自燈明・法燈明の考察

日蓮を切っ掛けとして、仏教やこの世界に対する思索を始めました。

法華経の思想性について(12)

2020年03月31日 12時39分55秒 | 仏教関連
 ここまで法華経の思想性について、つらつらと私の私見について書き連ねてきました。ここで書いた私見は、けして「正しい」とか「正義」なんてものではありません。そもそも正しいとか正義なんてもので、自分自身の思想を判断するのは、おかしな話なのです。「正しい」も「正義」も、自分の思想性の後についてくるものであって、その思想性の前に来るものでは無いと思います。

 創価学会にしろ、日蓮正宗にしろ、自らの正しさを雄弁に語りますが、考えてみればそこで語られる内容とは宗教という組織から与えられた思想を「正義」「正しい」と教えられ、そのまま飲み込んでいるだけなのです。そしてそこには思想性の深化もければ、当然、心の理解を深めるという事は無いのです。

 自分自身の人生を理解するには、自分自身で自分の中にある「心」を観察しなければなりません。仏教とはそういう「自分の心」を理解する事を目的とした思想であったはずであり、けして一宗一派に人々を縛り、思考を縛るものではないはずです。でもそこを理解しない限り、いくら「門前の小僧、習わぬ経を詠む」となり、仏教の教学を語り、経典を読誦しても、そこに隠されている真意を理解する事は出来ないと私は考えているのです。

◆人の心について
 法華経は釈迦の直説ではありません。この事について、このブログでは幾度も書いてきました。この法華経とは紀元前1世紀頃に成立した経典であり、「如是我聞(如の是く我聞きき」という言葉で語られ始め、そこには釈尊が登場し、様々な言葉を弟子たちに語っています。しかし実際に語ったのは「実在した釈迦」ではなく、人々が「瞑想の中で出会った釈迦」であり、教えを聞いた人も釈迦の十大弟子等では無かったという事です。

 こういった成立の過程を知った時、例えば近年、ニューエイジ分野で語られる「神」との対話と、この法華経はいかほどの違いがあるというのでしょうか。そういう事を考えた時、日蓮が語ったという「五重の相対」といった「教判」に、私は意味を見出せなくなりました。

 さて、先にも書きましたが法華経の二箇の大事と言いますが、一念三千と久遠実成で明かされた仏と衆生との関係とは、一般的な仏教で語られているものとは異なっています。
 ここで言う久遠実成の釈迦とは、無始無終の存在であり、その久遠実成の釈迦がこの娑婆世界に仏として出現する一方で、その仏から教えを受ける衆生として存在する事を明かしたのです。そしてこの関係性を別の言葉では「九界即仏界」「仏界即九界」という言葉で示したりしています。

 この事と近似的な内容が、実はニール・ドナルド・ウォルシュ氏の「神との対話」の中にも書かれていますので、そこについて紹介します。

◆ニール氏の語る「神」
 この「神との対話」は、チャネリングで神と対話をした言われていて、そこだけ考えると、とても「眉唾もの」と感じそうですが、実はニール氏、一日の終わりに自身が過ごしたその日の事を、神に対して手紙を書くという習慣を持っていました。そして人生で行き詰ったある時、その思いのたけを書き連ねようとした時、よく言う「自動書記」の様に、文字を媒介としての対話が始まったと言うのです。

 先の法華経の成立が、「釈迦に合いたい」と瞑想するグループから発生したと言う説、また天台大師の開いた天台宗は、当時の中国では「禅宗」と呼ばれ、「内観(心の中を観察する修行)」に重点を置いてきたと言いますが、ニール氏の「神との対話」についても「日々の自分を思い返す(内観)」に近い事から始まっています。
(因みに日本で言う「禅宗」とは、天台大師の時代の中国では「達磨宗」と呼ばれ、区別をされていたそうです)

 そしてそこで対話する「神」は以下の様に語ったのです。

「それでは先を進めよう。さて、あらゆるものを包み込む無、それをある人々は神と呼ぶ。だが、これも正確とは言えない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしはー見えるもの見えないものを含めてー「存在のすべて」だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、空といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある、そう信じる者は正確に理解している。」

 私はこの表現に「久遠実成の釈迦」と同質なものを感じています。また続いて以下の様に語っています。

「「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ。同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。」

