やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

「九州王朝」の七世紀(5)

2007-04-07 15:50:11 | 古代史
 陳舜臣(ちん・しゅんしん)といわれる方が1981年12月に第一刷を出された「中国の歴史」(平凡社)というシリーズの小説、その第七巻「隋唐の興亡」を使用させていただきながら、隋の興亡及び唐への禅譲あたりの事情をかいつまんでご紹介します。

 隋第一代の天子「楊堅(ようけん。後に文帝と諡された)」は、鮮卑族の王朝「北周」の外戚で隨国公の爵でした。もともと「普六茹(ふろくじょ)」という胡姓だったようですが、北魏のとき孝文帝による漢化政策で「楊」姓を名乗ったようです。楊堅は581年、北周静帝から禅譲されて「隋」を建て、元号を「開皇」としました。そして589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一したのです。
長子の楊勇(ようゆう)が皇太子に立てられていましたが、楊堅の皇后つまり楊勇の母独孤氏から見れば放蕩息子であったため皇后の勧めで廃嫡され、次男の楊広(ようこう)が皇太子になったのだそうです。しかし楊広は、父の皇帝(604年死亡)や母(602年死亡)が生存中は猫をかぶっていい子を演じていたようです。

 父楊堅が亡くなり楊広が王位を継いだのは、605年のことで、「大業」と元を建てました。(楊堅は楊広に暗殺された…と見る向きもあるそうです。)のち楊広は、「女性を好み礼を遠ざく・礼を去りて衆を遠ざく・天に逆らい民を虐ぐ」という意味のある「煬帝(ようだい)」と諡されました。
 父楊堅は倹約に勤め、楊広が継いだとき国庫には富があふれていたそうです。この富と、もともと楊広にあった派手好きな性格とが相俟って、楊広は都長安の建設を大々的に始めました。また南北朝の人民の融和を図り、南北の物資の輸送を便ならしめるため…などという理由で、南北中国をつなぐ大運河を作りました。このころが、楊広の絶頂期だったでしょう。
また南朝の文化にあこがれる楊広の心を満たすため、長江下流の揚州に仙人も迷うというほど巨大で華麗な離宮をも作らせました。そして611年に第一次の、613年に第二次の、翌614年には第三次の高句麗遠征が行われました。

 第二次第三次高句麗遠征あたりから、労役や兵役に狩り出される人々が離散し、あちこちで徒党を組み始めました。いやそればかりか、地方の豪族・任侠の徒・山賊ら・租税が払えない逃亡者…などのグループもあったそうです。

 そのような中楊広は大業十二年(616年)、江南で作らせた竜舟(船のへさきに竜の装飾を施した遊覧船)で、東都洛陽から運河を通って揚州へと行きました。そのとき長安には孫の代王楊侑(ようゆう)を置き、洛陽には同じく越王楊侗(ようとう)を留めたのです。そして楊広は揚州の豪華な離宮で、隋が瓦解していく音を聞くのです。

 北周の八柱国という貴族の一人で隋では浪人していた李密(りみつ)は、造反集団を乗っ取り、617年2月に政府の穀物倉庫郡のある洛口倉(洛水が黄河と合流するあたり、洛陽の東)を襲い、占拠して倉庫を開放しました。これを聞いた付近の民や弱小造反集団が来て加わり、李密は数十万を擁する大きな集団の長となったのです。そして「魏」公となり、元も「永平」と建てました。李密の魏は隋に代わるという意思を、世に敢然と示したのです。そして当然のこととして、李密は楊侗の守る洛陽を攻撃します。

 同じく北周の八柱国の一員で母が楊広の母の妹であった「李渕(りえん)」は、616年の12月、太原(洛陽の北350kmあたり)の留守(りゅうしゅ。皇帝に代わってその地のことを全て裁決する権を持つ)という要職で赴任しました。そして翌年の7月、李密が洛陽を攻めていることを聞くや、李渕は三万の兵と突厥に借りた兵でなる軍を率いて長安めがけて太原を発ったのです。そして長安の楊侑を立てよう…と檄を飛ばしました。そして10月、関中に入って長安に近づいたときには二十万に膨れ上がっていました。この年李渕の長子李建成は29歳、次男の李世民は20歳、そして太原に留守としておいてきた四男の李元吉は15歳でした。そして11月に李渕は長安に入城し、楊侑(のちに恭帝と諡)を即位させました。元を「義寧」とし、揚州にいる楊広を太上皇に棚上げしました。

