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john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 43

2017-07-22 07:01:01 | 最も小さい霊魂の会


イエズス、マリア、あなたを愛します

コンソラータ
「聖母マリアに対する愛は非常に増し、私は過去、現在、未来において、イエズスと聖ヨゼフ以外はだれもそれほど愛した者がないほど愛したいと提案いたしました。
この世の全て、天と地のあらゆるものは私にとって消え、善にたいして嫌悪と退屈しか感じない時も、絶え間ない愛の十字架を抱擁して、聖母マリアのマントの抱擁のもとに隠れることは、私の無上の喜びです。」

「私を完全に満足させるマリアへの唯一の呼び掛けを見つけました。
それは、イエズスがマリアを呼び掛けた『お母さま』です。



隣人愛の絶頂

コンソラータ
「イエズスの聖心が最後の息を引き取られるまで、隣人愛のために、ご自分を尽くしたもうたように、私も力の尽きるまで、隣人愛によって人々に献身し、自分はもう存在しないように自分を少しも大切にせず、最後の瞬間まで全ての人々にたいして微笑しながら、『はい』とこたえる事を決心いたします。」

「・・・毎日、愛、忠実、隣人愛の生活を送りながら、疲れ果てて、イエズスのように『全ては成し遂げられた』というまでに前進いたしましょう!」

「私の霊魂は、良くないこと、特に隣人愛に反する最も小さいことも、大変敏感に感じるようになりました。」

「しかし、神父さまに次の事を申し上げたほうがいいと思います。イエズスはこの頃私の良心を非常に感じやすくしてくださったので、ちょっと親切でない短気にひびくほんの短い言葉をいってもすぐに苦しく思います。」


「長く苦しい努力の後で、今、隣人愛の絶頂に達し、私は糸でつながれていた小鳥が糸を切られたような喜びを感じています。
この隣人愛という善徳を実行することによって、新しい光が心に輝いてきました。イエズスの聖心に感謝いたします。」


この新しい光とは、あわれみだった。
あわれみは隣人愛にまさり、隣人愛にさらに高度の親切を加える。
あわれみによって人の悪い所を見ず、批判せず、親切に弁護し、隠し、黙っている。

あわれみによって忘恩の人、悪人、敵に対しても親切を尽くすのである。
「あなたがたの御父が慈悲にましますようにあなたがたも慈悲であれ。(ルカ35・36)」
とイエズスは隣人愛の絶頂を指しておられる。


最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 42

2017-07-13 06:51:45 | 最も小さい霊魂の会


コンソラータ
「聖母マリアと聖ヨゼフのみ、私が熱望している、ひたむきな、神にのみ向かう愛を持ってイエズスを愛しておられました。私も聖母マリアがイエズスを愛したように愛したい。それが出来れば、はじめて私は安心出来るでしょう。ちょうど今朝、今日のごミサの聖福音に『私にとって誰が母だろうう?・・・神のおぼしめしを果す人こそ私にとって、兄弟姉妹、母である。』」と読みましたが、イエズスはその御言葉によって直接私の希望に答えて下さいました。
もし、わたしが英雄的な誠実さで、神のおぼしめしである愛の道を歩めば、私はイエズスの御母のようになれ、いと忠実なる童貞と同じ心でイエズスを愛する事が出来ます。
聖福音がこのことを勧めないなら私もそれを考えることを遠慮したでしょうが、勧められた今、私の心は燃えて、御母のようになれることを望んでいます。毎朝私はミサのカリスに自分を浸して、私をイエズスとマリアに変化して下さるように神に願います。

😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅😅

御母のようには愛せないなぁ〜。
御母は偉大な方だから、いくら聖人たちでもかなわないと思います。

でも、イエズス様を愛する人は、みな似てくるんだと感じています。
だから、イエズス様を本当に愛している人たちには、あまり言葉はいらないのだと感じます。

聖フランシスコと聖ドミニコのように。


そういえば、昔、ブログで怒られたなぁ。

イエズス様を私達の父と言ったんですよ。
すると、イエズス様は、父ではないって。
御父がいるからイエズス様は父じゃないって。

確かにそうなんだけれど、言い回しというか、ニュアンスというか、感じ方っていうか、細かいことを言い過ぎなんだよね、一から十まで説明しないとダメなのかな・・・って思う。

