やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

「九州王朝」の七世紀(4)

2007-04-04 14:39:01 | 古代史
 「隋書俀国伝」の最初の年代記事は、「開皇二十年(600年)」の記事でした。国書を持参した…とは記録されていないのですが、俀王の名「阿毎 多利思北孤」がきちんと表されている以上、国書がありそこに自署名があったことは間違いないでしょう。しかしこの開皇二十年に対応する記事は、推古紀(書紀)にはありません。そのような意味で書紀は、正直に「山跡からは隋に使いを出していません。わたしたちも九州王朝のように、隋と交流したいな…と思っています。しかし受け入れてくれない。うらやましい」と告白しているのです。
そして前回までの地の分が続いたあと、いよいよ次の年代記事です。

<大業三年、その王多利思北孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、『海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す』と。故に遣わして朝拝し、兼ねて沙門(さもん。僧侶のこと)数十人をして、来りて仏法を学ばしむ。」と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。云々」と。帝(楊広。煬帝、在位604-617年)、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿(こうろけい。海外よりの使いを担当する役所の長官)に謂って曰く、「蛮夷の書、無礼なる者あり。復た以って聞するなかれ」と。>(隋書俀国伝大業三年、607年)
下記します推古紀と合わせ、通説ではこの使いを「小野妹子」としています。しかし隋書では沙門数十人を含む、大人数の使節団だったようです。多利思北孤の意思により、仏教を再び興隆させた隋に、仏法をより深く学ばせようというのです。煬帝に「海西の菩薩天子」と呼びかけていることからすると、多利思北孤は自らを「海東の菩薩天子」とみなしているのではないでしょうか。418年に百済から仏教が伝わってから二百年弱、九州王朝ではそれほどに仏教が盛んだったようです。
 そしてその国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々」とあったようです。通説では、この国書を出したのは聖徳太子…とされていますね。そしてこれは、太子の隋に対する対等外交を意味する…と。しかしこれまでの説明で、それはありえないことをご理解いただけたでしょうか。というより、対等外交を目指したのは、九州王朝の日出る処の天子「多利思北孤」その人だったでしょう。

 では推古紀を見てみましょう。
<…秋七月の…に、大礼小野妹子を大唐に遣わす。鞍作福利を以って通事(いわゆる通訳)とす。…>(推古紀十五年条、607年)
ここに「大礼」小野妹子とありますが、この九州王朝の冠位とは順位が似ても似つかぬ十二階は、急きょ四年前の推古十一年十二月に制定されたものです。やっつけ仕事…ということが、よくわかります。
よく見てください。「大唐に遣わす」…と。岩波書紀は、「事実は隋。隋書俀国伝、大業三年条に見える」としています。隋書大業三年条の使いと、推古十五年条の使いをどうしても同じもの…としたいのです。だから、書紀の編者が間違ったのだ…と。しかし後に出るように、編者は決して「隋」と「唐」を間違えてはいません。「唐」はやはり「唐」のようです。このことからも(唐の建国は618年)、書紀は十四、五年ほど前倒しで挿入したのではないか…との疑惑も出てくるのです。
またこのときの使いは、小野妹子と鞍作福利の二人だけだったようです。九州王朝の大使節団とは…、違いますよね。

<明年(明くる年)、上(煬帝)、文林郎裴清(はいせい)を遣わして、俀国に使いせしむ。百済を度(わた)り行きて竹島に至り、南耽羅(たむら、済州島。耽の元字は身偏に冉)国を望み、都斯麻(対馬のこと)国を経、迥(はる)かに大海の中にあり。また東して一支(壱岐のこと)国に至り、また竹斯(筑紫のこと)国に至る。また東して、秦王国に至る。その人華夏(中国、中華のこと)に同じ。以って夷州(いしゅう。台湾)と為すも、疑うらくは明らかにする能(あた)わざるなり。また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、みな俀に附庸す(ふよう。大国の勢力下にある)。>(隋書俀国伝大業四年、608年)
無礼なる書をよこした俀国とはいかなる国か、その王の面をよく見てまいれ…と、煬帝は「文林朗」という官職を持つ輩清を遣わしました。俀王の都のある筑紫までの行程も、現地音(和語)を忠実に拾って記録されています。風俗などはほとんど中国と変わらなかったと見え、「ここは台湾だといわれても、疑わずにうなずくほどだ…」と言っていますね。秦王国を含んだ十数ヶ国(恐らく福岡県東部と大分県北部)を東すれば、海岸に出る…と。恐らくいまの福岡県、佐賀・長崎県、熊本県及び大分県を含む範囲が、俀国の中枢部ではないでしょうか。

