すこし個人的に穿った見方をすると、アメリカという国家は、分断された時には、外に敵を作り上げ、そこに戦争を仕掛ける事で、統合されるという特性があるように思うのですが、まさかこの先、アメリカでそんな事は起きないかと、少し気になっています。
さて、そんなアメリカの大統領選挙の事は置いといて、今回は「信心」という事について、少し書いてみたいと思います。
私が創価学会で活動をしていた時、よく「信心」という言葉を聞きました。次の御書の一節を聞かれた人も多いのではないでしょうか。
「但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし」
(経王殿御返事)
日蓮の御書には随所にこの「信心」という言葉が書かれています。信心とは「信じる心」の事であり、日蓮は「法華経を信じる心」について、信心という言葉で繰り返し語っていました。
しかし創価学会でいう信心とは、これとは異なっています。ある時には日蓮の文字曼荼羅に祈れば叶うことを信じる事を述べ、またある時には池田会長の言葉を信じる事を語り、またある時には創価学会という組織の指導性や無謬性を信じる事を指導する為に、この「信心」という言葉を使っています。
しかしそもそもの言葉の意味を考えてみると、この「信心」とは信じる「心」、つまるところ自分自身の心の在り方を述べている言葉であり、それは極めて内面性の強い言葉なのです。内面性が強いという事は、外面、つまり端的に言えば他者から強制される事ではないという事です。
ただ創価学会で教える信心とは、こういった内面性の事よりも、どちらかと言うと内面性は置いといて、感じた事を即「行動」に移す事だと教えています。しかもそれは創価学会が指示する「広宣流布」のための活動という行動です。
私は過去に幾度か創価学会の活動家から、ネットを通じて相談を受けてきました。地元組織では「斎藤は信心がおかしくなっなた」等と変な噂を流布されているので、男子部時代の仲間のうち、組織から離れている人や、昔から腹割って話し合っていた幾人かとは、いろいろな話をしてきましたが、それ以外の人達からは、サッと潮が引くように連絡は来なくなりました。しかしネットを通じて、組織で活動していて様々な疑問や矛盾を感じ、創価学会に疑念を持った人達からの相談というのは、ちょくちょくあったのです。
そんな人達が、最初に持つ疑問とは、創価学会の活動を離れたら、今後どう信心をしていけば良いのかという事がとても多くありました。要は自分が祈る事は当たり前として、仏法を広める化他行について、創価学会以外に、どの様に取り組んだら良いのでしょうか。と言う様な、つまるところ「自行化他の信心」というやつですね。
せっかく学会活動という楔を外れるチャンスが来たのに、それに変わるものを求めてしまう。これはまさに「サーカスの象」と同じでしょう。
「サーカスの象」とは何か。
本来、野生に生きている象という動物は、人間が敵うような動物ではありません。体も大きければ力も強く、本気になれば人はかんたんに弾き飛ばされてしまいます。だからサーカスでは象を子象のうちに足かせをして自由を奪い、ひたすら人間に従うように調教します。すると象は成長して、足枷なんて問題なく動けるし、人をかんたんに弾き飛ば力を持つ事が出来ているにも関わらず、そんな事を理解できない事から、その力を発揮せずに生涯にわたり人に従属して曲芸を続けてしまうのです。
創価学会で長年にわたり、創価学会の「信心」を教え込まれてしまった人も同様に、組織に疑問を持ち、そこから離れようにも、この「サーカスの象」の様に、自立した内面性を持ち、自分自身の生き方というのを持つ事に、戸惑いを感じてしまうのです。
だから一時的に組織を離れても、再度組織に絆されて、結果として創価学会の活動に戻る人も多くいたりして、中には「私も過去に組織を離れたけどね、云々」と、以前よりも組織依存をより強めてしまう人達も居たりするのです。
本来、私達がこの世界に生まれてきたのには、様々な理由や目的があると思います。そしてそれは一人ひとりが異なるものであり、であれば生き方も千差万別あるはずです。そしてその自立した人生を生きる為に本来、信仰というものは存在するはずなのです。自身を屹立し、ある時は励まし、ある時は悩み、またある時には耐え抜くための内面的なものとして。
しかし創価学会を始め多くの宗教団体は、その内面性の信仰心を鷲掴みにして、人々の心を絡めとり、その人生を組織の為に利用しようとするのです。そうならない為にも、この「信心」という言葉にある事を、人はしっかりと理解することが必要なのではありませんか?
よくよく考えて欲しいものですね。