やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(4)

2007-04-19 15:36:26 | 古代史
 さて、前回に引き続き「伊吉連博徳書」を見てみます。
659年、韓智興を長とする筑紫倭国の使節団の一員として、伊伎史博徳は唐にありました。同じ時に、大和からも津守連吉祥の使節団も来ていたことは前回述べたとおりです。

 このころ唐は、倭の請願にもかかわらず、百済討伐の断を下していたようです。そして宮廷における両使節の諍いを奇貨として、情報の漏れるのを防ぐためか、唐は韓智興を「洛陽の外三千里の所払い」の罪にしたようです。
……(659年)十一月一日に、朝(みかど)に冬至の会(一日の冬至を瑞祥として祝う会)あり。会の日に(両使節団が)また見(まみ)ゆ。朝(まう)ける諸蛮の中に、倭(筑紫)の客最も勝れたり。(火事騒ぎで取止めとなり…)十二月三日に、韓智興が人(ともびと。従者)西漢大麻呂、枉(ま)げて(道里などに反して)我が客(大和の官人の立場からいった言葉)を讒す(よこす。中傷する)。客ら、罪を唐朝に獲て、すでに流罪に決(さだ)む。前(さきだ)ちて(まず始めに)、智興を三千里の外に流す。客の中に伊吉連博徳(大和に仕えた後の名)ありて奏(まう)す。よりて即ち罪を免(ゆる)されぬ。事了(おは)りて後に(それぞれ罪の処置をした後…の意か?)勅旨すらく、「国家(唐)、来らむ年に必ず海東の政(まつりごと)あらむ(来たる年に海東つまり百済征伐をするぞ…ということ)。汝ら倭(筑紫)の客、東に帰ること得ざれ」とのたまふ。遂に西京に匿(いまし)めて(幽閉して)、別処に幽(とら)え置く。戸を閉じて防禁(ふせ)ぎて、東西に(かにかくに。互いの行き来?)することを許さず。困苦(たしな)む(苦しむ)こと年を経ぬという。(後略)……
韓智興は洛陽の外三千里の流罪、その他の筑紫の使節は(博得を除いて?)どこかに幽閉されたようです。それで苦労した…と。
しかし唐の百済攻略の計画は、当然百済もまた筑紫太宰府もつかんでいたことでしょう。そのため九州王朝の天子の、この年3月・5月・7月・8月そして11月と5回にも及ぶ肥前吉野への御幸(持統紀七年条(693年)を34年遡らせて)となったのではないでしょうか。九州王朝は、軍船の建造や兵器の調達など、軍備は怠りなく進めていたようです。

 遂に660年、百済はあっけなく滅んでしまいました。
四世紀半ばに馬韓諸国を統一した伯済が百済を建て、そして370年ころ倭王「旨」に七支刀を贈って筑紫倭国と好(よしみ)を結びました。その百済が、その三百有余年の歴史を閉じたのです。
その経緯を、岩波書紀の解説(p577、補注26-四)により見てみましょう。これは旧唐書や三国史記などからの要約だそうです。概略次のようです。
――百済の義慈王は641年(舒明十三年)に即位以来、高句麗と結んで新羅を攻めた。高句麗では蓋蘇文が権力を握り、新羅攻略に甚だ積極的であった。654年のころ、両国の連合軍が新羅北境三十余城を陥れた。そこで新羅王(武烈王、あの金春秋)は王子を遣わし、唐に救援を求めた。
655年(斉明元年)2月、唐は営州都督程名振左衛中郎将の蘇定方に高句麗を討たせた。以降、658年・659年と高句麗討伐に遠征したが、はかばかしい成果を挙げ得なかった。そこで唐は、高句麗と結んでいる百済(そのうしろの筑紫倭国)を討つことにした。百済討伐の計は、659年の冬(上記博徳書を参照)にはすでに立てられていた。それは同年11月21日に蘇定方を神丘道総管に任じ、12月始めに韓智興らが罪を獲て流され「国家、来たらむ年に必ず海東の政あらむ」ことからも知れる。
660年(斉明六年)3月、蘇定方は十三万の兵を以って、莱州(山東省)から海路百済へ向かった。5月、新羅の武烈王はこれに呼応した。そこで両軍は白江(錦江)を遡り、7月12日に百済の都を囲んだ。13日夜、義慈王や太子隆以下臣を引きつれ東北の熊津城に走った。都に残っていた王子泰らは、遂に唐に降った。18日には義慈王らも降り、ここに百済は滅んだ。
9月3日、蘇定方は部下の将劉仁願に一万の兵を与え、新羅兵七千と共に都に駐屯させた。自らは義慈王以下九十四人の臣、百姓一万二千人を伴なって帰国の途につき、11月1日洛陽に義慈王ら五十余人の捕虜を献じた。
しかしこの間、百済の遺臣らによるゲリラ戦が開始されていた。――