 俀王は、裴清一行を歓待します。
<俀王、小徳阿輩臺(あはだい?)を遣わし、数百人を従え儀仗を設け鼓角(こかく。太鼓と笛)を鳴らして来たり、迎えしむ。のち十日、また大礼可多比(かたひ?)を遣わし、二百余騎を従え郊労(こうろう。都の郊外で行う歓迎の式典、直接都に入るのは無礼とされた。郊迎ともいう)せしむ。すでにかの都へ至る。その王(多利思北孤)、清と相見えて大いに悦んで曰く、「我聞く、海西に大隋礼儀の国あり、と。故に遣わして、朝貢せしむ。我は夷人(東夷の人、謙遜している)、海隅に僻在して(かいぐうにへきざい。海を越えた遠い所にいて)、礼儀を聞かず。これを以って境内に稽留して(けいだいにけいりゅう。我が領域に留まって)、即ち相見えず(会うことがなかった)。いま故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがは)くは、大国維新(いしん。全てが改まり新しくなる)の化を聞かんことを」と。清、答えて曰く、「皇帝、徳は二義(天と地)に並び、沢(徳の潤い)は四海に流る。王(多利思北孤のこと。あえて「日出る処の天子」は使わない)、化を慕うの故を以って、行人(自分、裴清)を遣わして来らしめ、ここに宣論す」と。すでにして清を引いて、館に就かしむ。その後、清、人を遣わしてその王に謂って曰く、「朝命、すでに達せり。請う、塗(みち)を戒(いまし)めよ(帰国の準備をしてほしい、帰路の護衛をしてほしい)」と。ここにおいて宴享を設け(宴を張って客をもてなす席を設け)、以って清を遣わし(隋に帰国させ)、また使者をして清に従い来って(俀国の使者が清に従って隋に来て)、方物を貢せしむ。この後、遂に絶つ(この貢献を最後に、交流が絶えた)。>(隋書俀国伝大業四年、608年)
遂に隋使、文林郎裴清が来ました。それを迎える小徳阿裴臺、及び大礼可多比。通説ではまず阿裴臺を推古紀十六年条に見える大河内(直)糠手(ぬかて)の音の一部を写したものか?とか、可多比を同じく額田部(連)比羅夫の「(ぬ)かたべ」ではないか?と音当て遊びをしています。あとの二人は姓(かばね)はありますが、冠位はないようです。
裴清は、直接俀王「足し矛」に会ったのです。ですから開皇二十年(600年)のときの描写は、正確だったのです。裴清はまた、俀国内を視察したようです。ですから民の姿や風俗なども記すことが出来、何といっても噴火する阿蘇山に畏敬の念を持ったのでしょう。中国には、噴火する山などありませんから…。
そして朝命を達したあと、「戒塗、みちをいましめよ」と。この漢語は使えそうですね。そして何月に帰国の途についたのか分かりませんが、再び俀国の使者が隋へ行って方物を貢した…と。「此後遂絶」、壮絶な国交断絶です。理由は書いてありませんが、煬帝は高句麗攻略を計画していましたので、あるいはそこらあたりに理由が…。

