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john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

教訓と思い出 23〜信頼

2018-11-23 20:04:50 | 教訓と思い出
信頼

神の愛と御憐れみについての彼女の談話は尽きることがなかった。彼女の信頼はひるまぬものであった。
そして、自叙伝の6章に断言しているように、
彼女は「聖人、しかも大聖人になる」ことを幼少の頃から望んでいたには違いないが、その大望は
「私の所有物」と彼女自身称していたイエズスの御功徳の無限の富の中に吸い込まれて行ったのであった。
それゆえに最高の希望ですら、彼女には無謀とは思えなかった。

あまり望みすぎるとか、神に願いすぎるとかいうことを恐れるべきではない、と彼女は断言していた。
「この世には、人から招いてもらったり、上手に取入ったりする、すべをわきまえている人々がいます。
神様が私どもに与えるおつもりでないものをお願いしますと、彼はたいへん御力があり、冨者でいらっしゃいますから、ご名誉にかけても私どもにお断りになるわけにいかず、
与えておしまいになります。」

しかし彼女は慰めを求めたり、苦痛を和らげていただくためにはこの聖なる大胆さを決して用いなかった。
現世的恵みについては、彼女は非常に用心深かった。彼女は、神が自分には何も拒み給わないと信じていた。

そして、「神様が私の言うことを、どうしてもきき入れなければならないと、お思いになるといけませんから」と言って、非常に控え目にしていた。したがって彼女が何かの望み、あるいは苦しみの軽減を願うならば、それは他人を喜ばせるためにほかならなかった。

しかも、「聖母マリアを通じて、その祈りを捧げていた。」それについて彼女は次のように説明した。

「聖母マリア様にお願いするのは神様にお願いするのと違います。

マリア様は私の小さな望みを、どうしたらよいかよくごぞんじです。それを言うべきか言うべきでないかを・・・・・
とにかく神様が私の祈りを無理におききとどけにならないよう、万事において聖旨が行なわれるように気をつけてくださるのはマリア様のなさることでございます。」

「自分の死後、地上のために尽す」という希望を述べた時、彼女は「それが神様の聖旨であるかどうかを知るために、彼の御目を仰ぎ見る」という条件をそれにつけた。
この委託が、カナで「あの人たちにぶどう酒がなくなりました」と言うだけにとどめられた聖母マリアも、ただ「あなたの愛している人が、病気です」と言うだけにとどめられた聖母マリアの御祈りを模倣したものであるということに、彼女は私どもの注意を促した。


教訓と思い出22〜幼児らの分け前

2018-11-21 22:41:58 | 教訓と思い出


「聖主はかつてゼべデオの子らの母に向かって、
『わたしの右と左との席は、これはわたしがきめることではない。
その席は、わたしの父がお定めになった人々のものである。』とお答えになりました。

大聖人や殉教者たちに与えられなかったこの特別席は、小さい子どもたちの分け前になるでしょう
と思います。ダビド王もそれを予言して 『 年若いベンジャミンは(聖者らの)集まりを支配するであろう 』
と申しましたでしょう。」

彼女が天国に行ってから、どういう名で祈ったらよいかと尋ねられて、
「小さいテレーズと呼んでください」と、彼女は謙そんに答えた。

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キリスト者ならば、聖書をブログに載せるべきだと何回も感じましたが、私は聖書を載せるべきは我が使命にあらずという結論に達しました。
私の浅はかな知識では伝えきれないと感じました。また、聖書は自分の中で感じ、学んでいくものだと思ったりもしています。
部分的には引用するときもあるかもしれませんが、解説は司祭さまにおまかせいたしましょう。

私が伝えるべきはイエズス様を生きた聖人たちです。
聖人たちを崇敬するのは、だめだという方もいらっしゃいますが、どうでしょうか?
聖人たちは聖書を生きていると考えることはできないでしょうか?
聖書イコールイエズス様であり、神の御言葉なのだと思います。
聖人たちは神の御言葉を生きた人たちなのです。
聖人たちを崇敬してはいけない?
私達は神様を真似るには弱すぎます。
まずは、神の御言葉を実際に生きた聖人たちのレベルまで自分を高めるよう努力すべきではないでしょうか?

それすらも月とすっぽんのレベルかもしれません。
でも、不可能ではないし、努力する価値は例えまったくそのレベルに近づけなくともやるべきだと思います。

神様は、その成果も見ますが努力を見るからです。

例えば、100メートル走をします。
健康な人はある程度の記録は出るでしょう。
でも、身体障害者の人や体の具合が悪い人ならどうでしょうか?
記録は確かに悪いです。
でも、頑張らなかったと誰が言い切る事が出来ましょうか?

