john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 57

2017-10-31 20:48:22 | 最も小さい霊魂の会


コンソラータ
「イエズスが説教にあずかることをお許しになられないので、私は皆さんと一緒に黙想会に参加することが出来ません。私の小さな仕事は、『イエズス、マリア、あなたを愛します。霊魂を救って下さい』という祈りを唱えることです。
わたしの達しなければならない2つの頂━聖母マリアと聖ヨゼフの次に、現在、過去、未来だれも愛さないほどイエズスを愛すること。
イエズスと霊魂への愛のため苦しみを忍ぶこと、を紙に書き、その目的に達する唯一の道である絶え間ない愛の心に励んでおります。
こんな状態ですけれども、目覚めてから眠るまで、愛の祈りをひとつも怠らず、常に全ての事情、全ての人に表れる神の思し召しに『はい』と答えながら、黙ってすこしの緩和も求めず、よろこびを持って苦しみを忍んでおります。」


《胆汁のカリス》

「わたしの健康状態は相変わらず同じです。力はだんだん消耗していって、もう治る見込みはないようです。正直に言って私は大変自愛心に満ちています。そして年をとって忙しい姉妹たちが見舞いにいらっしゃると、いつもベッドに寝て怠けている私をみられるのが嫌だと感じます。でも少しでも努力をするとすぐに熱が上がります。今イエズスは私の活動好きを全くなくしたいとおぼしめていられるようです。この事によってイエズスが、全てを完了なさるまで、私はただ愛するためだけにだけ存在すべきことがわかります。とにかく飲まねばならぬカリスを見、ゲッセマニで私の霊魂がイエズスとともにいることで満足しています。そしてただ、ひたすらイエズスを愛し、苦しみに対するイエズスの要求を全て承知することが出来るためには、あらゆる地上のことから去らねばなりません。
修道院の皆さんは患者に対して真実、親切を尽くします。
イエズスの御愛が、彼らの愛にまさり、イエズスが修道院の皆さんにはっきり目で見える報いをお与えになることを知らないなら私は恥ずかしさのあまり死ぬでしょう。私はそれらのことをそのまま受け入れておりますように。イエズスがあらかじめ直感させて下さるあの神秘的なカリスをもそのまま受け入れます。



悪魔の誘惑と戦う〜避けては通れない問題

2017-10-30 22:58:57 | カトリックのひとりごと
こういう記事は書かない方がいいのか、しかしながら重要な問題であるがゆえに書いた方がいいと感じた。
カトリックの多くの人が避ける問題であり、また、避けなければならない問題である。
しかしながら、この問題は避けては通れない試練なのも確かなのだ。
なぜなら、我がブログは魂の日記として書くことを心がけているからだ。
これを書くことで、ブロ友はもとより多くの人に軽蔑され、非難されるかもしれない。
しかしながら、この問題をないがしろにしていると、やがて小さな炎が大きな大火災となり人の魂を地獄へと導くことを悟った。
その問題とは何か?
悪魔の誘惑・・・情欲である。

今の時代は誠に邪悪な時代で、ありとあらゆるメディアにおいて意図も簡単に悪魔の誘惑にひっかかる時代になってしまった。
本,ビデオ、DVD、テレビ、映画、ネットにおいて簡単に姦淫の罪を犯しうる状況になるのだ。
十戒には、「汝、姦淫するなかれ」とある。
カトリックの教えはある意味では、すごく厳しい。
この掟は、心のなかですらふしだらな思いを楽しむことをよしとはしない。
男でも女でも関係なく、誰であれこの誘惑に遭遇するだろう。私が前のブログで悪魔の誘惑に悩まされたとはこの事だ。
悪魔がどういうふうに誘惑してくるかというと、そういう思いを心に吹き込んでくるのだ。絶えずそうされる。
自分がそういう思いを望んでいなくても、そうされる。
そして、最後に求めるのは罪への同意なのだ。

同意をしない者にしてみれば、これは拷問に近い。

聖ピオ神父などは、裸の女の人が目の前に現れて踊って誘惑したという。
しかしながら、ピオ神父クラスになるとすぐに見破る。
悪魔が罠を仕掛けてくることは、すぐに見透すのだ。

