そんなことならM資金サギにだまされることはないわけだ。ついでに言うとそのクライアント氏は今の総理大臣の中学時代に家庭教師をやり、結果はあまりよくなくて(頭がいまいち)、武蔵野のある大学に入ったんだとか・・・。
□マッカーサーが三和銀行を特別に可愛がった訳
三和銀行は戦前からの老舗銀行(鴻池家ほか三財閥からなる。)で、天皇家は戦前、戦中まで三和の大株主だったことがわかっている。戦後、三和銀行は財閥(銀行)解体 の対象とされなかった。戦争で台湾や中国、朝鮮から不当に奪った財産は米国へ返還する(アメリカはそれから戦時賠償を行う。)予定であった財閥銀行から外れたのである。はずれたばかりでなく、GHQは、各銀行へ増資を要求した際、三和には一〇億円の資金を提供した。実際は三和銀行信託部にファンドを開設する方法によった。信託した人物はロバートAアンダーソン(Anderson )。直前、アンダーソンはマッカーサー将軍とランズデールとともにゴールデン・リィリーが埋蔵されたフィリピンのサイトをたずねている・・。ファンドの金額は不明だが、GHQが持っているおカネは旧軍の隠匿物資の金、銀、プラチナ、ラジウム、ニッケル、チタンや天皇家や国民から供出されたダイヤモンド、その他、地方に分散した軍需物資などを摘発して、接収財産として日銀の地価倉庫等に保管されたものが元手になっていることは大体推定がつく。その中にはフィリピンから持ち帰ったゴールデン・リリーも入っているかもしれない。しかし、信託契約というものはご存知ない方が多いのであえて、説明するが、GHQ(信託者)が直接三和銀(受託者)の店頭に現物(黄金・ダイヤ)を持ち込むのではなく、その現物をどこぞに売却し、外貨(米ドル)で信託する(外貨建て金銭信託)が普通である。そして、三和銀はその外貨キャッシュをどこぞに貸付け利得を生み、そこから手数料をもらう・・という仕組みである。もしそうでなく、金塊・ダイヤを信託したのであれば、金・ダイヤモンドリースをして貸付料をとるなんてことも可能だが、そのころ金リースなんかないからそれは無理。現物では金利を有むという現象は起きないのでそのような信託(ファンド)契約はされているわけがない。しかも終戦直後は、金塊やダイヤを国内で売りさばくほど日本経済は強くなかった。おそらく、金塊はニューヨーク連銀に運ばれて、売りさばかれたか(そのかわりショーワ・トラストとして一応日本管理の外貨として預金しておく。)、香港方面(そして陸路、スイスへ運ばれる。)へ現物が移動して行ったと思われる。
ダイヤモンドは、おなじくニューヨークのユダヤ人街(四七丁目 )の仲買人シンジケートに渡ったのはほぼ、確実である。そして、決済されたカネは米ドルなので、米国の民間銀行に預金された。その預金の預託者(預ける人)が三和銀で、その信託の受益者〈利益を受ける人)はGHQである・・・したがってこのファンドは「GHQファンド」と呼ぶべきである。
ところで、三和銀行は一九四八年一〇月一日、一〇億円を増資している(三和社史)。この増資は邦銀のソルベンシー(資本充実原則)を求められたことによるものだが、財閥系銀行でさえこの増資に四苦八苦しているのに、三和銀だけがこれをサラっとこなしている。
「誰がカネを出したんですかね?」
「決まってるだろう、GHQかランズデールだよ」
「そういえば・・・」

「SCAPは戦後、三和銀行(関西)と日本勧業銀行(関東)および東海銀行(名古屋)にだけ隠匿物資の返還をを免除したという話はもうしたよね」
「日本は戦後、戦時賠償をするため、いろいろな銀行と取引を開始したようにみえるけれども、日本は日露戦争のころから、世界の決済機関と取引があった」
たとえば、サンフランシスコ平和条約第一八条(a)は、戦争状態の存在前に発生した請求権は賠償の放棄にかかわらず存在することを認めている。この規定に基づき、アメリカ・イギリス・カナダ・インド・ギリシャ・アルゼンチンは日中戦争などで発生した損害の請求を行い、日本側は総額一八七万四二六三ドルを各国の銀行へ支払っている。
また一九六六年にはオーストラリアとの間で合意が行われ、一万六七〇〇ドルが賠償としてオーストラリアの銀行へ支払われている。これらの非交戦国に対する補償・賠償金合計は一二三五万九四八四ドルだった。
イタリア王国は旧枢軸であり、一九四五年七月一五日に対日宣戦を行ったものの、実際の交戦は発生していない。しかし承継国のイタリア共和国政府は一九三七年の日中戦争開始以来の民間人資産損害の補償を求めていた。
またイタリア為替局と横浜正金との間で交わしていた決済協定があり、終戦時には日本側の債務が八六四万四千円(当時)残っていた。戦後、横浜正金銀行はGHQによって閉鎖機関に指定され清算されたため、イタリア政府はこの債務返還を日本政府に求めた。しかし日本側は私企業である横浜正金銀行の問題であるとして十数年間交渉を行っていた。一九五九年八月四日には「イタリア為替局との特別円取極」が締結され、四億六三四五万円の返還を行うことで合意が行われた。
一方で民間人資産問題は一九五二年から交渉が行われ、一九七二年七月一八日に「イタリア国民に対する第二次世界大戦中の待遇に関連するある種の問題の解決に関する日本国政府とイタリア共和国政府との間の交換公文」が締結され、一二〇万ドルがイタリア政府に支払われることで両国間の請求権問題は解決した。ただし日本側はイタリアの請求権を認めず、あくまでもこの支払いは賠償や補償ではなく一括見舞金であるとの立場を崩していない。
一九七六年七月二二日のフィリピンに対する支払いを最後に賠償交渉は完了した。





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