努力をしても、成果が出ない人はいくらでもいます。

神様は人間が評価の対象としない部分を見透します。

神様は憐れみ深い方です。

神様のために苦しんだ人を見棄てることはあり得ません。

聖人たちが何もかも完璧にした人間だと考えないでください。
聖人たちも罪を犯しましたし、弱い人間たちなのです。

私が思いますに私達と聖人たちのどこが違うのか?

聖人たちは『神を多く多く愛した』のです。

それが私達と聖人たちの決定的な差なのだと思います。

でも、遅すぎるということはないのです。

今から、多く多く主を愛する事をしましょう。

聖テレーズを愛する先にはイエズス様がいます。

行き着く先は、全ての人がイエズス様なのだと思います。

そして、聖人たちの中で最高の模範が聖母マリア様なんです。

教訓と思い出 21〜どのように十字架像に接吻するか

2018-10-23 12:20:42 | 教訓と思い出

彼女の病気中、私は不完全なことをして、非常に悔やんでいたところ、彼女は私に言った。
「今すぐあなたの十字架に接吻なさい。」 私は御足のところに接吻した。
「子供がお父様に接吻する時、そんなふうにしますか!早く早くお顔に接吻しなさい。」
私はその通りにした。
「さあ今度は、接吻していただかなければなりません。」
私は十字架を、ほおにあてねばならなかった。
「よろしい、今度こそ、何もかも忘れていただくことができました。」


教訓と思い出 20〜大きくならないで聖人になる

2018-08-31 22:27:00 | 教訓と思い出


幼きイエズスのテレジア童貞は、心底から謙そんであったので、
「完徳のけわしい段階をよじ登ることはできないと感じていた。」

それで、家庭においてごく小さな幼児がするように、自分のことは何もかも神にお任せし、
神の御腕に抱いていただくため、ますます小さくなろうと努力した。彼女は聖人になりたかった。
しかし大きくなることなしに。なぜなら子供たちの小さなしくじりが父母を悲しませないように、
謙そんな霊魂の不完全は、神にひどく背き奉ることはないから、そして彼らの過失は、
聖書の「小さな人々には憐れみのゆるしがある」との言葉に従って、きびしく扱われないからである。
それで彼女は、自分が完全であると感じたり、
他人も彼女が完全であると思うことを望まないように気をつけていた。
彼女が大きくなるならば、神は独りで歩けと放っておおきになるからである。

「子供たちは勤め口を得るために働きません。おりこうにしているとすれば、それは親を喜ばすためです。
同様に、聖人になるために働くのではなく、神様をお喜ばせするために働かねばなりません。」

教訓と思い出〜 19イエズス様が私どものやり方でお悲しみになるはずはない

2018-08-31 22:23:52 | 教訓と思い出


イエズス様が私どものやり方でお悲しみになるはずはない

「一生懸命努めなければならない。そうでなければイエズス様がお悲しみになりますから」と言うと、
― いいえ、悲しむのはあなたです。イエズス様は私どものやり方でお悲しみになるはずはありません。
けれども、私どもができるだけのことをお捧げできないのは、私どもにとってなんと悲しいことでしょう!

教訓と思い出 18〜意向の持ち方

2018-08-24 04:31:11 | 教訓と思い出


病気中、彼女は最もいやな薬でも、たいへん苦しい治療でも、変わらぬ忍耐をもって受けていた。
それらが全然効目がないことは、百も承知していながら。
彼女はそれによって疲労を覚えたが、決して反対しなかった。
彼女はこれらの無効な療養法のことごとくを、養生するための時間も方法もない一宣教師のために神に捧げ、
それが彼のために効果があるように願っていると、私に打ち明けた。
私が、自分にはこういう考えが浮かばないのを遺憾に思うと言いたてると、彼女は私に答えた。

「こんなはっきりした意向は神様に自分を全く捧げた霊魂にとって必要ではありません。
幼児は母のふところで、いわば機械的に乳をのみ、そうすることが有益であるかどうか見越したりしません。
それでも幼児は生き発育しています。とはいえ、それは彼の意向ではありません。」

