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john note〜マリアニストの霊的日記

いちカトリック者です。イエズス・マリア様に捧げるブログです。勝手に書いてます。お気にさわりましたらすいません。

教訓と思い出 13〜ご託身と馬屋の奥義に対する信心

2018-08-08 20:40:01 | 教訓と思い出


彼女は毎年3月25日を非常に大きな信心をもって祝っていた。なぜなら彼女が言うには、
「この日イエズス様は、マリア様のご胎内で一番小さかったからです。」

しかし彼女は馬屋の奥義を特に愛していた。
そこで幼きイエズスは単純と委託についてのすべての秘密を彼女にあかし給うたのである。

異端に陥った司教マルシオンが、
「こんなむつき、こんな馬小屋なんて取りのけなさい。神にふさわしくないから」と、さげすんで言ったのに反し、
テレーズは私どもの愛のためにごく小さくなられた御主のご卑下に心を奪われた。
彼女は自分で描いたご降誕の聖画に聖ベルナルドの言葉を喜んで書きつけた。

「イエズスよ、だれがあなたをこれほど小さくさせたのか?― 愛こそ!」

彼女が9歳の時カルメリットになりたいという望みを表した際に与えられた、幼きイエズスのテレーズという名は、彼女にとって常に実際のことであって、彼女はそれにふさわしくあるように絶えずつとめていた。
彼女は次のような祈りをしていた。

「ああ、お小さい幼きイエズス様、私の唯一の宝よ、私はあなたの神聖なお気まぐれに私をお任せいたします。
私はあなたをほほえませる喜び以外の喜びは望みません。
あなたの幼児としての愛らしさと御徳を私におしるしくださいませ。それは私が天国に誕生するその日、
諸天使、諸聖人が私のうちにあなたの小さな浄配、幼きイエズスのテレーズを認めるためでございます。」

彼女が望んだこの幼児の徳は、彼女以前にあのいかめしい聖イエロニモが感嘆したもので、
こうしたために聖人がおとなげないと非難されたりはしなかったものである。

教訓と思い出 12〜幼児の精神

2018-08-07 20:36:28 | 教訓と思い出


幼児の精神

あらゆる場合に私どもの愛する修練長は、彼女の「小さき道」を私どもに指し示した。
彼女の霊生、つまり神に至る方法をこう名づけたのである。
「小さき道を歩くためには謙そんで心が貧しく素朴でなければなりません」と、彼女は断言した。

「子供たちをとめるな、私の所に来るのを邪魔するな、天の国は、このようなものたちのものだから・・・
この子たちの天使らは天にいて、常に天におられる私の父の前に立っている・・・
だれでも、この子供のようにへりくだる人が、天の国で偉大な人である・・・・
かれらをだき、手をおいて祝福された」


私は幼くして死んだ幼児の写真のついた記念画を彼女に見せたことがある。
彼女は指で赤子の顔をさし、愛情深く、また誇らしげに言った。
「この子たちは皆私の配下ですよ」と。
あたかも、後に受くべき「いとけなき者の女王」との彼女の称号をすでに予見していたかのよいうに。

幼きイエズスのテレーズ童貞は背が高かった。162cmあった。
しかしイエズスのアニエス童貞はずっと低かった。私はある日こう言った。
「もしも選びなさいと言われたら、どっちを選びますか?背が高いか低いか。」
彼女はためらわずに答えた。
「何もかも小さくあるために低いほうを選びます」と。

教訓と思い出 11〜謙遜

2018-07-14 07:32:30 | 教訓と思い出


彼女は人が自分について、どう考えようともかまわなかった。たとえ外面上のことで他の人がつまずいても。
それで病気の初めの頃、食事の5,6分前に薬を飲みに行かねばならなかった時、
ひとりの古参の姉妹が驚いて、彼女は規則通りにしないと訴えた。
幼きイエズスのテレーズ童貞は、一言いいわけをして、この姉妹を安心させれば、それですんだのである。
だが、彼女は聖母マリアの御行ないにならって、そうすることを控えた。