 これは久遠実成の釈迦と衆生、また衆生と仏という関係性にも近い内容が書かれていると思いました。

◆心の普遍性から考える事
 私は人の持つ心というのは、人類共通であり、それは宇宙全体にも普遍的に広がっていると考えています。確かに人類を見た時、そこには人種があり、文化を背景にした民族があり、見た目ばかりではなく性質も異なっている様に見えます。しかし奥底に共通な心があれば、そこから紡ぎ出される思考やその言葉の奥底には、普遍的なものがあるはずです。
 そうであれば「内観」と言って、心の奥底を覗き込む事で、理解されるものとは普遍的なものがあるはずで、ただその理解したものを「言葉」や「文字」で表現する際に、文化を背景にした表現になってしまう事から、別のモノに見えてしまう事はあると思うのです。
 そこから考えて行けば、法華経を突き詰めて読み込む事と、西欧文化の中で育ったニール氏等が理解した事は、共通な事があっても何ら不思議ではないと思います。

 私は以前に「創価学会の正義こそ真実である」と信じていた時期もありましたが、その組織から距離を置き、世の中の様々な思想に触れる中で、¥創価学会のみが正義」という事ではなく、実は普遍的な事に触れた人というのは、この世界に多くいるのでは無いかと考える様になったのです。

(続く)


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立正安国論について考える(2)

2020年03月29日 17時08分25秒 | 日蓮仏法再考
 さて、立正安国論について考える事を続けていきます。
 創価学会もそうですが、その派生元である日蓮正宗でも「広宣流布」という事を語り、日蓮仏法という日寛師の教えを広める事で、この社会が安寧で平和になると言っていました。しかし立正安国論では、そういった宗教行為については否定的な言葉が書かれています。

「然る間或は利剣即是の文を専にして西土教主の名を唱え或は衆病悉除の願を持ちて東方如来の経を誦し、或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め或は七難即滅七福即生の句を信じて百座百講の儀を調え有るは秘密真言の経に因て五瓶の水を灑ぎ有るは坐禅入定の儀を全して空観の月を澄し、若くは七鬼神の号を書して千門に押し若くは五大力の形を図して万戸に懸け若くは天神地祇を拝して四角四堺の祭祀を企て若くは万民百姓を哀んで国主国宰の徳政を行う、然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり」

 この部分を読み解くと、世の中が悲劇に見舞われている間、ある人は「利剣即是」の文により阿弥陀仏の名号を唱え、ある人は「衆病悉除」の願掛けをして東方薬師如来の経典を読誦し、ある人は「病即消滅不老不死」の言葉を信じて法華経お経文を崇め・・とある様に様々な宗教的な行いや祈祷を行ったとあり、最後には政治で「徳政令」を施行した事も述べていますが、これらは一向に状況を改善する事にならないばかりか、悪化の一途であったと言っているのです。

 人の社会というのは、人が制御できない状況に陥ると、そこで宗教的な行為にすがるという事が往々にして行われる事ですが、そういう事が如何に無意味である事なのか、この立正安国論の冒頭で語られているのです。

◆日蓮が思考した事
 立正安国論で日蓮が思考したのは、どういった事なのか。この冒頭の部分を観ると「或は病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め」と書いてある様に、単に法華経を弘める事や経典を崇める事すら、当時、既に懐疑的であったという事が解ります。では日蓮は何が原因であったと考えていたのか。

「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。」

 ここで自身が思考した結果、社会が「正しい」事に背き、全ての人が「悪に帰す」事から諸天善神は国を捨て、国を守るべき聖人もどこかに行ってしまった事から、変わりに国に「魔来り災起り難起る」となったと言うのです。

 そして日蓮が立正安国論で鎮護国家三部経である「金明光経」や「仁王経」等の経典を、単なる「功力のある経典」と崇める事ではなく、大乗経典の最高峰である法華経に対する「解説書」として読み解きました。各経典の「此の経」という経典を法華経として解釈し、法華経の教えを軽んじてしまった事から、これらの災害が起きたという理論を述べたのです。

