やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

「九州王朝」の七世紀(3)

2007-04-02 19:09:11 | 古代史
 前回でしたか、九州王朝の天子の名を「天 足し矛」としましたね。通説では「多利思比孤」として「足彦」などに当てていました。しかし古田先生がそれが不当な理由として、「「北」は"北面の武士"というように「天子の位置」を示し、また「孤」は"千里を席捲し、南面して孤を称す。"や"君、孤寡と名づく。注:孤寡は、人君の謙称なり。"というように、天子自らの謙遜の謂いである。よってこれら貴字を隋が使うはずもなく、足し矛の自称・国書への署名であろう。これにより、「北孤」が正当である。」とされました。補足説明でした。

 では前回の続きです。
<楽に五弦の琴・笛あり。男女多く臂(ひ。ひじ)に黥(げい。いれずみ)し、面に点し(顔にはちょっとしるしをつけ)身に文し(身体にいれずみし)、水に没して魚を捕う。>(隋書俀国伝)
この身体に刺青をして、海に潜ったとき大魚に襲われないようにする…という風習は、「魏志倭人伝」にもありましたね。連綿として続いているようです。

<文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を啓す。百済において仏経を求得(ぐとく)し、初めて文字あり。>(同上)
この地の文は、「倭の五王」の五世紀(8)の「仏教公伝」(筑紫へは418年…)の説明のときに紹介しました。また自立の六世紀(3)で「九州年号」を説明しましたとき、文献「二中暦」にある文が「筑紫王朝が始まって(紀元前52年)より39年間は中国文明に接せず、結縄刻木して政を執り行っていた…と読める」としました。ここで、同じことが述べられているようです。ただ「仏経を求得してより文字あり…」というのは、私たちが知っている史実と違いますね。私たちは、57年光武帝より金印「漢委奴国王」を受けそして107年に自署名のある国書を携えて帥升王自らが天子に見えたころより文字の習得をし始め、240年に邪馬壹国に来た魏の使い梯儁に卑弥呼の感謝の意を記した国書が託された…ことを知っています。「初めて文字あり」を除けば、筑紫倭国の歴史が凝縮されている…と思いますが、いかがでしょうか。

<卜筮(ぼくぜい。占い)を知り、尤も巫覡(ふげき。男女のみこ)を信ず。正月一日に至るごとに、必ず射戯(しゃぎ。弓を射て遊ぶ)・飲酒す。その余の節は、ほぼ華と同じ。棊博(きはく。いご)・握槊(あくさく。すごろく)・檽蒲(ちょぼ。ばくち)の戯を好む。>(同上)
まあ、私たちだってお宮さんに行けば、おみくじを引きますよ、ね。正月一日には射戯…これは流鏑馬のような行事でしょうか。そして酒を楽しむ…と。千四百年前も、千八百年ほど前も、ほとんどいまの私たちと変わらない日常…、というよりいまの私たちはこのような伝統の上に生活しているのだ…とつくづく思います。その他の節、つまり立春や啓蟄とかの節(の行事)は中国と変わらない…と。そして当時、囲碁やすごろくがあったとは驚きです。まさか花札や熊坂丁半ではないでしょうが、ばくちも盛んだったようです。全く同じ…。

<気候温暖にして、草木は冬も青く、土地は膏腴(こうゆ。よく肥えて作物が育つ)にして、水多く陸少なし。小環を以って鸕鳥(茲偏、ろじ。鵜)の項(うなじ)にかけ、水に入りて魚を捕えしめ、日に百余頭を得。俗、盤俎(ばんそ。さら・まないた)なく、藉(し)くに檞(かし)の葉を以ってし、食するに手を用いて餔(くら)う。>(同上)
あまり解説はいらないようです。いわゆる鵜による漁は、このころにはあったのですね。そして皿はなく、柏の葉の上に盛って手食した…と。包丁という物はあって、魚などは刺身にしたのでしょうか。ただ地勢として「水が多い」というのは、当時は那珂川・御笠河それに遠賀川流域、あるいは千年川(筑後川)流域がもっと広く、陸地を侵食していたのではないでしょうか。

