やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(7)

2007-04-29 15:40:00 | 古代史
『夏の海戦』
 九州王朝は大部隊を派兵し、いよいよ唐・新羅の連合軍に決戦を挑みます。陸での戦いはいまだ決着はついておらず、この海軍の戦いが運命を決めそうです。
では、書紀を見てみましょう。

 天智紀二年(663年、旧唐書年で662年)の初め、田来津らが戦っている陸では新羅の猛攻を受け、再び堅固な要塞である州柔城へ還りましたね。
<三月に、前将軍上毛野(かみつけの)君稚子(わかこ)・間人(はしひと)連大蓋、中将軍巨勢神前(こせのかむさき)臣訳語(をさ)・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比羅夫・大宅(おほやけ)臣鎌柄(かまつか)を遣わして、二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。
夏五月の…に、犬上君(本注:名をもらせり)馳せて、兵事を高麗に告げて還る。糺解(くげ。豊章のこと)を石城(忠清南道扶余の東南にある石城里)に見る。糺解、よりて福信が罪を語る。>(天智紀二年条、663年。旧唐書年で662年)
三軍編成の軍を率いる将軍らが、示されています。この二万七千の兵士らは、九州王朝の天子幸山の下知により集まって来たのでしょう。大豪族とはいえ地方の主権者の一人でしかない大和王朝が、全国に下知できるはずはありませんから…。
その証拠に、第一軍を率いる上毛野君とは、人麿が明日香皇子の挽歌に歌った背面の国・毛人の国である吾妻の上毛野国の豪族でしょう。大和にも下知は届いていたのでしょうが、中大兄皇子(天智)は母の足姫(斉明)の死を奇貨として大和に引き上げているのです。
この六人の将軍は、すべて九州王朝の息のかかった人々のはずです。その証拠に、生き延びてあと大和に仕えたであろう間人連大蓋と阿倍引田臣比羅夫を除いて、岩波書紀は「他に見えず」と注記しています。上毛野君は、先にいいましたように吾妻の豪族…。間人連は、本拠がどこか分かりません。巨勢神前臣は、肥前(佐賀市巨勢町から吉野ヶ里のある神埼あたり)の豪族ではないでしょうか。三輪君は筑紫三輪の豪族にして、「君」姓よりして天子の一族かもしれませんね。阿倍引田臣は、斉明紀四年条に「越国守」とあります。しかし彼も、筑紫の臣でしょう。大宅臣も、その出身地は不明です。
 そして五月に、二万七千の一人と思われる犬上君が高句麗へ使いします。戦闘部隊を率いる将ではなく、「君」姓を持つ参謀のような役目でしょうか。大和の臣でない証拠に、名がわからない…と。九州王朝は出兵したぞ、高句麗も備えよ…とか伝えたのでしょうか。その折豊章と会いました。百済陣内に生じていた不協和音について、豊章は犬上君に愚痴をこぼしたようです。

<六月に、前将軍上毛野君稚子ら、新羅の沙鼻(・)岐奴江、二つの城を取る。百済の王豊章、福信が謀反(きみかたぶ)くる心あるを疑いて、革を以って掌をうがちゆわう。…(中略)王、健児(力のある兵士)を勒(ととの)えて、(福信を)斬りて首を醢(すし、しおから)にす。
秋八月の(13日)に、新羅、百済王の己が良将を斬れるを以って、直に(百済)国に入りてまず州柔(つぬ)を取らむことを謀れり。ここに百済、賊(新羅)の計る所を知りて、諸将に謂(かた)りて曰く、「いま聞く、大日本国の救将廬原(いほはら)君臣、健児万余を率いて、まさに海を越えて至らむ。願はくば、諸の将軍らは、予め図るべし。我自ら往きて、白江(はくこう。錦江の河口付近)に待ち饗(あ)へむ」という。(17日)に、賊将、州柔に至りて、その王城を囲む。>(天智紀二年条)
6月に上毛野君稚子らは、進撃して二つの城を抜きました。一方百済軍内では、ついに豊章が猛将福信を斬る…という事態になりました。せっかくの九州王朝の援軍も、肝心な百済が内紛を起こして弱体化するようでは、士気にも響きます。案の定新羅に付け入る隙を与え、堅固な州柔まで囲まれました。
廬原君は筑紫の将軍でしょうが、海軍を率いているようです。それで豊章は州柔を捨て、白江に行って廬原君の軍と合流をもくろんだようです。
州柔にいた田来津ら五千の兵も、上毛野君らに率いられた万余の陸軍も、とりあえず豊章の百済軍と行動を共にして白村江に来て、そこに停泊していた自らの軍船に乗り込んだのでしょう。