 従来の官僧であれば「これらの経典には法力がある!」と言って、それまでは儀式として講義をしたり、読誦をしたものを、これらの経典に法華経を中心とした解釈を与え、展開したのです。つまりこれは「経典の法力」というものを否定した事であり、仏教という思想の本来の在り方を示し、それに則る事を「正しい」とし、それに則らないものを「悪」としたのです。そしてその「悪」を当然の事として受け入れている事が、そもそもの問題であるという事を提起したのが立正安国論なのです。

◆現代にとってどう解釈すべきか
 また当時の社会の構造は、その根底には仏教思想があった時代です。その時にその仏教思想に対して「正しい」「悪」という観点を示し、そもそも社会の在り方について提起をしたのが立正安国論です。

 しかし現代の社会の根底には、既に仏教はありません。いや、従来の仏教を社会の思想の根底に置く事は、今の社会では取りえない時代なのです。何故ならば社会にはキリスト教もあればイスラム教もあります。また神道やその他の宗教の人達も居るのです。社会に生活する人も、日本人だけではなく、世界に目を向けても多種多様な文化を背景に持った多くの民族が共存する社会となっています。

 この様な多様性のある社会であり、且つ近代国家は「政教分離」を定め、特定の宗教に肩入れする事を否定している中で、仏教の事だけを指摘して「これは正しい」「これは間違いだ」という事を言えるほど、単純な社会ではありません。
 また近年になって、大乗仏教の成立について、幾つかの歴史的な研究も進んできましたが、そこでは天台大師智顗の主張した教判(宗教の比較相対)も、あまり意味の無い事が解ってきました。だからそれを引き継いで構築された日蓮の「五重の相対」という理論も、今の時代ではあまり意味を為さないものとなりました。

 唯一、仏教の中から取り入れられる思想としては、久遠実成や一念三千に象徴される心の仕組み。また般若経に述べられている「空観」といった思想などは、新たな思想構築としては取り入れられるべき内容なのかもしれません。

 要は立正安国論冒頭にある「様々な宗教行為の否定」にある様に、単なる宗教行為や、その宗教を弘める事で社会が安寧になるという事ではなく、その社会の根底にある人間観、社会観に対して切り込みをかけて行かない限り、社会の安寧や平和は訪れる事が無いと理解すべきなのです。

 そう考えると単に「経にいわく」という文言を引用して指摘しただけで、いま世界が武漢肺炎で大混乱している状況や世の中の混乱に対して、明確な回答を出せない事は明白な事だと思いますよ。

 こういった事、宗門の信仰人や創価学会のバリ活動家は苦手ですよね。でも少しは考えてほしいものです。

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法華経の思想性について(11)

2020年03月26日 11時07分52秒 | 仏教関連
 昨日、東京都の小池都知事の会見が行われました。内容は武漢肺炎が東京都内で急速に拡大する兆候があった事から、週末の不要不急の外出自粛、また企業についてもテレワークの実姉を要請するというものでした。



 最近この武漢肺炎により、今まで見た事もない情景を見せられています。ヨーロッパを中心とした大都市のロックダウン(都市封鎖)、また教会内に並べられる棺桶や、その棺桶を搬送する軍用車両。(これらは主にイタリアですが)
 終末思想(ハルマゲドン)は、過去からヤソ教(キリスト教やイスラム教、ユダヤ教)では言われていましたが、少なくとも私の親の活躍した時代では、この様な世界の情景を見た事は無いでしょう。恐らくこういった感覚を持った人は今の世界に多くいると思います。
 以前に心理学者のカール・グスタフ・ユング氏は、第一次世界大戦の予兆を、自らの夢判断で予知していたという話を聞いた事があります。それは集団深層心理にあふれている不安の情景が、自らの夢にも反映されたものと分析をしていたと思いますが、世界中の人々の心の中に、今回の武漢肺炎による恐怖がどの様に影響を与えていくのか。それによって、今後の世界の動きも変わってくるのではないでしょうか。

 この時代だからこそ、私は大乗仏教の「最高峰」と言われる法華経の経典を、自分自身で読み進め、その内容を公開する事にも意味があると思っています。まあ、極めて個人的な思いでしかありませんが。