聖母マリアは聖ヨゼフに言い開きをなさるより、むしろ中傷されることを選ばれたからである。
彼女は、この非常に単純で英雄的な行為について、しばしば話してくれた。
聖母マリアのように、彼女の一大秘訣は沈黙であった。
彼女は「すべてのことを心に納める」のが好きだった。
喜びも苦しみも。この慎みが彼女の力であった。そしてそれが彼女の完徳の出発点でもあったし、
外面上の特徴でもあった。なぜなら彼女の落ち着きは著しいものであったからである

教訓と思い出 10〜謙遜

2018-07-14 07:28:42 | 教訓と思い出


私はいつでも自分の周囲の人たちにいつもよい模範を示したいと夢見ていた。
私は修練女たちが、私を手本とすることを望んだ。
それで不幸にして不完全なことをしたりすると何もかもだめになったように思われた。

彼女が私に言った。「それは自己を追求するというものです。偽りの奮発、迷いです。
こんな話があります。
ある司教が評判の高いひとりの聖人と知り合いになりたいと思って、側附きの偉い人たちをつれて
会いに行かれました。聖人は遠くから司教がお供つきでこられるのを見て虚栄の心を起こしました。
それでその反対の行動に出ようとして、ちょうど、木の枝につけたブランコに乗って遊んでいる子供たちを
見つけたので、急いでそのひとりをおろし、自分がそれに乗りました。

司教は彼が気違いだと思い、その他のことは別に調べもせずに帰ってしまいました。
しばしばこれと同じく、賞賛を担うのにはまだ充分強くない霊魂は、自分の成聖のために、
時折外見上の善さえも犠牲にしなければならないのです。あなたは転ぶことを喜ばねばなりません。
もし転んでも神様に背くようなことがないならば、自らへりくだるため、わざと転ばなければなりません。

教訓と思い出 9〜謙遜

2018-07-07 14:46:20 | 教訓と思い出


自分が今まで楽しんでいたことや、愉快な考えなどは、たとえそれが敬虔なものであろうと、
それに執着するならばついには心が疲労してしまい、一つの喜びは長く続くうちに悲しみとなるということに
私は気がついた。すると彼女はこう答えた。

「神様においてだけ憩いがあります。そして決して疲らせない真の喜びは、
自己軽べつの中から汲みとる喜びです。それで昨晩のあなたの弱さに関してですが。
(私はちょっと涙を流した。たいへん疲れていたので、朝課がすんでから病人を見舞いに行くことが
辛かったからである。そしてひとりの姉妹がそれを見たのである) 

もしその現場を見た姉妹があなたに徳がないと思うなら、
そしてあなた自身も心の底からそれに同意するなら、それこそ真の喜びです。

― ああ、ごもっともです。私にはなすべきことがよくわかります。それがはっきりわかるのですが、
私にはそれが行ないに出せないのです。いいえ、決して私は善くなれません!

― そんなことはありません。そこまで行かれます。神様が行かせてくださいます。

― そうです。けれどもそれは決して他人の目につかないでしょうし、
私がいつでも転んでばかりいるのを見れば、いつも私が不完全だと思うでしょう。
でもあなたは徳のある人だと皆が認めています。

― それは正に、私がそう思われることを決して望まないからです。
あなたはいつも不完全だと思われていらっしゃる、それでよいのです。そこにあなたの利益があるのです。
自分は不完全であると信じ、他の人々が完全であると思う。そこに幸福があるのです。

人があなたに徳がないと認めても、それはあなたから何も取り去りはしませんし、
あなたをもっと貧しくもしません。かえって他の人々は内心の喜びという点で損をしています。
なぜなら、隣人の善について考えるほど甘美なものはありませんから。
あなたを悪く判断するのはお気の毒ですが、
あなたが神様の愛のためそれによってへりくだるなら結構なことです。

私は彼女に、「私は何だか、ぼんやりしてわけがわからないような気持ちになりました。」と白状した。

― それでもかまいません。神様はあなたの意向をごぞんじですから、

そして私をほほえませるために、わざと私どもふたりがよく知っている隠語で、
「あなたが謙そんであればあるほど幸福になるでしょう。」とつけ加えた。

― ああ、私がこれからかち得なければならない、いろいろのことを思いますと・・・・・・
― むしろ失わなければならない、とおっしゃい・・・・あなたが欠点を取り除くにしたがって、
光輝をもってあなたの霊魂を満たしてくださるのはイエズス様です・・・・・