私自身も勝ったり、負けたりの連続だった。
嘘は言えない。
私は、結婚している訳ではないから、悪魔の誘惑は生涯受け続けるだろう。
しかし、人生のなかで、特にカトリック者になってから、どうしたら悪魔の誘惑に対抗できるだろうか?とずっと考えていた。
この邪悪な時代にカトリック者として選ばれた以上は、何かをしなければならないと感じた。

この罪の末は大罪である。
堕胎の罪を犯す事にもなりかねないのだ。
堕胎とは殺人だ。
日本が神によって滅ぼされるとしたら、堕胎の罪によることだろう。
年間の人工中絶数は18万人にも及ぶという。
罪もない小さな命が、この世に生まれることなく消されていく事実。
神は、受精した瞬間に魂を吹き込む。
もうその時点でその生命は人になる。
その所有者は神である。
誰もその命を奪うことは許されないのだ。

小さな欲望がやがて育っていき、自分では制御不能になる。
小さな炎を消さないと大きな大火災となるとはこのことだ。

今、日本でも性が自由化され、芸能界では不倫が横行し、罪の意識すら希薄化されている。

神が男と女が結ばれる事をお許しになられたのは、子孫の繁栄のためである。
つまり、子供を産むためだ。
人間の欲望を満たすために許したのではない。

それは、人間が不幸にならないためにそうしたのだ。

望まない妊娠は、人間を殺人者にする。
堕胎された子供達は、家畜の餌にされたり、化粧品の材料にされているそうだ。
顔に子供を塗りたくっているのだ。

では、このような不幸を起こさないためにどうするのか?

結婚している、していないのでは立場が違うから、私の立場において書いてみたい。

やはり、小さい炎を消す方が簡単だし、労力も少なくて済む。

悪魔の誘惑があったとしても、それに同意しなければ罪にはならない。
具体的にはどうしたらいいのか。

第一にそういうものに近寄らないことだ。見ないこと、目を閉じること。

第二に祈ること。
祈りは、悪魔の誘惑に対しての抵抗力を神様から頂ける。
これは確かなしるしの一つだ。

第三に霊的読書をする。

第四に最終手段で最も効果的な方法は、聖体拝領と告解

告白は、あきらめずに何回もすることにより、効果が実感できるようになります。

悪魔の誘惑をかわすテクニックがあります。

悪魔の誘惑を感じたら、悪魔に付き合わないで逃げることです。
付き合ってしまうと、悪魔はもともと天使ですから、対抗出来ずに負けてしまいます。

つまり、意識を違う方向にずらせばいいのです。
逃げても悪魔は、しつこく追ってきます。

その時は、逃げて逃げてください。

逃げている途中で、祈りを織り混ぜてください。

こうして誘惑を避けることが出来るでしょう。

しかしながら、はじめのうちは勝つことがなかなか出来ない事が多いことが多いでしょうが、忍耐し続けて神様に信頼し続けることで事態は変化します。

聖人たちも戦いました。

試しがなくして、勝利はありません。
神の僕たちは、鮭のように世間の荒波に逆らって神へと返っていかなければならないと思うのです。

多くの聖人たちがいうように、特に多くの若者が初の大罪に陥らないように祈るばかりです。

そして、このブログで何度でも叫びましょう。
一部の例外もあるとは思いますが、堕胎は神の目には殺人です。
国の法律では罪には問われなくても、神のみ前にたった時に罪に問われます。
もし、不幸にして罪を犯した人も、子供と神様に真剣にお詫びしてください。
そうすれば、神様の憐れみを受けるでしょうから。

私自身も、悪魔の誘惑にはいつも警戒しなければならないと心に記しています。

先生、律法のなかで、どの掟が最も重要ですか?

2017-10-30 00:07:13 | 聖福音・ロザリオ・祈り


今日のミサの聖福音です。

ファリサイ派の律法学者がイエズス様を試そうと質問する場面。

イエズス様はそれに対して、簡潔に答えられる。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」

「隣人を自分のように愛しなさい」


律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。

👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊👊

モーセが神から頂いた十戒を含め、ありとあらゆる法律を含めてこの2つを守っていれば、間違いないと言うことなんだと言われていると思う。

昔の旧約時代、律法を完全に守り、神のみ前において義とされる人は一人もいなかった。

そこで神は、御ひとり子であられたイエズス・キリストを世に送り、彼を信じる人を義とした。

人は、本来掟を守れない生き物である。
では、罪をおかさせないようにする方法はないのか?と神は、考えられたのだと思う。
ひとりでは弱く簡単に罪を犯した時があったとしても、あの人のためにも止めようとか、子供のためにも止めようとか、最終的にはイエズス様のために止めようとか、そういうようになるのだと思う。