 という事で、今回も法華経の内容について読み進めていきたいと思います。

◆滅後の弘教について
 日蓮正宗や創価学会では「広宣流布」という事を語らってきました。戦後の日本の中で「折伏(しゃくふく)」なんていう言葉が認知されたのは、主に創価学会が行ってきた強引な組織拡大の活動によるものですが、この「折伏」も「広宣流布」の活動の一環で行われてきたものです。そしてこの「広宣流布」という言葉が書かれているのが法華経なのです。

 それでは法華経の中で、広宣流布という事をどの様に語っているか、今回はその部分の内容となります。

 釈迦の滅後の弘教の規範である不軽菩薩の姿を説いた常不軽菩薩品第二十の後、如来神力品第二十一で、地涌の菩薩達は釈迦滅後の弘教を釈迦に誓います。すると釈迦は嘱累品第二十二でそれら地涌の菩薩の頭をなでながら滅後の弘教を託します。

 また虚空会はこの嘱累品第二十二で散会となり、説法の場所は霊鷲山に戻ります。

 虚空会が終わり、その後いきなり宿王華菩薩というのが登場し、釈迦に対して薬王菩薩が娑婆世界で遊行している因縁について質問をします。釈迦はこの宿王華菩薩の質問に答えて、薬王菩薩は過去に日月浄明徳如来の下で、一切衆生熹見菩薩として自らの体に油を塗って火をつけて供養した事を述べ、その功徳により日月浄明徳如来から付嘱(後世を託される)された事を明かします。

 そして釈迦はここで宿王華菩薩に対して広宣流布について語ります。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」

 創価学会では、末法という時代(釈迦が滅してから二千年以降)に広宣流布を託されたのは地涌の菩薩であるという事を言いますが、法華経において広宣流布を託されたのは宿王華菩薩でした。

 確かに従地涌出品より以前、様々な菩薩が釈迦滅後の弘教を求めましたが、その場で釈迦はそれらを退けていました。そして嘱累品ではそれら地涌の菩薩に対して、滅後の弘教を託しましたが、この薬王菩薩本事品では、名もない宿王華菩薩に対して「後後の五百歳」と末法を指向し、そこでの広宣流布を託しています。

 この事を考えてみると、日蓮正宗で語っていた「本未有善(下種を受けていない人達)」だから、末法には地涌の菩薩だけが、日蓮大聖人の持つ下種仏法を広げるという広宣流布観とは違う事が解ります。

 確かに釈迦は法華経の展開で、地涌の菩薩に対して付嘱をしましたが、そこで他の菩薩達を退けてはいないのです。

 ここから考えてみても、実は日蓮正宗や創価学会が唱えていた弘教観というのは、法華経とは異なる事が理解できるのではないでしょうか。

(続く)

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法華経の思想性について(10)

2020年03月25日 10時02分41秒 | 仏教関連
 武漢肺炎は世界100か国以上に感染拡大しました。これはまごう事なきパンデミック状態です。ヨーロッパ各国では人の往来を制限し、経済活動に制限がかかっていて、人々は日々の生活にかなりの支障をきたしている様です。そんな中、各国政府は国民を守るために経済的な緊急支援を行っている状況です。
 しかし日本では、「経済対策」という事で、何故か商品券や旅行の助成などに政府は財政出動を考えているようで、失業等については一時貸付制度で食いつなげと言っています。



 こういった日本政府の行動に私は疑問を禁じ得ないのですが、あまり疑問に感じている人はいない様ですね。報道もどちらかというと、この動きに肯定的な内容が多い様に思いました。何故なら麻生大臣の言葉に反論するマスコミが居なかったですよね。

 この日本の動きですが、私は若い頃には創価学会の広宣流布という言葉を信じ、選挙活動もしましたが、その他にも様々な活動に時間を割いてきました。そしてその根底にあった思いとは「仏国土」と呼んでいましたが、日本人や世界の人々が安穏で平和に生きていける社会の構築という事でした。
 そんな活動の結果、創価学会の政治部門の公明党は政権与党に入り、大臣も輩出する様になりましたが、それが今の日本の実態です。私が創価学会の活動に疑問をもつ一つの切っ掛けが、この事からでした。

 公明党が政権与党に入っても、国民の生活は困窮の一途ではないか。
 何故、創価学会の活動家幹部は、こういった基本的で且つわかりやすい事に対して、何ら意見をいわずに、信濃町や公明党に反論もせず容認し、しかも放置していながら集票活動に必死となり役立たずの議員を国政に送り続けているのか。

