国際税務研究ブログ

こんにちわ、TOKYO在住の税理士、木村俊治と申します。国際税務のことについてアレコレ書いています。木村国際税務研究所も

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』写真集

2015-10-08 18:49:30 | インポート

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(11)スイスUBSの金塊

2015-10-08 17:34:41 | 税務小説
□カネ持ちで死ぬ奴はバカ者だ
アンドリュー・カーネギー(Carnegie)はかつて「金持ちで死ぬ奴は馬鹿ものだ 」といったことがあ る。これがマルコスに当てはまるかは例によって私にはわからない。マルコスは信心深い性質だったが、政務が忙しく、多額の寄付など、慈善に費やすカネと時間がなかったともとれるからだ。
「カネがない?膨大な金塊があるだろう?」イヤ、ないのである。 なぜなら 友人のレーガンは米国の対共産強硬政策(SDIを含めて)の達成のためには、日本、フィリピン、台湾などの衛星国からもっと多くの「闇の金塊」をアメリカに持ってくるよう圧力を受けていたからだ。マルコスはレーガンの頼みを聞かなければ、フィリピンを追い出される宿命があった。ブッシュ父CIA長官の命により、手下がいつもマニラのマラカニアン宮殿を闊歩していた。
マルコスファミリーの情報筋によれば、「ビル・キャセイはフェルディナンドに、もしお前がCIA指定の銀行に闇の金塊を預けることに同意するなら、アメリカ政府は永遠に権力の座を維持させるだろう」と 言った。
□マルコスはイヤイヤ、毛沢東に金塊を送った
シーグレーブ夫妻の言によると、マルコスがアメリカなしには政権を維持できない、イヤ、マルコス政権誕生がそもそもアイゼンハワー、ケネデイ、ジョンソン、ニクソン、レーガン各大統領の後押しの結果だということが、結果としてあるひとつの取引を生んだのだということだ。いわゆる「中国指令」である。マルコス・ファミリーの情報筋によれば、一九七二年、ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャーは周恩来首相と秘密の取引をした。それはマルコスが差し出した多量の金塊と引き換えに、中国が台湾に関して米国との争いを避ける取引だったと主張して いる。アメリカはベトナム戦争で戦費を使い果たし、各連銀の金庫はカラだった(メッキしたゴールドバー六千トンはフォートノックスにあったが、)。そこに「中国の事情」が降ってくる。文化革命中の中国に大飢饉が襲い、二千万人の農民が餓死した。政権の危うさを対外戦争でしのごうとするのは自由圏でも共産圏でも同じで、中国極左・解放軍は台湾奪還で国民の目をそらそうと画策を始める。穏健派の周恩来は第三次世界大戦の勃発の責任を取りたくないので、ニクソン政権に助けを求めてくる。「食料危機に援助願いたい。そうすれば台湾進攻は防げる」と。アメリカにはそれを防ぐ艦隊、兵員を欠いていた。ベトナムから還ったばかりの若者を台湾海峡に送り返す?そんなことはアメリカの親たちが許さない。「じゃ~どうすればいい?」マルコスに備蓄中のゴールデンリリーを中国へ供出させるのだ。

この情報筋によれば、一九七一年から一九七二年にかけて人民共和国の経済はかなりひどい状況で、外貨準備高は底をつき、世界規模の石油危機と国内の飢饉でさらに悪化していた。その すべては正しい情報である。共産党政治局へかかる圧力で、党のタカ派は発言力を増し、台湾の資産の支配力を得るため台湾侵攻を主張した。
CIAと国防総省のアナリストは、中国は今にも台湾攻撃を始めそうだ、しかしアメリカはベトナム対策で手いっぱいだとの結論を出した。この状況は核戦争につながりかねなかった。ひとつの方法が緊張を和らげるために見出される必要があった。CIAのアナリストが提案した新しい解決策は、マルコスから得た「闇の金塊」を多量に投入し、中国が自国経済を安定化させるのを助け、戦争の圧力を減じるというものだった。もしアメリカが中国を国内危機から救えば、フィリピンにも利益をもたらす平和の一時代を招来させることが出来る。
シーグレーブの情報筋が言うように、ニクソンとキッシンジャーは秘密裏に、マルコスが中国へ金塊で六百八億ドル(マルコスが持つと彼らが知った量)を提供し、五~六年の間に多くの薄片の 形でPRC銀行(中国中央銀行)に移すように依頼した。これは即金の贈り物ではなかったようだ。贈り物は追加的に香港や中国大都市のいろいろなPRC銀行に預金され、金塊は銀行に資産担保と して残り、事前に協議したいろいろな目的のために割り当てられたのだろう。中国中央銀行は強化され、中国経済は安定化し、共産党政治局の穏健派は勢力を回復し、台湾侵攻を主張したタカ派は沈 黙をさせただろう。フィリピンの奮闘に比べ米国は中国への基金を一ドルも出さなくて済んだ。
「それはマルコスが発見した日本軍の戦争略奪品のなかで、よい使われ方をした唯一のものだ」とシーグレーブ夫妻の情報筋は皮肉った。多分ゴールデンリリーのことを言っているのだろう。

周恩来はきわめて現実主義者で、その作戦を徹底して推進したと伝えられている。マルコスが協力したことは重大で、彼はアメリカ政府から十分に支援を受けただろうし、多くの形で報われただろ う。
アメリカ政府はマルコスに、彼とイメルダは北京を公式訪問ができ、それが世界中に彼らの名声を高めることになると保証した 取引をする価値は十分ある。
後年、中国は飢饉が癒えると農作物援助という形でフィリピンにお返しをした。《:それが今では、その時の恩も忘れ、南シナ海、スプラートリィ環礁のあの侵略行為となるわけである。「歴史を忘れるな、日本!」という中国の声はそのまま、中国へお返ししたいよ。「中国よ、フィリピンの温情を忘れるな・・」と。「温情の元資金はゴールデンリリーなんだ・・・」と。》
一九七四年、イメルダと息子のボン・ボンは北京を公式訪問した。彼らはびっくりした表情のひ弱な毛沢東を間に挟んで、のぼせて笑いながら写真を撮った。毛沢東が写っている写真の中で最も奇妙な一枚である。フェルディナンドは翌年北京を訪れたが、あけすけにものを言う冷戦主義者としてかれの行動は奇妙なものであった。予定外の余禄として、イメルダの兄弟コケイ・ロムアルデスは自分の持っている以上のフェルディナンド義兄への忠誠心を述べたおかげで駐中国フィリピン大使にはなれたのである。《:本当の話だ。》

われわれ(シーグレーブ夫妻)のマルコス情報筋によれば、「中国指令」はニクソンの歴史的中国訪問と、中国政府との外交関係設立の露払いを務めたのだという。自由世界はこれで、核戦争の針を一〇分間遅らせたのだとその情報筋は主張している。
□スイスUBSの金塊
資料によれば、中国指令は一九七二年に始まり、長年にわたってPRC銀行の口座から二五億ドルを取り戻すために、イメルダは賞金稼ぎに三五%払うことに同意した。イメルダの弁護士は、彼女は貧しい人を助けるために金を工面しようとしただけだと言った。その後、もうひとつ、秘密のマルコスの金塊口座がスイスのUSBにあるというニュースが流れた時、イメルダは「驚くことではないわ、昔はお金を持っていたんだから」と嘆いた。

中国におけるこれらの金塊口座の存在が明らかにされた時、冷戦がなお続いていた一九七〇年代のはじめ以来、どのようにして金塊口座が中国にもたらされたのか誰も関心を持たなかった。《:そんなことよりも誰もそんなことは知らなかったんだと思う。》 誰も、金塊口座がもたらされた理由とニクソンの一九七二年の北京訪問へ続き、香港の中国銀行、シアメン (アモイ)のPRC(中国中央銀行)公式訪問とを結び付けな かった。
□中国の銀行にあづけた大量の金塊
シーグレーブ夫妻の説によると、マルコスの金塊はある他の中国系銀行を含む中国政府所有の銀行に移されたことを示している。こうした銀行からの書類は、サンタ・ロマーナ、フェルディナンド・マルコス、イメルダ・マルコス、他の大変大きな口座が中国の銀行に存在したことを示している。われわれ(シーグレーブ夫妻)のCDには金仲買人が金塊の移転がうまく実行できた時に支払われるべき手数料を請求する手紙がいくつかある。マルコス・ファミリーと金持ちの友人たちは、その後にこうした口座を抱える中国銀行 の新社屋落成式に参加するため、シアメンを旅行している。シアメン(廈門市)はアモイのことで、フェルディナンド・マルコスの実父に長く関係のあった福建省グループの故郷なのだ。二〇〇〇年には更なる証拠が出てきた。それはイメルダが中国の銀行軍群の金口座に近づくためある中国人の女銀行員を使った容疑で香港政庁から告発された時である。一九九九年の十二月に、香港政庁の検察官によれば、イメルダは中国銀行、HSBCそしてシアメンのPRC銀行から金塊を引き上げようとした。
□三和銀行香港支店の天皇/マッカーサー合同信託
一九八〇年代のはじめに、もうひとつおかしな展開があった。
フェルディナンドとイメルダは大統領になった直後(一九六五年)、ゴールデン・リリー略奪品をもとに開設された特別の秘密口座が香港にあることをマニラのCIA本部から聞いた。
これは、戦後すぐ、ランズデールたちがコジマ少佐を拷問して白状させた「トンネル八」からの回収金塊で、東京のマッカーサーに報告された後、ワシントンへ知らせ、トルーマンが「東京で処理せよ」といわれた金塊で、天皇との第一回の会見の際、イの一番にマッカーサーが共同運用を提案し、大阪の三和銀行に十億ドルの金塊信託をしたものである。マッカーサー元帥と裕仁天皇の代理人(ロバートB.アンダーソン、のちの財務長官)の名前で開設されていたらしい。その後(一九六五年)、三和が香港へ支店を開設すると信託は香港へ移動した。それを知っている日本の関係者はそれを「M基金」と呼び、米国の関係者はそれをショーワ・トラストと呼んで、日本への工作・援助資金に使った。日本側にはそのカネを利用する権利はなかったようだが、ヨシダがGHQへアドバイスはしたようだ。三和銀行は日本の古い銀行のひとつで、裕仁天皇は第二次世界大戦前からかなりの量の株を所有していた。
M基金のMはマッカーサーのM、あるいはマッカート准将のM、あるいはミヤザワのMかはっきりしないが、少なくとも直接的にはマッカーサーに利益をもたらすよう意図していたとは言えないとシーグレーブ夫妻は言う。ワシは、マッカーサー自体に私欲がなかったとしても、将軍を取り巻くバターンボーイズや私設秘書たちが将軍の老後のことを考え、運用を図っていた部分もあると考える。そして一九八〇年代の前半、イメルダやマルコスがこの基金に興味をしめさなければ、マルコス政権はもう少し長引いていたと思うのだ。
















十章 ゴールデンブッタ

バギオの海軍病院跡で黄金の仏陀を見つけた鍛冶屋ロハスはついつい、街中でお宝を見つけたことを人に喋ってしまった。それを聞きつけたマルコス弁護士は早速、軍隊を送り付けて黄金の仏陀も、ブタの貯金箱も根こそぎ奪ってしまうのである。マルコスがハワイに追放されてロハスのチャンスが巡ってきた。マルコスを盗人で訴え、四三〇億ドルの賠償金を得たのだ 。マルコスはどこにそんな大金が眠っていたのだろうか。

□ロハスハウスの急襲
七一年四月五日午前二時三〇分、犯罪捜査局(CIS)と国家情報局(NBI)の面々がロハス家のドアをノックした。「家宅捜索令状を持ってる。すぐここを空けろ」と面々。すぐ空ける程、浅い眠りじゃなかったロハスは出遅れる。面々は家の玄関側の窓をたたき割って、ライフルの銃口を中の家族らに突き付け「三分以内に空けない場合は撃ってもいいことになっている」と云った。
「随分いい加減だな。やっぱりフィリピンは」と似瓦。
ロハスはドアを空けた。軍隊風が八人、部屋へ押し入ってきた。オイハラもいた。
面々が捜索令状といっていた紙切れを示し、サ~と奪われる前にロハスがその紙切れを一瞥した。確か、“中央銀行規則違反及び不法銃器所持”そしてピオ・マルコスおじさんの署名があった。
面々はロハスの弟をライフルで殴り、ロハスのボディガードや家族を床に転がした。面々が帰る時、仏陀・ダイヤモンド、一七枚のバー、侍の刀、豚の貯金箱(子供のものだ!)、妻のコイン蒐集品・コレクションまで持って行ってしまった。
ロハスはその急襲劇をマスコミに訴えた。次にピオ・マルコス判事に文句を云いに行った。
「ピオ・マルコス判事、ひどいな。なんで捜索令状にサインなんかしたんだ?」とロハス。
「“プリンス”の命令だから仕方ないよ」とピオ判事。
「“プリンス”?プリンスって誰よ」とロハス。
「フェルディナンド、フェルディナンド・マルコス。・・・甥っ子が没収を命じたのさ」。
判事はおまけにロハスに、「オイハラの仲間のアメンセック氏が捜索令状を請求したんだ。お前は家に銃を隠し持ってるだろう。何でプリ~ス(警察)やマスコミにリークしたんだ。CISやNBIはお前を殺すかもしれないぞ」と脅かした。
ロハスは“これは脅迫だ”と気が付き、仕方がないので四月七日にバギオの警察に被害届を出した。それからロハス一家はカバンテュアン市に行った。ジョソン州知事に助けを求めるためだ。ジョソンはボディガード二人を付けてくれた。そのことがあった直後の四月一九日、軍隊の面々はバギオ下級裁判所に銅と亜鉛の合金の仏像を提出した。
ロハス家のカバンテュアンの隠れ家なのになぜか二人の男女が来訪する。ロザリオ・ウイ(Rosario Uy)とアニタ・イグナ(Anita Igna)。彼らは法廷に軍隊が持ち込んだ仏像が、ロハスが発見した仏像と同じものだと公証してくれれば三百万ペソをやるといってきたのだ。彼らは「マルコスの母親の使いだ」とも云った。
ロハスは拒否したが、すぐウイから電話があって「もしもカネ受け取りを疑ってるなら心配は無用だ。フェルディナンドが保証しているんだから」と云った。これもロハスは蹴った。
ロハスの話は新聞、ラジオ、テレビ、野党の関心を引いた。ロハスはフィリピンの政治家多数に面会した。その中で司法長官ビセンテ・アバド・サントスはロハスのバギオ行きを保証した。法廷でマルコス側が提出した仏像が本物かどうかを確かめる必要がある。
《ゴールデンブッタ?この写真には疑問がある。左にいるカーチスが片手をおいているお釈迦様がどうみてもゴールドではないこと、洞穴から掘り出したロハス(右側)が仏像にわざわざロープを巻きつけていること、いかにも今掘り出したもののようにスナップ写真にとっているが金の仏像が既にマルコスらに持ち去られた後だったことなど》
七一年四月二九日、ロハスは、二人の検事、一人の弁護士、二人のボディガード、大勢のマスコミ関係者を引き連れて、バギオ下級裁判所に乗り込んだ。
同じものじゃない。第一、表面がゴールドじゃない。第二に表面の金属が金じゃない。第三に頭部が動かない、第四に腕の下にドリルで穴をあけたのにこれにはない。ついでマスコミを自宅に案内し、軍隊の面々に壊された窓や仏陀が入っていたはずのクローゼットを公開した。彼はフィリピン上院に証言のため召致され、五月四日にマニラに行った。
□逮捕と拷問
五月一八日、カバテュアン市でロハスは案の定、三人の私服に捕まった。彼らは大統領のところにいって交渉しようと云った。「怖がるな。大丈夫だ。おれたちはマラカニアンの代理人だ。大統領とはネゴが可能なのさ」。
ロハスはポンシアノ・ゴンザレス大佐(Col.、Ponciano Gonzales)のところに連れていかれた。そこでオリバス大佐に五回、腹を殴られたのを覚えている。
「何でなぐるんだ?」
「お前は別のプレジデントの名をあげたからだ」とオリバス中佐。
「俺たちのプレジデントにお前が拘束されているって話すのにな」と別の男。
オリバレス中佐はフェルディナンドに電話して、“この電話に出ろ”とロハスに受話器を差し出した。
その後ロハスはパンパンガのサンフェルナンドにある軍司令部に移送され、暗室で彼の家族たちの写真を見させられた。「もう一度家族に会いたいなら、協力することだな」と云われた。大統領の犯罪だという上院議員の名前を言えと迫ったが、そのような表明をするはずもなく、更に兵隊たちは電流(アンペア)を使って「残りの財宝がどこにあるのか吐け」と云ってきたが、これにも(電気だけに)抵抗(オーム)を示した。
すると最後にはタバコの火を肛門に差し込んだ。その後、判事の下で召換状にサインさせられたが手が震えて書けなかったし、その、また、あと、アンゲレスのホテルに連れていかれて再び財宝のありかを問われ、拒否すると今度は獣脂でできたボール状のようなもので気絶するまで殴られた。
この時、右目と耳がいかれた。七一年八月二一日、オスメニア上院議員(この人のお父さんは元フィリピン大統領)がロハスの監禁を解き、マニラに連れていって、反対集会でこのことを暴露するように依頼してきた。ので、ロハスはそれに応じ集会で演説することにしたが・・・、
だが、その集会場に彼が演説する前までに二発の手榴弾が投げ込まれて御破算となった。
ロハスはそれでもう一年以上集会の前には立たず、逃亡生活を強いられた。
七二年九月二一日に厳戒令が敷かれ、フェビアン・ベール将軍(Febian Ver)が営倉に来て、ロハス家の急襲の際、そこにいたことを認めた上で、「お前を殺す指令が出てたんだが、直前にお前が“キリストの教会”のメンバーであることがわかった。なので、俺が中止させたのだ」、「この事件のことは黙っていろ。厳戒令が敷かれた以上は真相はどうでもいいことだ」と言った。
□軍隊による発掘
七四年一月九日に彼は釈放された。バギオ総合病院あたりは兵隊が一杯でまだ、そのあたりをひっかきまわしていた。兵隊の一部がロハスの店舗に現れ、マラカニアンから来ていることを示す記帳をロハスの記録簿に残しながら、「今からでも協力しないか」と云われた。
ロハスはそれを断り、七六年一〇月にその店舗を引き払い、ビサヤン市に引っ越し、一〇年間は“ヤマシタ・トレジャー”の話しには触れなかった。
「七五年八月には、病院付近にいた兵隊たちは去った」とバギオに四五年から八八年まで住んでいたジュアンとロムロは語った。
兵隊たちは“PSC ”の背当てをしており、“PMA ”という塗りがあるトラックで無数の箱を運び去った。
木の箱を運ぶのに四人から六人の兵隊がかかわっていたと述べた。お宝の搬出は日に五箱のペースで一年間続けられた。木箱が腐ってゴールドバーが道に落ちるハプニングも始終あった。トラックの周りは厳重に警戒され、歩哨が周りに立っていた。町中の噂になっていた。
“金塊が飛んでいった”それだけあればフィリピン国民を皆、大学へやって、全部国家公務員として雇える額だ。
「しかし、にわかにはしんじられね~な」が似瓦の正直な感想だ。
彼によればフィリピン人は生活の為となれば嘘もつく。それも壮大な嘘をつく。「生活のためだからな」この間もぜげんののアランが、
「似瓦さん、おばちゃん(魚売り)からツナを仕入れるみたいに、(簡単に)連れてくるわけないヨ、デバ?」、「女の子も人間なんだから、デバ?」と云ってフィリピ~ナを捜す苦労話しをしたあと、突然「似瓦さん、ヤマシタ・トレジャーマップある。アコ(ワタシ)、パパからもらった。マップ持ってます。イカウ(あなた)買うか?千ペソOK?デバ?」、「女の子より早いよ」と云った。
似瓦は近くのサリサリ(雑貨や)でもその類の観光土産が五〇ペソで売られているのを知ってるので、
「バガヤロ、にせものだろう、デバ!」と云ってやった。この間のタダラフィル(何ものかは自分で調べること。)もニセモノだった。ここではニセモノとホンモノの区別という面倒くさい商習慣はないのである。
以上のようにロハスの黄金仏陀のことが書かれているが、原文で紹介されているサンティとイメルダの関係、及びバリンジャー(Ballinger)のことについて一言。
□サンティとイメルダ
ロハスが迫害と拷問を受けていた期間中マルコスは、サンタロマーナ(サンティ)に「少しゴールド勘定を俺にくれ」と脅していた。彼等の関係はマルコスが大統領になる六五年よりも前からあり、マルコス一族の関係者によると、「六〇年代の初めにマルコス氏とサンティ氏はチームを作ったようだ。サンティ氏はイメルダさんの親友で彼女がレイテ(州都タクロバン)の美女コンテスト「タクロバンのバラ」で優勝した時点で恋人だと言ううわさがあった。サンティ氏がイメルダ嬢をマルコス氏に引き合わせたのさ」と言っているが、これはどうやら間違いのようだ 。
ロハスが拷問を受けている間、マルコス大統領はサンタ・ロマーナに彼の大量な金口座の幾らかを引き渡すように圧力をかけていた。彼らの関係はずいぶん昔へ遡ることになる。
家族の話によると、マルコスとサンティが最初に手を組んだのは、マルコスが大統領になる前の一九六〇年代だった。サンティはイメルダがミス・レイテだった時とても親密だったと話している。つまり始めは彼が自分の愛人ということでイメルダをフェルデナンドに紹介したのだった。当時ハンサムで力強いサンティはイメルダの情夫だった。(コレハマッタクノイデタラメ)
□ニノイはイメルダの最初の恋人
「ニノイ・アキノはイメルダの最初の恋人だったという話信じるか?」とワシ。
「本当ガ?」と似瓦。
「石原慎太郎の『暗殺の壁画』に出てたんだがな」
「なんで昔の恋人殺したの」
「イヤ、イメルダは“彼を殺して何の得があるの”って言ってるんだな。これがまた、“ポリテイカリィ(政治的に)?フィナンシャリ(財政的に)?”ってな、もうすでになんの影響力もないじゃねいかと言ってるんだ」―実際、イメルダはベニグノ・アキノを訪ねてボストンまで行っている。そして帰国しないよう要請し、海外逃亡生活の資金供与を申し入れている。勿論、ニノイはそれをけっているが、そのとき、イメルダが何を言ったのかは明らかになっていない。多分「ニノイ、あなたが帰ってくれば、私の旦那は多分あなたを抹殺するよう取り巻きに指示するはずよ。あなたが祖国に影響があった時代はもうとっくに終わってるのよ。結局犬死なのよ。ベル(将軍・イメルダに忠実だった)はきっとあなたがマニラの「土」を踏むことを許さないわ。そうなってもいいの?」くらいは言っただろう。
「でもなイメルダは愛憎劇の清算と云うことも何にも言ってないんだな~」とワシ。
「亭主は分かってたのか?」と似瓦。
「イヤ、知らないだろう。知ってらもっと早く殺ってたよ」
□傘・DNP
サンティは背が高くスキンヘッドでたくましく、その頬骨が張った東洋的な顔立ちは俳優のユル・ブリンナーそっくりだった。われわれ(シーグレーブ夫妻)が持っている写真の一枚を見ても、白いネール・スーツに白い靴
を履き、他の人を見下すように背の高い自然な気品を感じさせる男だ。
友人達は彼を「品行方正で、いい性格の男だった。」と述べている。彼のカリスマ性は彼が女性にも男性にも魅力的だったことで作られたのだ。サンティはセベリノ・ガルシア・ディアズ・サンタ・ロマーナだけではなく、多くの名前を持っていた。(今は引退してカバナツアンに住んでいる彼の弟、ミゲル・マイク・サンタ・ロマーナ判事はサンティと顔のつくりが程遠いのだが、同じ家族の名前を使っている。)
サンティがエバングライン・キャンプトンと結婚した時に父の別名であるディアズを使った。しかし、一九三八年のジュリエッタ・フェルトとの結婚届ではサンタ・ロマーナにもどしてあった。
一九四〇年代後半に仕事上で使い始めた偽名は世界中の銀行証書に見受けられる。たとえば、「ラーモン・ポーロッテ」、「ジョセ・アントニオ・ディアズ」、「ジョセ・アントニオ・セベリーノ・ディアス」、「J ・アントニオ・ディアス、セベリーノ・ペナ・デ・ラ・パズ」、「マティアズ・コーネア」、「ジョセ・アルモンテ」、「サンティ」などなどだ。偽名を使うということは不法ではないが、どうしても怪しまれる。米国の法律では、偽名が詐欺に使われない限り不法行為とはみなされないことになっている。
作家、俳優などの偽名は、生活する上で合法的な役割がある。日本の略奪物資回収の窓口としての彼は、CIAや財務省と仲間だった時、モナコで登記されたDNP ・エンタープライズ(ディアズ・ナネティ・ポアロッテ) というトンネル会社を作り、その唯一の株主であり、支配者として偽名を使った。
彼は世界中の銀行口座に何十億と持つのだから、ひとつの会社では十分ではない。他にも、ナネッティ・エンタープライズ、コレット・エンタープライズ、モンティズマ・ディアズ・カンプトン・エンタープ
ライズ、ポイロッテ・エンタープライズ、ディアズ・ポイロッテ・エンタープライズなどの会社がある。それらはマニラから世界の銀行へ金塊を移動する事を隠すために設立した中核会社だった。
サンティはリヒテンシュタインに、最初サンタ・ロマーナ基金と呼ばれる基金を設立した。それは後日、サンティ基金、あるいはサンティ・アンタルトに組み込まれた。サンティの旗艦、DNPエンタープライズのロゴマークは傘の骨組みを意味する開いた傘だった。しかしそれはロゴだけではなかった。アンブレラは、サンティがフィリピンから世界へ金を移すためのグループに付けられた暗号名だ。
われわれのCDには大統領マルコスが手書きで注釈を書いたフローチャートを再現しておいた。それを見れば、どのようにしてアンブレラが、一九七〇年代後半までにCIA諜報員、マフィア親分、フィリピン秘密警察、マルコスの殺し屋を混ぜ合わせた強力な組織に成長していったかが明らかになる。
アンブレラ組織の一員にアメリカの億万長者、法を超越しているウォーレス・グローブス(Wallace Gloves)がいる。グランド・バハマ島のオーナーであり、そことナッソーのカジノはギャング団、マイヤー・ランスキー(Meyer Lansky)が運営していた。グランド・バハマの所有者の中で「法人」は、パラマウント映画を支配し、「ハーバード」&「チャーリー・アレン」を経営するウォール街のアレン&COである。アレン社はフィリピンに大きなベンケット鉱山(Benguet Mines)を所有し、「ハーバート氏」はマルコスとゴルフ友達だった。
「アレン氏」はかつて、「われわれは毎日、売春婦や麻薬売人、いかさま師や囚人達と取引してたよ。それはアメリカ建国以来のやり方さ。」と言っていた。
複雑なやり取りの中、グローブスとアレンは、グランド・バハマの利権の一部をマルコスに渡す見返りに、ベンケット鉱山の支配をほぼ独占させるという取引をした。このことで、アンブレラ組織が戦時略奪金塊をフィリピンから持ち出す時、ベンケット鉱山産出の金に見せかける事ができる。
ある時、金塊がナッソーの一流銀行に着いた。これはグローブスのカジノを通した麻薬代金洗浄などの役割の一部を担うもので、すぐにゴールドバーに取り替えられる。サンティはその総額を知っており、一九七三年にその件をメモに書いている。(一ヶ月に渡ったCIA とワシントンのエンタープライズへの訪問中に書かれた。)
それには「ベンケット社とバハマ社との取引はとても大きなものだった。そしてX 、Y 、Zグループはあっという間に数百万ドルを生み出した。」とある。アンブレラ組織はCIAに認められ、多くの銀行の金取引仲介を業務としていた。
ビル・キャセイやレイ・クラインのOSS~CIA合同を実現させたポール・ヘリウェルはヤマシタ金塊の海外持ち出しに関わった第一世代だった。
一九五一年にヘリウェルは海上支援会社の設立を手助けした。早い話、黄金の三角地帯から国民党麻薬軍のヘロインやアヘンを運び出し、中国の国家主義者に供給するためだった。
ヘリウェルはナッソーで設立していたキャッスル銀行、マーカンタイル銀行から身を引き、グローブスと親密になっていった。ヘリウェルのキャッスル銀行はCIA公認の非正規取引銀行のひとつで、独裁者や軍閥、反体制アジア軍将校の不法収益の資金洗浄を引き受けていた。
□コレヒドールの映画館前の爆撃跡 《コレヒドールを散策する山師の集団》
コレヒドールのトップサイドにあったマッカーサー将軍の本部の向かい側に、爆破された映画館がある。映画館のそばの小さな隠匿場所に十八本の金の延べ棒が隠されているはずだ。もしどこを掘るべきかを知っていれば、シャベルで簡単に掘り出せるやわらかい土壌のたった十五フィートの深さにある。十八本の七十五キロの金の延べ棒は、数百万ドルの価値があった。カーチス は一九七五年にそのことを知っていた。当時、彼とマルコスはヘリコプターで観光のためにコレヒドール島へ飛んだ。その日撮った一枚の写真を見ると、映画館のそばを二人がぶらぶら歩いており、その壁は銃弾を浴びせられているのが分かる。
映画館跡
ビラクルシス大佐はその写真を見た時カーチスに、東京で目撃者から聞いていた面白い話を聞かせた。それはタケダ皇子とイチバラ(市原?)卿との会談の時のことである。
目撃者は、日本海軍高級将校をコレヒドール島の本部ビルに訪ねていた。それはアメリカ軍が島を奪還するための攻撃をはじめた一九四五年二月一六日の事だったと言った。
大型爆弾が映画館そばの通りに着弾し、十五フィートの深さの爆弾穴を開けた。海軍指揮官はまだ十八本の金の延べ棒を自分の部屋に置いていて、これはチャンスだと考えた。彼は事務所の職員に、金の延べ棒をその爆弾穴に降ろさせた。近くにあった小型ブルドーザーを使ってすばやく穴を埋めた。 数分後、第十一空挺師団と第五〇三落下傘連隊、コンバット・チームの落下傘部隊員が地上に降り立った。
戦闘は熾烈で、ひとりの海軍将校が殺された。 三十年後、目撃者は、爆弾穴は正確にはどこかわからないが、映画館の近くにあったことを記憶していた。
カーチスは、リーバー・グループと仕事をしていたときに、コレヒドール島に戻って太平洋戦争記念館を訪れた。ロタンダ(円形大広間)の壁には、貴重なモノクロの空中写真が展示してあり、それは一九四五年の爆撃と攻撃を示しており、それぞれは数分間隔で偵察機から撮影されていた。
午前十時十六分の写真は、映画館そばの爆弾穴が写っていたが、十時三十八分の写真では爆弾穴は埋められていた。それで、カーチスは例の十八本の金の延べ棒がどこに隠されたかを正確に知ったのである。
この金塊のおかげでフェニックス探索とニッポン・スターは、誠に厄介な財政支援者たちから解放させ、カーチスの知っている他の場所での数年にわたる金塊回収プロジェクトが可能になったのである。

全ての準備が整った時、フェニックスとニッポン・スターから十人のアメリカ人がコレヒドールに到着した。彼らは一緒に周辺を警備するためにフィリピン人の兵士を連れてきたが、彼らは大統領保安部隊から派遣された軍曹に指揮されていた。アメリカ人の中にはフォリンジャー、レーガンの部下のシュバイツァー将軍、五人の大佐、ひとりのアメリカ海軍シール部隊員(特殊部隊員)、カーチスの仲間のデニス・バートンとジョン・レモンがいた。五人の大佐のひとり、エルドン・カミングスは、エル・サル バドルで秘密工作を行ったCIAのベテランだった。他の二人は‘ロック‚ マイヤー大佐、ジェイムス・ヨーク大佐で伝説に残るような人物だった。 シール部隊員は同様に伝説的な人物のトム・ミックスで、GIMCOまたはGEOインナースぺースと呼ばれるなぞの多い会社に所属し、日本の財宝船の海上での金回収でニッポン・スターと緊密に仕事をした。この連中は重要人物だった。あの日、彼らは全員トラブルに備えて重装備をしていた。映画館地点の回収作業を管理している五人の大佐と別れ、シュバイツァーはマニラ南部のアラバングにある彼らの隠れ家に戻った。

まず大佐たちは地中抵抗性感知機を取り出した。一九八〇年代までに、感知器は三十フィート下の金塊がどの辺りにあるかを感知できるようある程度進歩していたので、大佐たちは金塊がまだそこに眠っていることを知った。

ニッポンスターがマニラで最初に設立された時シングローブは闇市場で武器を買った。その中にはアルマライト製の武器や、グレネード・ランチャー(擲弾発射筒)も含まれていたが、シングローブは所持免許を取れなかった。それらの武器が盗品であることが判明したからである。彼はまた車をまとめて安く買ったが、その車も盗んだばかりの商品であることが判明した。それらの車は、マルコス秘密警察の長、ファビン・ベールの所有であり、彼が亡命した時、車はひそかに売られ、ベールはその金を着服した。 シングローブがその車を登録しようとした時、その車は行方不明になっていた政府のものであることが明らかになった。

次の五日以上、彼らは十フィートの深さの穴を掘った。彼らは次の日には金の延べ棒に突き当たることを期待した。そしてその日の午後、突然シューと言う音が聞こえ、三機のフィリピン陸軍ヒューイ・ヘリコプターが彼らの頭上までやって来て、騒音をひびかせた。ヘリコプターには防弾チョッキを来た重装備の兵士でいっぱいだった。二機が威嚇するように空中静止している時、一機が着陸して軽機関銃を持った兵士の一団が飛び降り、一人のフィリピン陸軍の将校が続いた。将校はアメリカ人たちにぞんざいに、自分は軍隊の長であるフィデル・ラモス将軍(Fidel Valdez Ramos )から、共和国の資産であるコレヒドール島からアメリカ人を放逐するために派遣されたと言った。 フォリンジャーは彼に、シングローブが見せびらかしていた共和国に滞在できる大統領の許可書の手紙を見せた。将軍は署名を見て、「それは本物ではない。サンジュアンはそうした許可証を発行する権限をもっていない」と云った。
こうした出来事は、フィリピン上院のファン・ポンセ・エンリレ(Juan Once Enrile )と狡猾な詐欺師たちが、ニッポン・スターはフィリピンの島々を踏みにじり、国家遺産の美観を台無しにしたと主張したことが物語っている。 一人の熱烈なジャーナリストが次のように書いている。「もし、フィリピンが自由で民主的な社会を維持したいなら、内乱を工作したCIAの深淵に落ちたくなければ、アメリカ軍の武力侵入と配置という局面に備えるなら、そして、アメリカ軍基地の保持を進めるなら、このような民主主義の敵となる運動や活動は、緊密に監視され縮小されるべきだ」と言った。彼は直ちに島を退去するよう命令を繰り返した。
アメリカ人はテントをたたみ立ち去った。
シュバイツァーは彼の厳選されたチームがコレヒドール島から強制退去させられたと聞いて、怒りのあまり青ざめた。彼はレーガン大統領に電話して、レーガンにアキノ大統領と個人的に仲裁させると脅した。カーチスは、それはよい考えではないので止めるように彼を説得した。

フィリピン政府や軍部の多くの人間が、ニッポン・スターの傲慢なふるまいに腹をたてていた。マニラのジャーナリストは、ニッポンスターはジョンとジョン・ハリガンによって、統一教会 の金で資金援助を受けていたことを突き止めた。
きっぱりと言った。「しかし、彼は口を閉ざすことが出来なかったのだ」。

カーチスがフォリンジャーに、自分は共同事業から抜け出すつもりだと伝言した時、フェニックスとエンタープライズの幹部がラスベガスの彼の家に大急ぎで飛んできた。シュバイツァー将軍とシングローブも一緒だった。彼らは考え直すように懇願した。ある時、フォリンジャーは内密でカーチスと話したいと頼んだ。二人は外へ出て、エアコンが効いて、ラジオが鳴っているシェビィ・ ブレイザー(Cevy Blazer)の席に座った。
□GMT・KGB
「彼は、なんとしても俺を連れ戻さなければならないし、さもなければ 彼らは、俺を抹殺すると言うんだ。俺は、あんた等はCIAなのかとたずねた。彼は、そんなもんじゃないと言った。彼は、ジオ・ミリ・テック(GeoMiliTech)から脅されていて、俺をどうしても留めなければいけなかったのだと言った。 また、アグニュー(Agnew)は、彼に厄介な問題を押し付けているとも言った」。

しかし、カーチスは腹を決めていた。その決定的要因は、彼が、アラバングのニッポン・スターの隠れ家は、将軍シュバイツァーとシングローブと全ての大物がマニラ滞在時に住んでいたところで、その隣家はソビエ ト大使館のKGB諜報員が借りており、彼らが全てを監視し、録音していることに気付いたことにある。

「われわれは全ての窓を開いていた」とカーチスは言った。「だから、彼らは窓のそばに機械を設置するだけで、無線通信も含めてわれわれの会話がすべて聞こえるのだ。その会話はその家で解読されたのだ。この件を知り、気が狂いそうになった」。

その後の数ヶ月で、フォリンジャーは何度も何度もカーチスと接触して、彼に考え直すように頼んだ。シングローブとシュバイツァーもまた電話をした。カーチスは頑として受け入れなかった。将軍たちは自分たちを責めることはなかった。だれもがフォリンジャーを責めたのだ。

□イントラムーロスから数百万ドルの金塊(一九八八年四月二十三日)
マクドゥーガル(MacDougald)は病院をたびたび訪れ、カーチスにいろいろな財宝隠匿場所について語った。カーチスは頭がぼんやりした状態で、マクドゥーガルであればソリアーノ保安局長(Noel Soriano )との関係さえ確かなものだとすれば適当な相手かもしれないと考え始めた。彼らはサンチャゴ要塞で、復興計画を装った財宝保管所の探索をするのはどうかを議論をした。マクドゥーガルはソリアーノ保安局長にその考えを切り出し、ソリアーノ保安局長はアキノ大統領と相談をし、大統領は了承した。 《《サンチャゴ砦
彼らは、チチブ宮が砦の地下三階にある通風孔の下に隠していた金塊を探すつもりだ。計画はカーチスに率いられた国際貴金属(IPM )と呼ばれた新会社によって行われる。マクドゥーガルも参加し、フィリピン政府が上前をはねた後、儲けを確保する。
掘削は各段階で必要なアキノ大統領の許可のもと、徐々に進められる。 彼らは日本人がわからないように置いていた埋め戻しを掘り、ドリルの先っぽで金塊をさぐり、金塊にめぐりあえるよう、そして、彼らが掘削を続けるために必要なアキノ大統領の要求する証拠、つまりコアサンプルを得ることを期待して穴を開けた。

作業は、まる一日中掘り続ける若いフィリピン人のチームで始まり、落盤を防ぐため木製の支柱が組み込まれた。そこには四つのタイプのわながあった。最もはっきりしているのは百、二百五十、五百もしくは千ポンドの航空爆弾で、バネをいじると爆発する。

カーチスは、支柱は掘削の進行に合わせて設置しなければならないと厳しい命令を与えた。しかし、彼は丸一日現場にいることは出来なかった 金塊にたどり着くための重圧が重なったので、作業者も監督も注意を怠るようになった。ある深夜、トンネルの奥深くで作業をしていた三人の男たちが、支柱の上でかなり動いた。急に砂のわなが破裂した。多量の砂が流れ落ち、二人の男が粘土の厚板のために命を落とした。三人目は、瓦礫の中から足を突き出していて、生きて引っ張り出された。
カーチスと保安局長ソリアーノ保安局長は事故の通知を受けていたが、誰も民衆の抗議に備えていなかった。ジャーナリストはサンチャゴ要塞に殺到し、フィリピン上院は調査を要求した。マルコスの取り巻きは攻撃を先導し、死者を出したうえ、「国の記念物を冒涜した」と、カーチス等を責めた。彼は、もう少しで回収できそうな金塊はフィリピンの国家負債の支払いに充てることが出来ると反論した。アキノ大統領は彼を支持した。 大統領はIPMにあと九十日間発掘を続ける許可を与えた。