<性質、直にして雅風あり。女多く男少なし。婚嫁には同姓を取らず、男女相悦ぶ者は即ち婚をなす。婦、夫の家に入るや、必ずまず犬(火の間違いだろうといわれている)を跨ぎ、即ち夫と相見ゆ。婦人、淫妬(いんと。やきもち)せず。死者は斂(おさ)むるに棺槨(かんかく。ひつぎ)を以ってし、親賓(しんひん。親族や弔問客)屍について歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を製す。貴人は三年外に殯(もがり)し(墳墓が完成するまで死体を仮に安置する)、庶人は日を卜して瘞(うず)む(埋葬する)。葬に及んで屍を船上におき、陸地これを牽(ひ)くに、あるいは小轝(しょうよ。小さい車)を以ってす。>(同上)
人生の華のときと、終焉のときの俗です。女性が夫の家に入るとき「火を跨ぐ…」という風習は、多く東南アジアなどで見られるそうです。その他は、だいたいお分かりですね。

<阿蘇山あり。その石(いわゆる噴火のときの飛石、あるいは溶岩)、故なくして火起こり(古い溶岩は次々と新しい溶岩の下になり、次々と噴火し)天に接する者、俗以って異となし(これを恐れる俗があり)、因って祷祭(とうさい。祈って祀る)を行う。如意宝珠あり。その色青く、大いさ鶏卵の如し。夜は即ち光あり、という。魚の眼精なり。>(同上)
「足し矛」の治する俀国、その位置がずばり分かりました。噴煙たなびく「阿蘇山」があるのです。九州です。三輪山でもない、富士山でもない…、阿蘇山なのです。この描写一つとっても、俀国近畿山跡説…は成立しません。
またこの描写は、隋からの使者が実際目にしたことを下敷きにしている…と古田先生はいわれます。「噴火する阿蘇山を神として祀っているのだが、その実態は「如意宝珠」だった。夜は光る…と聞いたが、昼見ると青い色で鶏卵ほどの大きさの魚の目玉だ。それを「如意宝珠」として、つまり仏教でいう「貧苦の救済信仰」と神を祀ることが習合している姿だった」…と。

<新羅・百済、皆俀を以って大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰い恒(つね)に通使往来す。>(同上)
東アジアにおける俀国は、百済や新羅から敬い仰がれる大国です。俀国には珍物が多いと見え、いつも使いが往来しています。あの「継体の反乱」があったとした場合、二十一年条に描かれた筑紫の君磐井の状況とよく似ていますね。
さてこれまでは地の文、すなわち著者による俀国の説明がなされているところですが、いよいよ年代記事に入ります。

 年代記事を推古紀(日本書紀)の記述と比較しながらご説明しますが、推古紀は史実に対して十年から十四・五年前倒しで記載しているのではないか…との疑惑があります。次の十七年(609年)条を見てみましょう。
<夏四月の…に、筑紫太宰(太宰の初出という。書紀の大義名分による書き方)、奏上して言さく、「百済の僧道欣ドウコン・恵彌エミを首として十人、俗(一般人)七十五人、肥後国の葦北津に泊れり」ともうす。このときに…問はしめて曰く、「何か来し(どうして来たのか)」という。対(こた)へて曰く、「百済の王、命じて呉国(いわゆる隋)に遣わす。その国に乱れありて入ること得ず。…(後略)>(推古紀十七年条、609年)
岩波書紀には、「609年当時、隋は長城の構築・運河の開通・東都の造営など大土木工事の最中であり、民丁を徴することが多く、それによる地方的反乱があったのかもしれない…」と、想像をベースの注記をしています。
しかし逆にいえば、このころの隋は絶頂期にあったことになり、例え隋国内が騒然としていたとしても、百済の使いが入国出来ないことはないでしょう。だから古田先生は、隋末唐初の内乱の時期ではなかったか…とされました。つまり616年ころより622年ころまでの混乱期に、百済の使いは行っていたのではないか…。ですから書紀は、大陸との関りにおいて、十年から十五年ほど前倒しに挿入しているのではないか…と思われるのです。確かにその前提で推古紀を読めば、矛盾なく理解できるところが多くあるのです。
次回はそれを踏まえて、年代記事を紹介しましょう。では…。