彼女はしばしば私にこう言った。「あなたは徳を実行するようにはなれないでしょう・・・・・
あなたは山に登ろうとしますが、神様はあなたが自己軽べつを学ぶことのできる豊沃な谷底に
あなたを降りさせようとしていらっしゃいます。」と。

🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾
聖テレーズがセリーヌに言った言葉

あなたは徳を実行するようにはなれないでしょう・・・・・
あなたは山に登ろうとしますが、神様はあなたが自己軽べつを学ぶことのできる豊沃な谷底に
あなたを降りさせようとしていらっしゃいます。」と。

私の今の状態を表しているかのよう。

自分を捨てるとはいかに普通の人間にとって難しい。

地上にいたイエズス様の謙遜とはどれ程のものだったのか。

神様ですらこれほど身を低くされたと思えば、どのようなことであれ、尊いものになる。

何であれ・・・だ。

イエズス様の謙遜
マリア様の謙遜

謙遜の覚え方は、流した涙の回数と忍耐なのかもしれない。

追記・・・
あとから気づいた

あなたは徳を実行するようにはなれないでしょう・・・・・
あなたは山に登ろうとしますが、神様はあなたが自己軽べつを学ぶことのできる豊沃な谷底に
あなたを降りさせようとしていらっしゃいます。」と。

聖テレーズはセリーヌに上から目線で言ったかのような言葉だが・・・

しかし、もうテレーズはすでに谷底に降りていたのだ。
こんなことは、もう、経験済だったのだと思う。
テレーズなら谷底に降りているどころか、谷底に降りて谷底を掘っているまで自己軽蔑をしていたかもしれない。
恐るべし・・・聖テレーズ


教訓と思い出 8

2018-07-05 21:18:04 | 教訓と思い出

また、ある時同じような場合に、彼女は私にこう言った。

 

「不完全であったことが、私には喜びのように思われました。きょう、神様は、私に大きなお恵みをくださいました。よい日でした。」と、それで私は、どうしたらそんな気になれるのかと尋ねた。

 

「私の小さい方法、それはいつでも嬉しそうに、いつもほほえんでいることです。ころんだ時にも勝利を博した時と同じように!」と彼女は答えた。

 

 

 

このように剛毅なこの霊魂は、自分自身を非常に危ぶんでいたので、大罪をも犯しうると信じていた。

 

彼女は十字架上のイエズスの聖画の下に次の言葉を書いておいた。

 

「主よ、私があなたをお愛ししていることはよくごぞんじでいらっしゃいます。 

 

けれど私をお憐れみくださいませ。私は罪びとにすぎませんから、と。

 

これは彼女の常日頃の心がけをあらわしたものである。

🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾🐾

似てくるものですね。

真似てきた霊性が不完全ではあるものの、似てくるものですね。

最近は誉められても全然うれしくないし、むしろ、そういう気の使い方はやめてほしいと思うぐらいで。

苦しいときもうれしい時も常に平常心で。

自分はいつ悪くなってしまうかわからないので信用しないでくださいと主にいうときもありますし。

まだまだ自分を捨てきれていないんですね、きっと。

それでも、イエズス様、イエズス様なんですよ。

マリア様も同じく😊

前におばあちゃんっこだって書きましたが、イエズスさまっこ、まりあっこなんですね、きっと。

離れられません😄

 

 

 


教訓と思い出 7〜謙遜

2018-06-23 21:52:29 | 教訓と思い出

徳を実行していない時に、それは病気のせいだとか天候とか悲しみとかいう

 

自然的な原因によるのにちがいない、などと決して信じてはなりません。

 

あなたが、そこから辱しめの大きな材料を引き出して小さい霊魂の列に加わるはずです。

 

あなたは弱々しいやり方でしか徳を実行することができないのですから。

 

 

 

今のところあなたに必要なことは英雄的徳を実行することではなく、謙そんをかち得ることです。

 

それがために、あなたの勝利にはいつも失敗がまじっていなければならないのです。

 

あなたがその勝利を嬉しく思うことができないように。

 

かえってそのことを思い出すと自分が偉大な霊魂ではないことに気づき、あなたをへりくだらせるでしょう。

 