カーチスは金の貯蔵場所にぶち当たるほんの数メートルにいることを知った。それを証明するために、掘削機を持ち込み掘り下げた。十二番の穴を掘削したとき成果があったのだ。
一九八八年四月二十三日にドリルの先端が金塊、大理石、木のかけらをさぐりあてた。ゴールデン・リリーの地図は、金の延べ棒が大理石の厚板の上の木箱にある事を示していた。カーチスは金脈を掴まえたのだ。
彼の電子感知機が、掘削した穴のすぐ左に小さいが重要な物質を捉えた。それは恐らくベンが言った、最後の瞬間に財宝のつまったドラム缶を埋め戻しに加えたものだ。
数百万ドルの値打ちのシロモノだろう。アキノ大統領はずいぶん喜んだ。
またしても、舞台裏で困ったことが発生していた。資金調達者のジョージ・ワーティンガー(資金調達者 )はネヴァダから自称建築業者、アーニー ウイッテンバーグ(自称建築業者 )と一緒にもどった。 ウイッテンバーグの資金は麻薬取引によるもので、後に起訴され、収監されたのだ。ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルの二人は最初から、ワーティンガーがウッテンバーグの「麻薬マネー」をつぎ込んでいることを知っていたが、誰もカーチスには言わなかっ た。
□シエラ・マドレの宝
カーチスが抗議した、すると、ウイッテンバーグは、 カーチスが解任され帰国する条件で、計画の利権を五十万ドルの現金で買取ってやると対抗してきた。 カーチスが金塊の場所を突き止めたとなれば、彼はもはや用なしだった、 テレサⅡの場合の二の舞だ。フィリピンで金塊の回収を望む金の亡者(投資家)は、誰でもカーチスの力を必要とした。それは彼が地図を持っており、地図をよく分っているからだ。しかし、カーチスが、金塊のあり場所を特定してしまえば、彼は用なしだろう。これは財宝探索の典型で、本や映画「シエラ・マドレの宝 」でもパロディ化されている。貪欲は自己中心を増大させ、自己中心は、貪欲を増大させるのである。

「ソリアーノ保安局長は、私に、ウイッテンバーグ(自称建築業者)の金をもらってやれといったのさ。」とカーチスはわれわれ(シーグレーブ夫妻)に言った。
カーチス「でも、 そいつは麻薬マネーなので、ビタ一文欲しくはないんだ」。

ソリアーノ保安局長はその時、カーチスにサンチャゴ要塞の財宝地図を、そしてマニラのあとひとつの重要な場所、ボニファシオ橋の財宝地図をこっそりと渡すよう頼んだ。カーチスがきっぱりと拒絶した時、国家保安局長は厳しく非難した。彼はカーチスに、直ちにフィリピンから出て行かないと、アキノ大統領にIPMに与えた金塊探索の許可を取り消させると言った。もしカーチスが協力するなら、ソリアーノ保安局長はカーチスをいずれ呼び戻したであろう。もし彼が退去を拒否したなら、彼は逮捕され、彼に対し告訴状が提出されただろう。顔をゆがめて彼は荷物をまとめアメリカへ帰った。
大陪審証言によると、カーチスが去った時、ソリアーノ保安局長とマクドゥーガルは全面的な協力者としてウイッテンバーグ(自称建築業者)を雇い、サンチャゴ要塞での発掘作業を進めた。チームのメンバーは、彼らが二四本の小さな金の延べ棒、金貨・銀貨、宝石の原石を詰め込んだドラム缶を発見したと証言した。カーチスが穴を開けていた主たる目的物はそこから数メートル下にあった、しかし、彼らは程なくその上に到達したのだ。

キサラギジュンの『黄金の戦士たち』(10)アレクサンダーヘイグ、帝国ホテルへやってくる。

2015-10-08 17:31:02 | 税務小説
□アレクサンダーヘイグ、帝国ホテルへやってくる。
シーグレーブ夫妻によれば、ノベルト・アンソニィ・チーレイ(Norbert Anthony Schlei)はケネデイとジョンソンの法律顧問 で、同氏はキューバ・ミサイル危機と市民権法の成立に貢献した人物である。一九六二年から六六年まで司法省に勤務した。雇用機会均等法、移民者改革法、投票権法成立にも貢献している。チーレイはM資金のアメリカ側の管理者でもあったのでその運用をめぐって数々の脱税をしたのでないかと米財務省(IRD)の訴追を受け、実刑を受け、破産し、弁護士資格を剥奪されてしまう。チーレイは日本へきて財務大臣ワタナベミチオ と会見し、滝野川印刷局へ行き、証券の鑑定をしてもらっている。  
彼のキャリアは一九九〇年代日本に関するある事件の弁護を引き受けた時から暗転した。日本政府が一九八三年に発行した償還手形(数十億ドル)がある顧客の下にあり、それを換金しようとしたことが証券詐欺・密謀罪に問われ、九五年、タンパの裁判所から実刑(懲役五年)を食らったからだ。
「どんな事件なんだ?それ」と埼玉の大工、似瓦が興味を示した。
シーグレイブ夫妻によると、ブッシュ(父)が事もあろうに前の天皇陛下との晩餐会において、ミヤザワ首相 のひざにゲロした一月、東京で数日過ごした。そして、ブッシュはミヤザワに「互いに交換しようじゃないか」と云った。「何を?」と怪訝なうりざね顔をするAB型同心円首相に対し「とぼけるなよ、GM党金庫番サトー未亡人がスイス預金を担保にセイブ、T氏や財界の大物にだけ振り出した天皇在位五七年記念債(一九八二年非公募)の回収劇とウルグアイ・ラウンド(一九八六年)の秘密決定事項との引換だよ」と言ったのだそうだ。
一九九二年一月一三日午前二時四〇分、帝国ホテルのある部屋で、GM党の大幹部 とヘイグが密談をしていた。ヘイグ (Alexander Haig)はレーガン時代の国務長官、九二年当時はリタイヤして民間企業の会長だった。ヘイグはその昼食会をする数日前、ワシントンである(アメリカとは限らない。)大統領からこう話されたんだそうだ。
「アレックス(ヘイグの俗称)、われわれは日本国政府の発行した五七年債を香港のハノーバー銀行から(買って)持っている。これを日本国政府へ提示して換金してもらいたいのだが、引き受けてもらえるか」と。
大幹部「もうそろそろジャパンバッシングは辞めてもらえないかね」、大幹部は島根の田舎で英語の代用教員をしたことはあるが、実際には英語ができないのでM氏が通訳に入った。・・というよりM氏はマッカーサーとも会ったこともある(もっともマッカーサーが羽田から帰った日、遠くから)小柄な男で政界きっての英語通で通っている。現在、GM党の総裁なのだが、タケシタの院政で身動きがとれないでいた。
ヘイグは「いいですとも、閣下。ですが大統領のご意向はパラグアイの窮状をすくっていただくことが条件です」と答えた。
大幹部「わが国も今や火の車になっておる、ふるさと創生でカネを使いすぎた。それほどの援助はできないぞ」
ヘ「またとぼけないでください。ニクソン氏から受け取ったショーワ・トラストをお使いいただきたいのですよ」
大幹部「ショーワ・トラスト?あ~マッカサー・ファンドの事ね、あれは先代の目白のオヤジが新幹線で使い切っておる。今はパ~なんだわ」
ヘ「五七年債があるじゃないですか」。
大幹部はなんでほめ殺しやCIAのイヤがらせを受けているのかうすうすわかっていたのであるがカネマルの紹介するトラック野郎の又紹介でイナガワ・イシイを使い、ほめ殺しの集団を押さえることはできた。ただし、タナカ邸詣でをさせられ、門前払いで娘に門前払いさせられて赤っ恥をかかされるがそれはそれ、これはこれである。
「それってなんだい?」と似瓦。
とにかくハマコウが七億円持っていったが言う事を聞かなかった「ほめ殺し」を抑える事はできた。だが、ヘイグが提示するパラグアイ政府がハノーバー銀行香港支店から買ったという五七年債?そんなの初耳だということさ。
ヘイグ「ここに首相の印鑑証明も、納税証明も、GM党の幹部の支払保証書、DKBの支払承認書、MOFの三千億YENの償還手形・・・もっと出しましょうか?」全部日本語で書いてある。
「イヤ、イヤ、ヘイグさん、もう結構です。だけどこの証券は香港で印刷されたニセモノだよ、第一大蔵省の印鑑なんてものはありませんよ、私の経験では」とM通訳。この人は大蔵官僚出身である。
ヘイグは別の三枚の書類 をMに見せた。Mの顔が見る見るうちに青くなって唇が震えたという。Mから事情を聞いた大幹部は「ミスターヘイグ、これはとてもデリケートな問題があるわな~」と島根弁で言った。
「そうですともとてもデリケートです、そして残念ながらこの件に関するMICグループの訴訟事件の弁論期限が迫っているのです。閣下、ウルグアイには石油もあります。あの国に安田火災 を保証につけて輸送保険にも加入してご尽力いただくのにさほど抵抗はないと思うのですが」、「そんなことをいうがねキミ、片方で消費税を導入しておきながら片方であまり日本と関係なさそうなウルグアイにODAというのはね」、「閣下、大統領はこの際、ウルグアイでガット交渉を一気に解決しようと提案しているのですよ 。大丈夫ですよ」
次の日、官邸ゴトーダ副長官が放った内調の危機管理官(国際警察担当)がやってきた。「ミスター・ヘイグ、あの書類は私文書偽造及び同行使に当たり、あなたは日本の首脳を脅迫している事になりかねませんよ」
ヘイグ「じゃ~その書類とかいうものを公開していいんだね」青くなった官憲は再び総理官邸に戻った。その次の日、タケシタ側から正式な回答があった。「これ一回限りにしていただきたい。それを条件に外為特会でそれを買おう。だが、次から次とこられては日本はもたない」と。
国に帰ったヘイグはブッシュ(父)に報告した。「大統領閣下、ニクソンが日本へやったショーワ・トラストは取り返してきました」
「ご苦労だった、で、タケシタはなんと?」
「ま~、しょーがないわな、サトー(ヒロコ)さんもOKだというし、しかし、これで最後にしてもらいたいと、日本は湾岸戦争の戦費を特別法人税を創設して九〇億ドルを閣下に寄付している上に、今日の日本農業に対するジャパンバッシングじゃたまらんよ」と。
「そんなことはわかっておるヨ」とブッシュ(父)。ま、それでわが州の石油業者は矛先をおさめるだろう、アレックスご苦労だがすぐフロリダに行って息子にそのことを伝えてくれ、タナカの傍若無人な石油外交のかたきはとったとな」。
同じような書類で、民間ベースで訴訟に及んだチーレイの場合は成功しなかった。しなかったばかりか不正弁護士行動の罪で、チーレイの弁護士資格を停止されてしまう。それに対し、ヘイグの方は成功したのだ。なぜか?
「それはつまり、Mファンドの力か?やっぱり」と似瓦。
「日本の政治家がMファンド(CIA資金)からもらったカネはたいした事がないよ、それよりもアメリカの政治家が日本のショーワ・トラスト(実際はODAの形をとっている。)からもらった選挙資金は半端じゃないんだから」
似瓦は素直にこのときばかりはうなづいた。(『ゴールド・ウオリアーズ』九章参照)
□リクルート事件との関連
日本人の間ではあまり有名ではないが、リクルート・スキャンダルとMファンドの関係がある。N首相はF資金三千億円の管理者であることは先に述べた。この三千億円がリクルート問題に深く関わっているのだ。二〇〇人もの政治家が連座、時の首相タケシタもたった一五〇万円を彼の秘書がもらっていたので首相を首になっている。リクルートの社長は東大卒でいい子ちゃんチームのリーダー格である。政治家 に小口のワイロをばらまいて、あれだけの大企業にたどりついたとは思えない。実はヒロマサ・エゾエ氏(リクルートの会長)はタケシタの前任Nから、Mファンドを裏担保とした融資一.七兆円を受けていたのである。その当時、日本の最大の鉄鋼会社(新日鉄)が自分の体力として総資産の一〇%程度が銀行ローンの上限だった(一.二兆円、西武グループは一兆円)・・のにリクルートの方はなんと自分の体力(総資産)の一〇〇〇%の融資を引き出しているのである。これが裏担保なしに銀行が貸すわけがない日本の銀行の悪弊が実施されなかった例だとはとても思いにくいのだ。
NがM資金の管理権を持ったのは一九八六年、その当時リクルートは小さいただの出版社だった。(名前のいわれの通り、アルバイトの誌上あっせん業と不動産仲介)

十章 パラデンス

□パラデンス

アメリカの法廷で、この金塊が二〇年間のマルコス治世の時代に彼が稼いだ物でそれを貨物として船積み輸出したと言うことが証明された。だが、それが、フィリピン中央銀行の在庫から盗んだ物ではなく、ベンケット金銅鉱山のアウトプットでもないと結論付けられると、「じゃ~それはいったいどこへ運んでいったのか?」が問題となる。(ゴールド・ウオリアーズ THE PALADiNCE)

□ファミリー・ジュエル
シーグレーブ夫妻によると、マルコスが失脚し、ハワイに逃げた一九八六年以降、マルコスが大統領だった二〇年間金塊がフィリピンから流出したことについて米国で裁判が起こった。ーその金塊はフィリピン中央銀行にあった国のものでもなかったし、あるいはベンケット金銅鉱山から産出されたものでもなかった。-いったいこの金塊はどこからきたものだろう?わかっていることはこの金塊はマニラのジョンソンマッセイ精錬所で鋳なおされてから船積みされたということだ。ジョンソンマッセイは香港のせい精錬所だが、ロバート・カーチスがマニラに招致した。金塊を海外に送る前までに、マルコスはジョンソン・マッセイバンクを使って、ロンドン、ニューヨーク、チューリッヒのゴールドプールとの譲渡証書を作成している。実際金塊は中近東のアラブの王子たちに売却されたようである。マルコスはいろいろ工作を行うCIAを相手としておらず、その先のPIOsやPMSsと取引していた。これらの構成員はCIAの元幹部だったり、軍事組織の元将軍たちだった。一九七〇年代荒れ狂ったシュレジンジャーのCIA改革の火の粉を浴びた、元幹部たちが政府組織という枠を乗り越え、自前で組織した民間企業の「エンタープライズ」という超極悟右集団なのである。一九八〇年代ジミーカーターがアリ塚を引っ掻き回し、CIAのエリートたちをどこかほかへ追放した結果である。彼らは自前の就職先を探したのだ。
シ ュ レ シ ン ジ ャ ー (James R. Schlesinger)による「家族の宝石 」(The CIA's Family Jewels )関連の追放と、それに続くカーター大統領による人事面の粛清という組み合わせの影響は、そのために思わぬ面倒を招いた。それはCIA出身の極右組織を 地下活動や民間企業に追いやり、そこでは司法当局や会計検査院、財務省などのチェック無しにかなりの程度まで非合法な活動が出来たし、政府の秘密の資産(たとえば、ヤマシタ・トレジャー)を自由に使え続けられた。 も し「エンタープライズ」、CIAや軍部出資の幹部できづき上げた巨大資金供給企業が空軍機、海軍艦、海軍特殊部隊、特別作戦部隊を使うことを望んだ ら、それらが誰にも気付かれることもなく、注文通りに準備される方法があったのだ。
□熱狂
一九七八年、カーターはメデアにリークした。たとえば、ラスベガス・サン新聞のオーナー、ハンク・グリーンスパン(Hank Greenspun)、この新聞社の記者、ジャック・アンダーソン(Jack Anderson)に詳細を話した。
アンダーソン記者は熱心な人でこのゴシップに関心をもち、サン紙で長期にわたる特集を張った。その結果、全米に火がついた。マスメデアが熱狂したのだ。

アンダーソン記者は、「プリンス・チチブは彼の部隊の本部をマニラに移した。チチブ宮は彼の弟、ミカサ宮、いとこ、アサカ宮を実際のその任に当たらせた」とアメリカ人としては初めて、天皇の金塊についてラスベガスサン紙で触れたのである。
アンダーソンのニュースソースが誰かはわからないものの、少なくともその時点では、シーグレーブ夫妻がカーター(カーチス)に会って「ヤマシタの金塊」を事前に知っていたということはないと思われる。もし知っていれば、自分で書いたろう。したがって、シーグレーブ夫妻が実際にフィリピンに行って、ベン少年に会い、サンティの家族に会い、五七年債訴訟をしたチーレー氏やその関係者に会い、日本の関係者に会い、さらにコジマなる人物にも会って、その取材に基づいてこの『ゴールドウオリアーズ』を編纂したというのであるが、少なくとも『チチブ宮』もしくは『キムス』がフィリピンで金塊の回収や埋蔵の指揮にあたっていたという直接証拠は何もない。これはやはり、アンダーソン記者の記事をパ喰ったとしか思われないのである。問題はアンダーソン記者がこの情報を誰から入手したのかということになるが、ワシはやはりこの場合、カーターからであろうと思われる。ジョンソン記者の記事で「カーター」に関する記述が飛び切り多いからだ。そして、シーグレーブ夫妻の小説の中でも「カーター」に代わってカーチスに名を変えられた人物が主要で、重要な行動を展開する。

アンダーソン記者によると、チチブが日本へ帰る前までに、黄金のパゴダや仏像はカットされ、鋳なおされた。この作業が終戦直前まで続くのである。

チチブの最後の仕事は日本へ持ち帰れなかった黄金をどこに隠すかということだった。
.チチブはできるだけ地中深くお宝を隠す事に専念した。彼は鉱山学には詳しくなかったし、そのお宝が将来、何に使われる予定だったのかを知らなかった。
NAKASONE大佐は“ゴールデン・リリー・チーム”(ここに始めて登場する。)の生き残りでその埋めたいきさつを知っている唯一の男だ。《するとこいつがニュース・ソースか?紛らわしい名前だな。》
NAKASONE大佐の要請により日本から一二人の鉱山技術者がフィリピンに派遣された。数万人のバターン捕虜(アメリカ軍人・フィリピン軍人)は邪魔だったし、彼らを処分して民間のフィリピン人男を使った方が効率的である。朝鮮人も一〇万人連れてきている。彼らの死に場所も探してやらねばならない。チチブはフォート・マッキンレー(マッカーサーのマニラ本部があった。日本進駐後、第一四軍の司令部となった。)からマニラベイまでの三五マイルを縦断する大トンネルに着工した。(この大トンネルは今でも現存していて、メトロマニラのインフラ、水道、ガス、下水、電話の隧道として使用されている。)

アンダーソン記者によると、チチブ宮は一つの疑問にぶちあった。東京はお宝を一か所に埋めるよう指示してきたが、これだけの現地人を使って地下に埋めたとしても土地勘のあるフィリピ~ノは戦後すぐそれを捜し出すだろう。日本軍人の少数幹部を使って秘密に埋める必要がある。もし、マッカーサーがマニラに戻ってくれば、無差別爆撃をマニラに加えるかもしれない。そうすると焼け野原になったマニラ市街の爆撃前の地形は粉々になるであろう。目印とすべきランドマークも残らない。アメリカがヨーロッパ戦線で都市部を空爆するとき、ドイツ占領下のプラハを空爆した時は、メチャクチャに壊したが、その後、反省し、都市部の著名な文教設備、教会施設などを残す作戦を展開している。このことはチチブ宮も知っていたので、マニラ湾海防司令部(イワブチ少将)のあるイントラムーロスやサンチャゴ要塞、市内の有名な教会の地下、郊外のフォート・マッキンレー、マニラベイ・湾岸部はお宝を埋める格好の隠し場所と判断することになる。
アンダーソン記者によると、NAKASONE大佐はサンチャゴ砦で勤務していたが、そこでレオポルド・ギガ(Leopoldo Giga)という屈強の青年に出会う。NAKASONEは陸軍学校時代、カンタロー・ギガ(中佐)と同期同窓だったことがある。名前に興味があったのでギガ青年に内密にあっていたのである。ギガ青年は二八歳で流暢な日本語を話すのだ。ギガ青年はギガ・カンタローの甥であった。(つまり、ギガ・カンタローのフィリピン妻の妹に産ませた自分の息子ということだろうか。)イヤ、違った。一九一三年、ギガ・カンタローの兄が在フィリピン日本大使館付武官としてマニラに赴任した時にフィリピ~ナに産ませた子どもだった。ギガ青年はもちろんバイリンガルで、日比両方の資質、言語を理解していたので、皇室の占領地政策を実施するチチブ宮の下に呼ばれ、東京で鉱山学や貴金属学を学び、皇軍少尉としてマニラに帰ってきていた。彼はゴールデンリリー・チーム将校として唯一のフィリピ~ノだった。
□ギガ少佐
ところでギガって日本名でなんて書くんだ?」と似瓦。
「『儀蛾』だ」。

儀我 誠也(ぎが せいや、一八八八年十一月一一日 - 一九三八年一月二四日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
東京都出身。技師・儀我克次郎の長男として生まれる。旧制洲本中学校を経て、一九〇九年(明治四二年)五月、陸軍士官学校(二一期)を卒業、石原莞爾と同期である。同年一二月、歩兵少尉に任官し歩兵第九連隊付となる。一九一八年(大正七年)十一月、陸軍大学校(三〇期)を卒業した。
一九一九年(大正八年)一〇月、第一六師団司令部付となり、浦塩派遣軍司令部付、関東軍司令部付(ハルビン特務機関)、参謀本部員を歴任。一九二三年(大正一二年)一二月、参謀本部付仰付として張作霖軍事顧問となった。一九二五年(大正一四年)五月、歩兵少佐に昇進。張作霖爆殺事件の際、張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していた中で爆発を体験している。
一九二九年(昭和四年)一月、歩兵第一一連隊付となり、同年八月、歩兵中佐に進級。一九三〇年(昭和五年)一二月、第二高等学校配属将校に就任。一九三三年(昭和八年)五月、関東軍司令部付(山海関特務機関長)となり、一九三四年(昭和九年)三月、歩兵大佐に昇進。一九三五年(昭和一〇年)八月、歩兵第三〇連隊長に就任。一九三七年(昭和一二年)八月、支那駐屯軍司令部付となり、同月、北支那方面軍司令部付(天津特務機関長)に転じ、情報収集活動に従事したが、翌年一月、天津で戦病死し陸軍少将に進級した。
シーグレーブ夫妻によれば、このギガ青年は、チチブ(キムス)が一九四二年ヌエベビスカヤ州( Nueva Vizcaya)のバンバン村(Bambang)でお宝を埋めたときに一緒にいたという「ベン少年」(Benjamin Valmores)とそっくりなのだ。ただし、シーグレーブの小説によるとベン少年は一四歳で、そのあと三年間キムスと一緒に行動したことになっている。
□キヨミ・カシイ
(Major Kijomi Kashii )
アンダーソン記者によると、OSS(CIAの前身)のセビリアノ・サンタ・ロマーナが日本の捕虜たちを拷問してお宝の在り処を云えと攻めたときに、対象となった主要な被尋問者は、ヤマシタの運転士官をした「キヨミ・カシイ」だった。「コジマ・カシイ」ではなかった。キヨミ・カシイの漢字名は「香椎喜代美」か「香椎清美」であろうと思われる。ところが、このキヨミ・カシイはアンダーソン記者によると獄中で自殺してしまう。食堂からバターナイフを盗み出し、飲み込んだのだ。カシイ大尉の証言はサンティ、ランズデールを通じて本国のOSS長官ドノバン(William Donavan)まで上がっていたが、実際にカシイの証言のサイトではお宝の発見にまで至っていない。カシイ大尉は嘘を言っていたのか?それともドノバンの方が嘘を言っているのか?あるいは例のサンティやランズデールがネコババしたのか?それはミステリィ―だが。

□ヤマシタが「天皇がそう命令した」と言えば、彼を死刑にしなくても良かった。
アンダーソン記者によると、マッカーサー元帥は東京にいて、最初にヒロヒトにあったとき、こういう話をしたのだそうだ。「ヤマシタが『天皇がそう命令した』と言えば、彼を死刑にしなくても良かった」と。彼(ヤマシタ)は決してそうは言わなかったらしい。「全部、自分の軍の統制力の未熟さが招いた結果でありまするから私の責任であります」と。「これは立派な軍人魂ですね」とマッカーサーが天皇に云った。
天皇は何のことかといぶかった。
実はマッカーサーは『ゴールデンリリ-』のことを言いたかったのだ。それを察知した天皇は、ヤマシタがまだ、二か所の隠し場所をマッカーサーに白状していないことがわかった。ヤマシタはそれほど『黄金の百合作戦』に関与していなかったのだ。
□執行猶予
アンダーソン記者によると、ヤマシタは天皇から匿名の私信を受けた。もちろん、GHQの検閲の後なのでアメリカ側(国務省・大統領)に内容は筒抜けだが、「物資は一七二か所のサイトに埋まっている。そのうちのメイン、二か所はまだ、未発見である。これをマッカーサー閣下に献上せよ」だった。その二か所とは「トンネル八」と「テレサⅡ」である。
ヤマシタは素直に喜び、この文書の内容が、マッカーサーへの贈与を意味しており、自分の死刑に執行猶予を付け、他のフィリピン戦犯も減刑を受けられるかもしれないとは思わなかった。やはり、天皇はヤマシタには責任をとらせ、彼らの死後、残された家族を十二分に養っていく資金をマッカーサー側から受ける手はずの手紙と感じたのである。そう欄外で書いていると感じたのである。もし、そうでなければ、GHQの検閲を受けることが分かっている文書で「マッカーサーへの個人贈与」の本音を述べれば、国務省やトルーマンは絶対に天皇もマッカーサーも許さない。そんな手紙がGHQの検閲済みでマニラに来るはずがないのだ。やはりこの文書はマッカーサーの一存で全く検閲なしのトップシークレットでマニラに達した可能性がある。ならば、天皇とマッカーサーにはすでに密約ができていると考えたのだ。ヤマシタ程の秀傑にそれに気がつかないはずがない。
それにつけても第一回の天皇・マッカーサー会談で『ゴールデン・リリー』の分配話がされるなんて、日本のどの本でも取り上げられたことはなかったがアンダーソン記者はこれに言及しているのである。マッカーサーが「ゴールデン・リリーの分け前を少しくれ」ぐらいは内緒で言ったかもしれないではないか。
アンダーソン記者によると、天皇はマッカーサーに対し、国富の五〇%を国の復興のため使いたいと言った。マッカーサーはドノバン長官に天皇の「お願い」を含め一〇〇%の国富の処分方を大統領と協議するよう打電した。トルーマンは未発見のフィリピンのサイトの話を聞いて、ヨーロッパ戦線で発生しているロシアとの財産分捕り合戦の話を思い出した。ナチスのブラックイーグルの処分について紛争が起きていたのである。それで、トルーマンはOSS長官に、日本国富問題、とりわけフィリピン『ゴールデンリリー』の全体把握とその運用を任せたのだ。あの腹黒いビル・ドノバンに任せたことが致命傷だった。ドノバンは天皇の国富五〇%活用を二〇%まで値切った。ドノバンはもちろん、マッカーサーに「八〇%はOSSに渡せ、使い道は後で検討しよう」と言ったのだが、すぐ忘れてしまった。マッカーサーは忘れてはいない。そしてその結果、どのように分配されたかこれから述べる。

二か所のサイトからはそれから二年かけて掘られ、莫大な財宝がOSSあるいはCIAの手で回収されたのである。すべてサンティが仕切っている。この時にマルコスはまだ出てきていない。
フェルデナンド・マルコスは一九一七年九月九日の生まれなのでそのころはまだ、三〇歳だった。そしてマルコスの立身出世のことをアンダーソン記者が書いているのだが、その内容は『マルコス・ダイナスティ』の内容と全く同じなので、そちらの方を読んでもらいたい。
アンダーソン記者によると、五二年ごろ、腕利きの弁護士をしていたマルコスはマニラで二人の日本人山師に会って、“噂”の真相を聞いている。二人の日本人は「われわれは真相を知らないが、キリノ大統領が雇った日米混血のミノル・フクミツが戦犯を慰問していろいろ情報を引き出しているようだ。彼は本当のマップを持っているんじゃないか?」とマルコスにリークした。キリノは何もお宝は探せなかったので、フィリピンのマスコミは「フクミツのお宝の話はガサネタだ」ということになっているが、マルコスとフクミツの関係はその後も長く続いたのである。
□大統領就任資金
アンダーソン記者によると、マルコスはこの『ゴールデンリリ-』の一部で大統領にのし上がったのだという。一九六五年のことだ。あるいはマルコスの新妻、イメルダが、ほかでもないセビリア―ノ・サンタ・ロマーナ(サンティ)の隠し子だった、からサンティの金塊が(CIA経由)流れたせいだともうわさされた。これは現在ではどうも眉唾だ。イメルダの詳細な伝記が出回っているからだ。彼女はやはりれっきとしたヴィセンテ・オレステス・ロムアルデスの長女である。(ただし、ヴィセンテ・ロムアルデスは二度結婚しており、イメルダは後妻レミデオス・トリニダッドとの間にできた子供・・なので、トリニダッドがサンティと浮気をしていたとすれば話はこんがらかるがそんなことはないだろう。)

アンダーソン記者によると、一九六九年、すでに東京からGHQが去って、GM党の政府になっていた。首相は第二次サトー内閣で「俺は新聞記者は嫌いだ。テレビ局だけこの会場に招待する」と云って今の首相とは逆のことを言っていたのだが、そのとき、マニラ西方、アギナルド・キャンプ(フィリピン国軍司令部:Camp Aquinaldo)の国旗掲揚台下から大変なものが発見されるのである。このアギナルド・キャンプは戦争中、日本軍憲兵隊司令部があった場所で、金塊二〇〇トンが埋もれていた。マルコス大統領のシークレットサービス部隊が秘密裏に掘削したのだが、一九七〇年コスモポリタン・マガジンにすっぱ抜かれる。「大統領はこの資金で大統領になった」というわけである。マルコスはこれにはジョークで対応した。「本当にヤマシタトレジャーのおかげでオレは大統領になったんだよ」と。
だが、後日そのジョークは本当にジョークだよと云って取り消した。アジア各国から日本が奪った財宝を返してくれというクレームが殺到したからだ。国際司法裁判所も言ってきた。「一九八五年までは発見された財宝はその財宝があった国に戻すべきだ」と。
これらのクレームはそれから続くマルコスの独裁政治の二〇年間を悩まし続けることになる。最後は一九八六年、ハワイで、その財宝の帰属をめぐって裁判が起き、自分の首が絞められてしまったのだから。

□「ジャック・アンダーソン?あんたも殺られるよ」
アンダーソン記者によると、マルコスが一九八六年二月にハワイに亡命してからも元大統領とカーターとの関係があったという。カーターはマルコスの陰に忠誠を誓うフィリピンのクロニー(黒幕)やマルコスの子飼いの政治家たちが隠れていたからだという。コリィー・アキノが大統領になってもこの図式は全然変わらない。
カーターは持っている地図を活用したいのでマルコスに接近しているだけなのだが、マルコスの方は金塊だけが欲しいので友人はいらないわけだ。それでアメリカにいてもマルコスはカーターの命を狙って国から殺し屋軍団をハワイやラスベガスに招いていた。
「自殺志願、いい言葉だ」自分で自分を殺す願望のことだからだ。カーターは支援者のジャック・アンダーソンとそのグループからそのことを知らされていた。「君はシカゴの殺し屋から自殺志願者だといわれている」と。そしてアンダーソン氏もマルコスについて書きすぎたので命を狙われている。もしカーターが死ねばアメリカの裏面史は相当ゆがんだもののまま残されたるだろう。

□ニッポンスター
アンダーソン記者によると、ニッポンスターは日本の会社ではない。元CIAや闇の将軍たちが立ち上げた『ゴールデンリリ-』専用の宝探しの会社だ。
裏にはCIAや各国の闇将軍がいて、もしお宝を発見した場合は反共の前線資金として世界中で使う。そういう団体だ。そのニッポンスターが戦争中、マニラの沖合やビサヤの多島海や、南海ダバオ沖で沈んだ日本の病院船などを探し回っている。捜している場所は海とは限らず、ロウボナス近郊、フォート・マッキンレーとかリサール公園の隣接、フィリピン大学のキャンパスだとか、民衆の信仰の中心、キアポ教会だとか、元飛行場のあったペニンシュラ・ホテル建設地の管制塔跡とか、かなり具体的である。だが、具体的なお宝の地図があるわけではなく、皆、その当時の目撃者の証言によっている。
・・というわけでシーグレーブ夫妻が、『ゴールドウオリアーズ』で発表した内容の大部分は一九七六年にアンダーソン記者がラスベガスサン紙で連載した内容とそっくり同じだということを暴露しておく。どちらがどちらの情報をパクったか賢明な読者諸君はわかるはずである。やはりスタップ細胞はなかったのだ。
□マニラのなぞ:シングローブの探索
セス・ミダス記者:
一九八七年二月一八日:
NYT
ジョン・K・シングローブ中将、イランコントラ事件でニカラグアのゲリラに対する資金提供をした元CIAの闘士だ。退職後はもっぱらフィリピンで宝探しに興じている。

彼の行動はミステリィーだが、フィリピン・コリー・アキノ政府から宝探しの許可は取ったようだ。「ヤマシタ・トレジャーを発見するんだ」
現在(一九八六年)、シングローブは韓国駐留米軍司令部の参謀長をしていた。世界統一反共連盟( World Anti-Communist League)の議長をしていたこともある。
フィリピン国軍の上級幹部は、「シングローブ将軍はここで心理作戦を展開しているんだ。彼は対敵諜報活動をここで展開しているんだ」という。
ここでシングローブ将軍に会うことは難しい。マニラのアメリカ大使(Allan Croghan)は彼は民間人でただの「宝探し浪人だよ」というからだ。彼はプレスに会うことを拒否している。彼はアメリカ政府とは何の関係もないという。
テオドール・ロシン(Teodoro Locsin)というアキノの側近が話すには「彼(シングローブ)は困ってるんだ。二〇九もの隠し場所の申請をしたのに、アキノ大統領はそのうち、一か所しか掘削許可を与えなかったからね、その場所?わかりません」。
あるマニラ駐在のアメリカの外交官は「(ここじゃ物事が見えている通りバカげているよ」と云う。「ヤマシタ将軍は一九四六年、ここで死刑になった。シングローブ氏はヤマシタ将軍がここかしこにお宝を隠したと云うんだが、ボスウオース大使(Stephen W. Bosworth)がシングローブ氏に変わって宝探しの許可をアキノさんに求めたら、なんと、そんなものはない、ただの噂だといわれたんだ」。
シングローブはアキノを相手にしていなかった。彼はフィリピンの本当の領主、極右の元軍人出身のグループに接近していた。そこではシングローブはあたかもアメリカ合衆国を代表しているかのようなふるまいをしている。
もちろんシングローブはエンリレ元国防相にも会っている。エンリレ(Juan Ponce Enrile)はピープルズ革命ではアキノの側だったが次第に干された。現在(一九八七年)は、国内野党の党首だ。一九八六年の時点でシングローブはエンリレに二度会っている。エンリレ側は「彼は宝探しの許可を求めてきただけだ、それだけだ」という。だが、裏はあるものだ。多分、できたばかりのアキノ政権を覆す軍資金を探していたかもしれない。「アキノの政府が共産ゲリラと戦えないなら、誰かがやるしかないだろう」ということだ。弱腰のコリー政権では、フィリピンはイスラム(共産)人民共和国になりかねない。
彼のプロジェクトの本当の目的は宝探しではなく、アキノ政府の転覆のため「反共国民連帯党」を設立することだったかもしれない。ルイス・ビラリール将軍(Gen. Luis Villareal)は、「宝探しは反共軍資金の調達を目的としていた」というからだ。宝探し活動にはベトナム戦争に参戦し退役した韓国のグループなんかも加わった。だが、シングローブは彼ら傭兵たちに報酬を払わなかった。
シングローブはクラーク基地を自由に出入りできた。比政府の許可なんか必要なかった。あるマルコス親衛隊の男は、「シングローブはわれわれのために武器や情報処理装置を提供した」と云っている。だが、そのうち、マルコス親衛隊に会わないようになった。
シングローブは香港拠点のニッポンスターを設立した。そのマニラ支店をマルコスの元親衛隊長、ベール将軍(Gen. Fabian C. Ver)の側近、レイモンド・モレノ(Raymond Moreno)の建物に設置した。
シングローブは六五才で太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争に参戦し、二度負傷している。二九のメダルを持っている。最後はアメリカ合衆国陸軍中将で退役した。七八年カーター大統領の逆鱗に触れたからだ。「彼は韓国に中性子爆弾を持ち込もうとしたんだ」。本当か?
彼(シングローブ)は「超極秘日本軍地図」を持っている。それには一七二の隠し場所が書かれているという。伝説ではマルコス大統領がマルべレスの彼の夏の離宮にはおなかが宝石で詰まった一メートルもある黄金の仏像が鎮座しているという。そのお宝は、マルコスによれば「それがヤマシタトレジャーなんだ」そうだ。
□フィリピンの極右
蒋介石、文鮮明師およびナチや日本の戦犯たちによって台湾で発足した世界勝共連合(WACL)は、最初にニクソンによって東南アジアからラテンアメリカにかけての反乱に対抗する手段として使われた。七名の国家指導者(蒋介石、朴正熙(Paek Chun-hee)、文鮮明(Sun Myung Moon )、プラファム・クラピチティール(Prapham Kulapichtir)将軍(タイ)、フェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)大統領(フィリピン)、ソパサイノ(Sopasaino)殿下(ラオス)、ド・ダン・コン(Do Dang Cong)大佐(ベトナムのグエン・バン・チューNguyen Van Thieu大統領の代理など)がその会議に参加した。後になって、レーガンの時代に再び活力を得て、冷戦中に米国の軍産複合体とCIAの道具と化した。彼らは政治的な暗殺とあらゆる紛争地域での対共産ゲリラ勢力の形成に携わった。紛争地域にはアフガニスタンも含まれるが、そこではオサマ・ビン=ラディンによって代表されたのである。コノコロ、ビン=ラデンはロシアと戦っていたからである。
フィリピンでは、WACLを代表したのがフェルディナンド・マルコスである。しかし一九八六年に彼が失脚すると、シングローブとレイ・クラインは新しい相談者を作りに現地へ赴いた。彼らはそこで反ゲリラの議員組織を作り、フランク・カールッチ(Frank Carlucci )、ジョージ・H.ブッシュ、およびビン=ラディン家の友人であるフィデル・ラモス(Fidel Ramos )将軍に目星をつけた。

シーグレーブ夫妻によると、我 々 は 、 特 殊 部 隊 の 高 官 が 、 シ ン グ ロ ー ブ や ク ラ イ ン な ど に 関 係 す る P M F(Private Military Firms)の グ ル ー プ と 一 緒 に 、 フ ィ リ ピ ン 財 宝 狩 り に 参 加 す る た め に 短 い 休 暇 を 取 っ た こ と を 確 認 し て い る 。 こ の こ と は 政 府 サ ー ビ ス と 個 人 の 利 益 と の 重 大 な 区 分 を な く す も の で 、 倫 理 規 範 の 実 践 を 求 め る こ と が 出 来 な く な っ て し ま う 。

すべて組織というものは監 視 さ れ な い と 常 習 的 に な る も の だ 。 レ ー ガ ン 大 統 領 、 ブ ッ シ ュ 大 統 領 の も と で 、PIOや PMFは増殖し 、ホワイトハウスの事実 上 、「秘 密 の 拡 大 組 織 」 と な っ た 。 今 日 ま で 、 エ ン タ ー プ ラ イ ズ の リ ー ダ ー や P M F の 支 持 者 達 は 、 ホ ワ イ ト ハ ウ ス は 事 業 家 に 転 じ た 情 報 員 に よ っ て 運 営 さ れ る 私 的 非 合 法 組 織 を 必 要 と し て い る と 主 張 し ている。