神様に罰せられるのが怖いから、地獄にいくのが嫌だから罪を犯さないようにしようと思う。
しかし、愛である神は、恐れによる偽りの愛を望んではいない。
私達のために、十字架にかかって死んでくださったイエズス様のためにも罪を犯さないようにしよう。
イエズス様を悲しませないためにも罪を犯さないようにしよう。と思うのだ。

律法によっては罪はなくならない。
それは、民法、刑法で罪がなくならないのも同じ。
罪をなくすには愛により、神を思う意外にないのだと思う。
神を愛すれば、犯罪は減少し続けるだろう。

神様といえば、怖い存在、恐ろしい存在だと思われがちだ。

でも、実際は違う。

神様は、愛、憐れみそのもので、一旦神の愛を知ると離れられなくなる。
神様はどこまでもやさしい。

むしろ、優しくないのは、あなたたちの上司などのまわりにいる人達だろう。

しかし、神様自らもう一つ重要な掟を加える。

神様を愛する者は、隣人をも愛さなければ完全じゃないと説く。
「友のために命を捨てること。これより大きな愛はない」とイエズス様はおっしゃいました。


神だけを愛することに留まっているならば、それは部分的な中途半端な愛。

神様が、全ての人を愛されたように、愛さなければならない。
なぜって?
私達は、実は他人じゃない。
いずれは、天における兄弟姉妹なのだから。

でも、そうは言っても現実は大変だよね。

神様は私達に完全なる人間になることを望んでいるんだけど、でも実際は人間は弱い生き物だということがわかっているから、ただ完全なる人間になる努力をするということだけを望んでいるんだと思う。

私は、ブログを通して、聖人たちを通して、神様の優しさや憐れみ深さ、愛を伝えたい。

聖人たちがどのようにして神様の愛を知ったか。

たとえ、私達が私達に都合のよくない事を知ったとしても、私達には何も出来ない。

私達に出来ることは、神様やマリア様を愛し、まわりの人を愛し、ゆるすこと。
自分のおかれた立場に納得し、祈ること。

全てをマリア様、イエズス様に捧げること。
イエズス様とマリア様に全信頼をおきながら生きること。

今日、うれしいことがありました。

ここしばらく悪魔の誘惑に苦しんでいた私は、それを取り除いてくれるようにイエズス様にお願いをしました。

するとどうでしょう。

聖体拝領の後、イエズス様は願いを聞き入れてくださいました。
ちょっとしたことですが、小さな勝利です。
イエズス様は優しい方なので、困っていた私を助けてくれたのでしょう。
神様が近くにいることを感じさせてくれる瞬間でした。

私は、神様がどれだけ優しいか多くの人に知らせたい。

神様が一人一人に抱いている愛を、多くの人がいた知ったなら、どれ程の人があつい涙を流すのだろう。

昔も今も、神様が否定されるのは簡単な理由からなんだ。

"知らない"からだ。

今も神様は十字架の上で腕を左右に広げながら私達を抱きしめようと待っておられます。







聖なる御肩への礼拝

2017-10-24 20:57:44 | 聖福音・ロザリオ・祈り
今、ひとつまた病気とも言うべきものなのか、それが私を悩ませている。
それは、極度の肩凝りだ。
その痛みは、首が曲がらず、時として睡眠を奪う。
眠れない日々が続く。
頭痛薬では痛みが取れなかったので、以前整形外科へ。頭痛薬では痛みは取れないといわれる。
筋肉の血流促進剤でないとだめだと言われ、以後飲みつづけている。
が、しかし、最近薬が効かなくなってきた。

理由がわかった。
イエズス様が、私の肩に十字架をのせられたのだ・・・・と。

私は、5つの傷を信心しつつも、私達の罪を背負われた肩の傷が崇敬されていないことに気がついた。
イエズス様が背負われた十字架のせいで、肩の骨が突き出ていたという。

私は、この御肩への祈りがないかと探していたら、やはり同じ思いの人がいた。
聖ベルナルドだった。


イエズスの御肩の御傷への聖ベルナルドの信心(祈り)