 いままでは「隋書俀国伝」でしたが、帝紀に気になる記事があります。
<(大業四年三月)、百済倭赤土迦羅舎国並遣使貢方物。…(三月)百済・倭・赤土・迦羅舎国、並びに使いを遣わし方物を貢ず。>(煬帝紀大業四年、608年)
確かに「俀」ではなく、「倭」とあります。ですから古田先生は、「この二国は別だ、「倭」は大和の推古朝だろう…」といわれます。この年は、隋使裴清(はいせい)が俀王と会った年なのです。ですから上記は、俀国の使いではありえない…。
推古紀十五年条(607年)によれば、七月に小野妹子と鞍作福利の二人は「大唐へ」遣わされ、翌十六年(608年、三月の上記朝貢記事を挟んで)四月に二人とも大唐からの使い裴世清(はいせいせい)と共に帰国します。ですから上の帝紀の記事は、この二人とされています。でも推古紀が十五年ほど前倒しに挿入しているとしたら…、上の推測は崩れますね。ですから、誰だか不明となりました。
そして推古紀十六年条によれば、五ヶ月の滞在のあと九月に裴世清らは帰国しますが、再び小野妹子・吉士雄成と通事鞍作福利は学生・僧侶八人を伴ない従います。
また、
<(大業六年春正月)、倭国遣使貢方物。…(正月)倭国、使いを遣わして方物を貢ず。>(煬帝紀大業六年、610年)
推古十七年(609年)九月、小野妹子と吉士雄成は通事の鞍作福利と八人を残して帰国します。ですから上記帝紀の記事は、鞍作福利たち…とされています。しかし前倒しに…とすれば、これも不明となりました。

 では推古紀を見てみましょう。十六年条です。
<夏四月に、小野臣妹子、大唐より至る。唐国、妹子臣を号して蘇因高(そいんこう)という。即ち大唐の使い裴世清・下客十二人、妹子臣に従いて、筑紫に至る。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召す。…六月の…に、飾船三十艘を以って、客等を江口に迎えて…。…大河内直糠手…を以って掌客とす。(中略)秋八月…に、唐の客、都に入る。その日に飾馬七十五匹を遣わして、…。額田部連比羅夫、以って礼の辞を告す。…時に使主(おみ)裴世清、親ら書を持ちて…。その書に曰く、「皇帝、倭皇を問う。使人大礼蘇因高ら、至(まう)でて懐(おもひ)を具(つぶさ)にす。朕、宝命(ほうめい)を欽び承けて、区宇(くう。天下のこと)に臨み仰ぐ。(中略)故、鴻臚寺の掌客裴世清らを遣わして、ようやくに往く意を宣(の)ぶ。…」という。(中略)九月の…に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。即ちまた小野妹子臣…。吉士雄成…。福利を通事とす。…ここに天皇、唐の帝を聘(とぶら)う。その辞に曰く、「東の天皇、敬みて西の皇帝にもうす。使人鴻臚寺の掌客裴世清ら至りて、久しき憶(おもい)、ほう(みざかり。まさに、ちょうどいま。ようやく)に解けぬ。…」という。この時に、唐の国に遣わす…ら、併せて八人なり。(後略)>(推古紀十六年条、608年)
ここに「大唐、唐国など」が出てきますが、これは岩波書紀の注にあるような「隋の間違い」ではないのではないか。「唐は唐」ではないか。
その理由を箇条書きしましょう。
(1)隋書の裴清と推古紀の裴世清、これは同一人物と見てよさそうだ。隋では「世」が使えなかったのかもしれない。
(2)隋書では「俀王」と呼んでいたが、推古紀では「倭皇」と呼んでいる。これは中国で、王朝が隋より唐に変わったからではないか。
(3)皇帝の国書に、「宝命を欽び承けて…」とあるが、これは王朝第一代の天子(李渕、高祖)にふさわしく、隋朝第二代の天子煬帝にはそぐわない。よってこの国書は、唐高祖の国書ではないか。
(4)裴(世)清の官職は、隋書では「文林郎」であったが、推古紀では「鴻臚寺の掌客」となっている。隋である程度の高官であった裴清は、唐になってその地位を下げられ、しかし俀に使いした経験を買われて唐の使いとして来たのではないか(隋から唐へは、一応は禅譲)。
(5)隋書で俀王は、自称「日出る処の天子」であった。しかし推古紀では自称「東の天皇」としている。「天子」の影も気概も感じられない。
(6)鴻臚寺の掌客裴世清が山跡へ来たのは、推古紀にいう十六年(608年)ではなく、唐になって国内が落ち着いたころ…623年ころ、つまりこの推古十六年条はほぼ十五年前倒しに挿入しているのではないか。推古紀の記事は、どれも十五年前倒し…ではないようですが…。
(7)つまり通説・定説となっている「推古天皇及び聖徳太子による遣隋使」…、は『なかった』といえそうです。

 次回は、隋の末期の状況を見てみましょう。では…。