彼女はなおも語をついで、
「師匠のために働く画家は、一筆ごとに、これは先生のため・・・これは先生のためと、
くり返す必要はありません。自分の師匠のために働く意向をもって、仕事にかかれば十分です。
しばしば自分の考えを集中し意向を定めるのはよいことですが、精神に無理があってはいけません。
神様は私どもが持ちたいと思う考えや、ああもしたい、こうもしたいと工夫をめぐらす意向を察してくださいます。
神様はお父様で、私どもは小さな子供です。

教訓と思い出 17〜馬の下をくぐること

2018-08-23 05:34:47 | 教訓と思い出




私はとても打ち勝てそうもない戦いにあって、すっかり落胆し、泣きそうになって彼女のところに言いに行った。
「今度こそは、もうだめ・・・・とても乗り越せません。」

― あたりまえです。私たちは困難を乗り越えるにはあまり小さすぎます。くぐらなければなりません。」
その時彼女は私どもの幼年時代の次の話を思い出させてくれた。

「私たちがアランソンでご近所の家に行っていた時のこと。一頭の馬が庭の入口を塞いでしまいました。
大人の人たちがそこを通る工夫をしている間に、私たちの小さい友だちは馬の下をくぐるよりやさしい方法はないと思い、まず自分ですべりこみ、私に手を貸しました。私はテレーズを引っぱってあとからついて行きました。

私たちは皆小さかったので、そんなにかがみもしないで通り抜けてしまいました。
『小さいと、こんなに得をします』と、彼女は結論した。
「小さな者たちには何の障害もありません。どこにでも、もぐって行きます。偉大な霊魂たちは事件を乗り越え、困難を左右し、推理とか徳とかによって、すべてに超越することができますが、
ごく小さな私どもは、そんなことを試して見るのを控えねばなりません。下をくぐりましょう。
事件の下をくぐるとは、あまり近寄ってそれを眺めず、とやかく理屈をつけないことです。」

教訓と思い出 16〜小さい子どもは地獄に落ちない

2018-08-22 10:45:20 | 教訓と思い出



「もしもあなたの修道生活を、もう一度初めからやり直すことがおできになるとしたら、どうなさいますか。」
― 私は今までしてきたことをするでしょうと思います。

「ではあなたは、『たとえ長年苦業に身をゆだねても、まだわずか15分、否、一息でも命のあるかぎり、
地獄に落ちるようになるのを恐れる』 と言ったあの隠遁者の気持はお持ちになりませんね。」
― ええ、もちろん、私はそのような恐れを抱くことはできません。
私は地獄に落ちるには、あまり小さすぎます。小さい子供は地獄に落ちません。


教訓と思い出 15〜幼児らの住み所

2018-08-20 22:07:41 | 教訓と思い出



私が彼女に聖人方の苦業について語ったところ、彼女は次のように答えた。
「聖主は 『私の父の家にはすみかが多いが、もしそうでなければ、あなた方に知らせていただろう』
と教えてくださいましたが、なんとよいことを知らせてくださったのでしょう。
もし完徳に召されているすべての霊魂が、天国に行くために皆こういうひどい苦業をしなければならないとしたら、聖主は私どもにそう仰せになりましたでしょうし、私どもも喜んでそうしたに違いありません。
しかし聖主は、『わたしの家にはすみかが多い』 と告げていらっしゃいます。

沙漠の教父たちや、苦業の殉教者たちの席があるならば、小さい子供たちの席もあるはずです。
もし私どもが聖主と聖父と愛の聖霊とを深くお愛しするならば、そこに私どもの席もとっておいていただけるでしょう。」

幼きイエズスのテレーズ童貞は、このように、非常に単純な霊魂であり、普通の手段をもって自己を聖化したのである。
彼女の生活に異常な賜物がたびたび与えられたとしたならば、それは彼女がいわゆる
「私に対する神のご計画」と称しているものに反するのだということがうなずかれる。
彼女の生涯は、小さな霊魂たちの模範として役立つため、単純でなければならなかった。

教訓と思い出 14〜天国泥棒

2018-08-11 16:23:59 | 教訓と思い出



「天国で私の保護者、私が特別に愛する聖人は、罪なき嬰児や善き盗賊のように天国を盗んだ聖人です。
偉大な聖人方はご自分の業によって天国を獲得なさいましたが、
私は盗人の真似をして計略を使って天国を取りたい・・・・・・
この計略とは愛の計略で、これは私自身と哀れな罪びとたちのために天国の門を開いてくれますでしょう。
聖霊が私にそうするように励ましてくださいます。
箴言にも、『おおいと小さき者よ、来りてわれより策略を学べ』(箴言1・4)とありますから」