こ れ は お 金 の か か る こ と で あ る 。 ム ー ニ ー ズ や バ ー チ ャ ー ズ の よ う な グ ル ー プ 、 そ し て 裕 福 な 個 人 は 必 要 と さ れ る 金 額 の 一 部 だ け し か 提 供 し な か っ た 。 ひ と つ の は っ き り し た 解 決 が サ ン タ ・ ロ マ ー ナ に 管 理 さ れ て 遊 ん で い る 口 座 の よ う な 現 存 の ブ ラ ッ ク ・ イ ー グ ル 基 金 を 流 用 す る こ と だ っ た 。 こ れ が サ ン テ ィ ー が 一 九 七 三 年 に ワ シ ン ト ン ヘ 連 れ て 行 か れ 、 彼 が 所 有 す る 基 金 を 譲 り 渡 す よ う 圧 力 を か け ら れ た 理 由 で あ る 。
翌 年 サ ン テ ィ ー が 死 ん だ 時 、 彼 の 所 有 す る シ テ ィ バ ン ク と U B S に あ る い く つ か の 莫 大 な 金 額 の 口 座 が 速 や か に ラ ン ズ デ ー ル の 管 理 下 に 入 っ た 理 由 を 説 明 し て い る 。 そ れ が ど の よ う に 使 わ れ た か は 知 ら れ て い な い 。《筆者注::この辺がシーグレーブ小説のあいまいなところだ。》

マ ル コ ス が 一 九 七 〇 年 代 に 第 二 期 の 探 索 活 動 を 始 め 、 闇 の 金 を 売 りさ ば く た め の 援 助 を 必 要 と し た 時 、 マ ル コ ス と エ ン タ ー プ ラ イ ズ は共 通 の 目 標 を 持 っ た 。 な ぜ な ら 、 エ ン タ ー プ ラ イ ズ の メ ン バ ー は C I A の 飛 行 機 、 米 空 軍 機 、 米 海 軍 艦を 使 用 す る こ と が で き た の で あ る 。 ス ー ビ ッ ク 海軍基地 や ク ラ ー ク空軍基地 か ら マ ル コ ス の 金塊 が 搬出された 時 、 こ う し た こ と が ア メ リ カ 政 府 に よ り 公 式 に 行 わ れ た の か エ ン タ ー プ ラ イ ズ に よ っ て 秘 密 に 行 わ れ た の か は な ん と も 言 え な い 。《筆者注:この辺がシーグレーブ小説のあいまいなところだ。》

□金 保 有 以 来 の 局 所 的 な 過 剰
シーグレーブ夫妻によると、一 九 八 一 年 の 十 一 月 、 フ ィ リ ピ ン 政 府 は 今 回 の 布 告 の せ い で 国 際 マ ー ケ ッ ト に お い て 「 金 保 有 以 来 の 局 所 的 な 過 剰 」 を も た ら す だ ろ う と 言 明 し た 。
三 ヶ 月 以 上 に わ た っ て 、約 三 十 万 オ ン ス(九・六トン) の 金塊 が 香 港 、ニ ュ ー ヨ ー ク 、 ロ ン ド ン そ し て チ ュ ー リ ッ ヒ に 船 で 運 ば れ た 。 そ の 金塊 は フ ィ リ ピ ン 政 府 の 金塊 と し て 印 が つ け ら れ て い た が 、 関 与 し た 商 業 銀 行 は そ の 金 で の 支 払 い を 許 さ れ た が 、 そ の こ と は 金塊 が 短 期 間 の う ち に 取 引 さ れ た こ と を 意 味 し て い る 。 こ の 特 権 の た め に 、 銀 行 は 一 % の 手 数 料 を 支 払 い そ れ は マ ル コ ス の も と に 流 れ た 。
フ ィ リ ピ ン 人 の 元 外 交 官 に よ る と《筆者注:誰か?》 、 フ ェ ル デ ィ ナ ン ド の 自 家 用 機 はス イ ス ま で 何 回 も 往 復 を し た 。 民 間 機 も ま た 使 用 さ れ 、 そ れ は 貨 物運 送 状 に よ っ て 証 明 さ れ て い る 。 十 二 回 の 極 秘 輸 送 が K L M 、 P A L (フィリピン航空)、エ ア フ ラ ン ス 、サ ベ ナ 航空の貨物機 で 行 わ れ た と 言 わ れ て い る 。た と え ば 、 一 九 八 三 年 九 月 に は 、 K L M 機 の マ ニ ラ ・ チ ュ ー リ ッ ヒ 間 の フ ラ イ ト で 金 塊 七 ト ン が 運 ば れ て い る 。 同 時 期 に 別 の 一 . 五 ト ン の 金 塊 が ロ ン ド ン ま で 運 ば れ て い る 。 そ の 間 に 、 C I A の パ イ ロ ッ ト と 国 防 総 省 の 貨 物 行 機は定期的に マ ル コ ス の 金塊 を オ ー ス ト ラ リ ア と 香 港 に 空 輸 し た 。《筆者注:これくらいの金の量なら本当にありそうだ。》

C I A が マ ル コ ス の 金 塊 を 物 理 的 に 移 動 し て い る 間 、 マ ル コ ス は ア メ リ カ に 財 産 を 貯 め 込 む よ う 仕 向 け ら れ た 。 こ の こ と は 、 一 九 八 三 年 か ら 一 九 八 五 年 の ロ ナ ル ド ・ リ ウ ォ ル ド(Ronald Rewald) の ホ ノ ル ル 詐 欺 裁 判 で 明 ら か に な った。マ ル コ ス の 投 資 財 閥 会 社 『 ビ シ ョ ッ プ・ボ ル ド ウ ィ ン・リ ウ ォ ル ド ・デ リ ィ ン ハ ム & ウ ォ ン 」が マルコスの財産をC I A 資 金 に移すための ル ー ト だ っ た こ と を 明 ら か に し た 。
そ の 財 閥 会 社 は マ ル コ ス や 他 の 裕 福 な フ ィ リ ピ ン 人 が ア メ リ カ で 不 正 の 金塊 を マネーロンダリングす る の を 助 け た 。 イ メ ル ダ が 後 に ニ ュ ー ヨ ー ク で 強 請 の 罪 で 裁 判 に か け ら れ た 時 、 彼 女 の 弁 護 人《筆者注:誰か?》 は イ メ ル ダ と 夫 マ ル コ ス は ホ ワ イ ト ハ ウ ス の 友 人 か ら 「そ う す る よ う 働 き か け ら れ た の だ 」と 述 べ た 。

ホ ノ ル ル で の 裁 判 証 言 に よ れ ば 、 フ ィ リ ピ ン の 億 万 長 者 、 マ ル コ ス 一 家 の 友 人 で あ る エ ン リ ケ ・ ゾ ベ ル(フィリピン財閥の長) の 援 助 に よ っ て 、 秘 密 ル ー ト が リ ウ ォ ル ド に よ っ て つ く ら れ た 。
リ ウ ォ ル ド は 、 ハ ワ イ で ポ ロ ク ラ ブ を 経 営 し 、 エンリケ・ゾ ベ ル はそこで 世 界 一 流 の プ レ イ ヤ ーとして鳴らした。 リウ ォ ル ド は 、「 エンリケ・ゾ ベ ル は 自 分 同 様 C I A の 協 力 者 だ」 と 証 言 し た 。 ア ヤ ラ ・ ハ ワ イ の よ う な 共 同 事 業 を 通 し て 、 彼 らと C I A は 、 ア メ リ カ へ 現 金 を 持 ち 出 し た い フィリピンの 上 級 外 交 官 や 財閥の カネを 保 護 し 、 い ざ と 言 う 時 に ア メ リ カ のためにアメリカで 役 に 立 て る の だ。
□コジマ少佐の拷問
シーグレーブ夫妻によれば、コジマ・カシイとはヤマシタ将軍の運転士官で少佐だった。ランズデールやサンタロマーナから尋問を受け、お宝を埋めた場所を白状した。コジマ少佐はヤマシタ大将が奉天から転属した一九四四年一〇月から、大将の戦争継続の強い意志が現れた視察が行われた。ヤマシタたちはマニラ撤退後の適地を求めてルソン島西部バギオ、中央部山岳州バンバン、北部アパリなどを見て回ったのだ。コジマ少佐はゴールデン・リリ-のありかを白状したようだ。しかし、全部を白状したのではない。一二箇所しか白状していない。残りはサンタロマーナにとっておかれたのである。金塊の発見回収には二年近くを要している。コジマ少佐は当時三一歳だった。コジマ少佐にとって戦後だいぶたってマニラに帰ってくる時間は十分残されたのだ。彼(旅行中は数々の仮名を使った、CIAからの暗殺を恐れたのだ。)は日本に帰ってGHQが占領していた一九五一年まではおとなしくしていた。占領下ではフィリピンに行くこともできないし、マッカーサーが目を光らしている間は行動にはでにくかったろう。一九九〇年代、八八歳になったコジマは今や大金持ちである。このCDの中に今でも彼がタカラ探しをフィリピンで行っている写真がたくさんある。彼のために言えば、誰かが訪ねてきたら「俺はもう死んだ」と答える方がいいだろうと助言する。だがしかし、二〇〇二年にコジマは仲間とフィリピンンに最後の旅をしている。その時はおよそ二トンの金塊(ゴールドビスケットバー)をデインガラン湾(Dingalan Bay)の浜辺近くで発見しているのだ。ヤマシタ将軍がキアンガン・ポケット(kiangan渓谷)から日本へ送り返すため港に持ち込んだ船積み用の金塊だったようだ。お宝を発見したコジマはそのビスケットをトラクターのシャベル・シリンダーに突っ込み、トラクターの修理名目で横浜めがけて一目散に逃げかえったとフィリピンの作業員が証言している。《訳者注::この手の話は大抵ウソ話だ。》本書で取り上げたコジマ・カシイについては、『宋王朝』でも『マルコス王朝』でも取り上げている。『宋王朝』では、ランズデールがコジマのことをわれわれに質問されると御茶を濁したし、『マルコス王朝』では、ビラクルシス(Villacrusis)がコジマのことを「一九六八年東京でイチバラ侯爵にあったとき、侯爵はコジマのことを知っていた」と話している。

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(9)心の暗闇

2015-10-08 17:28:15 | 税務小説
九章 心の暗闇

アメリカは一九六〇年、ニクソンの大統領選の資金を日本の秘密の資金から供与するよう迫った瞬間からM資金の管理権を失った。(ゴールド・ウオリアーズ HEART OF DARKNESS)


□ 心の暗闇
シーグレーブ夫妻によると、アメリカは一九六〇年、ニクソンの大統領選の資金を日本の秘密の資金から供与するよう迫った瞬間からM資金の管理権を失った。それから四〇年以上、Mファンドの管理権は政権下にあったGM党の七人にまかされていた。ニクソンは底なしの黒のバッグに入った最終兵器を東京の「七人」にやったのだ。アイゼンハワー大統領が安保条約改定のため、東京へ来ようとしたとき、日本の社会党や共産党、左翼学生、日教組、労働組合の抵抗にあってくることができなかった。それでキシがワシントンへ行ったのだが、そのとき共和党の大統領はアイゼンハワーだった。キシ、サトー、ミヤザワらはアイクの下で副大統領をしていたニクソンに会った。ニクソンは自分からその黒いカネの管理をキシに申し出ていた。ニクソンはそのカネを日本へバトンタッチしたように見せ、実はその中からキックバックを受け、民主党のJFケネデイ候補との大統領選の軍資金とする腹だった。Mファンドの管理権をキシに渡し、見返りは選挙資金にキックバックすること。(当然、受け渡しはオフショアーで行われる。)Mファンドの資産規模は一二兆三千億円、このうちいくらキシがニクソンにキックバックしたかはもちろんわかっていない。ニクソンは日本政府からカネを受け取ろうとは思っていなかった。キシの壮大なウソツキの資質、裏ガネの統制力に期待していたのだ。キシは満州国の商工大臣、軍需部門の経営をし、資産隠し、マネロンなどに熟知しているのだ。巣鴨に収容されたときも、GⅡ、ウイロビィー少将やキーナン検事などとうまくやって戦犯訴追を免れている。しかもコダマとは、上海以来の付き合いで、監獄では同じ部屋にいた。コダマの機関は大陸でタングステンや希少金属、あるいはダイヤモンドなどを調達して海軍へ売って膨大な富を蓄えた。敗戦の色が濃くなる昭和一九年には、タングステンを上海で国民党軍(蒋介石軍)に売り、金塊に変えている。それを米子飛行場経由、東京松涛の屋敷に持ち込み、庭に埋めた。ダイヤモンドの方は、はじめ、皇居の金庫に納めたが、翌日には持ち出して日本橋の自分のビル、緑産業に運び込んでいる。GHQの臨検を恐れたのだろう。タングステンは中国独占の産物であり、朝鮮戦争勃発(一九五一)で、米軍に砲弾が不足すると、コダマは隠匿していたタングステンをGHQに提供するのである。このようなコダマの財力を背景に、キシは巣鴨を無傷で出所し 、政治的野心を膨らませていく。そのような悪徳の代議士がキシの本性だった。
それから四〇年、七人の罪作りな政治家(ヨシダ、キシ、イケダ、サトー、タナカ、フクダおよびNがそれぞれ権力にとどまるためそのカネを使った。ニクソンは底なしの黒カバンから巨額な資金を引き出し彼らにあげたのだ。
一九六〇年、アイゼンハワー大統領は二回目の安全保障条約の締結のため東京へ行く予定だった。だが直前になって反対勢力のデモが激しくなり、急遽訪問を中止した。それで、キシがワシントンに行く のだが、アイゼンハワーはカネに無頓着でニクソンがキシと交渉した。このときは沖縄の返還 も内密に約束した。沖縄の返還は一九七二年五月一五日にサトー政権で実現する。もちろん、キシは弟にこのことを伝達したはずだ。一九六八年、ニクソンが大統領になるとき、前の約束(大統領選挙資金のキックバック)が守られていたからだ。

キシが数か月後、首相を辞めると後任として、イケダが首相になる。キシはイケダよりも大蔵省次官出身のフクダを買っていたのであるが、情勢はイケダだった。そして、Mファンドの管理権を彼の派閥に渡した。アイチ、ミヤザワの大蔵省OB、オオノ・バンボク、カネマル・シン、ゴドーダライン、そして別グループとしてコダマ・N青年将校ライン。ここで言えることは、彼らは絶対に「勝共」とアメリカが唱える冷戦のコストにそれを投資したわけではない。彼らは彼ら個人の蓄財のためにそれを、「だまされた人たち」に投下したのである。
□キシ・ジューリック会談
キシは一九五五年八月、ハトヤマ政権の幹事長としてシゲミツ・アオイ外相の訪米に随行し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官とシゲミツの会談にも同席している。ここでシゲミツは安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、キシはこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになる。
「実はこういう数々の日本の負担の背景には、アメリカ議会の承認した目標額を達成するため、日本と結んだ大掛かりな密約があった。沖縄返還合意の翌月、一九六九年一二月二日付けの覚書。「大蔵省の柏木」と財務長官特別補佐官アンソニー・ジューリックとの間で交わされたものだ。その中には、沖縄で流通していたアメリカ通貨、ドルの処理をめぐる取り決めがあった。アメリカは、このお金をニューヨーク連邦銀行に、二五年間無利子で預けるよう日本に求めた。アメリカは度重なる戦争で、経済が疲弊しており、国際収支の悪化を防ぐためにした措置だった。返還後に出されたアメリカの報告書によれば、実際に交換された金額は一億一二〇〇万ドル。その金額は二〇一〇年三月、日本の財務省(大蔵省)によって確認された。さらに、返還後のアメリカ軍基地のあり方を決定づける、重要な密約も交わされていた。アメリカの求めに応じ、基地の移転と施設改善の名目で、二億ドルを日本が負担するというものだ。」。
米ドル紙幣、ドル預金を沖縄島民が持っていれば、沖縄で発行されたアメリカ軍の「軍票」のようなもの、アメリカは円との交換に応じなければならない。これを日本政府(大蔵省・日本銀行)が外為特別会計で円紙幣、円預金と交換した。交換取得したドル紙幣・ドル預金をそっくり、アメリカの連銀に預金した。連銀に預金されたがアメリカの公会計の収入とされたわけでは無い。日本国の資産なのだ。米(NY)連銀はその調達資金を使って二五年間利息を払わず運用したということだ。
米(NY)連銀はロックフェラー・JPモルガン、メロン財閥等によって経営されている。当時、ドル預金の利率五%から単利で(本来は複利計算だが面倒なので、)計算しても日本へ支払うべき利息が一億四千万ドルであり、この額が無償で(私企業の)連銀に提供されていたということになる。また、ニクソン・ショック(七一年八月)以降、ドル変動相場に移行したので固定レート三六〇円から預金償還月(一九九七年四月平均レート)一二六円との差額分、約七千億ドルの償還損が発生していたことになる。これについてもちろん、国会で取り上げられた事は無い。というのは大蔵省の「柏木」とはこの小説に度々登場するトウキョー銀行の「カシワギ」、あるいはアジア開銀の「カシワギ」とそっくりだからだ。

ニクソンがしたことはまるでファーストの場面の様で広く世間に知れ渡った。(とは思わないが・・)
『傲慢な権力』(リチャード・ニクソンの秘密の世界)の著者、アンソニー・サマーズは、ニクソンは自分の政治家としてのキャリアを伸ばすため、メイヤー・ランスキー(Mayer Lansky)や他の裏社会の金融組織の手を借りたと言っている。このことはより深く、次の書籍で確認することができる。『ヘンリィ・キッシンジャーに抵抗した場合』 (クリストファー・ヒッチェンス、ハーパーズマガジン)ではニクソンとキッシンジャーコンビがアメリカの憲法の制約を無視していかに政治を捻じ曲げたかが描かれている。
ニクソン時代のMファンドが明らかになったことでこの小説が終わりなのではない。それ以上の物語が始まる。GM党が抱えた大きな魚卵がはじけた。そのファンドは数多くの奇抜なある意味、西洋的な金融商品に成長していったのである。
□エボラ出血熱
「それって金融商品かい?病気じゃないか」
「よく聞け、ニガ、投資家と云うものは金融だけが商品ではない。医療業界においては新薬の開発、対抗薬の研究が唯一、金の卵だ。それに“出資しないか”と持ちかけるのが新商品なんだよ」
その結果、十分な悪意を持って騙した者は騙した商品を行使した罪でプリズンに入る。
その結果、日本の場合、だまされた人たちが持っている真正な書類を握りしめて、「日本国政府から騙された。」と訴え出るのだが、もちろん政府や金融機関は「騙していない、そんな事実はない。」と否定するがね。
「何の話だ?」と似瓦。
ニクソンがこの話に登場する以前、Mファンドは東京に在った。(つまり預金の引き出しが東京のどこか“たとえば水耕社・フリーメーソン会館”にあった。)その支配人はマッカーサー傘下の数名のアメリカ人だった。
一九五一年朝鮮動乱が勃発すると日本の第八軍のほとんどが朝鮮半島に行ってしまった。日本を防衛するためには自前の軍隊がいるということになり、Mファンドから五千万ドル以上が支出された 。一九五二年、日本の占領が終わり、ワシントンと東京の安保条約の外縁(密約を含む。)が見えると、Mファンド(の一部)はアメリカ大使館を本拠地とするCIA支局長とそのカウンターパートである内調(内閣調査局)の手で共同管理されるようになる。まず、内閣官房長官が内密に了承し、その後、CIA東京によって承認される。借りるかもらう条件は「その目的が冷戦を勝ち抜くために利用されるものであるか」である。四谷ファンドやキーナン・ファンドもMファンドの一部を構成している。
Mファンドの顧問と称する連中が日本の政府、工業界、社会を「アメリカと固く絆を結ぶ」条件下においたのである。日本の政治の民主化を希求する日本人や集団の心をたくみに抱え込み、土台をつくった。ミヤモト・マサオによればそれは、「拘束社会の解放」というものだ。一九五六年になると、たとえば、一九五六年、アイゼンハワー政権はキシを日本のGM党の党首にするため、そして日本の首相にするための工作をず~としていた。キシにとっては満州の経歴や経営方針が役に立った。キシは農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、イトー・ブンキチ(元首相イトー・ヒロブミの養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期にはヒラオカ・アズサ(作家・ミシマ・ユキオの父)、ミウラ・カズオ、ヨシダ・セイジなどがいたが、入って間もなく、キシは同期生およそ二〇名のリーダー格となった。一九二五年(大正一四年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、ヨシノ・サクゾウの弟で、のちに商工省の次官・大臣となったヨシノ・シンジであり、当時文書課長だったヨシノとキシと臨時産業合理局のキド・コウイチが重要産業統制法を起案実施したとされる。一九三九年(昭和一四年)三月にはキシは総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発五ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄したホシノ・ナオキらとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であったトージョー・ヒデキや、日産コンテルンの総帥アユカワ・ギスケ、里見機関のサトミ・ハジメ の他、シイナ、オオヒラ、イトー、トカワらの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の五人の大物「弐機参介」の一人に数えられた。また、長州出身の同郷人、アユカワ・ギスケ・マツオカ・ヨウスケと共に「満州三角同盟」とも呼ばれたのである。
一〇年間にわたりキシはアメリカのドリームボーイだった。英語やスコッチを飲む習慣をアメリカのヨイショ集団から覚えさせられた。ハリー・カーン、ユージン・ドーマン、コンプトン・パックマン、あるいはアベレル(Averell、ハリマングループのACJメンバー)から可愛いがられた。
「日本で左に勝つ唯一の日本人」、キシにアメリカのMファンドは注がれた。日本国民はやがて、「首相をAからBへ付け替える力がMファンドなんだ。」・・・と気が付かないよう、慎重にひそかにMファンドを活用したのである。そしていわゆるアメリカによってもたらされた民主主義の「虚構」は文字通り壊されたのである。
イシバシVsキシ闘争はキシの勝ちに終わった。本当はイシバシが勝ったのだが、CIAはキシに味方をし、結局キシが首相になった。この意味はGM党のあらゆる派閥にカネが配られたことを意味する。一九五七年二月、楽屋裏のガチャガチャ、ブーブー云う雑音に負けて、キシはイシバシを総理にする。
歴史家ミッチェル・チャーラー(Michael Schaller)によれば、「キシはその時点でアメリカが最も愛する戦争犯罪人の地位をコダマから奪った」という。「キシは明確で確実な賛同のサインを受けた」、「キシはアメリカの対冷戦戦略に忠誠を誓った」、「共産中国とは限定的にしか交渉しない、代わりに日本の経済政策の焦点(投資先)をアメリカと東南アジアの協調的発展に絞る」と。
キシの首相時代は五七年から六〇年までだが、その三年間にCIAから三千万ドルが支出された。その主な資金源はMファンドだった。
アルフレッドC. ウルマーJr.(Alfred C. Ulmer,Jr.)、CIAの幹部でMファンドをコントロールし、五五年から五八年までの日本の責任者だった人物、彼が言う。「われわれが出したんだよ」と。「CIAはLDPの情報に頼っていたからね」と。「GM党のコーヒー(会費)はキシ(首相)とサトー(財務大臣)の名で駐日アメリカ大使、マッカーサーⅡ世(マ元帥の甥)に願い出ていたんだからしょうがないよ」とはつれないね。(だから、その図式は占領時代と何も変わっていないということだ。)
マ大使が国務省へ手紙を出している。「サトーがこの種の要求をするのは初めてではない。サトーはわれわれ(US)が財政的な支援ができないというのであればわれわれ(日本の)保守勢力は再び、共産勢力と闘わなければならない・・ので援助をよろしく頼むというものだが、このアイデアを去年も出しているんですよ」と。
ボールはニクソンの(テニスの)コートに投げ入れられた。

□五七年大蔵省証券
シーグレーブ房によると今日、Mファンドは五千億ドルを超えている。一九六〇年代は三五〇億ドルだったのに、チーレィ(Schlei)によると、「一九九一年一月七日付け日本におけるMファンド・覚書」(JRIワーキングペーパーNo.一一、一九九五年五月)によると、この数額は実際の預金額のことではなく、引用される多くの書類から導き出した数額である。
キシ:チャラー(Schaller)の「アメリカが好きな戦争犯罪;キシ信介の場合」(日本政策研究所ワーキングペーパーNo.一一、一九九五年五月)によると、キシの悪巧みは「弐機参介」グループの仕業だった。すなわち、トージョー・ヒデキ、ホシノ・ナオキ(大蔵官僚・麻薬王)の「弐機」、マツオカ・ヨウスケ(満鉄総裁)、アユカワ・ギスケ(日産創業者)、キシ・ノブスケの「参介」だ。
クリストファー・ヒッチン(Christopher Hitchens)の「キッシンジャーの場合:パートワン:戦争犯罪を造る」(ハーパーズマガジン・二〇〇一年二月号)に、この本に対する批判に著者(ヒッチン)自身が答えている。「Mファンドは日本アメリカ共同体によりコントロールされている」と。
□チーレーの五七年債詐欺の根源はMファンドだった。
戦争終結後、マッカーサーはすぐ、日本の共産化、中国、台湾、朝鮮の共産化、そして彼の故郷フィリピンの共産化に対抗する組織、カネが必要であることを痛感していた。そしてそのファンドは秘密であることが条件で、その結果、アメリカの国民も日本の政府もその存在を知らないことが前提となる。共産化阻止の諜報活動、妨害活動は、GⅡ(参謀二部・ウイロビー部長)の仕事であり、ファンドの資金集めは経済科学局(ESS,マッカート部長)の仕事である。日本がアジア各地からかき集めた収奪物(黄金、白金、ダイヤ、宝石、戦略物資)を没収し、アジア各地へそれを返す仕事は第八軍の仕事だった。また、戦勝国への賠償、アジア収奪国への返還・賠償、日本国民への財産の返還、戦費調達国債の償還の予算は天皇の財産、財閥の財産、軍隊の財産から拠出する。
このファンドの原資、金塊は日本軍によって中国、韓国、台湾、東南アジアから運び込まれた。これらの富は日本の公式な帳簿にのっておらず、かつ、アメリカの公的帳簿に乗ることもなく、マッカーサーの自由になった。後に日米双方が相手方のファンドと呼び合う、金塊だけではなく、ソフトカレンシィーといわれる日本の紙幣(ドルに換価することはアメリカにより阻止されていた。)を含んでいた。マッカーサーファンドは日本の財政アドバイザー、ヨシダの意見を取り入れて運用された。
ファンドは、Mファンドとかマッカート・ファンドと呼ばれた。マッカートは事実最初のころ、このファンドの運用をしていたことがある。しかし、時たまヨシダによっても運営されたのでヨシダファンドと呼ばれた時期もある。ファンドは復興期のビルの建設にのみあてられたのではない。ヨーロッパのマーシャル・プランと同じにあらゆる産業復興のため、活用された。 日本の産業の再生のためには、低率な利子で、長期の融資が必要なのだ。鉄鋼や石炭、造船、肥料、電力、あらゆる日本のインフラにその資金は活用されていった。
□Mファンド、警察予備隊準備資金に充当
一九五〇年朝鮮半島で戦乱が起こると日本にいた米第八軍はもぬけのからとなった。戦乱は日本に再び軍事国家になる道を選ばせることにつながっていく。警察予備隊の創設、今の自衛隊の前身である。「警察予備隊」名前はおとなしいがもちろん憲法は軍隊不保持を明言してしていたので、「警察の予備の集団」今の機動隊みたいなものだ。これは軍隊ではない。警察の予備隊である。国内でデモ、テロ、騒乱が起きたとき、警察に代わって国の主要施設をまもり、国内の治安を回復する役目だ。国の防衛ではない。この警察予備隊の創設にも二〇〇億円(六千万ドル)をMファンドからを使ったといううわさがある。
一九五一年九月八日、サンフランシスコ講和条約が締結された。これにより日本の占領は終了する。しかし、引き続き一九五二年四月二八日から日米安保条約が施行され、日米軍事同盟の成立、安保条約締結後も米軍は日本へ駐留することの合意が成った。その裏契約、「覚書」は一九五三年一〇月八日に締結された。覚書の骨子は、ヨシダーダレス国務長官間で話し合われた。すなわち「軍隊の復活(警察予備隊)の予算負担の件」と「日本版CIAの創設の件」である。ヨシダの密使として渡米したイケダ大蔵大臣とミヤザワ秘書官はニクソン副大統領やダレス国務長官やドッチ予算局長官、ナッシュ国防次官補連中と会い、軍隊の規模、役割、予算などが検討されたことが下敷きとなった。
□ガリオワエロアの見返り資金は返すの?
「戦後、表面上は有償、裏面では無償となった食料援助計画資金(ガリオワエロア資金)の日本負担額が1兆円、大蔵の金庫に保管されています。その資金の管理者はもちろん大蔵大臣とその秘書官です」という詐欺師の話をしたよな?
「は~どこかで」
「それが、この時はロバートソン国務次官補とイケダ大臣の間で大論争になった。いったい、その資金の管理権は大蔵省なのか、GHQ側なのか・・と、そしてGHQの占領が終了したら、その管理権を国務省に返すのか」と。
ヨシダは狡猾で、「お前たち大蔵官僚は借金を値切ることしか考えてないから、当然そのカネは日本側のものですと言うだろうがネ、ワシはそうは考えておらん、日本は武士道の国だ。戦後の食糧難を救ったガリオワ・エロア資金のことはチャンと“借金”だと認識している。ただ、今現在、日本で自由に使える”円資金”(円予算)と云うものは余裕がないから、一時的にそのカネを日本の軍隊復活資金として使わせてもらいたいのだよ、とあっちへ言ってこい」と云うのだ。それでガリオワエロワは秘密裏に日本の隠れ予算となり、結局、警察予備隊の準備資金へ使われていった。
「じゃ~、例の詐欺師の弁は真っ赤な嘘なんですね?」
「そのとおりじゃ」。
□沖縄の復帰資金
一九六九年一月二〇日、ニクソンが大統領になった。同年の十一月には、サトーとニクソンがワシントンで会って、「沖縄は七二年に還す」、「核は持ち込ませず、本土並みで返還する」と共同声明を発表した。ところが裏があった。核を持ち込まないのは、「日本領土の中へ」であり、「寄港する艦船、立ち寄る爆撃機の中に核があるかは不問とする」ことになっていたからだ。ところが裏の裏があった。ニクソンは自分がジョンソンの副大統領だった時代、Mファンドを日本へ返すと約束していたが、ケネデイに敗れて、後八年待った。その間に、ベトナム戦争に使い果たし、残りが少なくなっていたのだ。それでもいくばくかのスイス預金は日本へ返す、日米共同管理ではなく、日本単独使用で返すというのだ。目的は何だ?
「私が大統領に当選したからは約束は果たすよ」だが、公式に日本へ資金を返したならば、日本は身動きが取れない状況になるであろう。なぜなら、その資金がアジア各国の略奪品にルーツがあることがばれてしまうからだ。それで日本の為政者たちは一考を案じたのである。沖縄市民が米ドルでもっている預金や、土地は、アメリカ政府の負債である。それを日本が外為特会で肩代わりするという秘策だ。具体的にはニューヨークのチェスマンハッタン銀行に日本政府がドル建て預金を開設し、そこから沖縄市民へドル預金紙幣と交換に円預金・円紙幣に交換したのだ。チェスマンのドル預金の代わり金は日本銀行の外貨預金(政府保有の外為会計資金)からも出されたが、一部はアメリカ連銀NYが管理していた日本勘定の金塊(二トン)の代わり金も含まれていた。
ところで、日米が共同管理していた一九六〇年時点ではMファンドの総額は一二兆三千億円(約三五〇億ドル)の規模に達していた。イケダ政権下のタナカ蔵相のもとに集まったのだ。イケダは所得倍増を唱えたが、その成功は目に見えていた。大企業に低利子でMファンドを貸出し、輸出を増大し、賃金を上げ、国民に消費財を買ってもらえば、インフレで名目の賃金はすぐに二倍を超えるからだ。所得倍増なんて簡単だったのだ。

□タナカ土地ころがし
一九六〇年~七〇年の一〇年間で、タナカはM資金を懐に土地ころがしをして八兆円(二二〇億ドル)儲けた。もともとの土地は信濃川河川敷など国のものだったがタナカ・企業グループは安く払い下げを受けたのだ。首相はサトー、なぜそんなに安く一企業へ払下げるのか、サトー首相は公明党から追及を受ける。実際はM資金の運用で、運用益はタナカ個人の財産ではなく、GM党の金庫に還流していったのだ。M資金として・・。
そういうわけで、M資金は現在、五〇〇〇億ドル(五〇〇兆円)ある。日本予算の裏帳簿に乗っている。それが日本が国際貿易をする際の裏担保「日本円の価値・信頼性」を担っている。だが、それがどこに実在するか、誰も知らない。M資金は金塊の山なんだろうか?もしかしたら、野党のいう「霞ヶ関埋蔵金」とイコールなのか?
野党が云う「埋蔵金」は国家予算特別勘定から天下り公社・公団への補助金及びその蓄積をいうらしいが、本当の埋蔵金は太平洋戦争時、アジア各地から収奪された金塊が、戦後、東芝やソニーの電子機器の部品に安く貸し出され、日本の戦後復興に貢献し、序々につみあがって今や若者の携帯や家庭の電子機器の回路となって六〇〇〇トンにも膨れ上がっている、いわゆる都市鉱山伝説となっている「金塊のチリの山」のことを言うのだ。日銀の保有する金塊はわずか七〇〇トンらしいが、実際はその一〇倍もある。アメリカの八〇〇〇トンに迫る勢いなのだ。

戦中、『死者たちの金』がマニラで鋳なおされて、ゴールデン・リリーのイヤーマーク付きで各一五キロのゴールドバーになって、紅葉山の地下壕にうづ高く積まれているなんてことは現在ではもう考えられないのである。また、近衛部隊が終戦のどさくさに紛れて、ゴールデンリリーを東京西部、稲田堤の兵器工廠跡地に埋めたなんてことも・・。もしそういうことがあれば横須賀の第八軍はイの一番に摘発にきたであろう。現在では日本の会計検査院だって皇居に検査に行く時代だ。もうそういう伝説は時代遅れだよ。
ニクソンからキシもしくはサトーに渡されたMファンドは日本にあるのではない。そんなことをすれば、すぐ新聞記者や国税にばれてしまう。ファンドはスイスの銀行にある。スイスは日本との租税条約があって、両国の国税当局はいろいろ協議しているが、「一方の国の脱税情報やマネロン資金の銀行預り金の情報」についてだけは互いに情報交換することを規定しない、あるいは条約のタイトルに「脱税の防止」という規定がない唯一の租税条約なのだ。(実際はオランダとも「情報交換」規定がない。また、条約のタイトルに「脱税の防止」という言葉が盛り込まれていない。)大蔵省は「相手国の事情からだ」というが、その事情とは何なのか疑問がわく。なんでそんな租税条約が結ばれたのか、ワシは経緯を知らないが、なにせ日瑞(スイス)条約が締結された昭和三六年当時からそういうことになっている。大蔵省主税局国際租税課が何かに配慮したせいかもしれない。そういうわけで、世の金持ちはスイスへ財産を逃避するのが一番、安全であるという時代が続いていた。アメリカも同様で、対スイスの税務調査、犯罪捜査は猛烈に難しかったのである。もっともニクソンにして見れば、それは好都合だった。スイスへ渡したM資金から大統領選挙資金を得る・・・のがアメリカのマスコミからは見えないからである。
□M資金はUBSにある。
シーグレーブ夫妻によれば、キシが個人的にあずかったMファンドは一兆円を超えていた当時のドル建てでは三〇〇億ドルだった。カクエイは金儲けの天才でそのカネを一〇兆円にしてUBSに預けたというがそれは誰も知らないことだ。キシの弟、エイサク・サトーの未亡人は現在、三千億円をスイスに預金してあるし、G元官房長官とN元首相はジョイント勘定で(すなわち二人のサインがなければニッチもサッチも行かない。)六〇〇億円をUBSで持っている。
従って、今や合計すると五〇〇〇億円以上の預金がスイスにあるので、これが簿外の信用となって世界経済における日本円の信頼醸成に貢献している・・・かどうかはわからない。そんなものはないと一蹴することは簡単だし、実際、そう言う経済学者やミステリィー作家も数多い。それはそうだろう。もしそんなものが実社会にあるとなると自分のミステリィーが売れなくなってしまうからだ。
シーグレーブがこの小説で言うように、Mファンドは「GM党の数人の幹部が管理している」というのだが、ワシにはそれが荒唐無稽に思えるのだ。サトー未亡人の本 なんかも読んだが、ヒロコさんはとてもそんな人には思えない。G元官房長官にしても、それほど大金を運用できるはずはないし、N元首相はカネがなくて、赤羽に住むさる台湾出身の中国人の金持ちから大金を工面してもらっているような状態だ。とてもスイスに大金がなんていう状態じゃない。ここはどうしても決して表社会に表れない、「闇のグループ」(たとえば宗教界、反共連合、右翼集団、トライラテラリスト、その中には実社会で大会社の会長をしているような大物も含まれているようであるが)がいるとしかワシには思えないのだ。
□タカハシ・トシオ
大分年月が経って一九八〇年代の中ごろの話である。
タカハシ・トシオという人物がいる。彼は東大の学生で全共闘の委員長だった。その関係で転向後、アジア自由連合を主宰するCIA東京から援助資金、四千万円を受けとっている。そのカネでタナカ・クラブに入会し、五七債を買っている。しかし、後日換金しようとするとその債券がニセもので彼は騙されたのだということになった。そこでチーレー(ニューヨークを拠点とする、有名な弁護士)に発行した大蔵大臣(ワタナベ・ミチオ、裁判当時)とGM党総裁(スズキ・ゼンコウー、裁判当時)を相手取って訴訟に出た 。タカハシによれば、裁判の管轄は、債券発行が日本国なら日本だが、どうもその債券は東京北区の滝野川印刷局で刷られた(すなわち国内犯行)ものと断定できないので、日本の裁判所は受けつけれてくれそうもなかった。そこでロスアンゼルスの地方裁判所にしたというのだ。ロスで裁判を起こす外国の被害者(詐欺者)も多かったからだ。チーレーは東京に行ってタカハシ外二〇名程度の被害者にあって、事情を聴き記録をとって帰国した。ところが、ロスアンゼルスの裁判が佳境に入ると、国務省とFBIが介入してきて、その裁判をおじゃんにさせられた。具体的には、チーレーが事実無根のことで同盟国である日本の大物政治家とGM党を脅かしている。これは国家反逆罪(米国の安全保障を失わせる罪)に値するもので、もしこの勧告にしたがわない場合はIRS(米国税庁)に連絡して、日本の弁護報酬を脱税しているかどで告発する。もっというとマスコミにチーレーは国際詐欺グループ専門の悪徳弁護士とリークして、今までの名声威信を失墜させるというのだ。これほどまでにアメリカが醜い国だとは思わないが、シーグレーブ夫妻も同じような目にあっているのでどうしても筆圧が強くなるのは仕方のないことだろう。
□裁判の行方
ノベルト・チーレー、タカハシ・トシオらが、米国FBIに詐欺の疑いで告発された訴訟で、日本政府が発行した五七年債(五七シリーズMボンド)はニセモノで、それを材料にアメリカで詐欺を働いたかどでFBIが告発したもの。フロリダのタンパ連邦裁判所地方支部で開廷された。タカハシはかつて全学連の闘士だったが、転向し、反共対策を行うCIA日本支部から資金を得て五七年債を香港で購入した。それをラスベガスの銀行で換金しようとしたとしたところ、FBIにつかまったという。チーレー弁護士は一九八五年五月二八日日本へ行き、第一勧銀が発行したとされる、五枚の保証小切手(五〇〇億円・四億ドル)を銀行(ファーストシカゴ)、証券会社仲介(スミス・バーニー、ハリス&アプハム)から回収しようとした。八八年七月二八日にチーレー弁護士は栃木県の栃木刑務所に収監されていたハツ・アオヤギから事情聴取の上、陳述書の提供を受けたもの。米国での罪状は刑法四七九条J項違反(偽造有価証券行使)。
(一)一九八六年四月、チーレーたちはロジャーAヒルに同証券を額面の二〇%で売却する契約を結んだ。
(二)八六年一二月一九日、チーレーたちはジャパン・アメリカ協会を創立した。
(三)八七年一〇月一六日、同協会はヒルに同証券を譲渡。
(四)八七年一二月二七日、同協会はルー(Loo)に五七Mボンドを売却した。
(五)八八年二月一三日トシオ・タカハシはルーにシリーズ#一二八〇を譲渡した。
(六)八八年二月、ルーは同証券をハワード・オルソンに譲渡した。
(七)八八年八月一八日、チーレーは台湾にいるトシオ・タカハシに同証券をロスアンゼルスに送るよう指示した。同証券をアメリカンの顧客に販売する予定だった。同様にロンドンにいたトシオ・タカハシにも証券をロスアンゼルスに送付させるよう指示した。
(八)八八年一一月一日、チーレーは香港にいるタカハシに一万ドルを送っている。
(九)八九年二月一日、チーレーはロスのホテル・ニューオオタニ にいるタカハシの宿泊代を負担した。一泊一〇〇ドル前後、ちなみに日本ガバメント料金は七〇ドルだった(ワシはこのホテルにそのころ、泊まった経験があるんじゃよ。)

ここで、疑問がある。チーレーが栃木刑務所へ行って五七年債の資金五百億ドルが政府筋へ渡ったとする証拠がなぜ、確認できなかったかということである。本物の国債ならば、発行代わり金はA投資家(ハツ・アオヤギ)から政府筋の日銀口座へ払いこまれているはずである。ハツらがどこからその資金を入手して現実に払い込んで当該国債を手に入れたのだという証拠が裁判では決定的な事実になるではないか、それを知らないはずがない、チーレーはハツ・アオヤギからこういう話を聞いている。
「それはね弁護士さん、昔マッカーサーがGHQの司令官をしていた頃、朝鮮で動乱が起きたでしょう、あれで日本のおたくの軍隊は皆、韓国へ行ってしもうた。留守になった日本特に北海道が、ソビエト軍に占領される危険性を天皇様が指摘し、マッカーサー元帥に拠金の申し出をしたんじゃじゃよ、日本ではMファンドと称するがね、戦後の皇族解体のドサクサに、皇族のお住まいを、ある事業家に売って、生活資金を海外にプールしたことがあったそうじゃ。その資金の塊がMファンドとして、日本へ逆流し、政府筋の国債に投資されたのが今回の事件の発端なんじゃよ」
「それは少しおかしいですね、ハツさん」とチーレーが気が付いた。「あなたはその国債を3千億円で三十枚買ったんでしょう?」、「その資金はどこから出したんですか?」
「だから、Mファンドからと云っておるじゃろう」
「Mファンドの運用者がアナタだということですか?」
「そうじゃなくて、Mファンドの皇室の持ち分は池袋で鉄道を経営している某お方が、影の代表者となっており、総資金の運用がまかされておる。そのクラブが田中首相の金主元で、日本中の隠れた実力者たちの名義を利用させてもらっている・・と云うわけだよ」
「平たくいうと、ハツさん、あなたたちは皇室のダミィーの名義人だというわけですね、資金はM資金からだ、と、M資金は香港の三和と香港のDKBにあると、・・そういうことなんですね?」
「ワシ(ハツは女だがワシと称する。)はそうは云っておらんがね」ここで会話は切れている。とにかくマッカーサーと昭和五七年債がつながるのはこの会話が最初で最後であった。米国に渡った訴訟では、この当初のカネの受け渡しについては一言も論議されず、1)その国債は色合いや質感が違うだの、2)ゴム印でナンバー(A第1556号)なんか打たんだろうとか、「A」と云う記号はなお、打たないとか、3)国債という文字がなく、残高確認書であって、有価証券じゃない⇒換金性はないとか、4)普通国債に一般の金融機関の名称は入らない、なのにこれには第一勧銀の名称が入っている。国債を償還するのは日銀の役割だからだとか、(このころ国債窓販はまだ、やられていなかったっけ?)、5)日本国債の文字が縦書きだとか、6)日本じゃ10億円を超える国債の発券はないとか、7)第一、当時の大蔵大臣の署名がない、単に「大蔵省の印」という丸い安っぽい印鑑がおされているだけだとか、(これおは重要な指摘で大蔵省の組織を表す印象というものはない→いかにも香港メイドだとわかる。日本人なら大抵偽造だとわかってしまうが外人なら分からないかも)、8)国債のすべてがデザインがバラバラで統一的ではないとか、具体的な事象を捉えてはいるが肝心のカネの動きは確かめられていないのである。
日本で裁判する場合その貸金証書の真偽が問題になれ前に、まず、その貸金(投資金)が実際に借金主(債券発行者)の口座にはいったという事実を証明するのが先決である。訴訟当事者として貸主(投資主)であることを立証する責任がある。そしてその存在が確認された後、カネは贈与したものではないし、返済期日を超えているのでその返還を争う、という争訟過程となるが、アメリカは違うのかね?

