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john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

教訓と思い出22〜幼児らの分け前

2018-11-21 22:41:58 | 教訓と思い出


「聖主はかつてゼべデオの子らの母に向かって、
『わたしの右と左との席は、これはわたしがきめることではない。
その席は、わたしの父がお定めになった人々のものである。』とお答えになりました。

大聖人や殉教者たちに与えられなかったこの特別席は、小さい子どもたちの分け前になるでしょう
と思います。ダビド王もそれを予言して 『 年若いベンジャミンは(聖者らの)集まりを支配するであろう 』
と申しましたでしょう。」

彼女が天国に行ってから、どういう名で祈ったらよいかと尋ねられて、
「小さいテレーズと呼んでください」と、彼女は謙そんに答えた。

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キリスト者ならば、聖書をブログに載せるべきだと何回も感じましたが、私は聖書を載せるべきは我が使命にあらずという結論に達しました。
私の浅はかな知識では伝えきれないと感じました。また、聖書は自分の中で感じ、学んでいくものだと思ったりもしています。
部分的には引用するときもあるかもしれませんが、解説は司祭さまにおまかせいたしましょう。

私が伝えるべきはイエズス様を生きた聖人たちです。
聖人たちを崇敬するのは、だめだという方もいらっしゃいますが、どうでしょうか?
聖人たちは聖書を生きていると考えることはできないでしょうか?
聖書イコールイエズス様であり、神の御言葉なのだと思います。
聖人たちは神の御言葉を生きた人たちなのです。
聖人たちを崇敬してはいけない?
私達は神様を真似るには弱すぎます。
まずは、神の御言葉を実際に生きた聖人たちのレベルまで自分を高めるよう努力すべきではないでしょうか?

それすらも月とすっぽんのレベルかもしれません。
でも、不可能ではないし、努力する価値は例えまったくそのレベルに近づけなくともやるべきだと思います。

神様は、その成果も見ますが努力を見るからです。

例えば、100メートル走をします。
健康な人はある程度の記録は出るでしょう。
でも、身体障害者の人や体の具合が悪い人ならどうでしょうか?
記録は確かに悪いです。
でも、頑張らなかったと誰が言い切る事が出来ましょうか?

努力をしても、成果が出ない人はいくらでもいます。

神様は人間が評価の対象としない部分を見透します。

神様は憐れみ深い方です。

神様のために苦しんだ人を見棄てることはあり得ません。

聖人たちが何もかも完璧にした人間だと考えないでください。
聖人たちも罪を犯しましたし、弱い人間たちなのです。

私が思いますに私達と聖人たちのどこが違うのか?

聖人たちは『神を多く多く愛した』のです。

それが私達と聖人たちの決定的な差なのだと思います。

でも、遅すぎるということはないのです。

今から、多く多く主を愛する事をしましょう。

聖テレーズを愛する先にはイエズス様がいます。

行き着く先は、全ての人がイエズス様なのだと思います。

そして、聖人たちの中で最高の模範が聖母マリア様なんです。


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