自燈明・法燈明の考察

創価学会の選挙活動について

 GWの最終日。近所を散歩して、今しがた帰宅しました。
 新コロナウイルスのパンデミックにより、テレワークという自宅での勤務も始まり、はや2か月が過ぎました。普通であれば通勤の時、移動で歩く事から、あまり運動を意識をする事がありませんが、自宅勤務になると朝から晩までノートパソコンの前に座りっぱなし。自分で意識をしないと運動不足になるのは、ほの確定となります。

 だから散歩は今の私にとって、大事なルーティンなのです。

 さて、創価学会の政治活動についてツィッターで「政教一致」の事を見たので、軽くリプライをしました。



 すると創価大学法学部卒という方から以下のレスがありました。

 >政教分離の理屈はやもすると
 >「木を見て森を見ず」の議論になる。
 ・・・で?
 何か『法的に問題』があるとでも?
 ・・・無いよね?
 アンチ学会:「法的に問題がある!」
 学会:「この様な理由で、法的に問題ないよ!」

 私は別にこの方へのツィートで、創価学会の組織としての政治活動に法的な問題あるという事は一言も言ってません。これらについては過去に内閣法制局長の答弁で以下のものがある事は充分に知っています。

(創価学会は)宗教団体と国政を担当する者は別個の存在なので違憲ではない
 (平成7年11月大出長官)
宗教団体が支持している政党が政権に参加しても憲法の政教分離の原則に違反しない
 (平成11年7月大森長官)
宗教団体と密接な関係にある政党の候補者が当選し国政を担当するに至る場合でも憲法上問題を生じない
 (平成11年12月津野長官)

 その事から創価学会と公明党が「法的(建前上)」、憲法や各種法律に従い「政教分離」をしている事は理解しています。だから法的に云々という事は言いません。

 ただし法律の問題以前に、様々な問題があるという事を指摘したいのです。ここで私の経験を元に、少し書いてみたいと思います。

◆政党支持の自由について
 私は男子部という組織では幹部をしていました。ある時、ある支部組織に呼ばれ、そこで行われた会合の担当幹部として出席した事がありました。事前にそこの支部の責任者から、ある地区幹部が公明党支持に納得していないので、何とかしてほしいと言われていましたが、私自身、政治信条の自由とは憲法で定められている事なので強制は出来ない旨の話をその支部幹部にはしていました。

 さて会合に参加し、その地区幹部と話をしてみると、年金の公約、またそれまでの公明党の活動について、彼自身が熟慮した上で、その時の選挙では公明党は支持できないという話でした。

 私はそれを聞いて、政治の選択は個人の自由である事、また熟慮の上であれば別に異論はないので、問題ないとの話をその会合でしたのです。

 その後、家に帰宅した深夜、私の処に県男子部長から電話が入りました。その電話の内容は「斉藤ちゃん、えらい指導してくれたじゃん!」という内容で、要は私が公明党の支持を地区幹部に強制しなかった事から、支部幹部から直接、県男子部長にクレームが入ってきたというのです。
 当時の私は、県男子部長に「いやいや、でも私の話は法的に問題がありましたか?」と聞くと、「いや~・・・そういう事では無いんだけどね、部長の〇〇くんがオカンムリだから、やっぱ担当幹部としてはまずいんでは?」と言われました。

 別に創価学会幹部であったとしても、一人ひとりの政治信条は守られるべき事のはず。私はそう考えていたので、この時の県男子部長の話は無視をする事にしました。

◆信仰と政治信条は別である
 これは後に学会の職員幹部になった後輩との会話です。
 ある時、私は通勤の車中で地元の創価学会の後輩と会いました。当時は選挙戦でしたが、私自身、当時の公明党の政策には既に納得していない事もあり、選挙戦とは言っても公明党の支援は学会幹部であっても義務では無いのではという話をしたのです。すると後輩は言いました。