 書紀にもこれに関する記事(本来は筑紫太宰府に対する報告でしょうが、書紀編纂時に大和に対するものと改竄した?)があります。
<ある本(ふみ)に曰く、庚申年(660年を指す)の七月に至りて、百済、使いを遣わして奏言(まう)さく、「大唐・新羅、力を併せて我を伐つ。すでに義慈王・王后・太子を以って、虜として去(い)ぬ」とまうす。これによりて国家(筑紫倭国)、兵士甲卒(いくさびと)を以って、西北の畔(ほとり)に陣(つら)ぬ。城柵を繕修(つくろ)い、山川を絶ち塞ぐ兆しなりという。>(斉明紀四年条)
「ある本…」とは即ち、九州王朝に対する報告書でしょう。これは筑紫倭国の守備固めの理由として、つまり予兆としての意味で斉明紀四年条に入れられているものだそうです。「西北の畔に陣ぬ」とは、博多から唐津あるいは壱岐・対馬への兵力増強を指すのでしょうか。
また、
<高麗の沙門(帰化僧)道顕の日本世紀(詳細不明の史書だそうですが、逸文によればこのころの唐と半島や列島との状況をよく記しているそうです)に曰く、庚申年の七月に云々。春秋智(新羅の武烈王)、大将蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡(ほろぼ)しつ。あるいは曰く、百済、おのづからに亡びぬ。(中略)新羅の春秋智、願いを内臣蓋金に得ず(蓋金は高句麗の泉蓋蘇文。始め高句麗に百済討伐の援軍を求めたが断られた)。故、また唐に使えて、俗の衣冠を捨てて(新羅古来の衣服や冠を捨て、唐の衣服を着また唐の官位を受けて)、媚を(唐の)天子に請いて、禍(わざわい)を隣国に投(いた)して、この意行(こころ)を構うという(唐の意に沿うようにする)。>(斉明紀六年条、660年)
まさにこのころから中国代々の王朝に属し、それが半島の人々の「恨」となって今日まで続いているのでしょうか。どうしてもこの自民族の歴史を直視しえず、最近の日本による併合(属国でも植民地でもない)にこの「恨」を凝縮させているようです。半島の人々はよほどこのことを自覚しないと、このくびきからは逃れられないでしょうね。

 再び伊吉連博得の報告書に戻りましょう。
<庚申年(660年)の8月に、百済すでに平(ことむ)けて後に、9月12日に客(筑紫倭国の使人ら)を本国に放つ。19日に西京(長安)より発つ。10月16日に、還りて東京(洛陽)に到りて、始めて阿利麻ら五人(大和からの使人の一員。坂合部石布と共に遭難したが助かったもの)に相見ること得たり。11月1日に、将軍蘇定方らがために掠(かす)いられたる百済王より以下、太子隆ら諸王子十三人、大佐平沙宅千福・国弁成より以下三十七人、併せて五十許(ばかり)の人、朝堂(みかど)に奉進(たてまつ)る。(あと天子は、捕虜を解き放ったそうです)。…24日に、東京より発つ。>(斉明紀六年条、660年)
百済討伐の直後、流罪になったり幽閉されていた筑紫の使人らは釈放されたようです。これによれば、博得も他の幽閉されていた筑紫の使人らと行動を共にしているようですから、一人罪を許された…わけではないようです。博徳らが洛陽まで来て始めて、遭難して助かった大和の阿利麻らと会ったのです。この「始めて」という言葉が、博徳ら筑紫の使節は阿利麻ら五人と初対面であることが分かります。ですから博得は、筑紫の使節団の一員だったのです。

 しかし百済では、遺臣たちによってすぐさま反抗が始まりました。再び岩波書紀の解説(p578、補注26-九)を見てみましょう。
――この年(660年)7月の百済滅亡後、逃れていた達率黒歯常之・恩率鬼室福信・僧道琛(どうちん)ら遺臣たちは、三万余の兵を集めた。険しい山に砦を築いたので、唐・新羅の連合軍も攻めあぐねた。逆に連合軍のほうが攻め込まれるありさまであった。ゲリラ戦が始まった。――