 さて、上記の続きです。陸戦と海戦が、混在して書かれているようです。
<大唐の軍将、戦船一百七十艘を率いて、白村江に陣烈(つらな)れり。(27日)に、日本の船師(海軍、海兵)のまづ至る者と、大唐の船師と合い戦う。日本不利(ま)けて退く。大唐、陣を堅(かた)めて守る。(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象(あるかたち。両軍の船の陣立てとか戦闘のための状況とか)を観ずして、相謂(かた)りて曰く、「我ら先を争はば、彼、自ずから退くべし」という。更に日本の伍(つら。軍の隊列、船団の陣立て)乱れたる中軍の卒を(三輪君根麻呂が?)率いて、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、即ち左右より船を挟みて囲み戦う。須臾(とき、しゅゆ。短い時間、ほんの少しの間)の際(ま)に、官軍(書紀の謂い、九州王朝軍)敗続(やぶ)れぬ。水に赴(おもぶ)きて溺れ死ぬろ者衆(おほ)し。艫舳(へとも)廻旋(めぐら)すこと得ず。朴市田来津、天を仰ぎて誓い、歯を食いしばりて嗔(いか)り、数十人を殺しつ。ここに戦死せぬ。この時に百済の王豊章、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ。
九月の(7日)に、百済の州柔城、始めて唐に降る。この時に国人相謂りて曰く、「州柔降りぬ。こと如何にということ無し。百済の名、今日に絶えぬ。…(中略)(24日)に、日本の船師(海兵)、及び佐平余自身・達率木素貴子・谷那晋首・憶礼福留、併せて国民(くにのたみ)ら、弖礼城に至る。明日(25日)、船発ちて始めて日本に向かう。>(天智紀二年条)
これが「夏の海戦」の戦闘情景です。日を追って、淡々と記述されています。なんだか、映画かTVのドラマを見ているような錯覚に陥ります。
8月27日に軍船同士の小競り合い、28日の無謀な突入(突撃?)、何度試みられたか不明ですが…、結局大敗! われ先に突入するものですから、味方の船同士が団子状になったのではないでしょうか。そこを左右から挟まれ、矢や火矢などを射掛けられた! どうもこの記述から、唐の軍船は大きく、筑紫の戦闘船は小型ではなかったのかと思われます。田来津も戦闘船に乗って、数十人も殺した…のでしょうか。矢に当たったたり、軍船が燃えてしまったり、揺れる小船にバランスを崩して海に落ちて溺れ死ぬものが多かった…と。白村江(はくすきのえ)の海は、赤い血で染まったのでしょう。
九州王朝の救援軍の大敗を尻目に、百済王豊章は供の数人とうまく高句麗に逃げ去ったようです。
 9月に入って7日には、ついに陸戦でも州柔城を落とされてしまいました! そして百済の敗残兵や新羅の支配を潔しとしない民らは、九州王朝軍の生き残りと共に9月25日に「日本(九州の筑紫)」へ向かった…と。

 660年(あるいは661年)9月の田来津ら五千の兵の派遣、662年3月の上毛野君稚子らに率いられた二万七千の本隊の派兵…。「冬の陸戦」のときの臨場感あふれる田来津の諫言、「夏の海戦」の戦闘状況の描写…。これらは全て、海陸の戦に生き残って筑紫に帰り、あと大和に仕えた人々の供述に基づいたものと考えます。大和の中大兄皇子(天智)は、母足姫(斉明)の死を奇貨として(大和の軍と共に)引き上げてしまったのですから…。
大和は参戦していない…という証拠を、あと・次回で紹介します。

 この戦いを、唐側から見た記録です。
<(劉)仁軌、倭兵と白江の口に遇う。四戦して捷(か)ち、その船四百艘を焚(や)く。煙燄(煙やほのお)天に漲(みなぎ)り、海水みな赤となす。賊衆大いに潰(つい)え、(百済王)余豊身を脱して而して走る。その宝剣を獲る。偽王子(偽といったのは唐の名分で、滅んで無くなった百済の王子だから)扶余忠勝・忠志ら、士女及び倭衆並びに耽羅国使を率い、一時に並び降る。百済諸城、みなまた帰順す。>(旧唐書劉仁軌伝)
ここで戦った相手を「倭兵、賊衆、倭衆」などと呼んでいます。「旧唐書」には、「倭国伝」と「日本国伝」があるといいましたね。前者は「九州王朝」を指し、後者が列島の主権者になったあとの「大和」だとも…。ですから劉仁軌伝」における「倭」は、あくまで「九州王朝」であることはご理解いただけたでしょうか。
しかし四百艘を失うとは…。前に紹介しました「倭国伝」には、陸戦・海戦とも記録はありません。残念?です。

