新型コロナウィルスの猛威は収まる事を知らず、国内を相変わらず掻き回しています。それに対して安倍政権は、布マスクに数百億の税金投入して、八千万枚をまた配布するそうです。
もう日本は終わってるな。
このマスク関係の報道を見た時の私の感覚です。しかしそうは言っても家族を抱える身なので、何とかこの日本の中で生き抜かねばなりません。という事で、日々仕事に励んている昨今なのです。
さてこのブログでは「心のかたち」という事で、記事を書き連ねています。今は臨死体験について書き連ねていますが、主題は心なので、この臨死体験の内容や体験者の話なんかも、今後様々検討をする必要がありますし、当然、今後は別の角度からの思索を進めて行くつもりです。
それは何の為?
自分の為に決まっています。
自分の為に決まっています。
自分自身、心の形を知りたいですし、自分がどこから来て、これから私は何処へ行くのか、そういう事については、生きている間にきっちりと「落とし前」を付けておく必要があると、私は考えているのです。
そんな事を考えていると、もう創価学会とか、創価学会が信じていた日蓮仏法なんて、私にとってはどうでも良い事なのです。
弄る事は多々ありますけどね。
実はこういった臨死体験とか、この後に紹介しますが中間世(仏教でいう中有)の事などを調べてみると、ふと「法華経」という経典の位置づけについて考えてしまう事があります。ここから書く事は私の個人的な私見であり、何も仏教学者の裏付けがある事ではありません。だから「んな訳ないじゃん!」と思う方はスルーして下さい。
原始仏教とか初期仏教と言われるものを読んでみると、釈迦が説き残した教えという、四諦・八正道・十二因縁を読んでみると、苦悩の原因や涅槃に至るまでの細かい事が説かれています。以前に読んだある書物では、釈迦自身がこういった数字的に割り切った教えを残した訳ではなく、こういった数字として整理された理論というのは後世の弟子によって整理・構築され、経典に記述されたと言います。
またミリンダ王とナーガ・セーナ長老の対話、これは「ミリンダ王の対話」と言われるものですが、そこで語られている内容についても少し読んでみましたが、輪廻転生という概念も無ければ、あくまでも自分自身の自我とは、体の構成要素が和合した縁の上に存在していると述べていたりします。
そういった事から考えると、釈迦が直に語った事とは、我執を断ち、それこそ灰身滅智の様な事を、当時の言葉で人々の中で語り、そこで目指した境涯というのも阿羅漢果では無かったのか、その様な事すら感じています。
諸行無常・是生滅法・消滅滅己・寂滅為楽
そういう事だったのではないでしょうか。
そもそも釈迦自身は、九識論の様な重層的な心の仕組みとか、久遠元初という事を直に語った様には思えません。これらの事は、釈迦滅後五百年前後に始まった大乗仏教運動の中で発生し、それが法華経という経典に集約したと思うのです。またこの法華経の内容というのも、先にあるような釈迦が直説したというよりも、その釈迦を恋慕した人々が、瞑想の中で釈迦と出会い、そこから教えを受けた内容により構築されたとするならば、原始仏教というよりも、近年でいえば、例えば臨死体験の中で経験者が感じた事とか、近年自身の心の奥深くを洞察した人達の言葉と親和性がある事も、私個人としては大いに納得するところなのです。
また大きく言えば、法華経と他の大乗経典、またそれ以前の初期・原始仏教の内容というのも、実は「水と油」の様に、相反しているものであり、その理由とは、釈迦の直説からアプローチして構築された仏教経典と、先にある様に釈迦を恋慕した人達が瞑想の中から構築した法華経という事から起きているのではないでしょうか。
以上が、私個人の「妄想」としての法華経に対する概念です。
もともと私は創価学会で仏教に触れました。
そして若き時代には、宗門・法華講だとか顕正会相手に「対論」なんてことを言っていて、それこそ「文証・理証・現証」という事で理論体系を習得し、「文証無き事は黒論(地獄の理論)」なんて言っていた時もありました。
しかし創価学会を通して学んだ「教学」というのは、そもそも抜け穴ばかりであり、また人の心を表現するのに「文字・言葉」だけに拘ってしまっても、実は「心のかたち」は捉えられないのではないかと考える様になりました。
文字や言葉なんて、所詮は「平面的」な媒体ですが、人間の思考とは「立体」であり「時間」も関係していますからね。それらを平面的な媒体だけで語る事は難しいのです。
ここに書いた事を私は「正論」と主張するつもりもありませんし、ましてや「正義」の言葉だというつもりはありません。でも大事なのは、様々な事を学びながら思索して、時として人と語らう。そういう事なのではないでしょうか。
そんな感じで、今後も淡々と進めて行くつもりです。