□納税証明書
五億円をヨッシャ・ヨッシャでポッポに入れ失脚したタナカはMファンド(もしあれば)を使い切ってはいなかった。その管理権をカネマルとGに任せることにした。一九八六年、タナカがサトー未亡人からバトンタッチを受けUBS(ユニオン・バンク・スイス)で運用していた六千万ドル(約百億円)を将来の青年たちのために役立てようと決心して青年の船の取得・運営資金に宛てたのだ 。死期が近いと判断したからだ。二〇〇一年、彼の娘が外務大臣になるとスイスと交渉して、その資金を秘密裏に日本の銀行(香港支へ移すことが決定された。
ヤマシタ・シゲオというインターネットを捜しても決して姿をあらわさない男がいる。彼は、オーシャンシップデザイナーで、多少山っ気のある男だった。海洋開発も手掛けていたからササガワとも縁があったようだ。そのヤマシタ・シゲオが第五七回国債、額面三千億円の保有者で、大蔵大臣が確認証を出しているではないか、発行年月日は不明、大蔵省印鑑というのもまだ見た人はいないだろうからにわかには信じられない。大体現代でも利付国庫証券(二〇年もの国債)の入札は一回で合計三千億円程度で、一口一億円が最高だ。クーポンにいたっては〇.〇〇一%と微々たるものだ。だが、この五七回債はGM党が資金調達のため、タナカ系列とかスポンサー企業に秘密裏に売った割引国債だった。もちろん、大蔵省が入札をかけたものではない。しかし、当時の大蔵大臣、ワタナベ・ミチオ(総理大臣スズキ・ゼンコウ)が東京北区にある滝野川印刷局に命じて印刷したレッキとしたニセモノである。
「だからそれは単なるうわさだよ、ニガ」
「シーグレーブ夫妻は証拠を持っていなかったのか?」と似瓦。
「イヤ、あるにはある、コレがソレだ」・・・三千億円の国債償還金残高証明書(ニセモノ一)、
《ニセモノ一》
財政審議会の大臣たち の保証人《ニセモノ二》、これはGM党総裁オオヒラ・マサヨシ、衆院議長ホリ・シゲル、参院議長ヤスイ・ケン 、大蔵大臣カネコ・イッペイ 、厚生大臣ハシモト・リュータロー、大蔵省理財局国債課長ヒラサワ・サダアキ 、出資者総代ツツミ・セイジ、出資者総代サトウ・アイコ が名を連ねている。
出資者の納税証明書《ニセモノ三》、これなんか東京都北区在住の熊谷某に小石川税務署長(管轄文京区)が納税証明書を発行しているなんてナンセンスだし、 《ニセモノ四》「
全国福祉協会文橋支部なんてインターネットじゃでてこないので脚注もつけられない。
《ニセモノ五》
あるいはタケシタ総理大臣の印鑑証明《ニセモノ五》など、これなんか誰でもとれるからな、オオバ区長はホンモノだがね ・・・それから・・ 」、「わかった、だいたい、全部ニセモノだな」と似瓦。
「どうだ?驚いたか!」
似瓦の驚きようは尋常では無なかった。「センセイ、これどこから手にいれたんだ?」
「どこって、残高確認書は大蔵省だし、印鑑証明書は区役所だし、納税証明書は税務署からだ」。

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(8)ショーワ・トラスト

2015-10-08 17:25:53 | 税務小説
八章 ショーワ・トラスト
□マッカーサー資金
足立は変な小説を読んだ。それにはこう書かれていた。『・・・一九八〇年代の初め、別なことが起こった。フェルディナンドとイメルダが太平洋戦争で日本がかき集めた膨大な金塊「ゴールデン・リリー」を各国の秘密預金にあづけたのだ。たとえば、預け先が日本の場合は、大阪にある三和銀行の信託部門へ数十億ドル規模の金外信託としてあづけている。
(シーグレーブ夫妻のCDassets二から日本分だけ抜粋)
USD単位一〇億ドル二〇.〇〇〇〇
USD
二.〇〇〇〇
USD
〇.〇五二〇
USD
〇.〇〇八三
USD
八.三〇〇〇
USD
USD
〇.一〇六〇
USD
六.〇〇〇〇
USD
一二.〇〇〇〇
USD
〇.〇五二〇
USD
〇.〇〇七〇
USD
〇.〇〇五〇
USD
〇.〇一二〇
USD
〇.〇〇七〇 銀行名
USD単位一〇億ドル四六一.三五一三
USD
五.〇〇〇〇
USD
〇.〇〇五〇
USD
〇.〇一七〇
USD
二.〇〇〇〇
USD
〇.〇四〇〇
USD
〇.〇〇八八
USD
〇.〇四〇〇
USD
〇.〇〇七〇
USD
〇.〇〇八〇 銀行名
東京銀行 成田信用金庫本店
スタンダードチャータード東京 東京銀行
埼玉銀行 三和銀行大阪
シティコープ東京 東京銀行
シティコープ東京 東京信用銀行
シティコープ東京 ウエルズファーゴ東京
日本・スイス長崎 スタンダードチャータード東京
三菱銀行東京 千葉県ナショナル銀行
住友銀行大阪 シティバンク、シティコープ東京
埼玉銀行 千葉県ナショナル銀行
成田信用金庫本店 成田信用金庫本店
シティバンク長野 シティバンク、シティコープ東京
シティバンク長野 シティコープ本店東京
成田信用金庫本店 ウエルズファーゴ東京








マルコスとイメルダが一九八〇年代に三和銀行の香港支店(実際に存在したかは確かめていない、三和は昭和三九年(一九六四年東京オリンピックの年)香港へ進出している。香港には為替・金取引ができる銀行が八七行もあり、為替管理・売買は自由だったので、三和の本店からキャピトルフライトしたカネ・金塊・美術品がおおいに活躍したはずだ。日本の商社やメーカーがODA取引で決済する場合は商社・メーカーの香港支店勘定に入金されることになっており、ODA資金を払う輸出入銀行などを通じて香港経由で決済されていたのだ。例の「カワサキ資金」(一九七七年フィリピン・カガヤンデオロに鉄鉱石の焼結工場(シンターコーポレーション)を立ち上げた。その時のODA資金、三〇年間無利子融資)も三和銀行の香港支店を経由したことが分かっている。マルコス全盛の時代だ。
太平洋戦争で、天皇家に属する「ゴールデン・リリ-」が明らかになる。そのファンドはアメリカ側では「ショーワ・トラスト」と呼ばれ、日本側では「マッカーサー・ファンド」と言った。トラストの設置はロバートB.アンダーソン。「ゴールデン・リリィ」自体は、フィリピンにマルコスが管理していたが、もともとは、マッカーサーとランズデール大佐が日本軍から取り返したものだった。
それを実行した人の名称は巷では、「マッカーサー将軍の部下、民政局のマッカート准将」だったり、「エンパラー・ヒロヒトの内大臣、キド・コーイチ」だったりしている。
番号  名義人 単位 一〇億ドル 銀行名 国名
七 Severino Sta. Romana USD 五.〇〇〇〇 Sanwa Bank, Hongkong China


天皇が戦後、マッカーサーの私邸(現アメリカ大使館)をたずねて、ゴールデン・リリィのことについてその処分方法を話しあったかどうかは日本のどの文献を見ても書かれていないし、誰も語ろうとしない。また、近年のアメリカの戦後史をひも解くパープル暗号解読の外交文書やCIA記録(「ファミリィ・ジェムストーン」)などもそこまでは言及していない。しかし、巷ではその金の塊を日本では「マッカーサー・ファンド」、アメリカでは「ショーワ・トラスト」と呼んでお互いに他国の管理下にある金だと云って責任をとらないものになっている。
□アンドー
「アンドーはギャングの親分です。しかも天皇の弟、タカマツ宮とはすこぶる親密な関係にあります。彼は内閣の閣僚とも昵懇なら、数都市の闇市の『王様』とも懇意だし、特に日本の将軍たちとは極めて親しい。彼の幕僚の十人の内九人までは軍人出身です」
「戦前日本の外務省は『いかがわしい人文化人の一群』を利用したものです。その連中がまた、帰ってきています。アンドーはそのエンジェル(財政的援助者の意味)の一人で、タカマツ宮が保護者、聖者カガワ(香川豊彦)が組織者というわけです」
「アンドーは何百人かの日本人の女を手元にもっていますが、西洋の女も十数人サービスさせることができます。白系ロシア人、ドイツ人、イタリィ人、元ナチの役人の情婦、移住者の娘、スパイ。これらの女の多くは接待係、電話交換手、通訳などになって総司令部で働いています。ある女はアンドーのやり方は気にいらないが、『借金があるので』と言っていました。またマリアというロシア人の女は、アンドーのために『特別任務』についています。アメリカの将校と週末を山間の静養地で過ごした日本人の女にアンドーが一万円円払ってた事実も私は知っています」(略)「私がやったように、まず、以上のことを全部綜合して、
それから推測してご覧なさい。アンドーは財産隠匿に躍起となっている皇室か、それとも財閥かの『傀儡』(かいらい)投資家かもしれない。降伏後日本の将軍たちが隠匿した膨大な軍需物資をもらった男かもしれない。あるいは、日本の地下組織の参謀本部とでも言うような組織の俸給支払者(ペイマスター)かもしれない」N大尉は今度彼がアンドーを訪問―社交的にーする時、一緒に行こうと(マーク・ゲインを)誘ってくれた(三八二p)。下線筆者 女中たちが部屋を出入りし始めたが、どの女もアンドーから送られたダイヤモンドの指輪をはめていいた、女中たちはお菓子とグッケンハイマー(Guggenheimer)のウイオスキーを運んできた。これはこの国では一財産を意味する。「アメリカからの友人は皆いつもここへご案内するんですよ。総司令部だけでも二百人から三百人の友人がいます。みんな大変忙しくしていられるのですから、時には気晴らしが必要ですよ」と彼は言い、彼のお客の名前を若干挙げた。ある将官、ある判事、二、三の有名な将校、二、三の特派員、連合国使節団の一、二人(三八九p)。
六月一〇日 東 京
朝、アンドーはリー・マーチン、ウオーカー、私の三人をタカマツ宮邸に連れて行ってくれた。アンドーが殿下と内談しているあいだ、私たちは小さな応接間で待っていた。そして飾りの多い家具や骨董(こっとう)や、円柱のある二階建ての建物をとりまく手入れの行き届いた野菜畠などを眺めていた。タカマツ宮は天皇にはあまり似ていない。体格もよく姿勢もいい。いかにも敏捷そうな顔だ。降伏前は海軍に籍をおき、軍部内の各派は自分の派に引き入れようとさかんに働きかけたが、彼はついに極右の一派と結びついた。私たちは丸い輪を作って話をした。アンドーが殿下の隣に座を占め私たちは質問した。(略)私たちは揃って退出するときも、アンドーだけは後に残ってぐずぐずしていた。そこで廊下にあった訪客簿を見る時間をえたのだが、それには占領軍の最高首脳部の人たちの名前も記されてあった(三九〇p)。
マークゲイン『ニッポン日記』井本赳夫訳 一九六三年筑摩書房から刊行された。原著は一九四八年七月に英文で上梓され、一九五一年九月(サンフランシスコ講和会議の時)に翻訳本が発刊されている。内容はオリジナルのままだ。

そして時が過ぎ、ワシのクライアントとして登場する某社長も実は東大→大蔵省の超エリートだった。・・・彼(クライアント氏)が言う。「・・・財閥解体に関する公式要求くらいでたらめで、また誤解を招くようなものはなかったな。GHQも、政党も、内閣も、新聞も、皇室さえ財閥と手を組んだ。財閥は君も知ってるとおり復活したんだよ」洋の東西南北を問わず、戦争と女と金はついて廻るということさ・・・。
神田のガード下では時々、小雨がぱらついている。中野行きの最終電車もそろそろ終電時刻が近づいた。ワシも聴き疲れてカウンターで寝ていたようだ。足立はこう思った。「そろそろ起こしてやるか、永遠に眠りこまれたら事だからな」と。
□皇室の隠し財産か
以前は、例えば、「スイスの銀行にある口座の情報は、日本の課税当局に提供されることはない」と信じられていたかもしれない。しかしながら、日本・スイスの間の租税条約も改正され、改正後の租税条約は、情報交換における自国の課税利益による制限の撤廃及び金融機関保有情報へのアクセスを明記しており、租税条約に基づき、日本の課税当局が日本の居住者のスイスにある銀行口座の情報を要請することも可能となっている。日本・スイス間の租税条約を改正する議定書は二〇一一年一二月一日に発効しており、改正後の規定による情報の交換は二〇一二年一月一日以後に開始する各課税年度について認められることとなっている。
「ところでニガよ、天皇さんが終戦まじか、スイスの赤十字に一千万スイスフラン(現在価値で五千億円)寄附した話は知ってるか?」
「そんなの知らんよ、またジィーさんホラ吹いてるな」
「イヤイヤ本当のことだ。これはシーグレーブ情報じゃない」。
□昭和天皇「七つの謎」
《加藤康男『昭和天皇「七つの謎」一〇天皇の財布と「隠し財産」』(WILL・二〇一四.一〇月一九一p-一九二p)
要旨『終戦間際、これまであまり知られていないが、天皇の財産を海外に移す計画が行われた。敗戦がせまった昭和二〇年四月、良子(ながこ)皇后のお名前でスイスの赤十字国際委員会(ICRC)に対し突如として一千万円スイスフランと云う巨額の寄付を提示していたことがわかった。この文書は国際赤十字とイギリス外務省の公文書のやり取り(F〇/三六九/三九六九、FO/三六九/三九七九)でわかったのである。
日本側の提示に対して、連合国の極東委員会(Fer Eastern Commission)-対日政策委員会がこれを却下する。戦勝国の没収権を守るためである。ところが、日本赤十字委員会はこの決定をアメリカの裁判で覆した。一九四九年、秘密裏に送金がある銀行からある銀行へ送金されたのである。寄付はBISにある横浜正金銀行の「天皇の『日本の秘密口座』である特別勘定」から「国際赤十字のスイスにある銀行の表口座」に振り替えられたとある。なお、送金日は一九四九年五月末、それまでにスイスの横浜正金銀行預金はスイス政府によって凍結されていたが、それを解除しておこなわれたという。現在に至っても宮内庁関係者のだれもが「知らないカネ」となっている。』
問題はここからである。現在の価値で五千億円というカネがそれで、全部だったかということだ。仮に天皇の財産が日本赤十字の出資金に変わったのであれば、(社)日本赤十字社は財産を公開して、国または宮内庁、あるいは財務省として登録していることを明かにすべきである。参考までにいえば赤十字社の二〇一三年三月三一日現在の基本金(一般法人の資本金に相当)は二五億円だった。現金預金は三七億円なので、その中に入っているとは思われない。マッカーサーが持ち出しちゃったのかな?財務省が着服しているのかな?横浜正金の次の東京銀行、その次の東京三菱銀行、その次の三菱東京UFJに渡ってスイス支店口座にあるのかな?
□国外財産調書法
時すでに来たれり、国税庁は国外蓄財をターゲットに、「居住者」がその年の一二月三一日において、その価額の合計額が五千万円を超える国外財産を有する方は、その国外財産の種類、数量及び価額その他必要な事項を記載した「国外財産調書」を、その年の翌年の三月一五日までに、住所地等の所轄税務署に提出しなければならないことになった。
対象者は金持ちの個人であり、法人には適用されない(法人は全世界バランスシートを出さなければいけない。)。だがしかし、法人に擬制して、たとえば、リヒテンシュタイン法人(外国法人)として、ジュネーブに財産が五千万円以上ある場合も、リヒテンシュタイン法人への出資額として国外財産を形成することになる。なお、タックスヘイブン税制という厄介なものが日本税法にあり、リヒテンシュタイン法人の運用益は個人の「雑所得」を形成し、確定申告がいる。そして、「情報申告」を怠った場合は六か月以下の懲役が適用される(場合がある。)。このように罰則付きで情報申告を厳しくしたのは、金持ち層の相続税対策として海外離脱、海外蓄財が急増したためであろうが、旧体制(エスタブリィシュメント)や宗教団体の理事、財団理事、社団理事、ヤクザ、ナリキン、多国籍企業の幹部、そして、相続地策として海外へ資金を持っていった農家の人たちなどがターゲットとなるようである。
最後に一言、居住者とは天皇陛下を含む国民全体である。
□最悪の評価
皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。
 「戦前、皇室には予算として年額四五〇万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約一六億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」
 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。
先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。
 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。
□『天皇のロザリオ』
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。
 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、二・二六事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。
 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の四七%の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。
 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。
 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。
 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。一九三八(昭和一三)年一二月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 
 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」
 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。
□究極のキャピタルフライト
 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。
 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。
 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和一九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に六六〇億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」
 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。
 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
《:著者としてこれらのことを全面的に支持するものではない。やはり『昭和天皇実録』を読んだ後でなければ》
□旧軍財産
 旧軍財産活用のためには、適切な管理とそのための確実な引継ぎが必要であったが、終戦時には陸海軍の財産管理自体が混乱していたうえに連合軍の管理が加わったため、その第一歩は全くの混乱状態にあった。
昭和二〇年九月二四日、GHQとの覚書「日本軍隊より受領し、且受領すべき資材、補給品、装備品に関する件」により 詳細な指令が出された。
イ. 対象物件は、日本軍隊に属する全ての武器、弾薬、軍装備等の戦用品並びに職員等の使用に供された備品又はその他の財産(土地、建物等も含まれる)。
ロ. 陸海軍財産のうち戦用とならぬものは日本政府に返還する。
ハ. 返還資材等の受領機関に内務省を指定する。
ニ. 内務省は受領物品の記録を保存し、その処置を明らかにせよ。
 財産返還の受領機関を内務省と指定した本指令は、政府の国有財産の管理体制に変更を求めたものではなかったものの、結果的には国有財産管理体制の二元化(大蔵省と内務省)とも解され、実行上大きな支障を来すことになった。この結果、GHQから返還される財産は、内務省(地方庁)が受領し、大蔵省(財務局、管財支所または出張所)に引き渡すこととする体制がとられた。こうして返還される国有財産の取り扱いは定まったが、各現地における実際の引継は相当な困難を伴うものであった。現地部隊の実地立会いのもと台帳、目録を作って引継ぐべきところ、立ち会う現地部隊の解散等で確認が困難となるものや終戦の混乱時に財産台帳を焼却したものなどもあって、確認の手段を失っていたものも多かった。
 さらに、大蔵省が引き継ぐものは、土地、施設等の処分困難なものが多く、加えて終戦のどさくさの中で施設の破壊、盗難等も見られ、管理・保全上の観点から、陸海軍の財産管理者をそのまま大蔵省の職員として引継ぎ、国有財産の調査確定にあてることとした。
 なお、内務省(地方庁)から大蔵省へ引継ぐ旧軍財産について、その処理に円滑を欠き混乱状態が続いたので、旧軍財産の返還については直接大蔵省に引き継ぐことを要請する申請書をGHQに提出し、再々にわたり要請をしたものの、成果はなかった。
ちなみに全国の引継財産のうち、土地面積は二,六九九km二にのぼり、その広さはざっと神奈川県の総面積を上回る程の膨大なものであった。
□戦争利得の除去及財政の再建
一九四五年十一月二四日発令のGHQ、「SCAPIN三三七 ESS/FI」という文書がある。その中で、第三条に、「皇室財産も本計画の適用を免るることなし。」の規定がある。
税率は最低二五%から最高で九〇%と一四段階で設定された。一人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いが、政府による税揚げ総額の観点からみると、いわば中間層が最も多い。このように、財産税の語感からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちではあるが、天皇財産を 別にすれば実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであった。

なお、当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQの承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われた。このように、国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われた点に留意する必要がある。
そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われた。富裕層(一五〇〇万円超)の一〇〇人からしてみると、保有した財産の大部分は没収されたが、保有国債は一〇年超の新国債で支払いを保証されたということになる。
国会図書館憲政資料室の所蔵の資料を調べた足立は「皇室財産」についてGHQとSCAP間で話し合われている資料の少なさに愕然とした。多くの皇室財産はやみの下に葬られたのだ。
極東委員会(FEC)が一九四五年二月ワシントンに設置された。戦勝国全体により日本を占領管理していく最高決定機関で、米国のほかソビエト、英国、中国、オーストラリアなどが参加する。東京には極東委員会の下部組織、対日理事会がおかれ(四月五日)、GHQ抜きで直接日本政府と交渉できるようになる。今までGHQあるいはSCAPとして独り決めしてきたマッカーサーはこれらの諸機関が動き出す前にすべてを決める必要がある。特に天皇制の存続については、中国、ソビエト、オーストラリアが強硬に反対しており、天皇を戦犯として裁く可能性が高くなっていった。マッカーサーはこのため、戦争犯罪人の処刑、象徴天皇憲法制定を急いだのである。そのためには天皇の財産をはきだしてもらわなければいけないのだ。

一九四六年九月一日のホイットニーからワシントン宛ての発信文書では「八月三一日付けの改正案第八八条《皇室財産・皇室の費用》から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのか」という、FEC(極東委員会)のイギリス代表の質問の文書」 に答えて、
マッカーサー元帥は「第八八条には、七月二日のFEC原則の四一dに従って、天皇の財への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだ」と回答している 。
イギリスは、皇室財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場をとる旨伝えている 。
SCAP公式文書によれば、皇室財産についての審議結果を米陸軍参謀長に伝えて、四六年七月二日のFEC原則に基づいて、皇室財産については、天皇の世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化は憲法が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている 。
マッカーサーが極東委員会の始動をにらんで日本国憲法の作成を急いだことは定説であり、マッカーサー自身、次のように述べている。「占領が極東委員会の審議に依拠していたとすれば、憲法改正が成就されていなかったであろうと、私(マッカーサー)は確信している。ソ連が拒否権をもっていたのだから 」ただし出来上がった憲法草案はあまり評判が良かったとは言い難い。
「マック・ダーモット氏の意見によれば占領政策は驚くほどうまくいっているが、憲法草案の内容については深く憂慮している、とのことだった。彼は、この憲法はひどい出来だと考えていた。原型も発想もアメリカ人のものだし、当の日本人がたいしてわかってもいないのにアメリカ人に押しつけられてただ受身的に受け入れているだけだからという。」(マクマホン・ボール著、A.リックス編、竹前栄治・菊地努訳、前掲書、三頁)。
□この資金は“多くの蠅”どもをおびきよせるであろう
―昭和二四年四月二日に、ガリオアエロアの見返り資金に関する司令部からの指令が出された。この日、ドッジ氏は四谷小学校を接収した大蔵省に来てワタシ(タケシ・ワタナベ)にこう言いました。その会合にはもちろんワタシの上司、イケダ蔵相、大蔵顧問のシラスさんもおられたわけです。
「見返り資金は予算の実行状態、産業及び銀行の合理化の成否を見ながら放出を加減したい。金融や財政の動向を見て効果的な調整弁にしたいのだ。復金(戦災復興会計資金)のように、袋に入れた金(カネ)を“みんながつかみどりするようなもの”にしてはならない。今日出た指令の文言は米欧州の文言と同じものを使ってある。その意味では、旧敵国だった日本を連合国並みに扱うわけである」
「この資金は“多くの蠅”どもをおびきよせるであろう」
「が、健全な開発資金にむけなければならない。しかもあらかじめ年間の計画は立てられないのだ。もしインフレが進行するなら、この金(カネ)は放出されないであろう」と言った。
そこでワタシは「“多くの蠅”というのは彼らのことですね?」と確認をとった。
ドッジ氏は確かに、「そうだ。ブラックカーテン(黒幕の直訳)やヤクザ連中のことだよ」と言った。
「それでは健全な開発資金の使い道として、たとえば、財閥解体の憂き目にあわなかった特定の銀行の資本増強の資金に使ったり、宮内省などが財産税に対抗して事前に放出した財産を公益法人とするための軍資金として使うことも許されますか」と訊いた。
ドッジ氏は「当然だよ、OKだ」と言った。
「それなら、厚生省などが社会基盤整備のため下部機関として日本各地に社会福祉協議会を作ってそれに出資を求めるなんてことも許されますか?」と訊いた。
ドッジ氏は「ケースバイケースだよ。バックに旧陸海軍(復員局)のブラック・カーテンがいなければね」と云った。
「それなら、日銀に残っているダイヤ一六万カラットを全国宝石商組合に移す資金としてその資金を使ってもよろしゅうございますか?」と訊いた。ドッジ氏は幾分いやな顔をしたが、
「あれのことは我が方の不始末もあるから既に大蔵に権限を移しておるとマッカート君も言っておるからな。一六万カラット分についてはどのように処分しようが君たちの自由だよ」と答えた。
工業ダイヤは商工省(経済産業省・通産省)にくれてやってもいいが、そのほかは大蔵省がいただく。イケダ蔵相もシラス氏もワタシ(タケシ・ワタナベ)もほっとしたのである。
そこでワタシは資金特別会計とこの資金の運用方法について各省の予算要求(というよりも陳情)にこたえ、そのカネを配ることにした。

そのクライアントは「大蔵省が連絡役となって「安本」と策定した運用計画で各省の協議会へ配ることにしたのだそうです」と言うのだ。
「どうだい?、もしこれがM資金だったとしたら辻褄があうだろう?ヨシダ先生」と得意げにそのクライアントが言った。
「驚きましたね。社長がそこまで入試のため勉強されていたなんて」とワシは驚いた。
「君、それは違うよ。ワタナベ先生はわしらの大々先輩なのだ。私たちの口頭試問の際は、脇役でいつも事務次官の隣にいるのだヨ、私もムトウ君とかウスイ君とかと一緒に受けたからね」
タケシ・ワタナベ氏はその後アジア開銀の初代総裁となった。アジア開発銀行はフィリピンマニラに設置された。マルコスとは懇意だったようだ。大々先輩は初代総裁となった。だいぶ後のことだが(二〇一三年)日銀総裁となったクロトンさんはこのクライアント社長の後輩なんだってことが後でわかった。そんなことならM資金サギにだまされることはないわけだ。ついでに言うとそのクライアント氏は今の総理大臣の中学時代に家庭教師をやり、結果はあまりよくなくて(頭がいまいち)、武蔵野のある大学に入ったんだとか・・・。
□マッカーサーが三和銀行を特別に可愛がった訳
三和銀行は戦前からの老舗銀行(鴻池家ほか三財閥からなる。)で、天皇家は戦前、戦中まで三和の大株主だったことがわかっている。戦後、三和銀行は財閥(銀行)解体 の対象とされなかった。戦争で台湾や中国、朝鮮から不当に奪った財産は米国へ返還する(アメリカはそれから戦時賠償を行う。)予定であった財閥銀行から外れたのである。はずれたばかりでなく、GHQは、各銀行へ増資を要求した際、三和には一〇億円の資金を提供した。実際は三和銀行信託部にファンドを開設する方法によった。信託した人物はロバートAアンダーソン(Anderson )。直前、アンダーソンはマッカーサー将軍とランズデールとともにゴールデン・リィリーが埋蔵されたフィリピンのサイトをたずねている・・。ファンドの金額は不明だが、GHQが持っているおカネは旧軍の隠匿物資の金、銀、プラチナ、ラジウム、ニッケル、チタンや天皇家や国民から供出されたダイヤモンド、その他、地方に分散した軍需物資などを摘発して、接収財産として日銀の地価倉庫等に保管されたものが元手になっていることは大体推定がつく。その中にはフィリピンから持ち帰ったゴールデン・リリーも入っているかもしれない。しかし、信託契約というものはご存知ない方が多いのであえて、説明するが、GHQ(信託者)が直接三和銀(受託者)の店頭に現物(黄金・ダイヤ)を持ち込むのではなく、その現物をどこぞに売却し、外貨(米ドル)で信託する(外貨建て金銭信託)が普通である。そして、三和銀はその外貨キャッシュをどこぞに貸付け利得を生み、そこから手数料をもらう・・という仕組みである。もしそうでなく、金塊・ダイヤを信託したのであれば、金・ダイヤモンドリースをして貸付料をとるなんてことも可能だが、そのころ金リースなんかないからそれは無理。現物では金利を有むという現象は起きないのでそのような信託(ファンド)契約はされているわけがない。しかも終戦直後は、金塊やダイヤを国内で売りさばくほど日本経済は強くなかった。おそらく、金塊はニューヨーク連銀に運ばれて、売りさばかれたか(そのかわりショーワ・トラストとして一応日本管理の外貨として預金しておく。)、香港方面(そして陸路、スイスへ運ばれる。)へ現物が移動して行ったと思われる。
ダイヤモンドは、おなじくニューヨークのユダヤ人街(四七丁目 )の仲買人シンジケートに渡ったのはほぼ、確実である。そして、決済されたカネは米ドルなので、米国の民間銀行に預金された。その預金の預託者(預ける人)が三和銀で、その信託の受益者〈利益を受ける人)はGHQである・・・したがってこのファンドは「GHQファンド」と呼ぶべきである。
ところで、三和銀行は一九四八年一〇月一日、一〇億円を増資している(三和社史)。この増資は邦銀のソルベンシー(資本充実原則)を求められたことによるものだが、財閥系銀行でさえこの増資に四苦八苦しているのに、三和銀だけがこれをサラっとこなしている。
「誰がカネを出したんですかね?」
「決まってるだろう、GHQかランズデールだよ」
「そういえば・・・」

「SCAPは戦後、三和銀行(関西)と日本勧業銀行(関東)および東海銀行(名古屋)にだけ隠匿物資の返還をを免除したという話はもうしたよね」
「日本は戦後、戦時賠償をするため、いろいろな銀行と取引を開始したようにみえるけれども、日本は日露戦争のころから、世界の決済機関と取引があった」
たとえば、サンフランシスコ平和条約第一八条(a)は、戦争状態の存在前に発生した請求権は賠償の放棄にかかわらず存在することを認めている。この規定に基づき、アメリカ・イギリス・カナダ・インド・ギリシャ・アルゼンチンは日中戦争などで発生した損害の請求を行い、日本側は総額一八七万四二六三ドルを各国の銀行へ支払っている。
また一九六六年にはオーストラリアとの間で合意が行われ、一万六七〇〇ドルが賠償としてオーストラリアの銀行へ支払われている。これらの非交戦国に対する補償・賠償金合計は一二三五万九四八四ドルだった。
イタリア王国は旧枢軸であり、一九四五年七月一五日に対日宣戦を行ったものの、実際の交戦は発生していない。しかし承継国のイタリア共和国政府は一九三七年の日中戦争開始以来の民間人資産損害の補償を求めていた。
またイタリア為替局と横浜正金との間で交わしていた決済協定があり、終戦時には日本側の債務が八六四万四千円(当時)残っていた。戦後、横浜正金銀行はGHQによって閉鎖機関に指定され清算されたため、イタリア政府はこの債務返還を日本政府に求めた。しかし日本側は私企業である横浜正金銀行の問題であるとして十数年間交渉を行っていた。一九五九年八月四日には「イタリア為替局との特別円取極」が締結され、四億六三四五万円の返還を行うことで合意が行われた。
一方で民間人資産問題は一九五二年から交渉が行われ、一九七二年七月一八日に「イタリア国民に対する第二次世界大戦中の待遇に関連するある種の問題の解決に関する日本国政府とイタリア共和国政府との間の交換公文」が締結され、一二〇万ドルがイタリア政府に支払われることで両国間の請求権問題は解決した。ただし日本側はイタリアの請求権を認めず、あくまでもこの支払いは賠償や補償ではなく一括見舞金であるとの立場を崩していない。
一九七六年七月二二日のフィリピンに対する支払いを最後に賠償交渉は完了した。




キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(7)美人スッチーの失敗

2015-10-08 17:23:50 | 税務小説
□美人スッチーの失敗
一九五九年のことだが、米国空路勤務の日本人スチュワーデスが宝石を密輸して発見された。場所は、サンフランシスコ空港で、彼女はスーツケースに時価五万ドル(当時)相当の小粒のダイヤ(約四千粒、四〇〇カラット、八〇グラム)を隠しもっていたが、タラップでつまずいて四千個が滑走路にばらまかれたのだ。一面、ダイヤがキラキラして銀世界のようになった。これがすぐ、その場にいあわせたFBIに御用になり、フーバー長官は日本へ捜査官を派遣し、東京租界のギャング団を摘発した。・・というのは実は真っ赤な嘘で、「この女が元経済科学局(ESS)のある高官の情婦であり、過去に日銀倉庫や三井物産・三菱商事のダミー会社からくすねられたダイヤを持ってニューヨークのダイヤモンド街、ユダヤ人が経営する貴金属店に換金に行くためサンフランシスコに到着する」と何者かにリークされていたのだ。*
このように日本には、日銀ダイヤ以外にも多数の略奪ダイヤがあり、ある輸入商の推定によると、その当時、外国から輸入(密輸を含む)されていた貴石類は、代表的な宝石商四軒の合計で数十万カラットあったというのだから、日銀に集められた国民の供出ダイヤ(一九四四年)は政府報告のように一六万カラットどころではなく、おそらく六〇万カラットを超えており、日銀以外にもやはり六〇万カラットはあったのではないだろうか?とワシは推測している。なおダイヤ一カラットは〇.二グラムなので、六十万カラットは一二〇キロ。
GHQは一九五一年、九月サンフランシスコ平和条約の締結とともに日本から去ったように報道されているが、GHQの民間情報教育局(CIE)はその後も数年にわたって日本に残り、国務省の出先機関米国大使館要員(CIA要員)として活動していた。スッチー・ダイヤ事件の情報提供者は元、参謀第二部(GⅡ)のウイロビー准将だった。フィリピンGHQ時代からGⅡ部長としてマッカーサーに使えていたウイロビーは一九四五年八月三〇日、バターン号で厚木へついた。ウイロビーは根っからのファシストで、民政局(GS)部長のホイットニーや同次長のケーデイス大佐とよく衝突した。米国務省(中国派)の指針をホイットニーが間に受け、新憲法に非武装中立的で、おまけに共産勢力の合法化や労組の争議権創設などをもちこもうとする左翼指向があると決めつけていた。ウイロビーは民間情報教育局(CIE)と組んで新憲法を創案する直接の担当者であるケーディス大佐を追い落とすためスパイを配置し日常の観察をした。後に出てくる日本人婦人との不倫騒ぎをマッカーサーに言いつけた。彼らを追い落とす必要を感じていたのだ。
一方、ホイットニーはフィリピンGHQの行政手腕が買われマッカーサーの信任を受けている。日本へはウイロビーに遅れること三か月、十二月にやってきた。フィリピンではマッカーサー軍政の後始末をしていたようだ。何しろ、ホイットニーは名うての弁護士で、フィリピンに十五年も住み、鉱山開発まで手を広げていた。彼は大金持ちになったが、バギオ近郊のベンケット金銅鉱山の経営をマッカーサーと共同で行ったことがその源泉らしい(増田三〇〇p)。
*
マッカーサーの日本統治の手法は生き残った比較的リベラルな政治家を通じて日本国民を統治する間接型のものだった。当時、同じ敗戦国のドイツやイタリアの連合国による統治方法は、ヒトラー、ムッソリーニの政党、軍部が滅んだので、政府というものが存在せず、連合国欧州最高司令官による軍政(連合国軍隊による直接型の集団統治体制)という形態をとった。一方、日本は政党政治家、官僚などの統治機構が生き残ったので、それを活用する間接統治(総司令部→民政局→内閣・省庁→国民)を採用した。ただし、ドイツ全土、ベルリンの占領が四カ国(米英仏ソ)の分割統治であったため、占領政策がうまくいかなかった点を考慮し、米軍(四五年約四〇万人)、英連邦軍(四六年約四万人)、豪軍(同、一万四千人)の西側陣営で固め、事実上アメリカが独占した。ソビエト赤軍は北方四島までの占領にとどめた。中国は内戦が激化したため、日本へ軍隊を送る余裕がなかった。
*
マッカーサーはフィリピン時代から日本の統治方法を研究していた。最初は軍政部門(GS)による直接統治を考えていたようだが、日本の官僚機構がまだ機能している実情がわかるとにわかに「軍政部」を廃止し、本国から弁護士や学識経験者を呼んで「民政局」を新設した。そして日本の民主化の最大の問題、天皇制の存続と主権在民、軍隊を廃止し交戦権を認めない新憲法の起草に取り組んだ。ケーディス次長らに憲法草案を練らせ、芦田内閣、松本国務相の主催する憲法問題審議会の古い体質の憲法には目もくれず、マッカーサー草案(一週間で書き上げたといわれる。)を政府に送って、それに沿った憲法案が作られ有無を言わさず、枢密院、貴族院を通過させるというやり方である。
ともかくそういう重用案件が民政局(および経済科学局)によって進められるようになったのでGⅡのウイロビィーは面白くなかった。そして、GHQ内の泥仕合が始まるのである。マッカーサーに取り入りたいためだけに数々の怪奇事件がおき、国政を無駄にしたのである。その中にこのスッチーも巻き込まれたということらしい。
*
ホイットニーが推し進めた新憲法(明治憲法を改憲したという説もある。)は「天皇シンボル化」、「主権在民」、「戦争・軍備の放棄」が特徴で一九四八年五月三日公布された。ところがそのころから次第に東西の対立が鮮明になり、冷戦構造が大きく歴史の行く手を遮り始める。一九四九年中国毛沢東軍が蒋介石軍を台湾に駆逐し中国本土を掌握した。また、ソビエトが体制を確立し朝鮮半島の北側を占領した。満州にいたロシア系朝鮮人、金日成を平城へ送り込むと極東アジアがにわかに緊張した。アメリカは日本の軍部を解体し、財閥を解体し、軍需工場を破壊、解散させて日本の弱体化をはかっているどころではなくなった。「逆コース」といわれる流れにそって、日本を防共の砦とするため再軍備、兵器産業の再開、軍需物資の生産を開始するのである。とりわけ、一九五〇年六月二五日、朝鮮戦争が勃発すると日本にいる米軍は大半が朝鮮に移動した。右に向かって走り出したのだ。ウイロビーたち、GHQのタカ派が主導権を握った。日本版「レッド・パージ 」のあらしが吹き、戦争責任者たちは解放され、治安部隊(警察保安隊)や海上防衛軍(海上保安庁)の幹部に採用されていった。
□皇室財産の解体
皇室財産処理の過程で、皇室の世襲財産範囲を拡大解釈し、国家管理や税負担を忌避しようとする天皇・宮内省の要求は、この後、内閣法制局や終戦連絡中央事務局(以下、終連)などの折衝担当レベル、ヨシダ外相やイリエ法制局長官ら政府上層レベルを介してGS(民政局・ホイットニー代将)に伝えられる。GS側の反応は、皇室財産問題、皇族特権廃止問題など、いずれも天皇の希望にかなうものではなく、皇室の徹底的な民主化を求めていた。
なお、国内政治勢力において、折衝を通じてGHQの意図を汲みとり、妥協可能な法制づくりをめざす人々と、GHQ内のリベラル勢力と接点のない人々の間で、意見の相違が生じていた。
内閣法制局や終連を抱える外務省が前者に位置し、天皇や宮内省、マキノ元内大臣ら旧側近者が後者に位置する。そのため、ヨシダ外相は、GS側から保守勢力の総本山とみられ、嫌悪感を抱かれてしまう。しかし、ヨシダは、あくまで天皇や宮内省の代弁者に過ぎなかったのであり、保守の総本山は、天皇、宮内省、旧側近者であった。ホイットニーやケーディスらGS局員も、ヨシダや自由党の背後に天皇と宮内省が控えていることを察知していたであろうが、東京裁判の進行する微妙な情勢下、天皇に矛先を向けるわけにはいかず、宮内省首脳を標的と定めるようになる 。
□軍需物資の解放
日本軍隊は一九四五年八月一四日をもって解体し、持っている軍需物資、工場、その他の財産を公共団体とか組合とか通産省とか民間企業(軍需産業でない)にひき渡す閣議決定をした。その他の財産の中に、昭和一九年七月に実施した救国のための国民からのダイヤモンド、その他の貴石、希少金属の買い上げ品が含まれていた。ダイヤは全国のデパートを通じ、各地の交易営団(三菱系)や中央物資協会(三井系)に集められた。そのうち、工業用ダイヤは中央物資協会を通じ軍需工場などへ送られたものもあるが、大粒の装飾用ダイヤなど大部分は軍関係者、内務省、大蔵省、通産省、宮内省などにおいて管理された。しかし終戦を迎えるにあたり、これらの物資はいったん日銀地下金庫へ集約することになり日本各地からダイヤが東京へ運ばれた。一九四六年三月時点のGHQが調べた日銀のダイヤは一六万一千カラットで、二億五千万ドル相当だったとする 。しかし、その過程には多くの不正があった。
□隠匿物資の摘発
戦後しばらくして隠退蔵物資事件が摘発された。旧日本軍が戦時中に民間から接収したダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなったためである。その後、この資金がツジ・カロクなどを通じて政界に流れていることが分かり、その調査のため衆議院に「不当財産取引調査特別委員会」が置かれた。日本国憲法に規定された国政調査権をフル活用し、政界・財界の大物を次々と喚問。これがアシダ内閣の早期瓦解につながった。また検察には「隠匿退蔵物資事件捜査部」が設置された。この隠匿退蔵物資事件捜査部は、東京地方検察庁特別捜査部の前身にあたる。
 □天皇放出ダイヤ
第〇四九回国会 決算委員会 第六号、 昭和四十年九月三十日(木曜日)では次のようなやり取りが行われている。
(略)
○松永説明員(国有財産局長) それは先ほど来申し上げましたように、要するに占領期間中に接収をしている金なりダイヤモンドなり、これは米軍が管理し、全部握っておったわけでございますから、日本政府はそういうことは全然わからなかった。ただ、国内で当時民間の方々が金を接収されつつあるという事情は、それは現象としてはわかっておりましたが、それが幾らになり、どういうふうに管理されているかということは、これは米軍のやっておりましたことで、日本政府は全然わからなかったわけでございます。
○山田(長司)委員 ただいまの答弁で、大体通貨基金に充てられたプラチナの、日本政府が保管数量についての明確な点が出なかったということはわかりました。
 次に伺いますが、これは当然ダイヤの処理にあたって結論が出されなければならない問題でありまするので、国有財産局長に伺っておきますが、戦時中に皇室から軍需大臣に対して下賜されたダイヤモンドが三千五百九一一個、百一一・八五カラットありました。それからプラチナが百一一匁(匁=三.七五グラム、約四〇〇グラム)三八あった。それから金が一匁二六。皇族から供出された白金が百五匁七五、それから白金と金のまざりの品が一一匁六、ダイヤモンドが二百八一五個、八・二六カラット、ローズダイヤが六百六一八個十三・九五カラット、右の保管処理はどうなっていたか、この点を、国有財産局長、わかったならばお答え願います。
○松永説明員 説明員をして説明いたさせます。
○上国料説明員 ただいま御質問の点でございますが、これらのものが接収されまして、(宮内省へ)返還されたというようなことになっておりますが、その中にいま御質問のありましたものが入っているかどうかという点は確認されてないわけでございます。
(略)
○山田(長司)委員 大蔵省の前の局長でありますが、その局長は、ダイヤの数をこう発表したことがあります。これは吹けば飛ぶようなダイヤということを言って、ずいぶんダイヤを軽視しているなという印象を持ったことがありましたが、ダイヤの数は百四十九万八千九十三個、こういう数字を管財局長が発表したことがあります。この点については、もう何十年もたっておりますから、ダイヤの数に間違いがあるかどうかをここで確かめておきたいと思います。百四十九万八千九十三個、こういう答弁をされたことがありますが、いまでもその数には間違いありませんか。
○松永説明員 これは押谷先生の要求の資料として最近提出しました資料によりますと、ダイヤの個数は百四十九万八千四十六個となっております。先ほどの先生のおっしゃった九十三より若干減っているわけであります。これは先ほど申しましたように、返還になったダイヤがございまして……。

天皇家や国民が軍需省に供出したダイヤモンドが盗まれたり、天皇家に返されたりしたが、日銀の倉庫に残ったものの総計は一六万一千カラット(約一五〇万粒)と定まった。金・銀・プラチナなどの貴金属は日銀倉庫の残量はなしということで発表されていないが、米軍が日銀倉庫で接収管理した全ての金銀の在庫から正式に持ち出した白金三千四一九キロを約六トンの金塊と交換し、イヤーマークをつけてニューヨーク世界銀行で保管した。そして、その後、日本がIMF(一九四六年、第一回年次総会ワシントン)に加盟すると五五トンの出資請求があったのでその六トンを充当し、残り四九トンは市場から購入したとされている。
日本銀行の金保有高は、戦前(一九三七-四一)の間にアメリカに推定六〇八トン(約九〇〇〇億円)を現送して軍事物資や石油、兵器などを購入している。残りの金がどれくらいあったかまったく統計がない。そして、四五年から五一年までは金銀準備高はGHQが管理していたので日本側の統計がないということになっている。ところが一九五二年には九一トンと言う数字が示された。その後も日銀の金銀(正貨)の有高(トン数)は発表されないので、まったくの推定(ロンドン金取引所会員調べ)だが約七〇〇トン前後であろう。しかし、日銀にはなくても製品に組み込む金の量や、IMFや世界銀行への現物出資は獏大で、おそらく眼に見えない保有量は世界一ではないかといわれている。これに対し、アメリカの金の保有高は一九四九年が絶頂期で二万一千七〇七トンあったといわれる。現在は八千トンクラスだからその当時は日本やドイツから没収した金塊、プラチナなどもたくさんあったかもしれない 。
□新税三法案について
昭和二一年一月一〇日、日本産業経済新聞は、財産税、法人戦時利得税、個人財産増加税の三法を最高司令部(SCAP)の許可を受けて政府原案を一〇日に発表すると報じた。「これら画期的な財産税等の創設に当り、課税の適正な実現を期する観点から、脱税を極力防止することが肝要なので、この際相当徹底した措置を検討している。すなわち、預貯金、公社債等に就いて預貯金の証書または通帳、公社債またはその保管証、登録済証等には「申告済み」の表示をし、物の買い置きなどにより財産を隠匿せんとする者に対しては適宜の方法により検査を行う等財産の補足に、ありうる限りの手段を講ずる所存である。なお、最近流行の贈与、寄付による財産の散逸を画する者に対しては贈与者、寄付者の財産に加算して課税するように考慮している。今や我が国は悪性インフレーションでつぶれそうである。したがって、この際一回限りの財産税等の課税により国民経済の破たんを防止し、その派生すべき「幾多の害悪」を取り除くためこれらの法律を施行する。」と結んでいる 。

大蔵書記官、ワタナベ・キクゾウーによれば財産税の「納税義務者」は、個人、法人を問わず課税される。個人は、六月一五日(新旧通貨交換日)において「日本国内に住所がある個人」、「一年以上日本に居住している個人」、「日本に財産がある非居住者(外国人は課税されない)」である。引揚者(日本国籍の引揚者)はその日から三年以内に帰国した者の財産に課税される。また、法人については同月同日において「日本に本店・主たる事務所を有する内国法人」、「日本に財産を所有する外国法人」である。
「財産の所在」については、居住者は「全世界にある財産」が課税対象で、非居住者は「国内にある財産」だけが課税対象である。したがって、天皇家の場合も「居住者=全世界」課税である。国内にある財産を特定して非居住者に課税するシステムは今の所得税法・相続税法と変わらない。したがって、国の内外に財産が所在するかどうかは非居住者財産について云々する場合に必要な事実関係で、仮に天皇財産がスイスに保管されていても香港上海銀行に保管されていても(見つかれば)課税される。株券(株式証書)が国内にあれば国内財産、国外にあれば国外財産だが、いずれにしても居住者であれば全世界課税なのである。
「財産の帰属」については、信託財産のように委託者が不明な場合がある。その場合誰の財産として課税するのかが問題となる。この法律では受益者に課税することにしている。たとえば宮内省が天皇家の財産を一括管理し、各企業へ出資しているケースでは、天皇家が受益者で、信託機関である宮内省長官(キド)が受託者ということになろうか。また、さまざまな財団、社団、匿名組合、免税団体を経由して投資されている場合も実質的に宮内省に信託された財産の一部と考えることができようか。なお、株式の投資先が軍需産業や拓殖会社、台湾銀行、朝鮮銀行、南方金庫、外国特殊銀行などの場合は、軍需・特需財産として没収されているので株式の評価額はゼロだと考えられる。また、外国にある財産・会社でも、占領国等(アジア一七カ国)における処分(没収、略奪)にまかされるので、財産税で課税される居住者の国外財産は少ないと考えられる。
「非課税財産」は、普通の生活に普通に必要な財産(家具、什器、衣服、その他これに准するもの)の子であり、金持ちは金持ちなりの財貨物ということにある。もちろん、金万家のぜいたくな家具はダメ。天皇財産も課税されるのであるが、祭祀用の宝物(家宝)などは定義があいまいなので納税義務者の判断にまかせられたようである。皇居の土地、建物は別令で除かれたが、天皇家御料地は土地として課税された。
「公債・社債・株式等の評価」については、取引所相場、非上場の株式は収益の状況を勘案する。
「外地株等の評価」については、賠償問題や在外資産に対する政府の保証の問題等が決まらない限り、その評定はほとんど不可能・・なので、これら株式は「一応別問題としておき」、「課税価格を決定しておき」、後日、これらの問題が「はっきりした時」、「適当なる評価によって改めて追加決定する外方法はない」と逃げている。結局有耶無耶になった。
「本邦施行地外にある財産等の価格」についても「外地株等の評価」と同様である。
「財産調査委員会」の設置については、米の値段が一升八〇銭だったのが五〇円もする無茶苦茶な物価の真っただ中にあり、とても決められないので財産調査委員会に基本的な評価方法を決めさせ、各地方には財務局に不動産評価委員会を、各税務署には個人財産調査会及び法人財産調査会をおいて評価決定することにした。だから、評価官次第の評価額が出された。もちろん恣意的な評価にならざるを得ない。
脱税に加担した者は三年以内の懲役、税額の三倍から一〇倍以内の罰金。
なお、個人財産増加税、法人財産増加税は昭和一五年四月一日から昭和二〇年八月一五日までの間の財産増加額に課税されるもので、その税率は増加額が三〇万円を超える場合、一〇〇%すなわち、没収と同じ効果が・・「これが税だといえるのか、マッカーサーは何を考えている」と財閥系企業、財閥家や金万家たちが怒ったという話は聞かない。
「いつの世にも上(政府)に政策あれば、下(納税者)には対策があるのだ。外国、外国、マネロンだ」とワシ。大分酔いつぶれた。頭がボーとしている。
□天皇財産についてSCAPの考え方
国会図書館憲政資料室の所蔵の資料を調べた足立は「皇室財産」についてGHQとSCAP間で話し合われている資料の少なさに愕然とした。多くの皇室財産はやみの下に葬られたのだ 。
極東委員会が一九四五年二月ワシントンに設置された、戦勝国全体により日本を占領管理していく最高決定機関で、米国のほかソビエト、英国、中国、オーストラリアなど参加する。東京には極東委員会の下部組織、対日理事会がおかれ(四月五日)、GHQ抜きで直接日本政府と交渉できるようになる。今までGHQあるいはSCAPとして独り決めしてきたマッカーサーはこれらの諸機関が動き出す前にすべてを決める必要がある。特に天皇制の存続については、中国、ソビエト、オーストラリアが強硬に反対しており、戦犯としても裁く可能性が高くなっていた。マッカーサーは戦争犯罪人の処刑、象徴天皇、憲法制定を急いだ。そのためには天皇の財産をはきだしてもらわなければいけないのだ。

一九四六年九月一日のホイット二ーからワシントン宛ての発信文書では「八月三一日付けの改正案第八八条《皇室財産・皇室の費用》から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのか」という、FEC(極東委員会)のイギリス代表の質問の文書に答えて、マッカーサー元帥は「第八八条には、七月二日のFEC原則の四一dに従って、天皇の財産への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだ」と回答している 。

イギリスは、皇室財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場をとる旨伝えている 。

四六年七月二日、FEC原則(主権在民、天皇制の廃止または民主的改革、閣僚の文民条項など)が決定されFECの審議結果を米陸軍参謀長に伝えた。
皇室財産については、国有化するが、世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化もしくは財産税による課税は憲法、法律が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている 。
マッカーサーは七月六日、七月二日のFEC原則のプレス発表を抑えるようFECへ要請している。
八月三〇日、貴族院定刻憲法改正特別委員会を設置し、以後議会審議が行われている。
八月三一日(書誌番号一七五)は、改正案第八八条(皇室財産・皇室の費用)から「世襲財産以外の」との文言が削除されたことは、皇室の世襲財産が第八八条の規定によって国有化されることを意味するのか、あるいは皇室の私有財産として課税されるのかという、FECのイギリス代表の質問を伝えている。
九月一日(書誌番号一七六)は、書誌番号一七五に対するマッカーサーからの返信で、憲法第八八条には、七月二 日のFEC原則の四-dに従って、天皇の財産への課税を、他の日本国民と同様、盛り込むべきだと回答している。
九月一七日(書誌番号一九一)は、イギリスは、皇室の財産が国有化されることを条件として、現在の憲法改正案がポツダム宣言等に合致するとの立場を取る旨伝えている。
九月一九日(書誌番号一九四)は、皇室財産についての審議結果を陸軍参謀長に伝えるもの。一九四六年七月二日のFEC原則に基づいて、皇室財産については、天皇の世襲財産を国有化の対象から除くとした規定は削除し、実際の国有化は憲法が施行されてから行われるとしたこと等が述べられている。

マッカーサーが極東委員会の始動をにらんで日本国憲法の作成を急いだことは定説であり、マッカーサー自身、次のように述べている。「占領が極東委員会の審議に依拠していたとすれば、憲法改正が成就されていなかったであろうと、私(マッカーサー)は確信している。なぜならソ連が拒否権をもっていたのだから」と 。

ただし出来上がった憲法草案はあまり評判が良かったとは言い難い。
「マックダーモット氏の意見によれば占領政策は驚くほどうまくいっているが、憲法草案の内容については深く憂慮している、とのことだった。彼は、この憲法はひどい出来だと考えていた。原型も発想もアメリカ人のものだし、当の日本人がたいしてわかってもいないのにアメリカ人に押しつけられてただ受身的に受け入れているだけだ」からという 。
だが、FEC原則(新日本国憲法に関するFEC-〇三一/一九文書)では、「天皇制」の存続可否についての判断は国民が自由に表明する意思(国会での新憲法の成立)により決定されるとしているので、中国、ソビエトの天皇制廃止には論拠がなかったといえる。
『日本における政治の最終の形態は、日本国民の自由に表明された意思によつて決定されねばならないけれども、天皇制を現在の憲法上の形態において保持することは、前記の一般的な諸目的に合致するものとは考えられない。従つて、日本国民に対し、天皇制を廃止するか、またはそれをいつそう民主的な線にそつて改革するよう勧奨しなければならない。もし日本国民が、天皇制は保持すべきものではないと決定すれば、その制度が弊害を及ぼさないための憲法上の保証は、明らかに必要ではないが、憲法は、第一項の要求するところに一致しなければならず、また次の事項を規定するものとする。
もし日本国民が、天皇制を保持することを決定するならば、第一項、第三項に列挙されたものに加えて、次のような保証が必要となるであろう。
a 内閣が、立法部の信任を失うとき、それは総辞職するか、あるいは選挙民に訴える。
b 天皇は、新憲法によつて彼に与えられた権能以外にいかなる権能も有しない。彼は、あらゆる場合に、内閣の助言に従つて行動する。
c 天皇は、一八八九年の憲法の第一章第十一条、十二条、十三条および十四条に規定されたような軍事上の権能をすべて剥奪される。
d すべての皇室財産は、国の財産であると宣言される。皇室の費用は、立法部によつてその支出が充当される。』(国立国会図書館憲政図書館資料 )
なお、新憲法がマッカーサー草案に基づいて出来上がっていることは周知の事実なので、これを国会が承認しても、国民の意思に基づいた多数決原理に沿った決定であったかは実質のところ、わからないといえよう。
□財閥解体を免れた准財閥銀行
既に明らかなように、財閥・銀行解体の命令を出したマッカーサーは、経済科学局のマッカート准将に対し、三和・東海・第一の三行には解体命令を留保させている。この三行の秘密預金から「田中クラブ」の支払があり、M資金騒ぎにつながって行った。
ゴールドウオリアーズによると、フェルディナンドとイメルダがサンティの死後、これらの書類を整理しているときに「三和銀行にショーワ・トラストがある」ことを発見した。このことが、マルコスのマラカニアン宮殿脱出劇(一九八六年二月)の後、同宮殿にあった資料から新政権が発見し、明らかにされている。
その資料によると、シーグレーブ夫妻は言う。「その資料によると、一九八一年までに三和銀行のショーワ・トラストは三億ドル(毎四半期)以上の利息を稼ぎ出し、年間では一〇億ドル以上だった。ある邦銀のオーナーによると天皇家は良い利回りが保証されていた。マルコス政権が三和の信託受益権のカードを正しく使ったのであれば、ショーワ・トラストに近ずくことができたはずだ。事態はそうでなく、マルコスが間違った使い方をしたのでファンドには触れられなくなり、マルコスが「天皇の黄金の百合に由来する信託財産の分け前を少し多くしろ」と言う風なこともできなくなったのだ。
もし、そう云えば、東京やワシントンはハタっと困っただろう。「東京とワシントンの連名勘定(ジョイント・アカウント)が三和の香港にある?」ニュースとして出たならきっとそうなる。戦後、日本は天皇家の生活が窮乏しており、国会から宮廷費(生活費)として毎年二万ドルを拠出すると決議していた。天皇家は欠乏しているとジェスチャーを国民に出していたのだ。第二に、マルコスたちが分け前を要求した時、タナカ・カクエイのロッキード事件に関しGM党がのた打ち回っていた時期だったからである。ロッキード事件のワイロ、日本円五億円、コダマの日本円一七億円がどこから調達されたか?(この本のどこかにカネの運び屋のことが出てくる。)検察はうやむやにして事件を終わらせてしまった。日本はマルコスどころではなく、それ以降、ODAも激減させたのでマルコス政権はあっけなく崩壊してしまうのである。もちろんアメリカ、レーガン政権もマルコスを見限っている。
□ポール・マニング『米従軍記者が見た昭和天皇』
「マンニングという人がいる、次郎」
「あ~知ってますよ、ポール・マンニング、『米従軍記者が見た昭和天皇』ですよね」
「そうだ。その中に天皇財産をかなり突っ込んで書いているんじゃよ」
引用してみよう。
『一九四四年一月、昭和天皇は参謀総長(東条)と軍令部総長(島田)から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。二番目の状況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行からBIS《国際決済銀行)の為替課長に出向している吉村侃 (かん)は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツのライヒ銀行(ライヒ銀行はスエーデン国立銀行から米ドルで借り入れたようにしている。)の信用を付け、あるいはジブラルタル経由、リスボン(ポルトガル首都)へ金塊(この金塊はアジアのどこかにあった。)を送ってBIS勘定(在ロンドン)に預金し天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。』
「それでだな、天皇家の海外財産は預金だったり、金塊だったり、米国の戦費調達社債だったりしているのがわかるだろう」
「しかも、キドが日銀や横浜正金、台湾、朝鮮、満鉄などの株券を管理し、株の配当は全部、海外に送ってプールしていた・・・というワシの推理の根拠はこれなんだ。次郎」。

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(6)ホテルカンズメ

2015-10-08 17:21:06 | インポート
七章 ホテルカンズメ

□ホテルカンズメ
マラカニアン特別任務事務所気付け、八一年二月二一日受領
マダム・イメルダ・ロムアルデス・マルコス様
「親愛なるマダム
貴下は貴下が出されたカズミ・シンザト(Kazumi Shinzato)氏に対する八一年二月四日付けの書簡のことをご存知だと思います。ここにコピィを添付します。その書簡には私たち五人のグループが東京へ行って貴下が日本政府に要求するODAの内容について、大蔵省の当該セクションの役人ならびにODA関係商社のトップに会うことを指示されております。私たちは二月七日にマニラを立ち、東京に一三日間滞在し、二月一九日の夕方にはPALでマニラに帰還しております。
当使節団の派遣は、東京ではトップシークレットだっため、すべての行程を都ホテルの私たちの部屋で済ませました。(廊下にはガードマンが立ち、私たちは夜の楽しみももらえず、朝から晩まで、ケータリングの食事だけで過ごしたのです。ま、それはどうでもいいですが、)戦後すぐ、マッカーサー元帥閣下が「課税」あるいは「没収」した皇室財産の一部を皇室運営のために、大阪の三和銀行に信託されました。当該財産の名義人は二人のアメリカ人と一人の日本人としました。日本人の名前をユタカ・アチキ(Yutaka Acki,安食の間違い)と言います。アジキ氏はここ都ホテルにも数回来て会合に出席しております。
私たちはこのファンドの一部をどうやって香港に運び出すか、厳正な日本の外為法の網をかいくぐる方法を模索しましたところ、大蔵省の役人は「フィリピンに大きな投資をしている日本企業の香港事務所に期間三〇年で無利子の長期貸し出しをし、イメルダ様はそれを別名義でフィリピンで借り入れる。」という方法を提案して参りました。そのスキームはなにかにと税務的なトラブルを生むようですが、大蔵省が何とかすると言うことでございました。
そして、その肝心の日本企業の名はKAWASAKI、そうです。オートバイで有名ですよね。マニラ南部にトライシクルとか組み当てオートバイの工場を展開しております。(実際はオートバイのカワサキではなく、川崎重工業のことらしい。今日のJFE)あのKAWASAKIの香港支店に三和銀行大阪本店から同銀行香港支店経由、多額の融資(外貨インパクトローン)がなされ、それがイメルダ様のフィリピンプロジェクトに融資されていくといった按配です。大蔵省及び日本政府は公式にはODA資金として出せない状態にあります。と言いますのはマルコス大統領さまへの不正献金問題(このころフィリピンODA・商社賄賂事件多発。)が今、日本で進行中でございまして、ODAを増額するのは至難の業だということです。いわば迂回融資みたいなものですが、イメルダ様のたつてのお願いであることからすれば、これくらいのことは大日本帝国のフィリピンへの仕打ちの代償として日本政府が最低限応じなければならない事柄であります。シンザト氏とフィリピングループの事前の話し合いがイメルダ様よりご承認いただいております上は、これは確実に行われると思います。シンザト氏は確約を持ってイメルダ様の面前に現れることでしょう。
ところでデアー・マダム、どうかKAWASAKIの東京代表Mr.Hirro Iwamura(エイロウ・イワムラの間違い)のサインの入ったドラフトをここに同封しますのでそれにマダムのカウンターサインをいただきたく同封いたします。
追伸 私がマニラにいない間に何かにと私に対する中傷、(たとえば、私があなたの情夫であるとか、)イヤな報道があったようですが、私はあなたの純朴なしもべであることをここにお誓い申し上げます。
敬白」

レーガンが二度目の就任式をやった二月二一日の前後の日、東京目黒にある都ホテルの一室でイメルダ・マルコスの秘書、ファジャルド補佐官(Natividad M.Fajardo)が日本政府の高官と対峙している。日本政府の高官及びGM党の重鎮はほとんどが、レーガンの就任式に出かけていたので、多分この高官はN官房長官か副官房長官だ。
ファジャルド補佐官「けしからんことだ。日本軍はフィリピンの国民に多大な損失を負わせながらビタ一文も賠償しなかったんだからな」―「戦時賠償はちゃんとやってる」と政府高官。
ファ「もともとフィリピンのものなのだ。シィーグレーブ夫妻の『マルコス・ダイナスティ』を読めば、五一トンの政府所有の金塊はコレヒドールから日本へ渡っている。だから閣下はフィリピンの大統領としてそれを受け取る権利がある」―「イヤない」と政府高官。
「それを戦後マッカーサー元帥と天皇の会見で、三和銀行本店(大阪)に共同で預けると言うことが了解された。そして、世間の目が厳しくなると、七〇年代のある時、三和銀行の香港支店へ運び出した」-「どうしてそんなに詳しいのか?・・イヤそういう事実は聞いてない」
ファ「閣下は何も好き好んでショーワ・トラストの管理人をしているのではない」―「ショーワ・トラスト?M資金のことか?」ととぼける大蔵省幹部。
ファ「だから香港信託にあづけてあるショーワ・トラストの手数料を一%から二%に値上げするとか、要求に応じなければ五〇トンを三和本店から香港へ持っていって換金するとイメルダ・マルコス様が言うのは至極もっともなことなのだ」―「それならマルコス本人が来ればいいだろう」と政府高官。
ファ「だから、正当な権利を主張するため私が東京へ来たのです。閣下は病気です」
「何が悪い?何も悪くないだろう?」と政府高官。
ファ「閣下は隠しているが”ろうそう”なんです」
「香港三和に隠し財産があるなんて私に言わせるなよ、私も命は惜しい、しかもここは日本だぞ、右翼が現れたら私は浴槽で自殺してることになる」とファジャルド補佐官。「だから警戒させているじゃないか、君たちはここを一歩も外へ出てはならん」と警察官僚上がりの政府高官。

三和銀行(大阪)は、マッカーサーが指揮してSCAP経済科学局から財閥解体の「手を入れられない」民間銀行として残すことが明らかであったが、他にもそういう民間銀行は二つあった。東海銀行(名古屋、一九四一年)と日本勧業銀行(東京、一八九六年)である。これらの銀行も三和と同じようなことがあったかもしれない。東海は三和と合併した二〇〇二年、互いにショーワ・トラストの受託者であれば、合併話が両者の間でうまく進んだ原因だったかもしれない。今日の三和の広告宣伝の文句は「われわれは長い道のりを乗り越えてきた」というものだが、まったくその通りで長い道のりだったわけだ。

戦後、マッカーサーに支持されたマッカート経済科学局部長(ESS)が三和銀行を財閥解体のターゲットとせず、かえって軍需物資、ダイヤモンド、株式、社債の貯蔵場所として三和銀(関西地区)、日本勧銀(関東地区)、東海銀(名古屋地区)を使ったことは知られている。天皇の一部財産は東京では近すぎて危ないので三和銀行本店(大阪地区)で管理させていたものだ。戦後も遠くなった七〇年代後半から為替管理法の運用が厳しくなり、国内財産として発見される危険性が迫ったので大蔵省が三和の香港支店へ預け代えしたものだ。それも邦銀の海外支店には日本の国税局も調査に来ることがあるので、現地法人のSIIL(Sanwa International Investments lim.)経由でHSBCの元子会社の恒星銀行(中国本土の銀行・シンセン、BCCIが本当の親)に金融循環方式で預けている。それが近頃流行のチャイナ・ソブリンとして世界を荒らしまわっているファンドの一原資を構成している。

