自燈明・法燈明の考察

苦をば苦と悟り、楽を楽と開きて

 実は昨日、所要で深夜に300キロ近く車を走らせていて、帰宅したのが深夜の2時でした。若い頃には一晩中は知っていても全然苦にならなかったのですが、やはり五十代になると疲れが取れないものですね。

 さて、今回の記事は少し考えている事を書きます。
 創価学会では「宿命転換」という事を言い、「三世永遠の幸福境涯の確立」という言葉をよく言います。要は学会活動に徹していけば、人生は楽しくてしょうがない境涯になっていけるという事なのでしょう。

 しかし当たり前の話ですが、そんな事はありません。青年部時代には、そんな言葉を信じていましたが、創価学会の中で四半世紀ほど活動して見えてきたのは、苦しい出来事や悩ましい状況はは年齢が上がっても続きますし、人生の悩みが尽きる事は無いという事でした。

 以前に近所でも古株の学会家族が居ました。
 両親とも地道に学会活動を続け、子供たちも創価学会の活動に動いていました。この家族には私と同じ年齢の男子部もいて、私が男子部の部長の時までよく一緒に活動をしていました。

 ちょっと驚いたのは、その男子部の修学旅行の写真でした。見ると京都・奈良の修学旅行で神社仏閣を回った時の写真の多くが切り刻まれていたのです。ある写真では鳥居の部分、またある時には五重の塔や仏像関係。それらがことごとく切り取られた写真になっていました。

 「ほら、神社とかは謗法でしょ?牧口先生は国家神道に殺されたんだよ」

 そこのお母さんは真面目に答えていました。これが昔の創価学会の感覚であり、信仰観でもあったのでしょう。こういう家族は意外と多かったのではないでしょうか。

 その後、私は派遣で他組織の担当となり、本部長になって以降、その家族の家を訪問する事はありませんでした。しかし壮年部になり十数年ぶりにその男子部のメンバーと再会しましたが、聞いてみると本人も身体障碍者になり、両親も重度の生活習慣病で病院通いをしているというのです。

 あれだけ真面目にコツコツ、創価学会に尽くしぬいてきた結果がこれなのか。。。

 正直、当時の私はこの状況に脱力感を覚えました。でも考えてみれば当たり前の事なんですよね。人生とは様々な事があるのは当然であり、何も創価学会の活動を抜かりなくやれば幸せになるなんて事はないのです。

 日蓮は門下の四条金吾が主君の江間氏との間で問題を抱えていた時に、以下のお手紙で励ましていました。

「ただ世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや」

 ここで日蓮は如何なる賢人や聖人でも留難があるという事は逃れられないと述べています。つまる処、人生とはこういった留難の連続なのかもしれません。だからこそ「苦をば苦とさとり」とある様に、苦しい事から目を背けず、「楽をば楽とひらき」と、楽しい事は家族や仲間内と語らいながら、苦しい事や楽しい事、それぞれにお題目を唱えていきなさいと言っているのです。そしてそれこそが「自受法楽」と言っていますが、この人生に生まれてきた事の目的なんだと言うのです。

 人間、苦しい時には「神も仏も無いものか」と悲嘆にくれる事はあります。しかし「神も仏も」自分自身の心がけで、必ず姿を現すものなのです。大事な事は、人生とはそういった経験をする場所であり、自分はそれを経験する為に生まれてきたという事を「信じる事」、また、だからこそ越えられない問題はないとう「自分自身の存在を信じる事」だと思うのです。

 人生のどこかにパラダイスがある訳ではありません。また苦しさをすぐに解決できる「頓服」の様なものもありません。しかし経験する事自体が、実は自分自身の人生を飾る「宝」になる得るものであり、そういう自分自身を信じる「自信」を持ち続ける事が大事だと、私は考えています。

 私もこの人生で残された時間は、短くはないですが、それでも無限にある訳ではありません。だからこそ、一つひとつの出来事を大事に生きていく。そうありたいと最近、特に思いを深くしています。


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