これはクレルボーの記録に関連したもので、聖ベルナルドが私達の主に主の偉大な未記録の苦しみについて尋ねた時、主は答えられた。

「私は肩に、苦しみの十字架の道の途上にて深手を負った。これ以上の苦しみは他になかったがそれを記録する者は
いなかった。
この信心を行いこの傷に光栄を帰するならば、私は汝にどのようなものであっても求める完全な善徳と
賛美に値する功徳を与える。
そして彼らすべてをこの傷を大いにあがめる者とみなし、私は彼らのすべての小罪を赦し、彼らの大罪についても
記憶することはないだろう。」

(聖ベルナルドは、教皇アウグスチヌス3世に熱心に、この祈りと「天使祝詞」を3回、私達の賛美される贖い主である主の肩の御傷に光栄を
帰すために唱え、罪を心から悔やむすべての者に3000年の免償を懇願し、承認された。)

MA スプリングフィールド トマス.D.B司教認可

 
(この祈りを行うたびに、30,000の霊魂が煉獄から解放される。)

「おおやさしきイエズス、柔和なる神の子羊、みじめなる罪人我は、御身が御身の重き十字架を担い給いし
御肩の、御身の肉を裂き御身の骨を露出し、御身のいと祝せられし御体の上の他のいかなる御傷よりも
さらに大いなる御苦痛を加えし至聖なる御傷に挨拶し、礼拝し奉る。

御身を賛美し奉る、おお最大の悲しみの人なるイエズス、我、御身をほめ、御身の栄光をたたえ奉る。

かつこのいとも聖にして苦痛に満てる御傷に対し御身に感謝を捧げ、この激甚なる御苦痛と、御身の重き
十字架の骨をも砕く重荷によりて、罪人なる我をあわれみ、わが凡ての大罪と小罪を赦し、
御身の十字架の道を通して我を天国に導き給わんことを乞い願い奉る。 アーメン。」 

                    
私の肩にイエズス様が十字架を置いたから、肩は治らないんだとある意味納得した。

それは、イエズス様が背負われた十字架の重みを少しなりとも感じさせてくれるものになっている。

この痛みをイエズス様の受難に合わせて、お捧げしようと思う。

そうすれば、主は何かを悟らせてくださるだろう。

イエズス様が3度倒れられた時に痛めた両ひざについても祈りがないものかと今は思っている。

臨終洗礼の授け方

2017-10-22 20:28:04 | カトリックのひとりごと
昔の記事を今一度載せたいと思います。

災害は忘れた頃にやってくる、みたいに人の死も忘れた頃にやってくる、という現実がありますから。

私がお世話になった神父様のプリントを載せたいと思います

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最近、次から次に事故が起こり、また地震や洪水など自然の災難も次々に起こり、死者や負傷者が大変多くなりました。キリスト信者は自分の周囲に死にかかっている人がいましたら、どうしてもその人の霊魂を救うように努力しなければなりません。

イエズス・キリストは「全ての人に福音を述べ伝えなさい」とお命じになりました。現代の多くの人はあまりキリストの教えに興味を持っていないようですが、苦しい時、また死に臨めば非常にまじめに考えるようになり、自分の過去の罪を痛悔し、洗礼を受けて安らかにあの世に出発する方も数多くあると思います。

臨終洗礼は教会の神父ばかりでなく、一般の信者の方もたやすく授けることが出来ますから、どのように洗礼を授けるか、また洗礼を授ける前に何を教えねばならないかを知っておく必要があります。

臨終洗礼を授ける前に教えねばならない事柄は、唯一の神の存在(神は御一体であるのに三位である事)。 霊魂の不滅、死後の賞罰、イエズス・キリストは神でありながら人となって生まれ、十字架上で苦しんで私共の犯した罪を贖って下さった事。罪の赦しを受けて天国に入るためには、どうしても自分の犯した罪を痛悔して洗礼を受けねばならない事。これだけを簡単に説明したら、聖水がなければ普通の水でもかまいませんから、額に水を注ぎながら唱えます。

「我、聖父と聖子と聖霊との御名によって、汝を洗う。」

時としては、洗礼を受けていない人でも他人に洗礼を授ける場合があります。私の知っている求道者の方は、ある結核療養所で、自分の部屋の一人の方が突然喀血した時、急いで洗礼を授けました。後で私は調べましたら、その求道者の洗礼を授ける仕方は正しいものでした。有効でしたから、新たに洗礼を授ける必要はありませんでした。