イエズス様にとっては父は御父なんだけど、私達にとってはイエズス様は父と同様なんだと思うんですが・・・。

書き方がいまいちなんで、伝わりませんね。

話はかわり、今日、口の恐ろしさを感じました。
一緒に働いている同僚同士が影で悪口を言いあっていました。
一見、仲のいい2人だと思ったんですが、実際は違いました。
世間では、このようなことがいっぱいありますね。
私は、世間でいう大人という事がどういうことなのか、わかりませんね。
結婚して家庭を持つことだけが大人だとは思いません。
自分のしたことに責任をとるのはそうだと思いますが、失敗した時や悪いことをしてしまった時に謝る事が出来るのが大人だと思います。聖書に書いてあるように、口を制する人は、一人もいないんです。
口が犯す罪は小さいが、しかし、犯す回数は一番多い。
故に注意していないと大罪になる。

改めて思った。
自分も裏ではいろいろ言われているんだろうなと・・・😭
でも、気にすることなく自分の道を進もう。



最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 41

2017-07-11 20:53:33 | 最も小さい霊魂の会

愛の殉難

愛の絶頂とは、愛が絶え間ないこと、愛が純粋であることとともに、愛の強さ、深さ、一心さが無限である事を指している。
それをコンソラータは経験によって知り、その愛をいろいろな言葉で表現している。
すなわち「清め尽くす火」「愛の大火焔」「愛の猛烈さ」「愛の陶酔」「愛の殉難」
どんなに愛を尽くしても愛の熱望は満たされない。

コンソラータ
「あの小さなホスチアが、無限なる神を含んでいるのに、ななぜ私の弱い霊魂は、熱望する無限の愛を含む事が出来ないのでしょう。ああ、イエズスと一致したい熱望に押し潰されそうです。
純粋でひたむきな愛に満ちた「愛の最も小さい道」のなんという無限なうるわしさ、絶え間ない純粋な愛は、霊魂を変容し、高め、神のみに向かい、神に全く捧げた時のみ、平安をうる事が出来ます。ああ、なんとも言えない神の陶酔。」
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あともうすこしで終わるかな😃と思っていたんですが、一つ一つの文章には重要な要素が多くなかなか省いて書くことが出来ないんです。

なかなか根気のいる作業なんです。

でも、うれしいこともありまして😊

ブログをずっと読んでいてくれた方からはじめてのコメントを頂きました。

やっぱりブログにコメントをするって勇気のいることですよね。
だからこそ、頂いたコメントを大切にしていきたいと思います。

あまり、論理的なことは書けないけれど、自分の言葉で伝えていきたいと思っています。
よろしくお願いします✌

最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 40

2017-07-10 22:18:51 | 最も小さい霊魂の会

絶頂への最後の飛翔

1942年の最後の日、コンソラータは恵みに照らされて、新しい年には絶え間ない愛の祈りを自分の唯一の十字架として担い、カルワリオまで運ばねばならぬと悟った。

コンソラータ
「いよいよ絶頂に達して、勝利を得るため、最後の飛翔をしなければなりません。」

「今年の元旦から、私は自分の生命に新生命を感じています。今こそ目的地寸前の最後の飛翔であることを直感し、目的地に着くように全力を尽くします。私の全ての努力は、愛の祈りに集中しています。絶えず、一つも怠らないように祈っています。」

1934年 イエズス様からコンソラータへ
「「最も小さい道」を教えはじめた時、あなたが私を全能と認めれば、私があなたに絶え間ない愛の祈りの恵みを与え得ることを信ずるだろう!」