 李密はまだ洛陽を攻撃しています。
揚州の皇帝楊広は、洛陽を救うため王世充(おう・せいじゅう)に軍を授け派遣しました。そして王世充軍は洛陽に入り、楊侗を立てて元を「皇泰」としました。ですから楊侗は「皇泰主」と呼ばれます。

 翌618年、揚州にいた楊広は自分の近衛兵の長宇文化及(うぶん・かきゅう)に殺されてしまいました。関中出身者の近衛兵らは、揚州に腰を落ち着けた皇帝を疎ましく思ったのだそうです。

 これを聞いた長安の李渕(のち高祖)は、もう遠慮することなく楊侑から禅譲され、「唐」を建て元を「武徳」としました。
ですから618年は、大業十四年であり、義寧二年であり、武徳元年でもあるのです。

 揚州の近衛軍団は宇文化及に率いられ、楊広の甥の楊浩(ようこう)を皇帝として擁立していました。その一団には、離宮に侍っていた宮女たちも含まれていました。士気は低かったようです。

 しかし勝手に皇帝を称した者は各地におり、唐の李渕は各地に割拠した群雄の一人に過ぎませんでした。
洛陽には皇泰王を擁した王世充、洛口倉には李密、長安目指して進んでいる楊浩と宇文化及の軍、河北の南部に竇建徳(とう・けんとく)の大勢力、空となった楊州に発生した李子通などあまたの集団…。
李密は王世充に帰順して宇文化及を攻撃し、敗走した宇文化及は楊浩を殺し自ら皇帝(国号は許、元は天寿)を名乗りましたが、竇建徳に討たれました。
また李密は王世充から疑いをかけられ攻撃され、敗れた李密は長安の李渕を頼りました。勢いに乗った王世充は皇泰王を廃して、自ら皇帝(国号は鄭、元は開明)となりました。

しかしこれらあまたの群雄も、623から624年にかけて唐の皇帝となった李渕に平らげられました。唐が最後の勝者になったのです。その理由として、李渕が判断よく太原からまっすぐ長安を突いたこと、李渕自身が大きな包容力を持って敗者や来る者を拒まずに受け入れたこと、次男の李世民が決断力に優れこれら群雄を次々に打ち破っていったことなどがあるそうです。
このことから分かることは、隋末の615年ころより唐初の624年ころまで、中国は大きな混乱の中にあった…ということです。

 前にも紹介しましたが、推古紀を見てみましょう。
<夏四月…、筑紫太宰、奏上して言さく、「百済の僧道欣・恵彌を首として十人、俗七十五人、肥後国の葦北津に泊まれり」とまうす。…問はしめて曰く、「何か来し」という。対へて曰く、「百済の王、命じて呉国に遣わす。その国に乱れありて入ることを得ず。…」という。>(推古紀十七年条、609年)
上に述べましたように、この話が本当に609年であれば、そのころは煬帝の絶頂期にあったはずです。しかし10年ほど後の619年ころとすれば、確かに隋末唐初の混乱期にあります。
ですから本当は山跡と「唐」に関る話を、八世紀には入手していた「隋書」にある隋と俀国九州王朝の話にすり替え、九州王朝の痕跡を消すためにその時代を前倒しにして推古紀に挿入したのではないでしょうか。

 全て「唐・大唐とあるのは本当は隋」と岩波書紀の注にありますが、しかし書紀の編者は隋と唐を混同していません。
<秋八月の…に、高麗、使いを遣わして方物を貢す。よりて曰く、「隋の煬帝、三十万の衆(いくさ)を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。…」ともうす。>(推古紀二十六年、618年)
どうですか。ちゃんと「隋の煬帝」と書かれています。「隋と唐を混同している」という言い訳は、全く通用しませんね。煬帝の第二次高句麗討伐が613年、第三次が614年ですから、上の記事は618年かもしれませんが、あまりに間隔があきすぎです。615年か616年だったかもしれません。

 ですから推古紀の「唐・大唐」は、年代を後ろにずらして素直にそう解釈するほうがいいと思います。
・推古紀十五年条、607年。「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」⇒620年~623年
・推古紀十六年条、608年。「小野臣妹子、大唐より至る」  ⇒621年~624年
このように年代をずらせば、前回指摘しました疑問は氷解します。
このことから、通説となっている「推古天皇・聖徳太子の遣隋使は『なかった』」といえそうです。

 前回、俀国・山跡に使いした使人の名が「隋書では裴清、書紀では裴世清」となっていることを、「隋では「世」が使えなかったのかもしれない」としました。
これは誤りで、唐の時代に出来た「隋書」には、唐の第二代の天子「李世民(太祖)」の「世」を使うのを避けた…というのが真相のようです。

 では次回では、少し推古紀を追ってみます。