臨終洗礼あるいは年寄りの方に洗礼を授ける時に注意すべき事は、あまりに長い不必要な話をしない事です。私は多くの方に臨終洗礼を授けた事がありますが、準備の話は病人の状態によります。重症の方は10分以上話せば逆効果になります。病院においても10分以上話す事を禁じられる場合があります。私も重病の時、お客さんが10分以上話しましたら大変疲れて、早く帰ってほしいと思いました。

洗礼の準備はなるべく短くして、必要な事柄だけを話して、不必要な事を言わない事が何より大切だと思います。日本人はほとんど100パーセントまで霊魂の不滅を信じていますから、そのことについて詳しく説明する必要はありません。一番大切な事は、罪を痛悔する事です。人を憎んだり、うらんだり、嘘をついたり、あるいは堕胎の罪を犯したり、そのような自分の犯した罪を全部、真心こめて痛悔して、”神様、どうか私の罪をお赦し下さい”と言わせたら良いのです。また”イエズス様がおっしゃったように、他人を赦さなければ自分の罪も赦されませんから”と説明すればたいていその通りにします。

洗礼を授ける時に霊名を先に言います。私は普通臨終洗礼の場合、男だったら「ヨゼフ」、女だったら「マリア」と言う名をつけます。

”ヨゼフ、我、聖父と聖子と聖霊との御名によって汝を洗う”と水を注ぎながら唱えたら、その方の罪は勿論、その方の罪の罰までもきれいに赦されます。

場合によっては、神父に臨終の洗礼を頼まないで、自分で洗礼を授けた方が良いと思います。神父を呼ぶのに非常に面倒な場合がありますし、また病人の周囲が理解しない場合もあり、また時間もかかりますから自分の手で洗礼を授けるのが一番簡単と思います。なるべく危篤にならないうちに、その方の意識があるうちに洗礼を授ける方が良いのです。早いほどよろしい。

洗礼を授けてから、聖母のスカプラリオ、メダイ、あるいはロザリオなどを差し上げたら大いに役立ちます。

近い将来この国(注:日本のこと)においても、災難が増えると思います。その時カトリック信者は、自分の親戚、友人、あるいは知らない人の霊魂を救うために奔走しなければならないと思います。ただ一人の人でも霊魂を救いましたら、その救われた人はいつまでも天国において、あなたに感謝することでしょう。
説明 終わり



水がない場合、唾でもいいのです。
死んでしまっていても、死後1時間くらいの間であれば、霊魂はまだ体を離れていないので洗礼は可能かと思います。


注意点


臨終洗礼は誰でも授ける事ができます。
神父さまではならないという事は、ありません。
未信者でも授けられます。
ただし、これはあくまで緊急時です。
最悪の場合、臨終洗礼の説明をしないで授けてください。
後は神様が判断してくださいます。
死に行く人が理解不能の時や、意識がほとんどない場合の時など。

訪問者が9000人を超えました。ありがとうございました。

2017-10-22 06:33:49 | 1000毎 goo版

うむ・・・

風邪をひいたみたいで、この猫ように寝ております。
今日は選挙日ですから投票を済ませ、ミサにも与って来ました。
ただ、今日は聖体拝領する気力もなく、今日はしませんでした。
霊的聖体拝領をしようと思います。


聖体拝領が出来ない時の祈り
      霊的聖体拝領の祈り

「イエズス・キリスト、われは主が至聖なる聖体の秘蹟のうちにましますことを固く信じ、万事に超えて主を愛し、主を受け奉らんことを望む。されど今聖体を拝領すること能(あた)わざれば、霊的にわが心に降(くだ)り給え。

主よ、われ主を受け奉りし如く主によりすがりて、わが身を全く主に一致せしめ奉る。願わくは主を離るるを許さず、悪魔のわなより救い給え。

わが心に主の愛の火を点じ、永遠に主の御(おん)ために燃ゆるを得しめ給え。アーメン。」                

訪問者が45000人を超えました。ありがとうございました

2017-10-21 19:10:37 | 1000毎


Yブログの話ですが・・・。

Yブログでログイン出来なくなり、このブログに引き継ぎました。

私が私のブログの中で読んで欲しいのは2つです。

『聖母マリアの栄光』Yブログで完結してます。
『最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道』
Yブログ〜gooブログ連載中です。