それから10年間、コンソラータは英雄的な忍耐力を持って根気強くよき戦いを戦い、今やイエズスはその全能の力で、愛のいけにえの羊を、愛の絶頂へ導かれたのである。

コンソラータ
「初金曜日から今日まで、イエズスは約束を守って下さいました。」


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使命をたくしたまう神はそれを成し遂げる力をも与えてくださる。

マリア様が出現された・・・、イエズス様が出現された・・・
いいなぁ〜、自分の所になぜ現れてくれないのだろう。
あの人よりも自分の方が神様を信じているし、敬虔なのに・・・😓

と誰しもカトリック者なら思うはず。
ルルド、ファチマなどの出現は私達を魅了し、羨まし感を増す。

しかし実際に当人たちはどうであろうか?

見せ物みたいになり、尋問を受けたり、また疑いの目や、興味本位の人たちが群がる。

神は、それらの人たちを神の証人たる器に選び、使命を与えられる。
外からみているようなきらびやからものは一つもないのだと感じる。

そういう使命を託されたものの使命は、苦しむことにある。

しかし、神は使命を帯びたものの援助を怠らない。

コンソラータもその中の偉大な人の一人なのです。

そのような人に必要なのは忍耐と従順、そして謙遜と信頼なのだと思う。

😊😊😊😊😊😊😊😊😃😃😃😃😃😃😃😃😃😃😃😁😁😁😁😁😁😁😁😁😁😁
現在、最も小さい霊魂の会の立ち上げにむけて準備を進めております。
私的な祈りの会なのですが、今、指導司祭を探しております。
そして、第一歩としてのコンタクトをした所でございます。
本当にどうなるのか?わかりませんが、神様がお望みなら全てうまくいくと信じております。
詳しい内容はYブログに書いてありますが、このブログでもアップするつもりです。
現在会員は5名います。
個人個人でも出来る祈りではありますが、祈りを形にし、強力にするために作りたかった祈りの会です。
短い祈りを、毎日、会員の皆様とともにする。
短い祈りを毎日することは、実は簡単なようで難しいのです。
詳しい内容はYブログに書いてありますからご興味のあるかたは見てください。


最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 39

2017-07-08 20:24:33 | 最も小さい霊魂の会


コンソラータ
「絶え間ない愛の祈りによって、私は全てを所有しております。その祈りを怠った事を何度も
後悔して、時間を費やすことは愚かなことです。怠ってもより熱心に唱える愛の祈りによって、補う事ができますから。
でも、瞬時も、愛の心を起こすことを絶対に怠らないように。怠れば、神のみ栄えに損害を与えるでしょう。今の瞬間から、死ぬ瞬間まで、常に前進のみ。全てが完成されるまで戦い、暴風、雷光、雷などのもとでも常に前進❗」

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人間に失敗は付き物。
失敗をしないと逆に人の痛みをわからない人間、人を上から見下す人間になりかねない。
神様は、失敗してもその反省に長い時間を費やすのは無駄だとおっしゃいます。
そんな時間があるなら、愛の心を起こし、よりよく出来るように頑張るべきだとおっしゃいます。
神様は、罪を犯すのはしょうがないが、罪を犯した後ですぐに自分の元にこない人間が多すぎる事を嘆いていらっしゃるのだ。
カトリック信者に対しては、告解という秘跡を制定した。
いくら汚い霊魂でも、神様のところにきて、正直に告白するならば、霊魂は雪よりも白くなるとおっしゃいます。
神様は、憐れみそのもの、いつくしみそのもの、愛そのものなのです。
神様に赦されない罪などはないのですから。
では、罪とは何かと問う人がいるかもしれない。

私は、罪とは誰かしらを悲しませる事だと思います。
それが、人であれ、ものであれ、動物であれ、神様であれ、です。
その中の最高位である神様を悲しませる事はやはりよくないことなのです。
神様は、私達の創造主であり、父であるのですから。

