苦しみと救霊の絶頂
苦しみを耐え忍ぶこと
コンソラータも救い主のように、殉難の最高潮である「すべては成し遂げられた」という最後の瞬間に達するだろうが、精神、心、肉身の苦しみを完全に忍耐することによって、すでに忍耐の絶頂に達していた。だが、その殉難の最高潮を迎えるため、更に準備することが必要だった。
コンソラータ
「殉難の絶頂はまだ遠い。私はまだ不完全ないけにえです。でも絶え間ない愛の心と、完全な献身の誓約によって、殉難の絶頂へ向かう準備は着々進んでいます。」
「神の恵みに導かれ、まず神と人とに対する愛を完成させ、次に苦しみの忍耐を完成し、その次に『すべては成し遂げられた』がきて、私の道は終わるでしょう。」
「各々の苦しみを、神の道具にすぎない被造物からではなく、直接に神の御手から受けること、そしてその苦しみを、イエズスのご受難に一致させ、愛においてイエズスと御母に感謝しつつ、『兄弟』のために捧げること、そしてその捧げ物を決して取り消さず、それについて全然考えないこと。
苦しみのすべてについて純粋な沈黙を守ること、苦しみは
貴重なとうとい賜物であることを確信し、あらゆる努力を
傾けて、苦しみの全てを微笑みで隠すこと。自分を苦しめる人に、あらゆる隣人愛を持って報いること。」
「ゲッセマニからカルワリオまでのイエズスのご受難にならいながら、深い沈黙のうちに、全然、不平、悲嘆、文句なしに忍耐します。」)
緩和なしに耐え忍ぶ
やがてコンソラータは、全然緩和することなく苦しむという、より難しい誓約を立てるよう恵みによって要求された。
まえには単なる決心によってそのことを励んだが、今や、精神、心、肉身の3倍の殉難がはじまるにあたり、この最も守りがたい誓約によって、コンソラータの意志は強められねばならなかった。
コンソラータ
「・・・私は自分のからだの事を少し心配しすぎ、ある日の午後、気分の悪いため、負けて、眠りました。またその晩も9時にならなうちに寝ました。その時、神の光は、にせのいけにえと、本物のいけにえの羊の差別を悟らせて下さいました。ゲッセマニからカルワリオまで、辱しめられた精神、苦悶された聖心、弱り果てた御体にも関わらず、少しも緩和をお求めにならなかったイエズスを、常に眼前にじっとみつめること、イエズスにならって、どんなに気分が悪くとも、居眠りをしたり、早く寝たりすることによって、楽になろうと全然しないことを誓約いたします。その誓約をたてる日は、無原罪の御宿りの祝日と、恵みによって定められました。
神父様、この誓約が難しい事は、よくわかっております。けれども、神の御助けによりその準備をいたします。」
「・・・貪食の罪あるいは不摂生でしょうか?私にはわかりません。自分の小室におります時、あんまり唇が渇いてもえるようでしたので、少し冷やそうと思って洗面器の水に浸しましたが、思わず負けて水を飲んでしまいました。無原罪の御宿りの祝日の前夜、また、祝日の日にも祝日だからという口実に負けて食事の時、かわきをとめ、皆さんに分配する十分な分け前を私もいただこうと思いました。神父さま、その後の良心の呵責がどんなにひどく耐えがたかったか、書くことができません。私は、自分の臆病を強く感じ、どうしても生活を直さねばならないと固く決心しました。一瞬間でもそんな自己非難を経験するくらいなら、喉が渇いて苦しさのあまり泣くほうがよほどましだと思います。イエズスは私が英雄的であることを望んでおられます。それに寒さとかわきを忍ぶことは、修道会則によって勧められています。さあ、私はその会則を守ることを初歩から始めます。」
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ああ、神秘家であることがいかに大変であるか・・・」
通常の人間ならできない・・・。カトリック者でもできない・・・神の選ばれた器である人間しかできない。
苦しみを全て受け入れ、心の中でさえ不平を言わず、沈黙を守り、微笑み、隣人を愛する。
不可能なことも神により、可能になる。
コンソラータは今、天においてどんなに福楽を楽しんでいるのだろう。
主に従った者の報いは天での福楽なんだよ。
私は、コンソラータのようにはできない。
でも、一生懸命にやってみたい。
ただ、その意志だけだ。
私には、沈黙している神だけがいる。
コンソラータのように指導なんてない。
でも、今日、何故か、いきなりいい香りが鼻を包んだ。
これは、マリアさまが来たしるしかもしれない。
マリア様にお願いしてみよう。
コンソラータのようになれるように。