 百済の遺臣らは当然、(653年に)質となっていた豊章の帰国と、百済再興のため援軍を要請しました。書紀の記事ですが、本来筑紫に対する要請を盗用したのでしょう。見てみましょう。
<冬十月に、百済の佐平鬼室福信、佐平貴智らを遣わして、来て唐の俘(とりこ)百余人を献ず。…また、師を乞(まう)して救いを請う。併せて王子余豊章を乞して曰く、「唐人、おのが蝥賊(あしきあた)を率いて、来たりて我が疆場(さかい)を蕩搖(ただよ)はし、我が社稷(くに)を覆し、我が君臣を俘にす。(本注を省く。上記岩波書紀の補注と同じような記事)。しかも百済国、遥かに天皇の護念(めぐみ)に頼りて、更に鳩(もと)め集めて邦を為す。まさに今、謹みて願わくば、百済国の、天朝に遣わし侍る王子豊章を迎えて、国の主とせむとす」と、云々。…(本注:王子豊章及び妻子と、その叔父忠勝らとを送る。その正しく発遣(た)ちし時は、七年(661年、天智即位前記九月条)に見ゆ。…)>(斉明紀六年条、660年)
書紀では661年の10月ころ豊章を送り届けた…となっていますが、660年7月に百済が滅びてのんびりと一年も倭国にいるはずはなく、その年(旧唐書年で660年)の10月ころには渡ったはずです。

<九月に、(天智が)百済の王子豊章に(冠を)授けたまふ。…即ち大山下狭井(さい)連檳榔(あじまさ)・小山下秦(はた)造田来津(たくつ)を遣わして、軍五千余を率いて、(豊章を)本郷(もとゆくに)に護り送らしむ。ここに豊章が国に入るときに、福信迎え来て、稽首(をが)みて国朝の政を奉(あげ)て、みな悉くに委ねたてまつる。>(天智即位前紀、661年)
書紀では661年ですが、天智紀の一年のズレを考慮し660年のことでしょう。

 次の「旧唐書」では、やはり660年の内のこと…と読めますね。。
<顕慶五年(660年)、百済の僧道琛、旧将(百済を滅ぼした後だから「旧」をつけた)福信、衆を率いて周留城に拠り、以って叛す(名文上唐に対する反逆)。(百済の遺臣は)使いを遣わして倭国に往かしめ、故王子(故は旧に同じ。元の王子)扶余豊を迎えて、立てて王と為す。>(旧唐書百済伝)
あれほど倭国(九州王朝)と日本国(大和)を区別している「旧唐書」ですから、ここに書いてある「倭国に往かしめ…」の「倭国」とは即ち「九州王朝」であることは疑問の余地はなさそうです。ですから書紀がいかにも大和にかかわることだ…と主張しても、唐は戦った相手を間違えるはずはないのです。書紀の記事に関しては、いったん立ち止まって「この記事は本当に大和に関するものか。筑紫に関するものではないか」と考えてみる必要がありますね。

 さて前に約束していました「旧唐書年」と「書紀年(天智紀において)」について、また唐の軍使などの筑紫へ来る年についても説明します。
(1)あの「白村江(はくすきのえ)の戦い(夏の海戦)」の年は、旧唐書によれば「龍朔二年、662年」、しかし書紀では「天智二年、663年」となっています。ここに「一年のズレ」があるのです。これは暦法の違いか…とも言われていますので、両年紀を併記することにします。
(2)天智紀十年条(書紀年で671年に相当)に、「百済の鎮将劉仁願、李守真を遣わして表上る」とありますが、しかし旧唐書によれば「総章元年(668年)8月に姚州に流され」て百済鎮将の職を解かれているのです。ですからここに「旧唐書年」と「三年のズレ」があります。ですから唐の軍使や駐留軍の来筑紫は、三年前倒しで考える必要があります。そうすると、当時の事情がよくわかるのです。

 このことを考慮して次の記事を読むと、事情がよく分かります。
<夏五月の…に、百済の鎮将(百済駐屯軍の将軍)劉仁願(りゅう・じんがん)、朝散大夫(従五品下)郭務悰(かく・むそう)を遣わして、表函と献物とを進(たてまつ)る。…(中略)冬十月の…に、郭務悰らを発て遣わす(送り返す)勅(みことのり)をのたまふ。…(中略)十二月の…に、郭務悰ら罷り帰りぬ。…>(天智紀三年条、664年)
軍使の往来での三年のズレを勘案すると、この事件は661年…。書き方は書紀用に潤色されていますが、郭務悰は筑紫太宰府に表を持って来て、九州王朝の天子に差し出したのでしょう。軍使の目的はただ一つ、「百済再興に手を貸すな」と念を押すことだったのでしょう。そしてまた、九州王朝の動静の探索ではなかったでしょうか。五月に来て十二月まで、ほぼ七ヶ月の滞在でした。吉野の津へも行ったのでしょうか。

 当然九州王朝は百済再興に手を貸すことを決意していましたから、この661年の始めにはお膝もとの九州をはじめ全国に出兵の下知を発したはずです。当然大和(足姫、斉明)にも、関東の大王(下毛野君)らにも届きました。
次回はそのあたりを見ていきましょう。