 大いなる疑問でした。
 そして、その原因を創価学会の思想面に求めて調べてみたら、これが明確に理解出来ました。

 このブログに書いている事は、そういう事について、私見ですが書かせてもらっています。お時間のある方は読んでみてください。

 今回も法華経の思想性について書き進めていきます。

◆滅後の弘教の姿
 如来寿量品では「久遠の釈迦」としての言葉を語っていますが、それ以降の説法では「久遠の釈迦」を明かした後の在世の釈迦として言葉を語っていきます。そして滅後(入滅後)の法華経の弘教の事について語っていきます。その一つの例として語らうのは「不軽菩薩」としての過去世の姿です。

 この不軽菩薩の事が説かれているのは常不軽菩薩品第二十です。この話は、大昔に威音王仏という仏が居て、その像法時代に不軽菩薩というのが居たという事から始まります。この菩薩は人々に対して以下の言葉を述べて礼拝したと言います。

「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。」

 これは別名で二十四文字の法華経とも呼ばれていますが、内容としてはこの様な事です。

「私は貴方たちを尊敬します。けして軽んじる事は致しません。何故ならばあなた達は菩薩の道を行じた後に仏となるからです。」

 この様な言葉を述べながら人々を礼拝して回りましたが、人々はそんな不軽菩薩に対して「この坊主は私達を軽んじないと言いながら、私達が成仏するなどと嘘の約束を言って回るのはとんでもない事だ!」と言い、不軽菩薩に対して罵詈雑言して、石礫や杖などで殴り掛かる人も居た様です。

 しかし不軽菩薩は、それらの攻撃をうまくかわしながら、ひたすら礼拝行を続けたと言います。そしてこの不軽菩薩の行動こそが、釈迦滅後の弘教の規範という事とされたのです。

 ここで考えなければいけないのは、不軽菩薩は何も小難しい言葉を語っていないという点と、迫害する側の人々は「自分達が仏になれるはずはない」という思い込みです。また迫害についても不軽菩薩は「莞爾として受けきる」という姿勢ではなく、それらの迫害を軽やかに避けながら、二十四文字の法華経を人々に対して「語り続けた」という事です。いいですか、二十四文字の法華経を「数多く唱えた」という事ではなく「語り続けた」という事なのです。

 釈迦は法華経の心を「十如是」「二乗作仏」「久遠実成」という事で、妙法蓮華経で説きました。そして不軽菩薩は、その心を二十四文字の法華経という形で人々に語り続けたのです。

 そうであれば、仏教でいう弘教とはどういう事をするべきなのか。そこは考え直さなければならないのではありませんか?

 単に「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのか、それを数多く唱える事を重要視するのか、はたまた文字曼荼羅をばらまく事なのか。

 私は違うと思うのですけどね。

 いま創価学会の活動家や、元活動家で正しい創価学会の復帰を求める人、また宗門で信心をする人達は、なにやら宗教行為やそれに付随する聖堰を弘める事を「広宣流布」と呼んでいますが、実は広宣流布とは、久遠実成で語られている様な心のしくみを理解して、実社会の中で、一人ひとりが自分の言葉で語り・弘めていく事を求めているのではありませんか?

 私は常に「自分の言葉で語る」という事が大事だと考えているのは、こういった不軽菩薩の行動を読んで感じたからなのです。

 やれ「化義」だしきたりだ、組織の都合だ。
 そんなことは一切関係ないと思います。

(続く)

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人類とは何者なのか

2020年03月23日 09時11分19秒 | 思う事
 今日は近地出張で移動しています。職場の基本スタンスは「会社に来るな!家で仕事しろ!」という事で、ノートパソコンを支給されているので、クラウド環境を利用した構成で、普段はテレワークをしています。しかし機械に関係することや、お客様の要望があれば、それでは対応出来ずに出張したりもあるのです。

 昨今では「オーバーシュート」なる横文字が活発に報道されていますが、要は大流行という事でしょう。イタリアの現地の映像を見ましたが、教会に棺桶が並ぶ状況には戦慄すら覚えます。つい一ヶ月前まで、その風景は中国の武漢の情景でしたが、いまやヨーロッパに移った感じがします。
 無論、元々の根源である中国は「抑え込み成功モード」で、様々な動画が上げられている様ですが、昨日、中国の武漢で再拡大の兆しがあるという報道も流れていました。