戦後すぐ、マッカーサーがHSBC香港に預けたフアンドもある。
HSBCは戦争省の参謀ロバート・アンダーソンをファンドの名義人にした。HSBCはファンドの中身が中国やアジアの国一七カ国から略奪されて集められた金塊の金代用証券(金塊そのものはスイスにある。)であることを知っていた。
それで一九八七年、香港が中国に返還されるとHSBCの財産中の金代用証券の変わりに金塊そのものを香港に残して中国を去れと言われる危険を英国は感じていた。中国共産党の手に金塊がわたることを恐れていたわけだ。それでHSBCは早い所、イギリスへ避難したいと思い、中国政府と交渉をした。HSBCが香港から去る条件を提示された。「金塊を置いていけ」が条件だった。
しかたなく、HSBCはその金塊をスイスから取り寄せると恒星銀行へあづけ入れた。恒星銀行はHSBCの子会社だったが、HSBCが香港から立ち去る際、BCCI(国際商業信用銀行・本店は不明)に譲渡された。BCCIシンセンはBCCⅠが一部“東洋の銀行”として中国本土に進出した。(もちろん賄賂を使ってだが、)BCCIは“無国籍の犯罪銀行”だったのだ。
戦後間もなく、台湾銀行の旧東京支店の跡地(丸の内)に野村證券との共同出資により三和銀行の系列、東洋信託銀行ビルが建設された。この土地の所有者が誰であったかは登記簿を調べればわかると思うが調べていないのでここではわからない。ところで、戦前、台湾銀行の大株主が天皇家であったことは有名な話だ。台湾銀行の天皇所有の株券の処理はどうなったか知れないが、土地の取得にはカネがいる。三和はまたまた、秘密のカネを使ったはずだ。
一九四六年、台湾銀行は閉鎖され、台湾の国内財産を「台湾貯蓄銀行」に引き渡した。台湾貯蓄銀行は戦前から台湾にあった三和銀行台湾分行と合併して作られた銀行である。現在は持ち株会社「臺灣金控 」(台湾フィナンシャル・ホールディングス)の傘下に入っており国営の銀行だ。どうやら日本軍が台湾に持ち込んだ金目のものは蒋介石一派にに引き継がれていったものと考えられる。
一方、台湾銀行は日本でも商売しており、日本国内財産もあった。土地や建物、一部の証券類、ダイヤモンドなどを引き継いだのが日本貿易信用株式会社(現在の日貿信)。日貿信とは投資ファンドの会社で、ホームページや社史(『二〇年のあゆみ』)には台湾銀行とのつながりを強調されている。多分、箔をつけるためだ。当時、閉鎖された政府系銀行や殖産会社の財産は海外のものであっても勝手に処分するなんてことはできなかった。日本軍が現地で強奪した財産について、いち一、経済科学局(ESS、マッカート准将)の許可をとって内地に運ばれる余地があったが、その形跡はない。その後もマッカーサー元帥は台湾については何も云ってない。台湾については蒋介石に対する遠慮からか、結構いいかげんな調査をしてごまかしてしまった。このような道筋をたどれば多少疑問がわいてくるだろう。
「もし台湾の金融機関に財宝がたまっていたとするすれば行先はどこか?」
「一番近い外国だ。そこには、HSBC(香港上海銀行)もあれば、BIS(国際決済銀行・本社スイス・バーゼル) もあり、横浜正金(天皇直系)があり、スイス、スペイン、アルゼンチンなどの中立国と戦時下でも金銀の運搬が行われていたんだからね」
*
八〇年代中盤、小平の「先富論」のおかげで先に富んだ中国共産党幹部たちは、儲けをさらに増やす手段として香港市場を選択した。香港に中国から投資するためには、それにふさわしい銀行の協力がいる。BCCIはまったくそれに適任の銀行で、幹部たちは「中国・フィリピン・CIA・日本」の策謀家グループのカネ(それをショーワ・トラストと呼ぶかは別として、)を「チャイナ・ソブリン・ファンド」に滑り込ました。その方法はケイマンのタックスヘイブンを使うもので、香港市場へなだれ込む外資は外資ではなく、目の黒い中国人要人のカネで「黒目の外資」ないしは「赤いダイヤ」と呼ばれていた。こういう過程を経ているので外資として香港に存在するといわれるショーワ・トラストは本当に存在するのか、その真実の所有者は誰なのかとても曖昧だ。ともかく日本軍がアジアから略奪したといわれる金塊の一部が中国(香港)に戻ったの確かだが、その真実の所有者が誰であるかはわからないままなのである。
□最初のマネーロンダリング
ある著作家(実名を出すと非常に困る)によると、
『日本軍のゴールデン・リリィ部隊で仕分けされた金、プラチナ、宝石、絵画は最初に木枠箱に入れマニラに向け船積みされた。没収された株券、債券、金証書などは横浜正金銀行や台湾銀行へ送られその後中立国で洗浄され日本の口座へ移された。横浜正金銀行の最大個人株主は天皇裕仁であり、彼は全体の二十二%を保有していた。結果、株主総会の主導権は宮内省にあったのだ。
戦争終了時、裕仁は金と海外通貨で一億ドル(現在なら一兆ドル)を越える財産をスイス、南米、ポルトガル、スペイン、バチカンなどに隠していた。戦争終了直前、横浜正金銀行は台帳の収支が正確には一致していない事と、占領地域の銀行に莫大な負債を負っていることに気づいた。貸越高は、無価値な軍票で支払えば消すことができた。(天皇は戦後も筆頭株主を続けていたので、銀行の経営者が変わったから良いという論理はまったく滑稽である。)
ナチスドイツは例によって、略奪した金や金塊を溶かし、鋳直し、ドイツ帝国の規格を守った封印であるカギ十字を付けたバーにすることで、合法的なものに洗浄していた。この金塊はスイス、スウェーデン、ポルトガル、アルゼンチンへ運ばれた。日本もそれを見習い、東京のスイス銀行、マカオのポルトガル銀行、チリやアルゼンチンの銀行を通じて金を移した。物理的にいうと、それらの国々へは大きな貨物用の潜水艦を使って運んだのだ。
世界の金取引の中心としてマカオはとても繁盛していた。一九四四年、ナチスと日本の略奪した金が、中立国を通してロンダリングされるのを止めるため、ブレトン・ウッド会議に連合国が集まった時、なぜかポルトガルは、その一覧表にマカオを載せることを忘れてしまった。しかも誰も、その見落としに気づかなかった。
歴史家であるベルティル・リントナー(Bertil Lintner)は記している。
「マカオ商人は海外の銀行で一オンス三五ドルで金を買って、すぐに領地(マカオ)へ持ち帰り、誰であろうが買いたがる人間に売ったのさ。華僑のホーイン(HoYin、何口)に率いられた組織は、戦争を逃れるため広東からとんずらしたんだ。」
マカオは金持ちの華僑にとっては戦時中の避難所であり、貴金属交易のおかげで随分潤ったようだ。当時、日本の略奪品だけが一部の金の源だったのだ。シナ海では日本の銀行だけが業務の取り扱いをしていた。マカオの質屋、仲介人、個人は、日本人のために貨幣を金と替えてやることで一財産を築いた。戦争が終わり植民地当局が戻ってくるとマカオの億万長者達は植民地通貨を使用することができるのでほとんどの国土や工場を破格の価格で購入することになった。
裕仁の個人資産のいくらかはマカオでロンダリングされ、残りは東京のスイス銀行を通した。戦後アメリカ占領当局が監督しているころに裕仁個人の資産記録を閲覧する機会があったジャーナリスト、ポール・マ二ングは裕仁の財産が、敗戦が避けられないことを覚悟した一九四三年末に中立国の避難地(中立的なタックスヘイブン:スイス、スペイン、ポルトガル、アルゼンチン、トルコ、バチカン、モナコ、リィヒテンシュタイン、スウエーデン)へ移し始められたことを知った。内大臣キドは天皇の財務顧問でもある日本の指導的な銀行家との打ち合わせをした。彼らのすすめにより、所持金は東京からスイスへ送金され事実上東京における裕仁の現金残高は空っぽになった。日本が購入代金を支払ったナチスの金塊は、横浜銀行のスイス支店口座に移されていたが、それもまたスイスにある裕仁の個人口座へ振り替えた。同時にキドは皇室に備蓄してあった金で現地通貨を買うために、潜水艦でアルゼンチンやマカオに運び、銀行振替でスイスへ送られた。
「日本の潜水艦でアルゼンチンまで行けるのかね」
「無理ですね」と足立。
「スイスへはどうやって送る?」
「私の調べたところでは、金塊を物理的にスイスへ送るということは無理だと思います」
「じゃ~どうやって?」
「金を香港(ジャーデン商会)かマカオ(ホー家、華僑)のどこかに隠し、金証券(金の預かり証)の形にしてバチカン(ローマ)に送り、スイスの銀行(UBS等)のバチカン口座に預金すれば可能なんですね」
「マカオはポルトガルの植民地で、カトリックつながりで、マカオ=バチカンルートがありましたからね」
歴史家のジェームズ・マッケイ(James Mackay、ただし彼の著書では詳細は書かれていない。その記述があるのは“The Nazi Hydro In America”:Glen Yeadon & John Hawkins )は、裕仁の財産を個別に言うと、スイス口座に二千万ドル、南米銀行に三千五百万ドル、ポルトガル、スペイン、バチカンに合計で四千五百万ドル所有していたと結論をくだした。(合計すると一億ドル、当時金価格、一オンス三五米ドルが現在では六〇〇ドルとすると、現在価値で十七億ドル、すなわち、二兆円ぐらいか・・・)
日本に到着していた盗品の宝物は、ほとんどが個人の地下金庫や、皇族の金庫に入っていったため、東南アジアの経済復興と独立をしようとする日本戦略はうまくゆかなかった。又、アジア地域の原材料、産業、農業、密輸、強請りなどを支配していた華僑達もその計画を妨害した。彼等は南京虐殺を行った日本を嫌っていたが、それよりも中国沿キシの出身地であるアモイ、スワトウ(履門)や、近辺の港を日本が爆撃したことを特に恨んでいた。過去にヨーロッパの企業は、東南アジアで華僑と協調して働いた時にしか成功していない。日本軍がやってきて、石油、砂糖、塩、その他の日用品に専売制を導入したため、地域経済は崩壊してしまった。価格は高騰し、物資の供給は止まり、膨大な失業者であふれ、インフレと買占めが横行した。日本軍はその報復として華僑に的をしぼることにした。彼らを標的とする暗殺部隊がおくりこまれた。』とシーグレーブが書いているというのだが、本当だろうか?
足立は物申すにはそれだけの検証が必要なことはフィリピン・トレジャーで体験済みであり、あれ(『微風のマ二ラから』)はあれで小説なのでいい加減なこともいえるが、この小説はノンフェクション的フィクション(つまり、事実がわからない場合は推論して話を進める。)なのでそうはいかない。それは百も承知していたが、資料調べが膨大でなにしろ時間がないのだ。
足立が天皇の財産について知っていることといえば、一九四六年(昭和二一年)十一月十二日、GHQ・GS、ケーディスが内閣府に出した指示(「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」 )によりヨシダ内閣は「財産税法」を公布して天皇家からも財産を供出していただいたということくらいだ。
税法の内容は、一九四六年の時点で(国内に)所有していた 動産・不動産の合計が一〇万円以上の個人の財産に課税され、同一家族で該当者が複数ある場合は合算されて課税された。天皇家も個人に含まれるので課税財産を三七億円とし、その九〇%、三三億三千万円が国庫へ納付された。だが、スイスや南米にあるとシーグレーブや外野の歴史家がいう国外財産は対象とされておらず、把握できないので、勿論対象とならなかったのではないかと思われる。
もし外国に日本の財産があったとしても、戦争の結果、勝った側が負けた側の国家財産を差し押さえ、押収するのは当然の法理である。また、没収等に権威づけするため法的手続きがいるだろうという理屈っぽい人たちに対しては、戦勝国との講和条約(サンフランシスコ条約)で、日本は海外財産の放棄を明言している。中国、満州財産は中華民国と中華人民共和国が没収し、朝鮮半島もそれぞれの政権が没収した。
足立の調査の結果であるが、GHQが天皇家の海外財産を知っていないはずはないのだが、どこにも調査したという記録がない。もし、スイスや南米にあるとすれば、CICやOSSを使って調査し、お宝を没収しているのではないかと思うのだが、どうもその辺が空白となっている。謎なのだ。にもかかわらず、アメリカやニュージーランド(ジェイムス・マッケイ)の新聞記者や歴史家たちは「これくらいはある」と情報発信する。しかし、それを述べた文献は見当たらない。あるのはシーグレーブ夫妻が彼らにインタビューしているときの当り障りのないやりとりだけだ。しからば、調べてみようじゃないか、今はインターネットという強力なツールがある。
□オニガワラ解釈
足立は直ぐ、オニガワラ(Y新聞編集長)にワシの理屈を記事にしてあげた。オニガワラはこう解説した。「足立君、もう少し具体的に調べるべきだな、これじゃ記事にならんぞ、社主も反対する」と。
「この理屈の主はきっと戦後の暗黒史を独自の立場から小説にしたいエライ小説家かだれかだろう。彼は名前を出したがっておる。登場人物や組織の名をな。なぜなら”名をあえてふせる”と言っているからだ」
そこでオニガワラの解釈が入った。この場合「管理機関」とはGHQのGⅡ(参謀本部第二部)とESS(経済科学局)のことだろう。
「東京の情報機関」の設置場所は、岩崎邸のあった本郷だろう。本郷ハウスだ。「アメリカの中心都市」といったらワシントンに決まっとる。
その下部の「事務機関」とはキャノン機関じゃよ。
「日本の某大銀行?」日銀だろうな、だってわざわざ、“日本で云えば最大の”と接頭辞をつけるくらいだからな。
「別名義」は特定できんが、宮内省かもしれんな。
「有力市中銀行」はボクの知るところでは、三和(大阪)、東海(名古屋)、勧銀(東京)、T県(千葉)の地場銀行(千葉興銀?一九五二年芙蓉グループ)、埼玉の有力銀行(埼玉銀行、一九四三年渋沢系)、神奈川の地方銀行トップ(横浜銀行?一九四三年、神奈川県各地の銀行を合併)だと思うよ。
さらにオニガワラは続けた。「アメリカの石油会社」はエッソやモービルだろう。「アメリカの生命保険?」AIUだろうな。
「秘密工作機関」はCIC(OSS)だな。
「国際投資機関」とは戦後すぐできた開発復興銀行や日本輸入銀行(後日本輸出入銀行)、興銀、信用銀行(横浜正金=東京銀行、台湾銀行=日貿信、朝鮮銀行=ホシノキヨジ=日本不動産銀行=日債銀=あおぞら銀行、日本長期信用銀行=新生銀行)だ。それにその人が言うBISも入るかもしれん。
「東南アジア工作費」はインドネシアに集中しておった。ササガワさん・コダマさんがおったからな。
「コンゴ」については当時、ソ連が接近しておったから対ソ戦略として行われたのかな、ボクもそこはよくわからん。ルムンバ大統領を記念してルムンバ大学というのがモスクワにあった。ボクは一時、そこの奨励金でモスクワに行ったことがある。日系ロシア人議員(イリーナ・ハカマダ、袴田里見は伯父)やイリイチ・サンチェス(あの国際的革命家のジャッカル)もいたみたいだがボクは知らん」
「イシイ・コ―キさんはいましたか?」
「イシイ?あ~あの石井五億円男か」
「イエ違います。あの右翼に殺された石井紘基議員ですよ(モスクワ大学留学六五年~七一年)」
「そんなの知らん」
「二〇〇二年伊藤白水(ユン・べクス)から刺殺されるじゃないですか」
「ボクは知らん!」
「デスク、相談に乗ってましたね?」
「イヤ、ボクは絶対知らんぞ」
―(故)石井紘基民主党議員は、ロシアでのオウムの実態に迫り、取材に対し、『オウムは、統一教会をラジカルにしたものである。オウムが行く前に統一教会がロシアに進出していたが、そういう連中がいつの間にかオウム信者とすり変ってしまった。』
『日本の政治家も深く関わっている』と語っており、在日右翼のユン・ベクス(日本名伊藤白水)に刺殺された 。
「心理工作機関」とはその吾人も力説している京都の新興宗教や本郷の聖公会や水交会のフリーメーソン工作なんだろうな。新興宗教の名は知っているがボクも怖いから名前は出せん」といいつつもオニガワラはしゃべりたい様子だ。
「そうするとデスク、あなたのお話をうかがっているとフィリピンから持ち帰られたダイヤ、貴金属は“カメマスの老人”が口を利いて、宗教団体のものだからという口実のもとに、無事に元へ戻ったということなんですか?」
「そうじゃよ、ダイヤ十一万カラットは、梅山(多分、桜田)元憲兵中佐がらT銀行(多分、千葉興銀)佐々頭取(多分、佐々木)に持ち込まれた。これが佐々資金で、佐々頭取が換金のため、京都の精華教(多分、聖化教)に移された。これがGHQの摘発に会い、危うく没収されそうになったがカメマスの老人がなんとかした」
「デスク、デスクはヨシダさんを知ってるんですか?」
「わからんよ、キミが誰と付きあっているのか、そこまでは、それは誰なのか、ボクも知らんが・・・・多分、有名な物書きだろうな、唇の分厚い・・。」どうもオニガワラはワシが九州出身の著名執筆家ではないかと思ってるみたいだ。
「じゃ~日銀ダイヤは全部、フィリピンから送られたものだってことですか?」
「その老人もそうとはいっとらんさ。軍部により関東軍や朝鮮軍や台湾軍の白金事件(それぞれ約一トン)あるいは大阪のコバルト事件、米子飛行場の白金事件(六五〇キロ)などもあったからな」
「ま、ダイヤモンドの大部分は中国からとみていいがな」ーコダマは大森実のインタビューには「私がシンガポールからもってきたやつ」と答えているがこれは出先をカモフラージュしているんだろう。
それは戦後のどさくさで、日銀倉庫からGHQの幹部がくすねたもののことではない。米国へ持ち出された金、ダイヤモンドなどは大したことがない。マッカーサーは米国大統領選に出る野心があったが、その金塊をルースベルトに代わったシカゴの仕立て屋トルーマンに献金したということもない。もしその金塊があったとしてもアメリカ議会の承認を受けているわけではなく、公会計上は存在していない。多分、対日共産分子、対組合、対ソ連軍拡競争、対中国(朝鮮戦争)、親台湾工作、対日米安保工作、対ベトナム工作、対インドネシア工作そして対フィリピン(マルコス)工作にあてられ、残高はほとんどなくなっているはずだ。そのことは歴代首相、ヨシダ、イケダ、キシ、サトウ、ラインまでは皆、大蔵官僚でもあり、引き継ぎがあったが、タナカ首相(一九七二年)になったときは、町の工学校出の越後の田舎者だと言って引継ぎがなかったかもしれない。タナカさんは、そんなよもやま話よりも、郵政資金を福祉対策とか高速道路、新幹線に活用して鞘をとることに専念したと思う。
タナカ首相は日本列島改造論をぶち上げ、日本中の山々を穴だらけにしたがトレジャーを探していたわけではない。ゼネコン業界の景気を良くするため一所懸命だったのだ。
□皇室財産
連合国の間には、天皇制を全廃すべしとの強い意見がある。従って、若し日本国民が天皇制を維持したいと言うことならば、政治的には天皇の一切の統治機能を廃し、経済的には皇室財産を国に帰せしめ、所謂「天皇財閥」を解体することによって、天皇制の存続が将来に禍根となる恐れの絶対にないことを、この憲法で明確にすることが必須の条件である。(中略)皇室財産の問題は、主権の所在の問題と相並んで、この改定憲法の二大眼目であり、今回のような紛更は許されない。『皇室制度』鈴木正幸

天皇については従軍ジャーナリストのポール・マン二ング(Paul Manning)によると、彼がアクセスした日本占領政策の初期のSCAP(連合軍最高司令部)のレポートでは、「天皇は戦前、海外に一〇億ドル以上の隠し預金があった」とする。米軍による日本占領の間も「その海外投資ファンドから年五千万ドルの利子を引き出していた」という。「SCAPの財務顧問はその財源のことをよく知っていた」というのだ。
今日の天皇は、もはやたいした財産家、お金持ちではなさそうである。大都市郊外の地主、ダム水没山林を売った山持ちなどにもありそうな程度のお金持ちにすぎないであろうか。しかし、みずから所有し、みずから処分できる財産はたいして持たないけれども、年々の所得に関する限り、決してすくなくなく、今日においても依然ととびはなれて日本一である。つまり、財産家としては、ざらにある程度だが、所得に関しては、第一位の地位を国から与えられている。
『天皇家の財産』 明治百年・栄光と解体の歴史 黒田久太

それでは、一九四五年一〇月三〇日にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。
「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石 は含まない)は三七億円 」
当時の財閥の住友吉左衛門は一億二千万円、三井高広は九六二八万円。皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約三〇倍。しかし、この数字は正確ではない。天皇家(宮内省)も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。さて、この皇室財産はその九〇パーセントが旧憲法のもとで無償没収され、残りの一〇パーセントは憲法八八条の規定により国に属することになった。日本の戦後史を書く学者のほとんどは、皇室財産には触れることがない。井上清がこの程度触れただけである。
□財産税
足立はオ二ガワラ(Y新聞の上司)から特命を受けていた。戦後すぐ行われた財産税(富裕税とも)に関連して、皇室財産をどうしたかという大きな問題があった。で、その当時、直接その職にあったT氏(能村證券投資信託委託)から話を聞くことにした。
T氏「私は、本来大蔵の人間なんですが、当時、名古屋財務局長をしておりました時に、本省から招電がありまして、出てきたところが、宮内省に行って、石渡荘太郎宮内大臣にお会いしてくれということで、石渡さんは前から存じ上げておりましたし、早速伺いました。そうしましたら唐突に内蔵頭(今でいうと宮内庁経理部長)という仕事を引き受けてくれ、これから皇室財産に非常に大きな変革が予想されるのでこの処理に当たってもらいたいということでございましたな」
「それはいつごろのことなんですか」と足立。
T氏「ちょうど、昭和二〇年の八月、終戦の玉音放送のあった直後ですね。その二~三日後ですから、おそらく八月の一七、八日ではなかったでしょうか。そして、正式に発令があったのが昭和二〇年九月五日、内蔵頭(昭和二〇年九月~昭和二三年四月)に任ずということでした」
「それから何年までなさったのですか」と足立。
「いろいろな変遷がありまして、宮内省が宮内府に変わり、さらに宮内庁になりましたが、内蔵頭という名前も、二三年でしたか、皇室経済主管ということになりまして、昭和二五年の二月に退官しました。それから足立さんがごしょもうしている皇室財産に対する財産税課税のいきさつということですが・・・・」
柔和で額が広くいかにも秀才肌のT氏だったが、齢九〇歳を越えていささか不鮮明な記憶に頼っているところもあるので、ここからは筆談によった。
米軍が昭和二〇年八月下旬に侵攻してきて先方の出方が大いに心配だった。だんだんわかってきたことは総司令部がわの考え方は、皇室は非常に大きな財産を持っている。それが天皇制のひとつの支柱になっている。天皇制の支柱は,神道と皇室財産である。神道はさておいて、皇室財産という膨大なものを持っていて、それが一般国民に対して恩恵を施している。それからいろいろな株式をもっていて、それで、日本の産業なり経済を支配している。ひとつの財閥であるというような感じをもっていたのだと思う。そこで、これはまずい、なんとかしなければということになった。昭和二〇年九月二二日付で米国の対日方針、第四部の経済という欄の第九項の末項に「皇室財産」という項目を作り、その中で皇室財産は占領の目的を実施するに必要な措置から免除されるものではないと書かれていた。
「向こうはいち早く皇室財産に目をつけていたんですね」と足立。
「石渡さんが、その点皇室財産に大変革があると考えられたご見識に、私は深い敬意を表する次第です」
二〇年一〇月一一日には総司令部から宮内省一般、または皇室財産について説明せよと言ってきた。その質問は非常に多岐に渡っている。むこうは皇室財産というものについて非常に研究していた。
「相手のセクションは何処ですか?」
「経済科学局です」とT氏は短く答えた。
質問事項には、皇室財産について、どの程度公表されているのか、あるいは政府または議会は、皇室財産について報告を求められるのか、税金の関系では強制貯金とか税金は政府によって宮内省に課せられているのか、また、皇室の個人はどうか、宮内省が株式を有している場合はだれか代表者を送っているのか、株主として経営に参加していないと云うが、株式議決権は有するのかなどなど。皇室財産の詳細を提出しろということになり、ほかのいろいろな資料と共に皇室所有物件報告書及びその見積もり価額を要求された。ところが、それまで皇室財産は報告の用がなかったので、評価というものは全然されたことがない。財産目録も部分的だった。総司令部としては、ともかく拙速でいい、数量とかは間違わないように、とにかく早く出してくれということだった。
「一応、あちら側は網を張ったんでしょうな」とT氏。
その後、昭和二〇年十一月一八日に、いわゆる皇室財産の凍結指令が出される。財産税が問題となった。皇室の収支あるいは財産の譲渡に対しては、一切司令部の承認を必要とするようになった。この凍結指令は大財閥持株会社の全ての財産を凍結した直後に行われた。当時の総司令部経済科学局長のクレーマー大佐は、皇室財産について、「皇室は財閥・持株会社の持つ多くの特質を持っており、この指令は皇室とこれら財閥との間に何らの区別もしない事実を強調する」と堅い言葉で云った。
「つまり、天皇財閥も民間財閥も根は一緒だ」と・・。
しかし、クレーマー大佐は、天皇家の財産は性質上、「準公的」(quasi- public)だとも言っている。・・・・・宮内省は御料(皇室財産のこと)に関し必要な皇室令を制定すべき旨を回答したわけです。この回答をするまで、大蔵省なり司令部との間にいろいろ折衝があった。外部財産はどうするのかとか、かねてから皇室財産を民生のため活用したいとする陛下の思し召しを宮内省を通じて内閣総理大臣の方にも伝えた。
皇室財産に財産税を課すということよりも、その前に、各地の土地や美術品などを国民に広く活用してもらうのが得策なわけですが、司令部はそうではなかった。あくまでも私有財産を財産税として課税する。一方、各地の土地などは新しい憲法の八八条に「全ての皇室財産は国に属する」という条項を入れるつもりで司令部は考えていたようで、ヨシダ総理大臣が相当頑張ってくれたんですが、結局、そうなりました。
「財産税相当額を処理して、残った分を国有にするという二段構えではなかったんですか?」
「そうです。二段構えでした」
民生の安定と産業の復興に皇室財産を開放したいという思し召しを体して宮内省は二〇年十一月箱根離宮とか各地の離宮、那須金丸ケ原など土地や建物を、所在の地方団体、農林省に一括下賜する。
・・・「これはいまですから言ってもいいと思うんですが、皇室財産の大部分を民生安定のために政府に下付するという件は、総司令部側に異議がない、総理大臣が総司令部側に話されれば、承認されるということだったんですよ。財団法人を作る話しまであったんです。それが、なにゆえか、総司令部のこの問題に対する措置は進展せず、政府によって一括管理されるというようなことではなくて、一般富裕層の財産税課税とまったく同じに、財産を評価して申告しなくてはならなくなった」
「それで、財産税の納付の時期に一括して手続きをとったわけですか」と足立。
T氏「そうです。財産税法に非常に忠実にいたしました」
「税率が九〇%ですから大部分は物納でしょう?」
「そうです」
「評価は主税局と相談、前尾さん(主税局第一課長の前尾繁三郎)もおおいに努力してもらって仮定の賃貸価格を作り上げていった。納付税額は三十三億四千二百万円、最終的な財産の評価額は三十七億一千五百万円、債務が三千百二十万円でした」
「これは断然トップですよね」
「それはもちろん、だんぜんトップです」
「なるほど。要するに皇室の”いわゆる民主化”も徹底して行われものだということになりそうですね。今日はどうもありがとうございました」と話をしめくくった。
『昭和税制の回顧と展望』上卷 大蔵財務協会から抜粋。
□財産税の黒幕、クレーマー大佐
皇室財産は基本的に課税なのでその評価・調査作業を宮内省へ出向している大蔵省のK氏にさせた経済科学局(ESS)の金融課長はクレーマー(Raymond C.Kramer)という。
「そうだ、あのクレーマーだ。日銀ダイヤをくするねるの件のクレーマー大佐だ」とワシ。
「エ!あの人」
「そうだ、クレーマー大佐は民間財閥と皇室の財産に区別をしないという財産処分の凍結指令勧告を政府に出した人物だ。多分、キド内務大臣が処分を検討したんだろうね。皇居に米軍兵士が踏み込むことは恐れ多いことなので、それを避けるため自分のほうから在庫を報告したんだろうね」
「経済科学局は比較的早い段階から莫大な皇室財産に税を課すことによって戦時補償に充てるつもりでいた」
一九四五年十一月二四日、「皇室も右計画(戦時利得税、財産税の創設)より除外されざるべし」というSCAPIN三三七号文書が発せられた。《GHQ憲法草案第八二条の皇室財政規定と世襲財産」山田亮介 》
□クレーマー大佐ダイヤくすねるの件
一九四五年九月三〇日、戦後のどさくさではいろんな事が起こった。残暑の厳しいその日の午後三時ごろ、GHQ経済科学局(ESS)のキャップ、クレーマー大佐から大蔵次官ヤマギワ・セイドー(後日銀総裁)へ電話がかかってきた。
「今夜八時ごろ、日本銀行へ監察に行く」
「何でそんな夜遅く」と次官はなじった。
「いつ監察をやるのかはGHQの権限だよ」ただの銀行監察というようなものではない。クレーマーは物々しく装甲車で乗り付け、兵隊三〇人が日銀を取り巻いた。実際は三井銀行本店(国民の供出ダイヤは三井銀行本館に集められていた。)、日本橋室町の地下大金庫から運び出された諸財産を直ぐ隣にある日本銀行のGHQ管理金庫に運び入れたのだが、その時どれくらいくすねたかは誰にもわからない。当然MPも大蔵省も日銀のシブサワ・ケイゾウー総裁も立ち会っていたとおもわれるのだが・・・。
当時のGHQ各部局は自分の仕事が一種の利権であり、除隊後、日本で確固たる基盤を作るための資金作りに奔走していた(むろん、全員ではない)。日本政府側もかえってそのような動きに呼応したフシがある。というのは、旧指導層や旧財閥家は、軍需物資や日銀所蔵の金塊、ダイヤモンド、希少金属、麻薬、特殊物資などの隠匿にGHQの眼が向けられるように仕向け、さらに捜査に協力したからだ。自分たちの財産や会社には手をつけられたくなかったからだ。連合国は戦勝国及びアジア一七カ国に対し、賠償金を払うことにした。資金を探し出すために行った全国の金融機関、富裕者、山奥の防空壕などあらゆる隠し場所を探したが、その内容は国民の目からすっかり隠されていた。その陣頭指揮をしたのがESSのチーム・リーダー、レイモンドCクレーマー大佐だった。第八軍アイケルバーガー中将直轄の第一期師団から常時一個小隊が日銀の保存貴金属の警備に派遣されていた。管理のキャップがクレーマー大佐であり、ヤング大佐であり、マレー大佐で、彼らはダイアモンドをアメリカに密輸し、軍事裁判で裁かれている。詳細は不明のままである。
ならば探してみようではないか。足立の記者魂がうずいた。


キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(5)アメリカの在庫はみんな金メッキ

2015-10-08 17:15:09 | 税務小説
□アメリカの在庫はみんな金メッキ
ある新聞記事で、
「フォートノックスから金塊が盗まれた!」
「本当かい?」
「一九八一年のことだ。七〇〇〇トン、トラック千台分。価格?いくらかわからない、日本が公式七〇〇トンとかって言ってるからその一〇倍。多分中国に売った。それはニセモノの可能性がある。中国はニセモノが好きだからだ」。なお、この新聞記事を細かく読んでも真相は書いてないから念のため。
ニクソンが弾劾を受ける前に辞め、フォードが大統領になるとCIAの悪事を暴きだそうとしたが、抵抗された。その理由は「トルーマン以来の悪事をあからさまにすれば、アメリカの歴代大統領の顔に泥を塗ることになる」というものだ。
□まだあるM資金詐欺
二〇一二年のことである。ワシのところにクライアントから相談があった。税金の脱税のことではない。
「先生、あなた税務小説どうなりました?」
「あ~、いろいろあって全然進んでないよ」
「あ、そうですか、小説は専門書と違って大変ですからね。実は私も小説書いた事あるんですよ。ササツ時代にね」
「エ!社長も内部におられたんで?」
「昔ですけどね、一時期、東京の査察官をしていました」
「内部にいちゃ小説書いちゃならんでしょう?」
「・・ところが、一年で転勤になっちゃったのでおしまいになっちゃったけどね」(普通、ササツは三年単位で六年はやる。この吾人は腕が悪かったのかな)。
「ちょっと話題が変わりますが、先生のテーマ「M資金」ですね。あれって、今でもM資金サギがあるんですよ。先日ですね・・・」(ワシのホームページ見てるのかな?)。
「このあいだある男から電話を受けました。で、四〇〇億円タダで貸すから・・・って」
「それで発行費用を貸せって?」
「イエ、わたしの口座を教えろって」とクライアント。
「あ、振り込め詐欺ね」
「ちょっと違うんですよ。大蔵省の偉い人、OBですがね・・の名刺を沢山持ってるんですよ。びっくりしましたがその中に私の名刺もあるんですよ。・・・私は現役時代、絶対、名刺を刷った覚えはないんですがね」
「それで、あなたのような貧乏会社さんは運転資金が絶対必要だ。預金に振り込むから口座をおしえろって」
「教えたんですか?」
「教えませんヨ。四百億円振り込んでも、会社へどうやって入れるんですか?社長から貸付け?公開会社なのに?ですよ」
「ウ~ン、どうするかな?」(もし自分の口座に四百億円入ったらどうしよう。)
「“ソニーのタモリさんも借りてる”って、“あそこは本当はかしいでる”って」
「彼は友人なんですよ、“聴いてみようか”っていったら、姑息にも“きいても絶対言わないと思います。秘密にされてるから”って」
「”いったい、金主元は誰なんですか?”と愚問を発したら、“ガリオワ・エロワ の余り金で霞が関に一兆円ある”って・・・」
「私が若い時はその方の事務をやってたことがあったんですがね。゛いったいそんな埋蔵金、誰が管理してたんですか?”、“日銀の地下倉庫じゃないでしょう?あそこは株式会社ですよ、一兆円も仮受金で処理できるわけないじゃん”って矢継ぎ早に反論したんですが相手も大したもんですよ。ひるみません」
「大蔵の便せん使っていたりして」
「そう~、あるんですよね、このてあい」
「それで四百億円は?」
「振り込んじゃこないですよ。゛日銀の手続きが遅れている”とか、゛さる方がマニラに行ってるんで、そちらに行かなくちゃならない。ついては旅費を少し貸してくれ”って」
「来ましたね。貸しましたか?」
「貨しヤしませんよ」
「パル で往復七万円ですよ」
「??・・先生、よくご存じですね」(安心した。知らないらしい。)

「ところで先生、終戦後しばらくの間、大蔵省にCIA本部が置かれていたって話、ご存知ですか?」(どうしてワシのテーマを知ってる?)
「地下の理髪と喫茶の間にあったそうで、ミヤザワさんやタナカさんやフクダさん、ナカソネさんたち青年将校グループが煙草を吸いにあつまっていたそうです」
「社長も行かれた?」
「何を言ってるんですか、私は昭和一九年生まれですよ。そのときは小学校ですよ」〈ヒドイ経理士だな。〉
「じゃガリオワ・エロア特別会計もやっていなかった?」
「ま~そういうことになるが、大蔵の口頭試問で勉強はしていたんですよ。あれは、日本では、当初は貿易資金特別会計に入っていましたな。貿易の補助金として日本政府の裁量で運用されてたんですよ。ですが一九四九年からはドッジ・ラインの枠組みの中で見返り資金としての計上を義務付けられたと思いますよ」
「見返り資金って?」
「米軍の裁量で資金を動かすことですよ」
「それが不透明なカネになっていくんですね?」
「ま~対ソ連とか対中共とかですね。朝鮮戦争の影響が大きいですね」
「じゃ~政治家の大物が動いているというのもうなずけますね」
「でもこれは違いますよ。いかにも詐欺だ。私の名刺を持ってるんですから」
□天国に一番近い島
タックスヘイブンは租税回避地あるいは租税避難港と訳されるので大抵、カリブの島や南の海の楽園を連想する。たしかに、ニューヨークで正当で多額な納税を強いられている庶民にしてみれば、そこは「地獄」なので、課税逃れのために天国に一番近い「楽園」と言う意味でヘイブンが訳されたからといってあながち、誤りではないが、しかし、「タックスヘイブン」=「ヤシの木が茂った南の島」という観念はリーマンショックを経た現在の表現として正しくない。なぜなら今では租税回避を狙う最大の島は、カリブや南太平洋の島などではなく、NY自身、つまり「マンハッタン島」なのだ・・・ということを可哀そうなNY庶民はご存じない。例を示そう。マンハッタン島の南端にある二〇〇一年に崩壊したワールドトレードセンター、サウスタワーの三二階フロアーは全部モルガン・スタンレー証券(証券と呼ぶべきか投資銀行と呼ぶべきか怪しい組織ではあるが)が利用している。その不動産部門の腕利きのファンドマネージャー(仮にボブと呼ぶ)が日本の不良債権を餌とする「ハゲタカファンド」すなわちMSREF という投資ファンドを立ち上げた。「投資ファンド」とはカネの塊のことだが、その姿、形はウオール街の金融グリ~ドたちが自分のパソコンで立ち上げたエクセルのプログラムのことをいうのである。その「投資ファンド」が、自分はデラウエア州法により設立されたLLCで、シティバンクNA・ナッソー支店の自分の口座(勿論オフショア銀行口座だ)からカネを引き出して、ウオール街で株の大勝負をしているのでアメリカの連邦税も州税もNY市民税も払いたくないというのである。そういう意味ではデラウエア州は立派なタックスヘイブンだ。というよりもMSREFそのものがアメリカの法域の外で商売をしていると言っていい。このように国際金融商品市場の場合は、外国から外国法人が直接、その市場に注文してきたり、米国の公益法人(免税企業)がその市場から利益を得ている場合、その国の課税を遠慮している。非居住者(外国法人・外国ファンド・米国市民以外の外国居住者)に対するオフショア市場取引の非課税というものだ。
なお、米国企業であってもデラウエア州立企業が「NYのオフショア市場」で株取引をしても、アメリカの連邦税・NY州税は免除される。これは合法な節税策であって「こんないいことはない」のでアメリカ市民は皆そうする。
「じゃ~『NYのオフショア市場』とは一体なんなんですか?」生意気な青年会計士が生意気な発言をした。
「なんだろうか?」
「それは取引所がNYにある無法地帯のことさ」そこでは自国の政府の監督を嫌う世界の多国籍企業や非居住者の依頼を受けた投資銀行、あるいはアメリカの企業でさえも免税の特権を受けているので、パソコンを通じNY取引所にアクセスして利益を得ても一セントの税金もかからない金融商品市場のことだ。いわば、世界一の安全保障で守られているマンハッタン島という法域にぽっかり空白地帯があるようなものだ。そこでアルカイダが儲けているかもしれないのに。
「法域の空白?難しいな」と会計士。
たとえば、アメリカ企業は全世界の取引利益に連邦税が課されるので、連邦税法の法域は全世界ということになる。したがって、ウオール街で儲かった(国内)所得も香港市場で儲かった(国外)所得もアメリカでは当然、課税される。一方、外国企業やデラウエア州立ファンド(MSREF)が、「外国の資金」でウオール街で儲かった所得は課税されない。
外国企業が直接外国から市場にアクセスして(つまり非居住者預金の口座から)売買する場合は、取引の利益というものは計算できないので(ファンドマネージャーはよくわかっている)、免税にしてしまうのだ。これらの取引利益を免税とする法律があるからだが、これを自国の課税権を放棄するという意味で「法域の空白」と言われる。それがオフショア市場のことなのである。
したがって~、気のきいたNY市民は皆、ボブのところに来て、MSREF経由株券を売り買いしてくれとカネを預けるか、もともと外国にある預金口座から引き出して使ってくれと頼む。ボブはそのカネをすぐ隣のシティ・バンクのオフショア預金口座に入金する。 このような仕組みで行われるオフショア市場は証券市場に限ったことではない。外国為替や金融先物やローン、商品先物などあらゆる金融商品に及ぶ。また、NY市場だけではなく、ロンドン、東京、シンガポール、香港いたるところに「法域の空白」すなわちオフショア市場がある。そのオフショア市場にアクセスする銀行にちっぽけだがしたたかな「三和銀行香港支店」も含まれる。
「カネの在り処はどこかって?実際、始末におえない質問だな。それは財産法的発想だよ。わかるかバランスシートさ」
ニューヨークや香港やシンガポールや日本のオフショア市場を使って無税で持ち出したカネの在り処はどこかの銀行の預金残高に残っていると思うが、その銀行の営業所がある国は厚い守秘義務の壁に取り囲まれていて、その金庫になにがあるかわからない・・のではなく、カネはその銀行の営業所には実際に送られてきていない。金(ゴールド)や紙幣がその金庫に詰まっているということはありえない。“その場所にカネがある”のではない。「場」という空間的領域がないのだ。実際に国際決済機関のSWIFTでさえ、カネの流れ(情報)はコンピュータまかせで、本当のカネの在り処(バランス)は知らない。
「じゃ金(ゴールド)はどこにあるんだ?って。実にミステリアスな質問だ」とワシは言った。
「ところでその金(ゴールド)を香港上海銀行の中環本店に保管しておくトンマはいるだろうか?銀行自体のボンミスで中国当局に顧客預金の四〇%が罰金として持っていかれるおそれがある。だからHSBC は小平が『安心して五〇年間は大丈夫だよ』と言ってもイギリスへ脱出し、ケイマンに架空の本店を登録した」
 庶民クラスならいざ知らず、欧米や日本や中国の超資産家はタックスヘイブン課税や財産税課税あるいは銀行に対するしつこい金融検査などがあるような、けちな自国に金(ゴールド)を置いておくようなヘマはしない。日本のある超資産家の場合は彼らの財産を積極的に闇の中にもちこむためにLGT(リヒテンシュタイン・ガバメント・トラスト・バンク)の香港事務所を通じて、スイスUBSのプライベートバンク部へカネ及び金(ゴールド)を運び込んだ。そのカネの一部はジャージー島(英領チャネル)のファンドを通じてNYのオフショア口座で米国永久債として運用されている。つまり無税だ。
□DNA銀行
なお金(ゴールド)自体は一歩もあるところから動いていない。ロンドン にあるロスチャイルド家の執事が金帳簿の名義を「林老人」(太平洋戦争初期、フィリピンのコレヒドールを攻めたことがある。その時は金塊を発見して上官に報告している。現在は芦屋に住んでいて、超大金持ちだ。香港のある邦銀に200億円は保有している。ロンドンにも金塊口座(ポンド建て)を有しているみたいだ。)から「王さん」(ワシの事務所に相談にきたやくざのフロントの親分、どうやらバブルの時代、不動産売買とパチンコ業でもうかったようだ。現在スイスに預金を保有していたが米国司法省の追及でUBSの牙城がくずれ、日本在住の外国人であっても例の租税条約で日本へ情報が寄せられる危険が生じた。そのため、パナマや台湾、セーシェルなどに預金を移そうとしているが、どうも米ドルの銀行間振替では米国に発見されそうなので困っている。じゃ~ロンドンの金塊(ポンド建て)の名義変更ならアメリカにはわからないだろうということになっている。)に替えるだけである。だからロンドン倉庫の保税上屋の在庫を確認したとしてもいったいぜんたい、誰がいくら金(ゴールド)を所有していることになるのかはわからない。たとえ、NY連銀の頑丈な錠前のある地下倉庫に金塊が七千トンあったとしてもそれが全部アメリカのものだということにはならないと同じだ。ロンドン倉庫の在庫が誰に属するものなのか知っているのはロスチャイルド家の執事だけなのだ。
「もっともロスチャイルドも二〇〇四年には金市場から手を引いたがね」
「何でですか?」
「後で説明するよ」
執事に本当のことが訊けない各国の法域を守る担当者たち(司法当局・税当局)は最近、反マネーロンダリング法(資金洗浄行為禁止法)を盾に犯罪収益の「ストック」を銀行員に白状させて大脱税者を捕まえる作戦はあきらめて、犯罪収益の「フロー」に関心を寄せるようになった。「フロー」とは要するに銀行間(コンピューター間)の売買代金の国際間送金のことである。だからターゲットはロンドンの執事ではなく銀行ということになる。銀行は本当の金(ゴールド)の所有者は知らないが大金を司法当局にばれないよう国際送金(カネの流れ)してくれと頼まれればそうするのである。そういった銀行は自慢の長い文字の看板に「犯罪銀行」もしくは「DNA銀行」という短いレッテルが斜めに貼られるであろう。
「先生かっこいいですな」ヤクザ風が囃し立てた。
□犯罪銀行について
ワシは調子にのった。実際のクライアントの話でなけりゃ大丈夫だ。こいつらに話しても。
ヌガンハンド銀行はBCCI系で知られる豪州の犯罪銀行である。あらゆるマネロン資金の調達・運用・違法送金を請け負っていた。死んだホワイトの・・・「ホワイト・・ですか?」
「ま~きいてくれ」
一九八三年、ハワイで行われたロナルド・リーウオルドの詐欺を巡る裁判では、リーウオルドの投資会社ビショップ・ボールドウイン・リーウォルド・ディリンガム・アンド・ウオン社がCIA資金運用のトンネル会社として設立された。CIAはヌガンハンド銀行を通じて香港・豪州へ送金した。
マルコスの金塊取引のパイプラインとなった金融機関もヌガンハンドである。これは実際に存在した。ヌガンハンド銀行は、共同経営者の一人、フランク・ヌガンが何ものかに射殺された後、倒産している。元CIA長官のポール・ヘリウエルがシドニーに本店を構え、「マニラ」・「香港」・「バンコック・チェンマイ」・「シンガポール」・「ホノルル」・「ワシントン」に支店を置いた。CIAの元長官ウイルアム・コルビーが法律顧問をしていた。
ホノルル支店長はやはりCIAの長官、アレン・ダレスの補佐役、ブラック将軍。ワシントン支店長アメリカ太平洋軍令部イエーツ海軍少将。マニラ支店長は統合参謀総長の対ゲリラ及び隠密作戦特別補佐官、ルロイ・マナー将軍。こういうわけだからヌガンハンドがCIAの金融機関だったことは明白で、ヌガンハンド銀行が「CIA=マルコス」ルートで良からぬことをしていたのも想像がつく。
反応はなかった。
「先生、ご進講たまわり、ありがとうございやした。そろそろ灯がともってきたようですからちょっといっぱいどうです?」
「もう少し我慢できると思ったんだがな」「どこへ行く?」
「先生ご執心のPHパブなんかどうです?」
「どうしてそれを知ってる?」
「へへ、私ら地獄耳ですよ」
□M資金詐欺から派生した手口の研究
ワシはフロントに説教をたれた。「お前さんたち、M資金と同種の詐欺ながら、最近は“いわゆるM資金とは別”などと前置きしてオレオレ詐欺をするやつらが多いというんだがまさかそれじゃないだろな」
「先生、何をおっしゃるんで俺たちはそんなんじゃありません。全うなフロント企業なんですよ」
「様々なバージョンの話で詐欺を働くやからが多いからな」
「"某国の独裁者とその夫人が、誰かもうわかるだろう?密かに日本に持ち込んでいた秘密資金がある。その運用を任せられる相手を探しているそうなので、○○夫人を紹介しよう(→そっくりさん登場)。○○夫人は君に運用を任せてもよいと言っているが、それなりの額の保証金を要求していて…君も金融マンの端くれなら”っていうやつ」
「“東郷平八郎の艦隊決戦で撃沈された帝政ロシアの軍艦から、もうわかるだろう?ナシモフ事件だよ、引き揚げられ、ソ連(今はロシアという)との紛糾や課税を逃れるために、錨用の鉛のインゴットだと虚偽報道された(本当は真実の報道かも知れないじゃないか、)大量のプラチナ塊がある。だが、引き揚げに成功したものの国税当局に目を付けられているため、思うように換金できない。このプラチナを換金するために協力してほしいのだが、それなりの保証金を積んでくれれば、プラチナの現物を預けるので…”こんなのにはいかに国税だってのらないよ」
「“第二次大戦中に米国が計画していた毛沢東向け秘密援助資金として準備された大量のドル紙幣が、国共内戦の勃発で利用されないままに終わり、米国に依頼された日本政府が運用を行っていた、なぜか。それが数十兆円の規模にまで膨らんでいる。霞ヶ関埋蔵金というやつ。これが本当のM資金で、銀行が融資できないような(なぜか、政府融資ではなく銀行融資になるところがどうもいただけないが、)ハイリスク事業への貸付資金となっているので、あなたが融資を受けるには保証金が必要で…”というもの」
「最近は産業廃棄物を使った手口が多い。フィリピンでも日本の原発の廃棄物を山の中の洞窟に捨ててしまえという研究が公共機関の手で堂々と行われている時代だしな。“産業廃棄物から燃焼性ガスが生成できる『新発明』の処分プラント設備がある。プラント設置と廃棄物の供給は無料で行えるのだが、燃焼性ガスをエネルギー源として利用したがっていてプラント設置区画を提供してくれる国や企業を紹介してほしいのだが、それには保証金が必要で…”っていうもの。これなんか、国や企業を誘致したいのだが保証金を要求するんだからな。めちゃくちゃだ」
あるいはこういうのも、「M資金と言う名称で呼ばれる資金は実在しません。しかし、同様の資金は実在し、実際に上場企業の代表者に交付され使用されています…。この資金を管理している、あるいは出してもらえると称している人間の九九.九%は偽者です。現在民間でこの資金を仲介できる人間は五人に限られています…崎川製鉄の会長さん、ジャパネット高田の高田さん、四葉銀行の常務さん、大和郵船の相談役、読経新聞の社主です」といった“いわゆる『M資金』とは別の○○”といったパターンも、典型的なM資金詐欺師の常套句だよ。だって、この五人は天皇の百合(ゴールデンリリー、M資金)に確実に関与していたんだからな」とワシは云った。
フロント「ジャパネットの高田さんもかい?」
「ま、それは冗談だが・・・また、規模や金額は小額ながら、近年流行しているエッチビデオの架空請求やフィリピンにいって美人局にあったというなさけない不詳の息子を装った振り込めさぎといったケースで、それを食い物にして『弁護士立会いの着手金』、『金融庁命令罰金還付』、『和解手続きの嘱託金』、『被害者共同義援金』、『税務署雑損控除の手付金』といった、多くの被害者にとって非日常的な用語を多用して、被害者の思考を麻痺させている点に留意」
フロント「先生、もう少しわかりやすくだましのテクニックを解説ねがえないですかね」
「あんたら、使うつもりだろう。それはならんぞ」
税理士法三六条にこう書いてあるからだ。「税理士は、不正に国税若しくは地方税の賦課若しくは徴収を免れ、又は不正に国税若しくは地方税の還付を受けることにつき、指示をし、相談に応じ、その他これらに類似する行為をしてはならない」と。
「もし相談に応じたら、たとえ無償であっても一年以内の業務停止か業務禁止になり、財務大臣からも叱責を受け、勲章がパ~になるんだヨ」とワシはきっぱりとその申し出を断ったものだ。
□歴史学者トインビィーの追憶
むかし、高校時代だったと思ったが、英国の歴史学者トインビィー(A.T.Toynbee)にいたく感激した事がある。彼は「歴史とは正史というものを含めて万人に存在する」といったような気がした。つまり、ベトナム戦争のさなか、西洋的自由を求めて戦ったアメリカの兵士たちにも、祖国解放を求めて戦ったベトコン側にも歴史は存在するが、それは勝ち残った側が綴る正史だけではなく、死んでいった兵士たちにも生存の歴史が存在したということなのだろうか?
そうは言っていなかった。トインビィーは、『神々は獅子鼻で黒い肌をしているとエチオピア人は言い、神々は青い目で赤い髪をしているとトラキア人は言う。牛や馬がもし手を持ち、自分の手で絵を描けたら、人間が美術品を創るように、牛や馬を創ろうとするであろう。そこで馬は自分の思う神々の姿を馬のように描くし、牛は牛のように神々の姿を描くであろう、つまり自分の姿から想像して神々を描くに違いない。』と言っていたのだ。(『歴史研究』歴史思想の相対性・トインビィー)


