「斉藤さん!創価学会で信心したのであれば、公明党を支持するのは当たり前じゃないですか!!」

 その言葉に私は言いました。

「いや、信仰と世界と政治の世界は別であるべき。それでなければ戸田会長の遺言である”政治を監視する”なんて出来ないだろう」

 しかしその後輩は全く、納得すらしませんでした。

 ここで私はある思考実験を考えました。
 政治というのは自分の仕事にもなる事です。ある青年が自身の政治的な理念として共産主義を信奉していたとします。しかしそれとは別に、心の拠り所の考え方として創価学会の考え方に共感し、創価学会に入会したとします。
 もしこの青年が、自分の政治的な行動や理念に従い、共産党候補として立候補したとします。そしてその地元には既に公明党の議員がいた場合、一体、この青年はどの様になってしまうでしょうか。

 私の経験から言えば、この青年は「仏敵」と呼ばれる事になります。何故なら地元で既に議席を持っている公明党議員の得票数を減らす要因になってしまう事から、創価学会の組織からした場合には「大事な票を減らす人物=仏敵」として認識されてしまうからです。そして彼の個人的な情報を組織の裏で徹底して調べられ、そこから得られた内容で不都合なものがあれば、十中八九、ネガティブ・キャンペーンのネタとされてしまいます。
 その結果、本来は同じ宗教を信じる「仲間」という人達から、この人物は徹底した攻撃を受ける事になるでしょう。

 でもこれって、宗教団体として正しい姿勢なんですかね?

◆政治に対する基本的な無関心
 公明党の政治的な行動には、多くの問題があります。近い処で言えば子宮頸ガンワクチンの薬害ともいえる副作用に対する政党としての姿勢とか、安全保障問題に対する姿勢です。当然、私はこの2つの事について問題視をしていたので、地元の組織の壮年部幹部に意見をぶつけました。すると幹部からは以下の言葉がありました。

「斉藤君、君の想いはわかるけど、公明党の議員でもし裏切り者が出たとしても、池田先生や御本尊様はしっかりお見通しだ。だから裏切り者には必ず”仏罰”が下る。だから私達は心配せず、公明党勝利の為に戦う事が大事なんだ」

 この言葉を聞いた時には、正直「はぁ??」と思いました。だから幹部には様々な反論を具体的な事実を一つひとつ積み上げて語りましたが、幹部から言われたのは。

「君は御本尊様や池田先生を信じられないのか?」

 そういう言葉でした。ちなみにこの幹部は一部上場企業で管理職をしている、ある意味で世間でも信頼される様な人でした。でも私は、こういった人から、この様な発言が出て来た事自体、宗教という存在の罪深さ、創価学会の抱える問題の根深さを感じたのです。

 戸田会長は「政治を監視せよ」と遺言をしたと云いますが、選挙の集票活動や、それによる議席確保を信仰の目標としている信仰活動が、結果としてこの様な人達を大量生産してしまっているのです。

◆まとめ
 選挙活動とは、ある意味で権力闘争でもあります。だから綺麗事で済まない事も多々あります。創価学会の行う「支援活動」にしても、今の日本の公職選挙法では「戸別訪問」に抵触してしまう活動と言っても良いでしょう。現に表ざたにはなっていませんが、創価学会の選挙活動が司直の手にかかり、拘留されるというケースも、全国的には散在する事実です。また選挙に勝って当選すれば、そういう事実を握りつぶす事もあるでしょうし、闇から闇に、ではありませんが、青年部の幹部が泥をかぶり、それこそ「個人の自己責任で行った事」として、断罪されるケースも過去にあったやに聞きます。(創価学会の幹部の中では「法難」として認識されますが)

 果たして、そんな活動を信仰活動とする事が、果たして「絶対正義」と呼ぶ事なのでしょうか。

 先のツィッターで、ある人は。
 何か『法的に問題』があるとでも?
 ・・・無いよね?
 アンチ学会:「法的に問題がある!」
 学会:「この様な理由で、法的に問題ないよ!」
 と言っていますが、法的に問題ないと論理建てをいくらしたところで、やはり今の創価学会の政治活動には問題がある事は明らかな事なのです。
 また「法的に問題が無い」という事で、全てを肯定するという姿勢は、昨今、創価学会がネット界隈の影でコソコソやっている「著作権侵害に伴うスラップ訴訟」を容認しているという事にもなるのではありませんか?

 創価学会の活動家の一人ひとりが、こういった事を理解できる様になるのであれば、日本の政治土壌も少しは変化をするのでしょうが、それは期待する事が難しいのかもしれませんね。



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