無駄な時間を費やす、ということであるお話を思い出しました。
ある夫が亡くなりました。
妻は、夫が亡くなりその悲しみのために泣いてばかりいました。
それは、何ヵ月も続いたのです。

見るにみかねた夫は、神様に赦しを得て、妻のもとに現れてこう言いました。
「妻よ、私の為に涙を流すのはやめてください。私が天国へ行こうと思ってもあなたの涙が上から降ってくるので、天国への階段を昇っていく事が出来ないのです。どうか、泣くのをやめて私の為に祈ってください。」

というお話です。

何事も悩みすぎはいけないですね。
現実は、そうもいかないのが現実ですが。




最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道 38

2017-07-03 20:40:52 | 最も小さい霊魂の会


神と隣人に対する愛の絶頂

不動の愛の英雄

英雄的な忠実さで「愛の最も小さい道」を歩むとは、まず、第一に純粋な愛の心をできるだけ絶え間なくおこすことである。それによってコンソラータは、隣人愛とぎせいの英雄に達したのである。「絶え間なく」と言っても、単に愛の祈りのことばを習慣的に何度も唱えることではなく、真実、常に愛の心を起こすことで、それも霊魂の能力が、他の務め、特に精神的な仕事向けられていない時に、自由に、純粋な愛の心を起こすことなのである。
それがなぜ英雄的でありうるのか。
「愛の最も小さい道」を歩き始める人は多い。だが続ける人はまれである。
あたかも、この花からあの花へと舞っては、こちらで花粉を少し、あちらで蜜をつまむ蝶に似て、ひとつの綺麗な考えを味わってはあきてまた別のきれいな考えを試し、いつの間にか信心生活の中心を神ではなく、自己満足においている人が多いからである。
自己放棄のために必要な戦いは絶えず続き、失敗はつきものだから、すぐにあきて、重なる失敗に勇気も信頼もなくしてしまう。だが、いったん神に自己献身したからには、決してそれを取り消さず、神への愛を、口、目、心の慎みや、恵みの前に対する忠実、人々への奉仕、人々の弱さに対する忍耐によって、証明しなければならない。
コンソラータが最後の瞬間まで、一瞬のたゆみもなく、根気強く、心の乾燥して苦しい嫌悪に満ちている時もかわらず、絶え間ない愛の歌を心に歌い続けた事を考える時、その努力と根気において、戦時の英雄、あるいはスポーツの英雄よりも、ずっと偉大な英雄ではないだろうか。
全く隠れている英雄ではあるけれども。
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シスターコンソラータは、カトリック教会の聖人です。
バチカンによって列聖はされてはいないですが。

バチカンが認めた聖人は、神様の配慮によるものだと思います。
預言者、神秘家、あるいは神様の出現を受けた、マリア様の出現を受けた、または、聖痕ができた、などなどが本当だとしても聖人だとは言えないし、天国への保証もない。

シスターコンソラータは、聖テレーズの継承者です。

霊的幼子の道・・・。
一見、簡単そうだし、また、誰でも出来る道に見えます。
神様に対する絶対的な信頼。盲目的な信頼。完全なる委託。
この道は、実は奥が深く、難しい道なんです。

この道に召される為には、天性の恵みを持っていることが条件なんです。
誰もかれも召されているわけではないと知りました。

どのようなことがあっても、神様に信頼し、決して失望しないこと。
使徒聖ヨハネや聖テレーズのようにいつも、イエズス様の肩にもたれかかっていること。
うれしいときも、悲しい時も、苦しい時も、暗闇の時も。


たぶん、離れていく人は、単純なことゆえに飽きてしまうんだと思います。

ロザリオのように。
私には、それがないのです。私の生活はいつも、イエズス様ですから。
でも、倒れる時だってあります。そういう時は、すぐにイエズス様のもとにいっていやして貰います(告解)
霊的幼子の道とは、どのような状態に置かれたとしても、常にイエズス様に顔を向けることをいうのだと思うのです。