地上にいるかぎり、被造物に尊重される喜びを決して持たない霊魂があります。

 

これによってその人は、他人において感嘆する徳を自分自身が持っているということを信じられないのです。

教訓と思い出 6〜謙遜 その3 〜善意

2018-06-16 20:52:41 | 教訓と思い出



シュラン師の伝記に書いてあることをお読みになりましたか?彼は悪魔払いをしていました。悪魔たちは師に
こう言いました。『俺たちは何でもかんでもやっつけてきた。だか善意というあの仔犬(善意)のやつだけには、
どうあっても抵抗できないのだ』と。

そう、あなたが徳を持っていらっしゃらないとしても、仔犬は持っていらっしゃいますね。
これがすべての危険からあなたを救ってくれるでしょう。ご安心なさい。この仔犬(善意)はあなたを天国に連れて行ってくれますから ― ああ、徳を持ちたいと望まない霊魂がどこにあるでしょうか!それはだれにも共通な道です。
しかし倒れたり、弱かったりすることを承諾する霊魂、自分がころび、
他の者がその現場を押えるのを喜ぶ霊魂はなんと少ないことでしょう!

教訓と思い出 6〜謙遜 その2

2018-06-16 11:38:15 | 教訓と思い出


修団で祝いごとがあって、彼女の作った「敬虔な劇」を上演したことがあるが、
あまりに長いというので彼女は叱責され、それは中止させられた。


舞台裏で彼女が数滴の涙をそっと拭いているところをはからずも見つけた。
しかし彼女は再び自分に打ち克って、辱めを受けながらも平静に温和にとどまった。
テレーズ童貞は、あらゆる非難を天的な喜びで受けた。長上からばかりでなく、目下の人からも。
それで彼女は修練女たちから、いやなことを言われるのをそのままにさせておき、
決してその場ですぐに彼女たちを叱らなかった。

「正当なご注意でしたら喜んで受けるのですが・・・私が悪ければ当然だと思いますから。
けれども私に過失がなければお叱りなど堪えられません」と私が言うと、彼女は聞きとがめて、

「私でしたら、それと全く反対です。不正当にとがめられるほうを好みます。
自分には何もとがめることがありませんから、そして私は神様に、喜んでそれをお捧げいたしましょう。
次に私にしても、そのとがめられたことをやりかねないと考えて自らへりくだります」と。

「謙そんは真理であると私には思われます。私は自分が謙そんであるかどうかわかりませんが、
すべてのものの中に真理を見ているのは確かです。」と彼女は単純に打ち明けた。
自分を弱き者の間に置くのが彼女の習慣であった。そこから「小さき霊魂」という呼び名が始まったのである。

修練女のそれぞれに彼女が個人的に与えた教えの中で、彼女が落ち着くところはいつも謙そんであった。
彼女の教えの土台は、自分が弱さそのものであることを見ても悲しまず、
むしろわれらの弱さを誇ることを教えるにあった。
「自分が弱く小さいものであることを感じるのは、いかにも快いことです。」と彼女が言っていた。

教訓と思い出 5〜謙遜

2018-06-10 14:32:01 | 教訓と思い出


人々があなたに命じあなたをとがめるのを愛する。

彼女はこう言うのが常だった。
「特に心が謙そんでなければなりません。ところが皆から命令されることを望まない限り、
あなたは少しも謙そんでないのです。物事がうまくいく時にはあなたはよいごきげんですが、
自分の思い通りにならないと、たちまち顔色が変わってしまいます。そんなのは徳ではありません。
徳ならば「謙そんして、すべての人の権下に屈服して」(キリストの模倣三巻49・7)
とがめられるのを喜ぶはずです。

努力をしていても初めのうちは不満が外に現れて、皆はあなたが不完全だと思うでしょう。
そこが一番いいところなのです。
なぜなら自分が欠点だらけだと考えたり言ったりするのではなく、
他の人々が同様に考え、また言うことさえ嬉しく思うというところにある謙遜を実行なさるでしょうから。
隣人が時折、私どもをけなすことをたいへん喜ぶべきです。
というのは、だれもそういう仕事をする人がいなければ私どもはいったいどんなになるでしょうか。
ですから、それは得なのです。」