 私が個人的に懸念しているのは、アフリカ諸国に拡大が進んだ場合、より悲劇的な事が生じるのではないかという事です。衛生面や医療施設のインフラ面、また人々の習慣等を考えると、アフリカでも急速に拡大するのではないでしょうか。

 振り返ってみると、こういった「パンデミック」は人類史の中で、百年毎に起こっていました。スペイン風邪は1918年から1919年。1800年代にはコレラ。1500年代には天然痘。その前にはペスト等。過去の時代は医療も進んでなかったので、多くの犠牲者を出しながら、人類は生き残ってきたと言えます。

 そこから考えると、今回のコロナウイルスによる武漢肺炎などは、人類社会の中で、まだ惨劇という状況にはなってません。ただ問題なのは、現代はグローバル化した経済のつながりがあり、この様な伝染病が拡大し、経済活動が低迷すると、得てして人類社会は混乱し、そこから戦乱へと移行してしまうという懸念が大きくあるのではないでしょうか。

 こう考えると、この「経済」という事、いや、その根底にある「資本」という事は非常にそら恐ろしい事に感じてしまいます。人間(ホモ・サピエンス)という我ら種族は、社会的な生物です。そしてその社会の中で生きていくにも、いまの構造では資本(お金)の流れの中にいないと、社会の持つ様々なサービスを享受できず、生きて行く事すら困難です。
 この事を簡単に言えば、お金を持っていなければ、食料にもありつけず、住む所すら確保できず、高度な医療があったとしても、その恩恵に預かる事すら出来ないのです。つまりお金は個人が人類社会の中で生きて行くには、不可欠なモノなのです。

 例えばいま話題の「東京オリンピック開催の可否」についても、その背景には国際オリンピック委員会(IOC)が、アメリカのテレビ局から放送権という事で、多額の資金を得ています。だからもし中止となれば、そこで発生する損害賠償などは巨額に登り、大きな混乱を招く事が想定されます。バッハ会長が優柔不断に見える背景には、そんなIOCの事情があるようです。
 日本の対応についても、恐らくそんなお金(資本)に纏わる様々な縛りというのが、存在するのでしょう。

 仏教では、人の心の中には第六天魔王(他化自在天)が居ると説きます。これは他者を自在に操る事で、幸福を感じるという働きですが、私はこの姿が現代で一番現れているのは「資本(お金)」だと思っています。人はお金のためなら、容易に信念や信条を捨て去る事が出来ます。
 よく考えてみて下さい。昨今、話題としてぶり返して来ている森友学園の事についても、政治腐敗だ安倍総理はけしからんだと言いながら、その根底にあるのは「お金」です。また先にも述べたように、東京オリンピックの一連のイザコザの根っこにもお金が絡んています。戦争が起きるのも資本が関与し、武漢肺炎の感染拡大の問題の根底にあるのもお金です。

 人類を自在に操っているのも、この資本ではないでしょうか。
 そして興味深い事ですが、今の国際社会で紙幣の発行権を持っている中央銀行の大半は、政府とは別の独立した組織です。日本も日本銀行という株式会社ですよね。

 ここで考えなければならないのが、そういった中央銀行を操っているのは、どんな存在なんでしょうか。日本銀行を例に取れば、その「株主」の大半は非公開です。

 この仕組みって、一体何なんですかね?

 こういう事を考えたとき、やはり今の人類社会には「幕間の脚本家」が居るような気がしてならないのです。これはあくまでも私個人の私見ですけどね。

 ここからは私見です。
 この人類社会の幕間の脚本家達は、この先の人類社会に、一体、どの様な筋書きを用意しているのでしょう。そこは見えませんが、垣間見える事から感じるのは、とてもグロテスクな事です。

 そして人類社会が、その筋書き通りに動く事は、資本に人間が首根っこを抑えられている限り、あがなう事は困難な事だと思いますね。

 唯一の可能性は、人がこういう自身の心の仕組みを理解出来るかにかかってくると思いますが、どうやらそれも難しそうです。


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