六章 列島改造に出費し今じゃスッカラカンのカ


□列島改造に出費し今じゃスッカラカンのカ
タナカ首相は、列島改造路線に乗り、カネを湯水のように使った。日本経済もうなぎ上り、サトー未亡人の預金六千億円はそのままとし、残り三千億円を半分づつ、青年将校のN(タナカ首相時代の政調会長)と警察官僚上がりのゴトーダ官房副長官のサインが必要な架空名義口座(日本国籍、日本旅券を有するが架空の日本人で、住所登録地は東京都千代田区一丁目一番地(皇居前広場)である。)二人の名にしてあるというのはすでに話したよね。
タナカの子飼いだったのに結局、親分にはむかったタケシタ・ノボルの場合はもっと悲惨な運命にあっている。彼の秘書アオキ・イヘイが変な死に方をしたときだ。ウオールストリート紙によると、「彼の手首や首をカットして失敗すると今度は自分のネクタイをカーテンのつり金具に巻き付けて首吊り自殺していた」というものだ。西洋人にはなかなか理解できない自殺方法だ。あまり合理的な死に方とは思えないのだ。タケシタの金庫番だったアオキはタケシタがリクルート事件でたった五百万円の有利発行を受けた株式を市場に売却したことで首相退陣を表明した次の日に死んだ。タイミングとしては絶好だった。だが、こんなはしたカネで金庫番が自殺するだろうか?
アオキ「まさか、思わぬほころびからこんな話になるなんて夢にも思いませんでしたよ。株を買った時にはねえ……」 、「思わぬほころび」とはこの朝日新聞のスクープ記事だった。だが、本当は違っていた。アオキはタナカ発行のニセ金融債五七年債の現時点の償還責任者だった。 タナカの子飼いだったタケシタが官房長官時代に五七年債の償還問題を背負い込んだことは理解できる。そのタケシタの第一秘書アオキは問題を全部背負っていたのである。
ブッシュ(父)は、テキサスの石油企業からこの五七年債の償還を依頼されていた。ヘイグ元国務長官を使って、GM党と交渉に当たらせた。ウルガイラウンドで米の補助金を減らすよう求められていた日本政府は補助金を減らしたが、別の名目で三兆円も農林対策費を増額する。その大部分は実際に農家へ支払われたと考えられるが、その一割はアメリカ、ブッシュの懐へ行ったのである。詳しくは後で話す。
□ロッキード事件の真相
「世界を支配している石油メジャーの力は絶大である。いささか冒険主義的だったタナカ君の資源外交戦略が淵源となり、“ロッキード事件”が起こったのではないかと考えることがある」、
「タナカ君が逮捕されてから間もなく、日本を訪れたキッシンジャー氏と二人きりで話していた折のことである。氏は、“ロッキード事件は、間違いだった。あれはやりすぎだったと思う”と、密かに私に言ったことがある。キッシンジャー氏は事件の本質、真相をおそらく知っていたに違いないのです」とある老練な政治家が言った。  というのは、ホワイトハウス在住記者ジュリー・ムーン(文明子)がヘンリー・キッシンジャー国務長官に「ロッキード事件はあなたが起こしたんじゃないんですか?」と問いただしたところ、キッシンジャーは「オフ・コース(もちろんだ)」と答えているからだ。「もちろんだ」という冗談は冗談ではなかった。
□GⅡの先輩・・フクダ・タロウ
ロッキード事件(一九七二年)ではフクダ・タロウという日系二世がコダマの手下となって働いた事がわかっている。F一〇四ジェット戦闘機の防衛庁への売り込み(全日空のトライスターではない。)がおもわしくないことを危惧したロ社の代表ジョン・ケネス・ハルは、フクダに日本の黒幕の紹介をたのみ、フクダはコダマをロ社のエージェントにたのんだ。フクダはGⅡのウイロビー少将の通訳としてGHQに出入りしていたことがある。
ロ社は用途の確定できない多額のカネをコダマと丸紅に送る必要が生じた。一二六〇万ドルの巨額のカネをニューヨークを拠点とする国際通貨の取引会社・デユーク社経由でスイス及びロサンゼルスから送った。デユーク社はCIA御用達のマネロン企業としてすでに有名だった。
デユーク社は、CIAの前身OSS(海外戦略局)のメンバーでハンガリーからの亡命者ニコラス・デユークによって戦前に設立されている。戦後、彼らは世界に五九の支店を持つまで拡大した。もちろん香港にも支店があった。普通の銀行業務ではない。銀行規制や書類事務を避けたいと思う人たちのカネを慎重に扱う業務だ。六八年から七六年にかけてロ社の数千万ドルの巨額のカネの大半がスイスからデューク社香港支店経由、「現金」(米ドルではない。万札だ。)で日本へ運び入れられたのだ。したがってその段ボールは羽田や伊丹を通関していない。おそらくは啓徳空港から横田基地の線だろう。裏CIAの専用飛行機オピューム・エアー号が使われたに違いない。当時はベトナム戦争の最盛期でズックの袋に入った米軍兵士が横田基地へ運び込まれていた時期だ。米軍兵士の体にはヘロインが六オンスもつまっていた。米兵の給与支払いに「やみの円」も飛び交っていた。タナカやコダマが受けとった現ナマを誰も見た者はいないが「円紙幣」が入った段ボールを英国大使館の脇で受け取ったり、スペイン牧師(某大学のサレジオ会のメンバー)がゴルフバックに用意して持ってきたことは検事調書の運転手やフクダ・タロウの証言で明らかになっている。(その後運転手もフクダもすぐ死んだが。)
一九八五年一〇月一八日、アメリカの大手貴金属商「デューク・ペレラ社」のニューヨーク本社に、ロイ・ラングと名乗る四四歳の浮浪者の女が訪れた。二一階にある会長室へツカツカと入って行き、まず受付の女性秘書を簡単に射殺したあと、ニコラス・デユーク会長を殺すという事件が発生した。ニコラス・デユークはその場で亡くなっている 。
□ウラガネを運んだ男
日本のロッキード事件はカネのルートを解明できなかったことから、タナカを外為法違反というきわめて形式的な犯罪で断罪して結審した。ところが二〇一二年十一月九日、突然歴史が覆されるような事が起った。日本へカネを密輸した人間が表れたのである。
ジャーナリストの徳本栄一郎氏は言う。『それは少し蒸し暑い金曜日の午後だった。昨年十一月九日、ある所要で香港に滞在していたとき、私は香港外国特派員協会に足を運んだ。』
要旨は次のとおりだ。
『そこで元デューク社の社員と偶然出くわすのである。元社員の名はブルース・エイトキン(Bruce Emil Aitken六〇歳後半 )。彼は香港支店長ブリンクから「日本で差し迫った日本円の支払注文が積みあがっている。香港支店の連中は日本警察に目を付けられている。君はグアム支店長なので大丈夫だ」といわれて、円礼を日本へ運び役にされた。色々考えた挙句、「ゴルフバックに五千万円の札束を入れて日本へ持ち込むことを考え出した」という。冬はゴルフバックを日本へ持ち込むのは不自然なので「日本経由グアムに行く」といってごまかした。運び屋は他の運び屋とは素性がわからないようになっているが、日本の場合はスペイン人の神父がエイトキンからゴルフバックを持っていったという。神父は東京地検につかまったので供述書は取られているはずだ。エイトキンによると、香港支店が日本へ現金を運びはじめたのは一九六九年ごろだったという。ロッキード社とコダマがコンサルタント契約を結んだのも六九年ごろだった。そしてP三Cを閣議(タナカ、アイザワ大蔵省次官、ゴトーダ副官房長官)で偵察後継機と決定した後、不審な経緯をたどっで、結局ホゴとなるが、そのころのデューク社の送金システム(紙幣の密輸)はフル回転していたのだ。』(「文藝春秋」二〇一三年一〇月号三三二P以下)
ロッキード社がコダマを秘密顧問とするのは五八年七月である。しかし、コダマは子飼いのコウノ・イチロウーを使って反グラマン・・キャンペーンを行っている。キシがグラマン機を購入すると決定していたからだ。コダマは制服組から、ロッキード社機(F-一〇四C)の優秀性、廉価なこと(一機当たり一億円安い。)を聴いており、それが良いと思っていた。前からロッキード社に軍配を上げていたのだ。それを見て、ロッキード社がフクダ・タローを通じコダマに接触した。なお、ロッキードもグラマンもワイロ合戦をしていたと考えられるが、CIAはどうしていたのだろうか。
どの政府機関でも中立を守り通すということはできないもので、CIAも例外ではない。共和党寄り、民主党寄り、ロッキード寄り、グラマン寄りの幹部など入り乱れて陰謀がめぐらされたと思われる。アメリカ政府の思惑としては日本にアメリカの戦闘機を買ってもらうことが不可欠である。兵器産業の発展を考えるとそのころ、グラマン社が窮地に立っていたので、政府ははじめはグラマン社を押していた。しかし、途中からロッキード社がワイロ作戦で巻き返すと民間の競争に口をはさまないかのように中立の立場を取るようになる。タナカの失脚を狙ってCIAの秘密ファンドがロッキード社経由、タナカ、コダマ側に渡ったとする陰謀説もあるが、CIAの資金はウラ勘定も含めて会計経理されていて(ただ、その支出内容の説明は三〇年後)、一ドルたりとも嘘の支出はできない。ので、タナカ・ロッキード事件にMファンド、その他のCIA資金が工作費として使われたかもしれないという憶測は望み薄である 。
□ウラガネ作り
献金企業がウラガネ作りの道具として使う取引は株と土地である。殖産住宅事件(一九七二)のトウゴウ・タミヤスが「N通産相から”貴社が上場するそうだが、新株上場は儲かると聞いている、二五億ぐらい調達できないか”と依頼された」と供述しているから本当のことだ。
日本通運事件(一九六七)や共和製糖事件、近くはリクルート事件(一九八八)もその手口だ。
千代田区平河町の砂防会館、GM党本部の総裁室には大金庫がある。この中になにが入っているか知る事ができるのはたったの三人、経理局長(オザワ・タツゾウ)、幹事長(ハシモト・トミサブロー)、そして総裁(タナカ・カクエイ)だけだった。実際に金庫の鍵を持っているのはタナカの子飼いの秘書一人で、カネが必要になればいちいち、タナカ事務所から呼ばれてくる。
逸話がある。
一九九二年九月二五日カネマルは東京地検特捜部に容疑を認める上申書を提出。その結果、略式起訴され罰金二〇万円となった。

しかし、世論の反発は凄まじく、カネマル・シン は同年一〇月四日、議員辞職を余儀なくされた。それは経世会会長の辞任も意味していた。

経世会(タケシタ派)は会長の座を巡る熾烈な抗争が起こっていた。抗争となったのはOを担ぐOグループとオブチ・ケイゾウを担ぐオブチ・グループ。

同年一〇月二八日、経世会総会でオブチ・ケイゾウが新会長に決定する。それを不服としたOグループは同年同月同日「改革フォーラム二十一」を旗揚げ。経世会が分裂状態になった。

この分裂にオブチ・グループは紀尾井町の赤坂プリンスホテルを拠点とし、Oグループは永田町のキャピタル東急を拠点とした為、本来の事務所があった砂防会館は空白地帯になった。

で、その分裂状態のときに、砂防会館の経世会事務所にあったグレイの巨大な金庫から忽然と現金が消えたというのだ。

その経世会が分裂状態にあったとき、十三億円の現金をO邸に運びましたという証言を、側近中の側近であった元秘書がしている。これはニュースバリューとして考えたら、主要メディアが報じないのは不自然だが、どこも報じていない。
O支持者なら「その元秘書の狂言である」とか「そもそも週刊文春なんて週刊誌はクソだ」等と言い出すでしょう。ですが、それは検討違いで、マツダ・ケンヤ氏というジャーナリストはO氏追及の第一人者だし、過去には週刊文春ではなく週刊現代で告発をしていたジャーナリストであり、マツダ氏の発信した記事は国会でも取り上げられているし、東京地検さえもマツダ氏の過去記事を参考にしているであろう事が予想されているものです。そして何よりも、マツダ氏の追及とは全く異なる角度に存在している「ミスターゴトーダ」という存在が、それと符合するような証言を今になって語り始めてしまっているワケです。

タカハシ・ヨシノブ証言(五七年債事件(後述)に連座した。)について問われたミスターゴトーダの弁は、以下のとおり。

「経世会 の金庫の中には一〇億くらいが入っていたのが、いつの間にか二億くらいしか残っていなかったので、Oさんが八億ぐらい持ち出したんだろうと思っていました。しかし、運んだタカハシ元秘書本人が一三億だと言うんだからそうなんでしょう。これほど大きな額とは思いませんでした。でもこの話は検察審査会とか国税とかいう問題じゃなくて、要するに泥棒ですよ」。
つまり、ゴトーダ氏は経世会の金庫に二億円しか残っていなかったから、日頃から一〇億円ぐらい入っていた金庫なのだから、差し引き八億円ぐらいをO氏が持ち出していたのだと思っていたところ、証言によれば実は一三億の持ち出しであったらしいから、そうなのだろうの意。

再び週刊文春(九二年)六月一〇日号に沿って、その騒動の経過を追っていく。

タカハシ元秘書がカネをO邸に運び出したという実行シーンの証言というのは、信憑性は低くはないでしょう。タカハシさんによれば、関与していたのは経世会の鍵を預かっていたヤヒロ・マモル事務局長(「O氏の金庫番」と呼ばれた人物で二〇〇六年に没している。)と、最終的にカネをO邸に運び込んだ際、それを受け取る役目をしたO夫人までが関与していた事になる。

分裂状態が起こった事で、オブチグループは「Oが勝手に金庫からカネを運び出してしまうのではないか」と警戒していたという。ハシモト・リュウタロウが金庫の鍵を預かっていたヤヒロに対して、「鍵を渡せ」と迫ったが、ヤヒロは「これはカネマル会長から預かった鍵だから、カネマル会長に渡すのならいいが、それでなければ駄目だ」と突っぱねたという。

このハシモト・リュウタロウとヤヒロとの「鍵を寄越せ/渡せない」という問答については、フナダ・モトが当事の事情を知っており、ハシリュウがヤヒロに「鍵を返せ」と言い寄ったが鍵を取り返せなかったという旨の証言している。つまり、この状況もウラは取れているワケです。

そうした緊張状態の中、Oグループは虎視眈々と現金輸送作戦を展開させていた。

ヤヒロが合図を送り、それまで運び出す役目の証言者(タカハシ元秘書)は待機するような算段だったという。そして或るタイミングでヤヒロから電話が入る。議員会館にいた証言者は砂防会館の通常は使用されていない裏の駐車スペースへと、用意していた車で向かったという。電話があってから、そこまで間は四~五分。

証言者が非常階段を昇りかけたとき、既にヤヒロがドアを開けて待っていたという。ヤヒロの足元には大きな紙袋が数多く並べられていたという。紙袋はビニールのカバーがついた大きめの紙袋を二重にしたもので、外部から見えないように新聞紙が上にかぶせられていたという。

証言は以下のように生々しい。「紙袋はかなりの重量で両手に下げると腕がしびれるようでした。トランクに入れた時に“本当にカネかな”と思って新聞紙をどかして中身を見ました。ビニールで梱包された万札の束がぎっしりで、“一袋、一億円だな”と思いました」。

十三個の紙袋をクルマに積んだ証言者は、霞が関から首都高に乗り、三軒茶屋で降りて道路脇に停車してからO夫人(K子氏)に電話を入れたという。O邸は警察官がいて警備をしているので事務所のある玄関の方は怪しまれると思われたことからO夫人に「勝手口を開けておいて欲しい」と言うと、「わかった、わかった」と返答したという。

O邸に着くと、既に勝手口は開いていて夫人が待っていたという。証言者が勝手口に紙袋を降ろすと、夫人が台所の方へと更に紙袋を運んだという。夫人は台所の上がり口となる場所に全ての紙袋を運び込んだという。更に、秘書や家事手伝いでさえ入る事がないO氏の書斎へと紙袋を運び終えると、証言者は夫人に断わりを入れた上で、議員会館へと戻り、何事もなかったように仕事を続けたのだという。

そして証言の最後は、以下のとおり。

「岩手めんこいテレビの巨額な株疑惑問題やこの経世会のカネの問題などは、今回のO氏に絡む四億円の土地購入資金の原資解明に避けて通れない事実であると考え、検察に話しました。しかし、調書にはされませんでした」。
□サの出金伝票
「タナカからミキに移って新しい幹事長になった、N、GM党総裁が部屋の大金庫をはじめて空けたら中には五万円しか入っていなかった。これじゃ牛丼吉野家のカウンター金庫みたいなものだ」。
実際は五万円どころか百億円を超える借金だった。タナカは政権後半、人気が落ち、集金能力がなくなった。そこでGM党債といえるニセ国庫証券を第一勧銀へ振り出し、資金を調達していた。新しい経理局長はコレは大変だと言うことでタナカ総裁時代の資金の使い道を調査した。サの出金伝票が数億円分出てきた。
「これは何だ?」と言うと前の担当者は最後にシブシブ言った。
「砂防会館のことだよ」
「砂防会館?ここだろう」
「イヤ、オヤジさんのとこの金庫のことです」
「党のカネ(オモテのカネ)を総裁室で渡すんじゃないのか?」
「オヤジさんのカネ(ウラのカネ)もここで渡していたんだよ」
「すると何か?党のカネ(オモテのカネ)もタナカさんからのカネ(ウラのカネ)だと言って使ってしまったってことか?」
「ま、そういこともあったな」
そういうことで、タナカの金庫が空になったが、まだ、外国にはMファンド(若しあれば)があるため面目を失わず、金脈問題も五億円程度の小さな事件として片付けられる原因となった。もし、タナカの資産が内外とも逼迫すればロッキード事件はこんな事では済まなかったと思えるのである。だが、第一勧銀からの融資話は水面下で進行していった。

キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(4)金メッキの金塊

2015-10-08 17:09:51 | インポート
□金メッキの金塊
ところで、そもそも「宝探し」というものは陰謀説の裏側として語られる場合が多い。たとえば、二〇〇一年ニューヨークで起こった世界貿易センターの崩壊“劇”はブッシュ大統領・チェイニー副大統領コンビの演出で、兵器産業や石油業界を救うために起こされた陰謀“劇”だとかいうやつ。映画『華氏九一一』(FAHRENHEIT 九/一一)で詳しく語られている。なお、ワシの『NORADテープ』も参考にしてもらいたい。
その陰で、つまり、陰謀劇で語られないその裏で、モルガンスタンレー証券の地下倉庫(世界貿易センタービル・サウスタワーにあった。)からドサクサにまぎれて八〇トンの金塊を運びだしフォートノックス基地(核戦争用のシェルターがある。)に厳重に隔離されているニセの金塊(金メッキ八〇〇〇トン)に混ぜた・・・とか。なぜ混ぜたかと言うと世界貿易センターの八〇トンの方はホンモノだったからニセモノとまぶして全体として〇、二四カラット(一%の分量)に改良したとか。「しかし、中国人の観光客にはフォートノックス見学を許しているじゃないか、なぜ?」という鋭い質問を期待したいが、「それは中国人はニセモノが好きだから」ではなくて、中国政府にニセモノの金塊を「ホンモノだ」と云って、フォートノックスへ持ち込んだニューヨークの金塊を見せるためだった。「最終的にはニセモノの方を売却するがね」。
「じゃ~、中国人はニセモノとわからずゴールドバーを買ったのか?」と似瓦大工。
ワシ「イヤ、そうじゃない。実際はびっくりした。金塊一〇〇トンをありあまる米ドル札で輸入した中国政府が、そのうちの一枚だけ輪切りにしてみたら、タングステンに金メッキしたものだったんだ」
「びっくりした中国政府はアメリカ連邦準備銀行に当然、抗議したが「なしのつぶて」だったということだ」。
ちょっと初めから脱線したが、いずれにしろ、宝探しはこのように「陰謀劇」を前提とし、それに隠された「真実をさぐる」という風に展開していくものだ。
それでまず、「ヤマシタ・トレジャー」の存在の可能性を日本軍隊が大東亜をひとつの共栄圏とし、経営していく過程で「何が起こっていたか」という見地から分析してみる。少し、経営論、金融論めくが我慢して聞いてもらいたい。
大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)の間中、日本の軍隊、軍属、機関、ヤクザたちがアジア各地からその財宝を“収奪”したことはまず、間違いない。だが、「収奪」と言っても、単純ではなく、二種類あった。「強盗してくるもの」と「軍票をかたに物資を“調達”するもの」だ。“調達”という美名に惑わされるが、軍隊が発行する軍票が将来、金や銀に交換できなければ軍票(紙幣)は単なる「借金証文」にしか過ぎない。軍隊では「調達」と「収奪」は同じ意味なのだ。 《フィリピン軍票「ほ号」券》
フィリピンの例で云うと、一九四二年一月三日の軍政実施と同時に軍票の流通を宣言し、ペソ軍票とペソ貨のみ流通すること(すなわち持ち歩くこと)を認め、これまで流通していた中国通貨とか米ドル札の保有・行使を認めないことにした。
「ま、ブルセラ・ポルノの持ち歩き禁止と同じだな」と似瓦。それで、華僑やメステーゾ(スペイン系フィリピン人)が靴などに隠し持っていると憲兵に見つかり銃殺されるわけである。(もっともフィリピン人は靴ではなく草履かはだしだが。)
円札をつかわず、軍票を発行する理由は、占領国のインフレが日本へ波及しないよう円の流通を内外で遮断するために行うものだ。占領国の軍政上もあまりインフレになってコーヒーを飲むのに軍票が一〇センチもの束で交換されることになると、持ち運ぶ手間からいっても、紙の印刷コストからいってもあまり格好のいいものではない。もっとも紙の印刷コストを減らす方法はある。すなわち省エネルギーの観点から、お札の表だけを刷り、裏は白紙とするのだ。これは実際にフィリピンで南方金庫がやった。日本でも昭和の宰相、タカハシ・コレキヨが昭和の大恐慌に対するため、片面白紙の紙幣を大量に印刷して預金取り付け騒ぎを乗り切ったというドラマがNHKで流されたばかりだ。あれと同じことをフィリピンでやった。
□二月二十三日
インフレの定義は、「金を札で割った価値の下落」を意味する。なので、軍票発行高が増えて、超ハイパーインフレになった場合はそれを抑えるために占領国へ金を持ち込む必要がある。フィリピンの場合も日本軍が軍票を乱発して超インフレになり、物資の“調達”が難しくなった。それで日本からマル福金貨二万五千枚(〇.七トン)を南方開発金庫マニラ支庫に運び込んだ。現在の価値で約二〇億円だった。そのうちの一枚をヤマシタ将軍が絞首刑になる日、つまり昭和二一年(一九四六年)の「二月二三日」早朝の前日、二二日夜遅く、刑場へ向かうため、呼び出されたとき、MPのケンワージー大尉に形見分けした。それで、あとから「ヤマシタは金塊を隠している」という噂に発展していく。 《ヤマシタ将軍とケンワージー憲兵大尉》
「エ、二月二三日、皇太子の誕生日と同じだな」と似瓦が素っ頓狂な声をあげた。
「どうしてそれを知っている?」
「だってこの間、ダービィーに皇太子来たろう、あのどき、皇太子も二月二三日、優勝した乗ってるジョッキーも二月二三日、その馬(ワンアンドオンリー)も二月二三日うまれだったんだ。二二三の軌跡といわれてる」と似瓦は笑った。
「そんな話ならいいよ」とワシはホッとした。
二〇一三年のことだ。東京の知事が首になった。その都知事が若いころ、小説を書いた。内容はマッカーサーが東條ら、A級戦犯を死刑にした日がその時皇太子だった今上天皇の誕生日、「十二月二十三日」だったので、マッカーサーは何かを暗示したのではないかというものだ。そのネタを持ってきたのがその小説の中では、「鳥尾夫人」の孫娘という装丁で話が進み、鳥尾夫人とGHQのケーディス中佐 との恋愛話に進んでいく話だ。
「それで?」と似瓦。
「だから、今の皇太子の誕生日が二月二三日なのも何か偶然のような気がしねいか?」
「なんと?」
「だから、フィリピンでヤマシタ大将が処刑になった日だよ、あれもマッカーサーが東京から指示したろう?」
「本当か?」
「知らねいのか?ニガ」結局ヤマシタ将軍は、マッカーサーの”復讐裁判”で昭和二六年二月二三日、午前三時二分、軍人としてではなく単なる”犯罪者”として捕虜の作業服のまま絞首刑に処された。
ヤマシタ将軍はシンガポール、満洲、フィリピンと転戦した人ではあるが、アジア一七カ国の金を独り占めにしておまけにフィリピンに持ち込むなどということはできるわけがない。負け戦が想定される国へ金を運ぶと云う理屈は不合理である。
「イヤ、やったのはヤマシタさんじゃなくてタイに進駐していた南方軍本部のプリンスたちだべ」と似瓦がシーグレーブ夫妻の説を信じて云う。
そうかもしれないが、ともかく、ヤマシタ・トレジャーの名がつくのは間違いだ。彼は数枚の金貨しか持っていなかった。二万五千枚のマル福金貨の残りは山岳部に展開する兵隊たちにひとり一枚づつ配られてしまったんだ。彼らは山に散って、それを使って現地人から食料を調達するためだ。よしんば、残りがあったとしてもワワ地区の渓谷を穴だらけにしてそこへ埋めるような愚をおかさないはずだ。
マッカーサーが東京へ行って一度だけ、フィリピンに里帰りしたことがある。フィリピンの独立記念日(四六年七月四日)の式典にあわせてマニラに行った。が、本当の目的はフィリピンに四五年十一月まで残ったマッカート准将(日本でGHQの民政局部長)やランズデール中佐 (マニラ勤務後ベトナムでCIA支局長)たちがバギオの日本軍司令部跡で金塊を発見し、東京のマッカーサーに報告したので「それを見に行ったはずだ」と言うもので、米軍の公式の文書には全然乗ってない。本当かどうかわからない。

《独立記念日に登場するニセモノのマッカーサー》東亜日報提供(二〇〇四年六月十二日フィリピン独立記念日》

先ほどの似瓦の云う(そしてシーグレーブ夫妻が云う)「プリンスたち」とは皇族軍人のタケダ宮とチチブ宮ということになっている。タケダ宮はバンコックの南方軍司令部に配属されていたが、四三年以降、戦局が悪くなると、バンコック集結の財宝をジャワ経由フィリピン・マニラに移動させた形跡がある。そして自分もマニラへやってきた。一方、チチブ宮は身体が弱く、そのころは御殿場で療養中の身である。勢津子妃が書かれた『銀のボンボニエール』の中でわかるとおり、フィリピンへ行ったことはない。
ところで、アジアの財宝やマル福金貨がフィリピンに渡ったという以外にも金のにおいはある。フィリピンは戦前、フィリピンを統治していたマッカーサー親子がベンケット金銅鉱山 から得ていた金は相当の量にのぼっていた。しかし、その金を日本軍に占領されるまでに安全にフィリピン以外の国へ避難させたと思われる。
ダグラス・マッカーサー元帥は四二年三月コレヒドール島から逃げた。小型の水雷艇でミンダナオまで行き、飛行機でパプアニューギニアを横断し、オーストラリアのダーウインに渡っている。そのとき、携行した荷物はトランク二個で、とても金塊など持ち出せない。このように彼の伝記を隅から隅まで読んでも金の「キ」の字もでてこない。したがって、彼の金塊があるとすれば、それは公式には否定されるが、コレヒドール島ではないかとワシは推理している。五一トンのフィリピン政府財産が一九四一年一二月二五日、マニラの桟橋から船済みされ、コレヒドールへ渡ったたことがウィロビィー大佐の奥さんが証言しているからだ。そのほか、一四〇トンのペソ銀貨も送られたがこちらの方は価値がないので、コレヒドールの波打ち際に放置された。
金塊はマリンタ・トンネル司令部の豪の一角に積まれたであろう。そのうち、二〇トンは米潜水艇トラウト号でハワイまで運ばれた。また、コレヒドールに同行したフィリピン共和国のケソン大統領が、一二月早くコレヒドールを脱出したときも潜水艦ソードフィッシュ号で金塊を持ち出したと思われるがその量はわかっていない。その後、前者の                                         二〇トンはルーズベルト大統領に報告され、国庫に組み入れられたと認められる。しかし残りはコレヒドールの急峻な崖の下とか向かい側バターン半島のどこかしこに埋めたものもあったはずだ。ワシの前回の小説『微風のマニラから』では埼玉の億万長者の老人が若いころ、南方に砲兵として行き、コレヒドールに一番乗りして、マリンタ・トンネルの第一五豪でそれを発見したシーンがあるが、これはフィクションであり本当にあったことではない。「わかってる?なら、いいが」。
□ウイロビィーの奥さん、金塊とにらめっこ
ダッチ現地政府は、一九四一年の最後の月、すなわち日本軍が諸島に爆撃を加えた月にジャワからオーストラリア、アメリカ、南アメリカに向けて二億五千万ギルダー分の金塊をジャワやPhrontisからチャーターした商船で船積みしている。(アメリカからタンクや飛行機を購入した代金の返済に充てるためだった。) 《サンチャゴ砦》
この決済はニセの船荷証券に紛れ込ませて行われ、金塊が運ばれていることは明らかにされなかった。多数の政府幹部が逮捕された。フィリピンの大統領マニュアル・ケソン(ダグラス・マッカーサーの軍政の下にあった。)はルソン中部、バギオのセーヤーズ総督の別荘で、日米英蘭の開戦を聞いた。マッカーサー自身、クラーク基地に駐機している自軍の戦闘機が台湾から発進した第五航空団の攻撃により、すべて破壊されてしまった。一二月二二日、日本軍(南方方面軍第一四軍)がリンガエン湾から上陸してきた。次の日、マッカーサーはマニラをオープンシティにして、米比混成軍をバターン半島とコレヒドール島へ分散退避させた。船は軍需品、食料、薬品を島に運んだ。マッカーサーはGⅡのチャールズ・ウイロビィー大佐に命じてフィリピン財務省、フィリピン中央銀行、ナショナル・シティ・バンクの個人保有預金を島に運ぶよう指示した。ナショナルバンクでは二三の個人金庫が空となった。(これらの財宝はゴールデンリリ-部隊によってコレヒドールで発見され、マニラの中心、サンチャゴ要塞の通風孔にしまわれた。戦争の後、そこから取り出すために・・・・。) 《後楽園始球式、ウイロビィー准将》
フィリピンの国富は、当時、五一トンの金塊、三二トンの銀塊、一四〇トンの銀貨(当時、フィリピンには財貨はこれしかなかった。)、二千七百万ドルの財務省証券、公開されていない私債券、宝石・貴石類などからなるが、その全部が持ち出されたのである。金塊は当時の値段で四千万ドル(一トン=約八〇万ドル)だった。ナショナルシティバンクは政府保有の金塊のほか、民間の二トンの金塊を持っていた。そのほか、宝石や金貨類が金庫に納まっていたと思われる。(フィリピン民間の保有高はこんなものだ。もっとも中国華僑などは銀行に預けていたとは思われない。)コレヒドールへ運ぶには大小の船を使って四日もかかった。
一九四一年一二月二七日に搬送業務が終了した。ウイロビィー大佐の妻の話では、
「ゴールドは輝いていなかったわ、鈍い色なの、まるで黄金には見えない。くすんだ黄色、どちらかというと暗褐色といった感じなの。いろんなラッピングがあってばらばらなの。ラッピングされてないものやタグがついてるもの、数字が入っているもの、重さが量られているものとにかく種々雑多よ・・・」と言っている。「両手でバターケースサイズをようやっと持ち上げられたわ」とも。
財宝はコレヒドール島の固い岩盤の中を無数に走るトンネルのどこかにしまわれた。確実にわかっていることは、一四三〇トンの銀塊、銀貨の山はマリンタ・トンネルに、二トン(一〇〇枚×二〇キロ)の民間所有の金塊は中腹、バッテリーヤード(弾薬庫)に、五一トン(二五四二枚×二〇キロ)の政府保有の金塊は水面近くに横に掘られた海軍トンネルにフィリピン軍の看視兵付きでしまわれた。
ー四月末、一一五トンの銀貨をサンホセ湾の浅瀬に投げ入れた。銀貨が波で洗われて黒くさび今でも散乱している。(・・・ということはないはずだ。フィリピン人の漁民がみな拾い出したはずだ。)
「それはどこだ?」と似瓦の眼が光った。
「コレヒドールのトンネルといえば、みんなマリンタトンネルだけだと思っているが、この島には今もって近づくことが許されない洞窟が無数にある。特に西側のトップサイドの断崖に掘られた海軍用トンネルは潜水艦も潜ったまま入ってこられるように水中深く掘られているものもある・・・で、それがどこかはワシは知らん」
「埼玉の億万長者のジイさんの話だと、例のマリンタ・トンネルの十五豪で真っ暗な中、不気味にヤマブキ色に光ってたということじゃなかったが?」
「それはニガ、お前が自分で聞いた話だろう、ワシは云ってはおらん」と逃げた。
一九四二年二月三日、米潜水艦トラウト(タンバー級)が高射砲で護られた貨物船とともにコレヒドールに着いた。食料と薬品類を届けるためだった。荷卸し後、船長は「バラスト代わりに何か積み込むものはないか」と尋ねた。マッカーサーははたと膝を叩き、この機会に財宝を島外に持ち出すのが良いと気が付いた。二台のトラックがストックヤードへかけつけ、二トンの金塊(民間所有分)を持ち出す予定だったが、実際は一六トンの銀貨(金塊ではない。)、証券類、紙の通貨(ドル・ペソ)などを積み込み、磯へ向かった。トラウト号はハワイへ帰港するまで、二隻の日本船を沈め、意気揚々とお宝を陸揚げしたのだ。
□南方開発金庫フィリピン支金庫
四二年七月一日に南方開発金庫フィリピン支金庫がマニラに開設された。同金庫の資本金は、日本からも金貨として来るが、現地華僑資本からも五千万ペソの銀を供出させることにした。また、シンガポールでも五千万リンギットの強制寄付を華僑に求め、それでも二千二百万リンギットしかあつまらず、残りを横浜正金から借り入れ、五千万リンギットの小切手をヤマシタ将軍に四二年六月二五日、上納している。多分、ヤマシタ将軍はそのまま、皇族に手渡したはずだ。寄附であれば公的帳簿にのるはずもなく、シンガポールに皇族プリンスがおられたのだから。また、マレーシアでも憲兵隊の勝手な行動で、四五年三月にインドシナ銀行から七億八千万ピアストルを現地華僑から押収したという記録が残っている。このように全体から見れば、氷山の一角かも知れないが、アジア各地の華僑から、お宝は接収したようである。それらは直接日本へ持ち出され、フィリピンに渡ったのはごく少量だったと思われる。
「それじゃヤマシタ・トレジャーは嘘だったのか」と似瓦。
「いくら日本の文献をひも解いてもヤマシタ将軍が奉天への転身命令(四二年七月)に際し、シンガポールからフィリピンへお宝を運んで隠したというニュースは出てこないな。かえって、戦時中、日本郵船の豪華客船“布引丸”(阿波丸)がシンガポール、香港の米英捕虜の食料を運ぶためにな、米軍から特別の許可をもらって、ウラジオストックから食糧を積んで出港した。途中、敦賀、キールン(台湾)、香港、シンガポールに寄港した後、そこから日本軍や特殊機関がマレー、シンガポールの華僑から奪った財宝(約五億ドル)を寄港が許可されていない上海へ(フィリピンではない。)送りつけようとして、台湾海峡付近で撃沈された話(浅田次郎、『シエラザード』)がある程度なんだ」とワシは似瓦に丁寧に説明したもんだ。
「フィリピンへは運ばなかったのがネ」としつこい似瓦。
だが、こんな話もあるにはある。レイテ湾戦で奇跡的にマニラに逃げ帰った「那智号」が傷病兵を乗せて日本へ引き揚げることになった。天皇プリンスの命令でフィリピンへ持ってきていた金貨や延べ棒を本国へ持ち帰ることになってその船にのせた。マニラ湾をコレヒドール付近まで航行させた後、大本営の参謀作戦課長のツジ大佐がイワブチ・マニラ防衛隊司令に命じて撃沈させたという話だ。
「何でだ?」
「ツジ大佐やイワブチ少将たちは途中バシー海峡で那智がやられるのはわかっていた。それくらいなら、マニラ湾に沈めて戦争が終わった後、引き上げて自分のものにしようとしたらしいんだ」
「現に戦後しばらくして、ササガワさんが引き上げを試みたが何も発見されなかったと新聞発表があった。どっちみち宝探しという行為は発見されたか発見されなかったかは闇の中がふさわしいのだがネ」
―ず~っと後になって、アメリカの公文書が発見され、その日のマニラ湾の様子が明らかになった。「アメリカの空母艦載機二機がマニラ湾を西へ航行する那智号を発見、攻撃撃沈した。」とある。どうやら、ツジやイワブチたちが潜水艦で撃沈したというのは眉唾だ。
しかし、小説は事実よりも奇怪である。スターリン・シーグレーブの『マルコス王朝(下)』につぎのような信憑性高い逸話がのっている。シーグレーブ夫妻によれば、米軍は戦争直後から宝探しをしていた。トルーマン大統領はマッカーサーらが発見したお宝を会計検査院に報告しないで、それを冷戦のコストとして使用しようと決意したようだ。
一九六〇年代中盤にマルコスが大統領に立候補して、歴史に登場して来た。それ以前もマルコスは山を飛び回ったようだがその客観的記録はまるでない。あるのはスペンスが書いた自伝的小説だけだった。それには「マルコスのゲリラ的活動がなければ、マッカーサーのバターン自給作戦は三カ月で壊滅していたろう」というおそろしく歴史をゆがめた内容になっている。なお、マルコスとマッカーサーの接地点はまるでない。マッカーサーの大戦回顧録には「マルコス」が一文字も登場しないのだ。
大統領になったマルコスは以前、自前でやっていた宝探しをもっと組織的に、軍隊を使って徹底した。ヤマシタ将軍の金塊について、マルコスはルソン中部、バギオ海軍病院の背後のトンネルで発見し、マラカニアン宮殿(大統領府)に運び込んだ。他にもマニラ市街のあちこちから発見された金塊はCIAの手を経て、世界の市場に出て行った。金塊取引でマルコスが付き合いがあったグループは「仕掛人団(エンタプライズ)」と称し、CIAのOBや反共産国の将軍たちで構成されていて、そいつらはホワイトハウスのために陰謀を企て、巨額の闇資金の支払いをする集団だった。そいつらが世界各地の金融機関に黒いカネを分散したというのだ。そいつらがヤマシタ・トレジャーの真の所有者だというのだ。