いろいろな霊性がありますが、コンソラータは、聖テレーズの霊性を継承したものです。


最も小さい霊魂の会 〜コンソラータへの道 56

2017-10-20 21:22:47 | 最も小さい霊魂の会
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いけにえの完了
「すべては成し遂げられた」をむかえて

1945年に入るとコンソラータは苦痛と病気のため哀れな姿になってきた。腰のあたりからびっこになり、体全体が至るところ傷んだ。
しかし相変わらず、いつも力の限り務めを果たし、例外を求めず修道共同生活のあらゆる義務に参加し続けた。
死亡の原因となった病気は、まだはっきり外に表れなかったし、体と霊魂の苦しみを隠し得たのでコンソラータの病気がそんなに重いとは、誰も夢にも考えなかった。

コンソラータ
「今日の報告は大変粗末なものです。体の全体の不快状態、絶え間のない熱のため、霊魂も肉身もすっかりまいってしまいました。全ての食べ物、黙想、読書などに対して絶対的な嘔吐をもよおし、何かをはじめてもすぐに続ける事が出来なくなります。9月24日、最後の力までふりしぼって負けないように頑張りましたが、とうとう月曜から始まる黙想会の準備のため半日の休みを願いました。寝ていますと、母様がいらして熱をはかり、摂氏38.8度でしたので、ずっと寝ているように言われ今も寝ています。医者は熱の原因がわからず湿布をさせましたが熱は下がりません。結核の人のような空咳が出て、そのたびに胸が振動します。私にチキン卵入りのぶどう酒を与えながら、かわいそうな母様は『神様、どうぞ私からコンソラータをとらないで下さい❗私はコンソラータがどうしても必要ですから』とおっしゃいました。」

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いよいよ最終章に突入いたしました。

多くの聖人たちは人知れず苦しむことを好みます。
聖ファウスチナは、修道会の人にすらあまり知られていませんでした。
むかしの聖人たちは結核などで死ぬことが多いように感じます。
なぜ、これほどまでに苦しめるのか?と思うことがたびたびあります。
私などは弱虫なので、どうなるのかわかりません。
ただ、ただ、与えられる苦しみを耐えているだけです。
自分から苦しみが欲しいなどと口が裂けても言えません。

最近スマホを変えてデータ移動の大半は出来ませんでしたが、ブログはスムーズに引き継ぐ事ができました。

なので、Yブログのようにはならなかったことに感謝しております。
最後まで書き終えたいと思います。
コンソラータを通して、神様が称えられますように。


※なお、最も小さい霊魂の会〜コンソラータへの道の前半はYブログのヨハネノート〜あしあと日記、に掲載しています。
霊的に重要な事が書いてあります。ぜひ、このブログとともにお立ち寄りください。

スマホのデータ移行がやはりうまくいきません

2017-10-17 00:28:25 | 日記
スマホのデータ移行に3時間くらいかかりまして😅

ブログとメール、電話帳はOK。
画像は半分OK,
ダメなのはブックマークとpintrestの画像。
これは痛い。
なので、あきらめて、地上の天使を3枚だけとりました。




子供は大好きなんですが、この地上において持つことが出来なかったんで・・・。
今のスマホ、返却しなきゃならないので、出来るだけ今のようにしたいです。

スマホって、これがネックなんだよね。
大切なデータが簡単に移せないという弱点。

会ってみたい修道女

2017-10-15 22:48:45 | カトリックのひとりごと



ネットを見ていたら、昔の聖テレーズを思わせる修道女の写真があった。
顔は似ていないが雰囲気が何となく似ている。

聖テレーズは、大聖人であるにもかかわらず、生前に取られた写真が多いのだ。

聖ベルナデッタもそれなりにあるが、あまり公表されてはいない。

そう、三位一体の聖エリザベトも多いかもしれない。

昔の聖人たちは御絵が多いから、写真は本当にありがたい。

もし、この修道女が聖人になるとしたらこの写真が崇敬される。

どこかの修道会に聖テレーズにそっくりな修道女がいて先輩修道女に可愛がられているときいたことがある。

その修道女にも会ってみたい。

この修道女にも会ってみたい。

この修道女は御受難修道女会の修道女なんだと思う。

叶わぬ願いだと思うが。

私には会ってみたい人が結構いる。

いずれも叶わぬ願い。

いずれは、天にて会うことが出来るから、その時を楽しみに取っておくこととしよう。