 次に、百済伝を見てみましょう。
<龍朔二年(662年)七月、(扶余豊)また使いを遣わして高麗及び倭国に往かしめ、兵を請ひて以って官軍(唐軍のこと)を拒(ふせ)がしむ。(劉)仁軌、扶余豊の衆に白江の口に遇い、四戦みな捷(か)つ。その船四百艘を焚(や)き、賊衆大潰す。扶余豊、身を脱して走る。偽王子、夫余忠勝。忠志、士女及び倭衆を率いて並びに降る。百済諸城、みなまた帰順す。孫仁師(左威衛将軍)と劉仁願(郎将)らと、振旅して帰る(凱旋した)。>(旧唐書百済伝)
ここでも「倭国、倭衆」がありますが、いずれも「九州王朝、その将兵」を指すことは自明ですね。

 ついでに唐と組んで戦った新羅の文武王が、ほぼ十年後の671年に唐へ出した報告書も見てみましょう。
<このとき倭国の船兵、来たりて百済を助く。倭船千艘、留まりて白沙にあり。百済の精騎(選りすぐりの騎兵)、岸の上(ほとり)にて船を守る。新羅の驍騎(ぎょうき。強く猛々しい騎兵)、漢(唐のこと)の前鋒となり、先に岸の陣を破る。周留城(州柔城のこと)肝を失い、遂に即ち降下す。>(三国史記新羅本紀)
これによれば、九州王朝の軍船は千艘…。27,000+5,000の兵が乗り込んでいたとすれば、単純計算で(武器や食料も積んでいたと見て)一艘に40人から50人ほどが乗れる大きさの船…となります。
 最近の新聞によれば、四世紀始め(古墳時代初期)の遺跡から出土した線刻画を元に復元が進んでいた古代船が完成し、この4月29日に兵庫県新温泉町の諸寄港で進水式を迎える…そうです。この実物大の古代船は、全長約11メートル・幅約1.5メートルそして高さは約2.2メートルあるそうで、漕ぎ手8人が乗り込むことが出来るそうです。この船は「準構造船」だそうですから、七世紀の「夏の海戦」では40-50人乗りの「構造船」だったかもしれません。
最終的には今年10月にオープンする「県立考古博物館(兵庫県播磨町)」に展示されるそうですから、皆さんぜひ見に行ってください。
進水式のあと県立香住水産高校のボート部の8人が漕いで港内を回るそうです。これも見てみたいなー。

 さて参考に、次も見てみましょう。
<劉仁軌及び別帥杜爽(とそう)・夫余隆(唐に担がれた百済の王子)、水軍及び粮船(食料を積んだ船)を帥(ひき)い、熊津江より白江に往き、以って陸軍と会し、同じく周留城に趨(せま)る。倭人と白江の口に遇い、四戦してみな克(か)ち、その船四百艘を焚く。煙炎、天を灼(や)き、海水丹(たん。赤い色)となれり。>(三国史記百済本紀)

 この「夏の海戦」で、九州王朝は再起不能となるまで打ちのめされ、国の息の根を止められたようです。
明日香皇子も戦死し、天子幸山も行方知れずになっていました。恐らく筑紫の伝統に従い、天子自ら軍の先頭に立って戦っていたでしょうから…。
因みに万葉集には、柿本朝臣人麿が、幸山の母や后が嘆き悲しむ心を詠んだ歌があるそうです。いつか古田先生の著書より、それらを紹介しましょう。

 この敗戦により、九州王朝は衰退に向かいます。しかし名目上にせよ、700年まではその命脈を保ちました。
そして大和王朝は、701年に唐の則天武后にこの列島の主権者である…と認められ、本来九州年号の「大化七年」である年に「大宝元年」と元を建てたのです。
ようやく「建元の権利」を、大和は持ったのです。そして、いまの「平成」まで続いているのです。

 さて次回は、「冬の陸戦、夏の海戦」で大敗を被った九州王朝を横目に、大和内の喜びようを眺めてみましょう。