四章 日銀強盗
□日銀強盗
「先生、日本にある金塊の殆どは日銀の地下に眠っていると思われますか?」とフロントがワシの事務所に尋ねてきた。
「どうした、藪から棒に。銀行強盗でも思いついたのかね」
「イヤ、単なる興味ですよ」
「いや違うね。日銀の本店の地下に七六五トン、同前橋支店に若干はあるだろうが、実際は公表されていない五カ所にその三倍の量を確保しているらしい」
「先生、それはどこかご存じなんですネ?」
「考えても見たまえ。イギリスにGFMS社というのがある。世界の金保有量は一六万トンくらいだ。アメリカは八千トン、ドイツ三千トン、フランス二千トン、スイス一千トン、オランダ六百、中国六百、インド四百そして日本はほら、さっきの日銀日本橋本店の七六五トンだよ。これは非公式な数量だよ」
「“非公式・・”・・ですかい?」
「そうとも。考えても見たまえ、天下のIMFだって金の保有量は発表していないよ。民間会社の発表なのだよ」―IMF自体の金の保有量は三五〇〇トンらしい。確認はとっていない・・というより発表自体がない。
「ですからそれがどこに隠されているか、日本の五カ所はどこなんで?」
「君ね、金はどこから供給されるか知ってるかい?」
「金は金鉱山からアウトプットされるんでしょう?」
「じゃ~それはどこへ行く?」
「ヨーロッパの金市場?」
「違うね。それから?」
「世界中のタックスヘイブンの金庫とかスイスの山奥とか・・・ですかネ」
「誰も見た者はいないんだよ、“本当の金”なんて。かのアメリカだって最近、タングステンに金メッキしてたのがばれたじゃないか」
「エ!そうなんで!」
―米国や英国が保有している金はほとんどがニセモノだ。中国がアメリカから買ったインゴット(一本一二.五キロ)を切断して調べたら、タングステンに金メッキしたものだったと云う話はもうしたナ。調査を開始したところ、一九九四年にアメリカの精錬所で六四万本のインゴット(八千トン)を偽造して、連銀とフォートノックスの地下壕に保存していることがわかった・・と云うのももう話したっけ?」
「イエ初めてです。驚いたな、先生。それじゃ金には手を出さない方がいいですね」
「そうだね。せっかくねこばばできてもそれがニセモノじゃな。驚いたロスチャイルド家もロコ・ロンドンから撤退したし、これからはホンモノの金は暴騰するだろうね。プラチナもウナギ登りだろうよ」
「ロコ、ロンドンってキャバレーですか?」
「そうじゃない、ロンドン渡しの良質品と言う意味だ」
「ドルはいよいよ危ない?」とフロントが弱気になった。
「そうともさ、今どきドルの“売りオプション(の売り)”をもってる企業はブっ潰れるな」
□センベイとケータイ
このように、金の現物の世界は魑魅魍魎の噂が行き来している。天皇家が世界一の金保有者だとか、昔、軍族がアジア各地から金を集めてフィリピンに隠したとか、マルコスがそれを発見して大統領になったとか、その一部が日本へ運ばれ、東京の近郊に埋もれているとか、日銀前橋支店は日本橋本店の金が溶解するとしばらく「せんべい」の様になるので東京の商品取引所が決済機関として機能を失うのを担保するため若干の金を保有しているとか(「若干」だから金の延べ棒二、三本だってこともある。)、スクラップ市場では日本が世界一の都市鉱山で「金塊の卵が約六千トンはある」とか。「これからはケータイを持った若者だけが頼りだよ」とか 。
そういうことだから、シーグレーブの「ゴールド・ウオーリアーズ」は信用ならないという学者が多い。だが、その全文を日本語訳で読みたい似瓦はワシにせがんだ。彼は青森の田舎の中卒なので英語が得意じゃない。「全文読まなきゃ本当かだましかわからねべ」と云うんだ。
「じゃ~全文訳してみようじゃね~か」とついつい言ってしまった。とんでもない時間を要したが何とか完成した。第二部にその一部を紹介している。だが、健全な山師の諸君には、シーグレーブ夫妻の『Gold Warriors』の方を英文で読むことをお勧めする。また、ブログ『マヨのぼやき』《廃刊)にかつて完訳版があったが、現在は流れていない。本書の二部の各章の冒頭に短く紹介させていただいている。もちろん、マヨさんから許可をもらっている。
□アメリカ財務省は火の車
余談だがこんなことがあった。
二〇〇九年六月三日、スイス国境の町で米国債、約一三兆円を持った財務省の職員とおぼしき日本人二人がイタリア財務警察に逮捕された。スイスに持ち込まれようとしていた米国債がホンモノでも、ニセモノでもこれは大事件である。よほどの不都合があるのか日本のマスコミは、例のごとくほとんど黙殺状態だった。
【ジュネーブ=藤田剛】「イタリアの報道によると、同国警察は総額一三四〇億ドル(約一三兆円)の米国債などの有価証券を不正に持ち出そうとした日本人とみられる二人をスイスとの国境で拘束した。二重底になっているカバンに大量の有価証券を隠し持っていることが発覚し、押収された。
日本政府も拘束の事実は確認しているが、日本人との情報が本当かどうかは不明としている。氏名や持ち出しの理由なども分かっていない。イタリア警察は有価証券の金額があまりにも巨額なため、偽造の可能性を含めて捜査を進めているもよう。有価証券がホンモノの場合、総額の約四〇%の罰金が科せられる可能性がある」というものだ。

「TJ、すごいね。この日本人、この後直ぐ解放されたんだぜ」と足立。「TJ」とは足立の事務所のアルバイトで、すごい美人だ。なんでもHSBCに入社するらしい。
「日本人かどうかわからないじゃない。第一、そんな多額のTB、いくらスイスでもキャシュにはできないわ」―TJによれば、十三兆円はニュージーランドの国内総生産(GDP)に匹敵する規模なのだそうだ。
「この資産でスロバキアとクロアチアを買い取ったとしても、モンゴルかカンボジアのGDPに相当するおつりがくる」のだそうだ。
巨額詐欺事件(二〇〇八年)のバーナード・マドフ被告も小さく見えるというものだ。
「多分、わが中国が肩代わりするつもりだったのよ」とTJ。
「肩代わり?」
「米国債を元円で買い取るのよ、元・円スワップね」
―たしかに、相当後になって、N首相は中国の元通貨表示の国債を購入すると発表した(二〇一一年一二月、五億ドル分を購入表明)。
ガイトナー米財務長官(二〇一〇年、AIG救済劇で連銀総裁だった人物)が日本や中国に働きかけて、ドル資産への投資維持に向けて動いたのだろう。
Y大臣「わが国も相当ひっ迫している。野党やマスコミは霞が関埋蔵金などありもしない詮索をして、本当のDNAを発見されては元も子もない。ここらで金塊に戻して、日本銀行の金庫に入れたいのですよ、閣下」
ガイトナー(G)「そうストレートにものを言わないでください。貴国とは戦後、マッカーサー元帥との申し合わせにより、その種のお話は御法度なはずです」
「湾岸戦争当時、パパ・ブッシュ大統領は貴国にたった九〇億ドルの戦時特別税を求めただけでしたが、そのかわり、継続的にわが国の国債を買っていただくことに同意されたのはご存じでしょう」
G「貴国はその費用を第二次大戦(貴国では“大東亜戦争”というのでしたっけ?)の戦中、アジア各地から没収した財産・金塊を隠匿していたカネ、貴国では一部の金融機関では“DNA”と言ってるようですな。あれをあてられたのかどうかは私にもわかりませんが、ともかく、今、それを金(きん)に換えたいとあなた方はおっしゃる。それではわが国のドルをまた、金本位制に戻して世界的破たんを招くことなるのは貴下の経済学者としての見識からしても明らかではないですか」
G「なにしろ、カネをジャブジャブ刷っているんですからな。どうか、この辺で貴下から“米国の国債は買い続ける”と宣言していただきたい。そのかわり、貴国がオフバランスでお持ちのわが国債を貴国国債に換えた上、中国の国債とスワップすることをわが大統領(たぶんオバマ)と共に歓迎します。中国(たぶん温首相)も貴国の国債を保有したいという気持ちも分かりますし、貴国も中国国債を持ちたいという願望が潜在的にあることは十分に理解しますので・・とにかく米国債を金塊に換えることだけは御法度ですよ」
秘密会談後、雑談が混じった。「Y君、あんたの国は人材がいないのかね?その間抜けな財務省役人はどこの馬の骨だ?」
Y君「ミスターG、その言葉はあんたの国に返したい。その役人はあんたの国で生まれた日本人(米国籍)の父親と香港人の母親との混血ですよ。英語・中国語・日本語を話せる役人はそうはいませんよ。それにあなた方はUBSなら安全だと言ったじゃないですか」
G「それはですね、Y君、銀行側(UBS)から提案してきたのだよ。わが国の司法省もよく頑張ったからネ・・・・・その情報(日本の富豪たちの脱税額のUBS情報)は貴国にも差し上げてるじゃないですか」
Y君「それにしても、いったいだれがリークしたのかな?イタリア野郎に」
G「Y君、まさか君はリークしたのがそのエージェント(運び人)自身だと疑ってるのじゃないだろうな」
Y「それはないと思うが、“あれ”について知ってる者はK官房長官(内閣官房費で追及を受けた。)とわが省の幹部、数人(ワタナベ・アジア開銀初代、カシワギ東銀、ギョウテン東銀、チノ・アジア開銀、クロトン・アジア開銀など)のアジア開銀の元頭取や元東京銀行の元財務官、元参事官だけなんだからなあ~・・・・・誰がリークしたのかな?」ちょうど、その直後選挙があり、GM党は大敗して下野した。Y財務大臣は立ちくらみして選挙出陣式にでられなかった。はじめて宇宙人が日本の首相になった。

丁度、その後の七月八日からイタリアのアブルッツオ州ラクイラで、主要国首脳会議(G八)が開催されようとしており、日本からグリーン・パスポートを持った、多数の政府職員がイタリア入りしていた。財務省関係者二人は、ミラノで日本領事館から民間旅券をもらった。陸路(列車)で国境を越えようとした。
スイス・イタリア国境税関は、双方の出国についてはほとんど検査がないことをエージェントの二人は十分に承知していたはずだ。イタリア国境からスイスに出国するときには、基本的にシェンゲン条約国に批准する移動なので手荷物の検査など、まったくやらないのだ。イタリア入国時ならまだわかるが、イタリア出国時に発覚というのは、まずない。それなのに発見された。ワシ自身も何回もスイス・タックスヘイブンの研究のため、同じ経路で入国した経験を持つが持ち物を調べるということは一度も遭遇しなかった。
「ロクな検査をやっていない。」よって、誰か内部告発者がいたという推論に結び付く。
五〇歳代の二人は、スーツケースに隠し底を作り、一枚五億ドル相当の米国債を二四九枚と、その他の米政府系債券一〇億ドル相当を一〇枚持っていた。合計一三四五億ドル(一一兆円=八〇円換算)だ。こんなものを北朝鮮でも偽造することは躊躇するだろう。スイスの通貨、証債券鑑定能力は世界一なのだ。ニセモノであれば、しかも巨額とくれば持ち込んだあとすぐ発覚するに決まっている。だからあれはニセモノと判断されたのだ。ニセモノならただの紙くずだ。イタリアの為替管理・関税に触れるものは何もない。

イタリア財務警察の逮捕容疑はマネロン禁止法違反(無申告で巨額有価証券を持ち出そうとした容疑)だった。ホンモノであればイタリアは五三六億ドル(ホンモノの債券額面の四〇%)を没収する。ニセモノであれば、逮捕者を解放する。誤認逮捕したくないからその紙くずと一緒にスイス行きの列車の中に放り込む。「二度とくるなよ、アス・ホール!」と云ってだな・・・。
スイス側の国境税関でも事情聴取があるだろうが、スイスにはアンチマネロンの法律なんてないから(後で調べたらそのすぐ後に作られたらしい。)、その荷物は問題とならないだろう。実際、スイスに現ナマを貨物で(つまり段ボールに詰め込んで)持ち込む輩は結構多いと聞く。税関でひっかかっても「なんで初めから中身を“外国紙幣”だと書かないの」といわれる位で、別段、没収されることはないのだそうだ。この事件はイタリアの新聞(il Giornale)が報じ、ミラノの日本領事館も、イタリア当局が二人を逮捕したことを認めた。しかし、わかっていることはそこまでで、二人の逮捕から二週間近くが経ち、米国債の真贋も判明しているはずだが、イタリア当局は二人の名前も発表せず司法手続きにも入っていない。よせばいいのに日本では二〇〇九年六月十二日、Y財務相が「米国債を堅く信じて買い続ける」と宣言したのでよけい憶測記事が出回るようになった。
話がそれた。元に戻る。
 スイスの銀行は、旧日本軍(そしてナチ)によって盗まれた略奪品の主要な貯蔵場所であり、かつ、誰から信託されたかにかかわらず、受託財産の“正当な”受益者の一部であり続けている。彼らはスイスの永世中立国としての安全と金融秘密漏えい防止の鉄壁の制度を十分に活用しているのである。ただし、冒頭に紹介したようにメイリがリークして、UBSがアメリカ司法省の軍門にくだるまでの間ではあったが・・・。UBSはやりすぎたのだ。
 シーグレーブ夫妻は言う。「あるスイスの銀行は、一九〇〇億ドル以上で、マイクロソフトのビル・ゲーツの純資産よりも多い資金を秘密のアメリカ政府口座に保管している」と。
「チェース・マンハッタン銀行、バンク・オブ・アメリカ、ウエルズ・ファーゴ銀行、そしてシティ・バンクといったアメリカの銀行も、“黄金のパイ”にしっかりと指を突っ込んでいた」と。
「スイスの銀行が何十年もの間、ホロコーストの犠牲者から奪われた金を保管し、莫大な利益をそれによって得ていることが公になることを拒否し続けている。それと同様に、アメリカの銀行も、返還要求の権利を持った人々の死を待ち望んで、ヤマシタ・ゴールドについては口をつぐみ続けている」と。
 「“黒いカネ”は全てのアメリカ大統領によって独立国家諸国の政治に干渉するためこっそり活用され、選挙民を買収し、法律の網をくぐり抜け、マスコミを支配し、暗殺を遂行するため、要するにアメリカの意思を押しつけるために使われた。」とシーグレーブ夫妻は書いている。
□ゴ・ジン・ジェムって知ってる?
イタリア、ギリシャそして日本で戦後の選挙を操作するために、南ベトナムで独裁者のゴ・ジン・ジェム を資金援助するために、冷戦時代に反共宣伝を推進するために、ワシントンの反共連合国の国庫を支援するために、「黒いカネ」がCIAによって使われた。
「黄金の百合」という戦時略奪品発見と、ワシントンによるその政治的な利用は五〇年の間、国家機密だった。しかしブッシュ父が「早く公開されるべきだ」と言ったので(もっとも日本の天皇や政治家に対する配慮から黒塗りだらけの公開資料となったが、)八〇年代には一部の秘密文書が公開された。それら公文書を含むシーグレーブ夫妻の徹底的な調査で豊かで詳細な「物語」ができた。時として推測的ではあるが、暴力団員、スパイ、私立探偵、金仲買人や冷酷な政治家たちという闇の世界の連中と丹念に会い、強欲と、隠蔽工作と、秘密の政治的干渉の物語が生み出されたのだ。
 反動的反共主義と戦時略奪品によって、ワシントンとかつてのナチ指導者やゲシュタポの拷問担当者は一つにまとまった。これはまた、ワシントンと東京の戦犯・略奪者たちの間で機能した汚らわしい奇術の、政治的求愛行動のサインでもあった。
「それで、翁、始めたんですね、この小説書きを」と足立次郎。
「そうさ、全くその通りにな」と翁とよばれてまんざらでもないので機嫌よくワシは答えた。ゴールデンウオリアーズを訳すか訳すまいか日々悶々としていたワシはこれで吹っ切れた。
□チャルマーズ・ジョンソン
チャルマーズ・ジョンソンは一九七六年から一九七二年までCIA国家評価室(現在の国家情報会議=NIC: National Intelligence Council)のコンサルタントを務めた。Nemesis: The Last Days of the American Republicを二月に刊行予定。他に『アメリカ帝国への報復』、『アメリカ帝国の悲劇』がある。参考までに読んでみたらいい。ワシはまだ読んでないがね。なお、シーグレーブ夫妻もこの著述から相当のヒントを得ているようだ。そこから借りてきたような記述がたくさんある 。
□愚者の黄金

ジリアン・デッド(Gillian Tett):前フィナンシャル・タイムズ日本支社に派遣されたことがある彼女は「それは「虫の缶ズメ」見たいなもんなのよ。恐ろしく面白いWEBなんかもあるけど、本当のことは、何でそんなに多く、儲け話が転がっているのかしらってことね。それで、日本とアメリカの関係はその儲け話が絡んで醜い世界なのよ。暗いところもたくさんあるし・・・、わがアメリカはクリア〈公開)すべきなんだと思うよ。日本がしないからね」、「でも、やつらは五〇年代と六〇年代に関しては公開を禁止してしまったわ。日本との関係だけね」。
「ま、これは間接事実ですけど、第一勧銀インタビューのことを話しましょう。私が勧銀をたずねたときのことですが、足立さん、あなたも知っているとおり、銀行員はみんなインギンブレイでモンキリ・タイプでしょう。やっぱりその通りだったわ」
「Mファンドはないと?」と足立がせっついた。
「イエ、部屋に重役みたいなのが三人もいたの。いくら私が美人でも男四人じゃ具合が悪いわよ。それで、メイシを渡そうとしたのですが、“メイシをもってないからって。”たぶん、人物を特定されたくなかったんだろうけど、ハジメテだな、あんな経験、インタビューの間中、私の知らない人間が三人も同席したなんて」(だから存在するってことかも。)
「ところで、テッドさん、あなたは何しに第一勧銀に行ったんですか?」
「それはねホラ、例の“五七年債”の話があったでしょう、GM党が米国筋から第一勧銀の三千億円の銀行小切手を提示されて驚いたという話、あれを確かめにいったのよ」
「ハ~そうですか」。
「愚者の黄金ではとりあげているのですか?」
「イエ、取り上げてないわ、愚者の黄金は二〇〇〇年代のデリバテイブの崩壊をとりあげているのよ、JPモルガンのクレジット・デリバティブの失敗をネ、だから、金本位制の時代の黄金のノスタルジアは時代遅れの娯楽小説みたいで面白くないわ」
「それではデッドさんはシーグレーブの三部作(『宋王朝』、『マルコス王朝』、『大和王朝』と『黄金の戦士』たちはもう時代遅れの宝探しの娯楽小説みたいだと言いたいんですか?」
「そんなことはないわ、でも、その時代のリアリティに迫り切れてない点で夫妻の著作はどうしても『伝聞』に区分されてしまうのよ」
「じゃ~あなたはなぜ、愚者の黄金というタイトルにしたんですか?」としつこく足立は迫った。「それはね、アダチさん、私の著作を読んでからにして」
「ハイ、わかりました」と足立は素直に引き下がった。その後、足立が『愚者の黄金 』を読みとおしたという話はワシは聞いてない。
後日、足立は『愚者の黄金』の日本語訳を見た。タイトルの『愚者の黄金』の訳は、黄鉄鉱のことをいっていた。足立は小さい頃、溶鉱炉の近くで育った。線路際に捨ててある灰カスの中に妙にきらきら光る金の鉱石を見つけたことがある。あれが黄鉄鉱だったのだ。見た目が本物の金と同じように見えるため、黄金詐欺によく使われるそうだ。ジュリアン・テッドはクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)で架空の利益を稼ぎ出す金融マンたちをニセモノの黄金を売り歩く詐欺師に見立てていたのだと思う。

したがって、Mファンドの存在について、デッドさんだけではなく、以下三人の人に発言してもらう。
タカノ・ハジメ :Mファンドの著者で著名なジャーナリストは『地下金融の知らない世界』で「彼らはきっと言うだろう、“何も無い”って。だが、私はもっと調べるぞ!“そこ”にホンモノがあるんだ」、「ロッキードを思い出してみなさい、ものすごいカネが動いたことになってるじゃないか。だが、カネは表に出てこなかったし、ミステリィになっちゃって解決しなかったじゃないか。だから、Mファンドは在るんだよ」とおっしゃる。
イソザキ・アキラ:財務コンサルタントの彼は「(Mファンドは)存在しないね、もしあったら(日本経済は)今のようになって無いよ、そんなカネまわりがよければ銀行破たんなんかなかったさ、三和のように三菱に乗っ取らられるようなことはなかったネ」(あなたはみずほ証券営業事務部長(二〇一三年)でしったけ?)
タケマエ・エイジ :ベテランの歴史家で『GHQの内幕』(進駐軍の日本占領とその遺産・NY二〇〇二)というタイトルで七〇〇Pもの書籍を出した人だ。彼はその書籍でM-ファンドについて触れていないが、「それはもちろん知ってるけど調べるにしてはあまりにも曖昧なテーマだよ、なにしろ、信頼できるドキュメントがないからね。(ファンドが預金口座にあると)証明されないうわさの世界の出来事だ。私のは学術研究論文なんだからね」(本当にそうかどうかはワシは知らん、『GHQの内幕』をまだ読んでない。)
と言うんだがあなたはシーグレーブ夫妻とこれらの人々の見解とどちらを信じるか、それは自由である。
また、本流に戻ろう。
それで驚いた諸君に、より詳細な事実関係を説明する必要があるので、以下詳しく述べる。

















五章  風が吹けば桶屋がもうかるか?

□風が吹けば桶屋がもうかるか?
すべての人のために国家機密があるべきということは重大なことである、にもかかわらず、国家機密は政治家・役人の汚職を隠すために、そして利権をめぐる利害得失を隠すために設定されている。特に二〇〇一年以降は九月十一日の世界貿易センタービル、ペンタゴンが何者かにより破壊された事件があってからは、アメリカはそれを「同時多発テロ」と決め付け、オサマ・ビン=ラデンを首謀者としパールハーバー以来、最悪の空襲を受けたと認識した。ブッシュは九・一一の直後からサダム・フセインイラク大統領の関与を疑っていた。しかし、九月二〇日、議会で演説したブッシュは「アフガニスタンのタリバン政権がビンラデン一味を差し出さなければ戦闘に入る」として、実際、アフガニスタンに侵攻してしまう。
「限りなき自由」作戦の第一段階はアメリカと同盟国がウズベキスタンやパキスタンなど周辺諸国に兵站を向け準備作業に入り、一〇月七日にはアルカイダとタリバンの両方に対する空爆と特殊作戦を実施したのだ。第二段階は地上部隊を含む全兵力をアフガニスタンの山岳部と都市部に集中し、タリバン政権を倒し(一九九六-二〇〇一)、新しい政府を樹立したのである。一二月二二日にはカンダハール出身のバシュトン人指導者、Hカルザイが臨時議会議長に就任した。カルザイ氏は米、石油油井掘削会社、ユノカル社の顧問をしていた。ユノカルはパイプラインの敷設の会社でカスピ海経由、アフガニスタンを横切るパイプラインを建設する準備が整っている。その後は読者諸君がご存知のような展開になる。結果、イラク政権を打倒(二〇〇六)、パキスタン政権の後継有力者ブッドを殺し(二〇〇七)、リビア政権を打倒し(二〇一一)、エジプト政権を打倒、それぞれ各国の指導者を殺したが、ビン=ラデンとザワヒリは逃亡したままだった。これは何か、陰謀くさいところがあるのだ。風が吹けば桶屋がもうかる式の理屈だったからだ。
この通説は「風が吹く→ほこりが立つ→目に入って盲人が増える→生業として三味線を弾く→三味線の需要が増える→猫の皮が必要→猫が減り、ねずみが増える→ねずみは家の桶をかじる→修理や補給のため桶屋が儲かる」と説明されるが、これがブッシュ政権が行ったテロ対策と同じなのだ。途中は面倒くさいので省略するが、要するにブッシュはテキサスの石油産業関係者として、イラク、リビア、アフガニスタン、アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの石油・プラント・パイプラインがほしかっただけなのだ。非常に簡単な図式でいえば、ハリバートン社、カーギル社、ユノカル社、エンロン社、エクソン・モービル、シェブロン、BP、ダッチシェル、ロックフェラー一族(銀行業界)などの石油業界の意思をチェイニー、ラムズフェルド、ライスを通じて大統領に進言した結果、「イラク」が悪者になり、フセイン(二〇〇六)が殺され、チェニジアのジャスミン革命(二〇一〇)がおき、中東・アフリカの動揺(アラブの春・二〇一一)を招き、カダフィーが爆殺され(二〇一一)、「エジプト」のムバラクも退陣に追い込まれた(二〇一二)。・・ということだ。その一方で、ブッシュ一族はサウジの王族と親密な交際をしていた。あの911のさなか、王族の関係者百人近くをキャンプデービッドに招き、報復を恐れたサウジ人をボストン、ローガン空港から事件が起こった翌々日にすべて帰国させるという離れ技をしている。アメリカ在住の外国人、観光客は一人も自国に帰れなかった時にである。しかも、王族との付き合いや多額の寄付は市民には秘密だった。ブッシュ家は石油利権を黄金の源と考えていたのである。


キサラギジュンの『逆説 黄金の戦士たち』(3)ヤマシタ・トレジャーの起源

2015-10-08 16:48:50 | 税務小説
一章 『逆説 黄金の戦士たち』のいわれ

□ヤマシタ・トレジャーの起源

一九四六年二月二三日フィリピン・マニラで、マレーの虎で有名になったヤマシタ・トモユキ大将が死刑になった。ヤマシタ将軍がマレー、シンガポールを統治していたころ、主にビルマから持ち込んだ金塊をフィリピンの山中に埋めた。
そのことの信ぴょう性はともかく、フィリピンではまことしやかにうわさされている。作家シーグレーブの「the Yamato Dynasty」 や「Gold Warriors]でフィクションとして取り上げたものがフィリピインの街中で定説となったのかもしれない。
今でもフィリピンにはヤマシタ・トレジャーをさがす山師はわんさかいる。しかし、ワシ(東京御茶の水で計理士をしている)は、フィリピン人国民性の研究の結果、「山師」は本当にお宝を見つけようと努力する山師ではなく、噂を本気にしてやってくる外国人を騙して、それらしいところに案内し、前金をとってトンずらする「詐欺師」のことなのである。何しろ、フィリピン人は一攫千金のトレジャー話が大好きで、作り話でも生活の糧に直ぐ変える技量を持つ。「先祖伝来のヤマシタ・トレジャーマップをマニラのデパート街で物珍しそうな日本人に五〇ペソで売りつける」のがしょっちゅうあるからだ。

実際にあったのは日本軍が軍票を乱発して信用を失い、物資の調達が難しくなったため、フィリピン在住華僑から物資を得るため、日本から持ち込まれたマル福金貨二万五千枚の行方がわからないということらしい。マル福金貨七七五KG、現在の価値で約二〇億円。
国民的財宝探しが行き過ぎたため、二〇〇七年フィリピン政府はヤマシタ財宝探しの規制をしている。若し見つかったら政府が七五%没収する。日本でも「M資金」として時々騒がれているアレである。
たまたま、金の仏像をマニラのど真ん中で見つけた幸運な奴がいるが、しゃべりすぎてすぐマルコスに没収されてしまった。
□ヤマシタ将軍一トンの半分を贈答
シーグレーブ夫妻によると、一九四五年九月二日、日本の正式な降服受諾を受けて、ヤマシタトモユキ大将が左手で軍刀をおさえながら山から降りてきた。アメリカ軍の隊列の前をヤマシタの部下が連なっている。先月アメリカ軍はたった三マイルの前まで前進して来ていた。キアンガン渓谷の包囲網は狭まり、ヤマシタは急速にやせていた。兵員も激減した。「私が切腹すれば部下も責任をとってそれに続く」ので、彼は部下の自殺を禁じていた。(彼は天皇の降服受諾を忠実に守ったともいわれる。)ヤマシタの幕僚や運転手なども一緒に降参した。アメリカの降服受諾式典はA.S.ジャック・ケンウオージィ が担当した。彼はマニラ郊外のニュービルバッド 監獄まで彼らを逮捕し、連行する責任がある。ヤマシタは後ろについてきた若い兵隊たちが整列するのを待った。兵士たちは金塊を携えてきていて、傍らにキチンと積みあげた。「その重量は一トンの半分はあったのではないか」とその場に立ち会った、レスリィM.フライ 少佐は言っている。ヤマシタは軍刀をはずし、深くお辞儀しながらその金塊をケンウオージィ大尉に贈答した。
五ヵ月後、一九四六年二月二三日に、マニラ軍事法廷のグロテスクで多くの批判がある判決 を受けて、彼は絞首刑に処せられた。財宝を略奪したとか戦争期間中の彼の残虐行為が罪に問われたわけではない。彼は戦争責任、すなわち秩序だった命令を部下に課すという責任を果たさなかったからだという。その結果、マニラ海軍司令部のイワブチ少将たちが残虐の限りを尽くしたからだという。《:だが、ちょっと待って、ヤマシタは陸軍で、イワブチは海軍なのだ。彼らは同じ命令系統に属していない。》
ヤマシタの有罪は覆らなかった。米最高裁、トルーマンへの訴えは退けられた。ヤマシタは絞首刑になった。ほとんどの人は、「自分を惨めな敗残者にしてフィリピンから追い出した張本人がヤマシタで、マッカーサーは自分を無能者にしたやつに復讐を望んでいるからだ」と考えた。(だが、事実は違う。彼を追い出したのはホンマ中将の第一四南方方面軍だったからだ。ヤマシタを殺す理由は別にあった。)
□黄金の百合の起源
 シーグレーブ夫妻が『Gold Warriors』で描く『黄金の百合』は実際にあったことではない。フィクションである。にもかかわらず、フィリピンにアジア各地から略奪した黄金、宝石などが集積され、ヤマシタ将軍がルソン島各地に埋めた。それをアイシャルリターンでマニラに復帰したマッカーサーが東京へ進駐して、バターンボーイズたちに「ヤマシタ・トレジャー」を探させた。結果、多量の金塊を発見したが、マッカーサーは一部、トルーマンに報告してアメリカに持って行ったものの、そのほかはCIAや闇の将軍たちの手にまかせ、香港やオーストラリアに運び出した。戦後、大分たって、マルコスが大統領に就任すると本格的に『黄金の百合』を捜しはじめ、自分では何も発見できなかったというが、バターンの夏宮殿の地下になんと三千トンの金塊が山に積まれていたと元CIAの悪者が証言した。マルコスはこの金塊を独り占めすることはできなかったようで、ニクソンとキッシンジャーが仲介に入って、飢餓状態の中国の援助のため、マルコスの出自である、福建のPRC銀行に多額の寄付(信託という名目ではあるが、)をした。また、レーガン時代になると彼の宇宙防衛計画(SDI )の予算を「マルコスの金塊」から得るため、多量の金塊をアメリカに運んで代わりに米国債を受領、もちろん、マルコスはその国債をマニラに持ち帰ることはせず、ニューヨークの銀行にあづけたというのである。   一九八六年マルコスが失脚する原因を作ったのがこれら「マルコスの金塊」の帰趨をめぐって起こった。マルコスは日本及びアメリカに金塊の信託報酬をもっと上げてくれ、上げなければ、これまでの経緯を世界中にバラスと云ったのだ。
「これまでの経緯?」つまり、帝国日本は天皇の弟を中心としてアジア各国を侵略し、物資や金塊をフィリピンに集結し、お家再興を願った。それを知ったマッカーサー元帥はそれを横取りし、一部、アメリカに送った(ナチスの黒鷲の黄金と一緒に運用された。)。しかし、その他はCIA卒の元幹部、闇の将軍(アジア各国の極右の将軍たち、一〇〇名ほど)の支配下に入り、反共の資金として営々と使われてきている。日本のM資金もその一つだ。
□ダイヤはカマスに一袋半
ダイヤモンドについてだけ言えば、コダマ・ヨシオがそごうデパートのオーナーへ送った二〇カラット(国税局鑑定一億円)と野村證券会長セガワ・ミノルに送った五カラット(同、一千五百万円)はコダマが自前であつめたようだ。大森実がインタビューしたコダマ自身の言葉(『戦後秘史』)を借りると、
コダマ「それで、私がシンガポールからもってきたやつ、三貫目から集めたやつですが、今たぶん日本銀行の地下室にあるんじゃないでしょうか」
大森「何カラットぐらいですか?」
コダマ「さあ、とにかくね、カマスに一つ半くらいあったでしょう」と云っている。ダイヤについては別のエピソードもある。シーグレーブ夫妻によると、一九四七年、マッカーサーはアメリカから宝石商を呼んで、あるダイヤモンドの鑑定を依頼した。エドモンドP・ヘンダーソンはそこで八〇万カラットものダイヤ群と対面している。それらの鑑定評価価値はその当時の五千万ドルもしたそうである。第八軍はその宝石類を銀座の焼け落ちたビル(多分宝石商)の地下から発見したそうだ。鑑定を実施した日銀地下倉庫には金塊が山と積まれており、その真ん中でバケツから机にまいたダイヤをもれなく鑑定していった。ダイヤは砂や砂礫が混じっており、えり分けるに苦労したと、スミソニアンの公開テープでヘンダーソン氏は語っている。新聞記者のロバート・ウイッテングはそのうち七〇万カラットがワシントンに送られ、日本が略奪した宝石類だとは云えないので国家機密としてどこかに保管しているそうだ。残りの一〇万カラットはそのまま、日銀倉庫にあるかどうかはわからない、と云うのである。「誰のための国家機密だって?」決まってるだろう。
□マッカーサー・ファンドの起源
一九四五年九月、東京へ進駐したマッカーサーは大量の金塊、銀塊、戦略物資、貴金属、財閥の有価証券、画、陶器などを探し回り、天皇家の財産まで手をつけた。それをアジア一七カ国との戦時賠償にまわすのが筋だが、マッカーサーはそうはしなかった。彼は否定するが、占領終了後、アイゼンハワーとの大統領選を戦う用意があった。そのため、トルーマン大統領の信任を得る必要があったのだが、チャイナロビィー(米国親中国派)に阻まれ、トルーマン大統領に献金することができなかった。 
その金塊を正式に報告すればアメリカ議会の承認のうえ、米財務省管理財産とされ、マッカーサーは手の出しようがなくなる。だから金塊・ダイヤモンド類は香港へ送るのが得策なのだ。秘密のカネなのだ。これら外国で管理された秘密のカネを「マッカーサー資金」、あるいは「ショーワ・トラスト」という。そのカネは民政局のマッカート少将やそのころ力を付け出した民間諜報教育局(CIE)、あるいはGⅡのウイロビィー少将によって管理された。そのカネは対ソ諜報、対中諜報、日本の再軍備、対左翼政策、対労働組合、教宣、原子力政策、日本の飛行機産業の非容認、核の非容認、反共連合、キリスト教系宗教家などに当てられてきた。
そのカネはサンフランシスコ講和条約が締結され日本へ返還されるまで日米共同管理されていた。少なくとも、歴代の首相やGM党総裁、大蔵省はその存在を知っていた。ときどき野党の国会議員の発言があるではないか、「霞が関埋蔵金は本当にある」と。しかし何に使ったかは戦後七〇年たった今、安倍首相が「侵略」に対する真摯なる反省を唱えても、『収奪物』、『黄金の百合』、『ヤマシタ・トレージャー』、『マルコスの金塊』、『ショーワ・トラスト(マッカーサー・ファンド)』、『M資金』については何も反省は示されず、それはフィクションだと云わんばかりである。シーグレーブの小説の中でくすぶっているのが丁度良いと言っているのだ。

 イメルダ・マルコス夫人はサンティ(後で詳述)の死後、ショーワ・トラストが三和銀行にあるということを知った。それも三和の本店ではなく、香港支店が使われているということも知った。イメルダの旦那のマルコスはもちろんそれをイメルダに隠していたのだが発見されてしまったのだ。シーグレイブ夫妻が発見した書類の再生版(CDに内蔵されている。)では、一九八一年に至るまで天皇のショーワ・トラストは四半期で約三億ドル、一年で十億ドルを超える利益を得ていた。銀行の大株主として天皇は通常の二倍の利息を得ていたのは疑いようがない。この再生文書はマルコスがマラカニヤン宮殿を追い出された(一九八六年二月二四日)後、彼の秘密の金庫から発見されたもので、新政府によって没収され、公にされたものである。
□『逆説 黄金の戦士たち』の起源
「それで、この本のタイトルを『逆説 黄金の戦士たち』としたんですね。翁」と足立。
「本のタイトルの趣旨をその本の本文で書くなんて、なかなかやるだろう、次郎」
「イヤ、ホント、よくやりますネ」と足立。
これにはワシなりの秘策があるのだ。つまり、シーグレーブ夫妻に許可無く『Gold Warriors』を和訳してしまったのでは、著作権 、翻訳権論争に巻き込まれるのは近頃の「オリンピックエンブレム問題」や「スタップ細胞あります事件」を見ればわかる・・ので、まず、非公開で和訳もしくは他者の和訳を机上でコピィし自分のための『正統・黄金の戦士たち』を完成する。(しかし、ネット発表や出版はしない。)そして、それを参考に『正統・黄金の戦士たち』に反論を加え、少しは賛同して『逆説・黄金の戦士たち』を完成させるのである。こうすれば世の小説というものは大抵、こういうルートをたどるのだからワシの著書は「オリジナル」であって決して「コキペ」ではない。この本が刊行された暁には、(可能性は少ないが)シーグレーブ夫妻側からコンタクトがあるかも知れない。「本来の“黄金の戦士たち”を出版してもらいたい」と。そのときはその時だ、臨機応変に対処すればいい。