やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(5)

2007-04-26 14:32:13 | 古代史
『冬の陸戦』
 662年(旧唐書年)の夏に起ったとされる「白村江の戦い」を、古田先生は「夏の海戦」とされました。しかしその半年ほど前、661年の冬から662年の早春にかけて、百済の大地を戦場とした戦があったのです。これを称して、「冬の陸戦」とされました。それを辿ってみましょう。

 前回、天智紀三年条(664年)にあった<夏五月の…に、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰を遣わして…>というのを「軍使の往来での三年のズレを勘案すると、この事件は661年…。」としました。しかしこれは書紀と旧唐書年の一年のズレを考慮すれば、600年ではなかったか…と思います。「夏の海戦」の二年前になります。ですから百済の王子豊章を送ったと見る660年「九月」には、郭務悰らは太宰府にいたことになります。
また最後に、「当然九州王朝は百済再興に手を貸すことを決意していましたから、この661年の始めにはお膝もとの九州をはじめ全国に出兵の下知を発したはずです。」とも書きました。しかしこれも、豊章を送ると同時かその直後…、660年9月か10月だったと考えます。しかし軍備の手配は、それ以前より行っていたでしょう。あの「持統の吉野幸」を見る限り…。

 その軍備の手配として、大和でも軍船を作ったようですが…。しかし大和は気乗り薄だった…、どうしても唐と戦いたくなかった…ようです。
<十二月…。天皇、まさに福信が乞(まう)す意(こころ)に従いて、筑紫に幸して、救軍を遣らむと思いて、まずここに幸して、諸の軍器を備う。この年百済のために、まさに新羅を伐(う)たむと欲して、即ち駿河国に勅(みことのり)して船を造らしむ。すでに訖(つくりおわ)りて、續麻郊(をみの。伊勢市の西北あたり)に挽(ひ)き至るときに、その船、夜中に故もなくして(理由なく)、艫舳(へとも。船の先と舵のあるうしろ)相反れり。衆(ひとびと)終に(しまいには)敗れむことを知(さと)れり。…>(斉明紀六年条、660年)
これは書紀編纂時に付け加えた文章と思われますが、まさに大和が主権者となった後「この通り、私たち大和は唐に敵対するつもりはありませんでした」との唐朝に対する言い訳を用意した…との意図がありありですね。またこの気の抜けたビールのような文から分かることは、半島出兵はまさに大和の問題にあらず、他国(九州王朝)ごと…だったことです。

 年が明けた661年、筑紫王朝では「筑紫君薩夜麻(幸山?)」という天子が即位されたようです(後、この名は書紀に出てきます)。そうです。九州年号において、二十三年間も続く「白鳳」に改元されました。通説では、この「白鳳」は大和の「白雉」の別名…としています。しかしこの「白雉」は九州年号にもちゃんとありますから、決して別名ではありえません。美術史の時代区分「白鳳時代」とは、この九州年号を借用している可能性は大いにあります。

 さて書紀は、一応661年正月、足姫(斉明)は筑紫へ向かった…といっています。それを見てみましょう。
<春正月の…に、御船西に征(い)きて、初めて海路に就く。…御船、大伯海(おほく。岡山県邑久の海、小豆島の北)に到る。時に大田姫皇女(天智の子。弟の天武の妃)、女(ひめみこ)を生む。よりてその女を名づけて、大伯皇女という。…御船、伊予の熟田津(にきたつ。道後温泉というのが通説)の石湯行宮(いはゆのかりみや)に泊(は)つ。…三月の…に、御船、還りて那大津(博多港)に至る。磐瀬(いはせ)行宮に居ます。…(本注:ある本に曰く、四月に、天皇、朝倉宮に遷り居ますという。)>(斉明紀七年条、661年)
この船旅は、まさに中大兄皇子(天智)・大海人皇子(天武)の妃らを引き連れた物見遊山の旅のようです。この短い文に、面白いことがあります。
(1)まず「熟田津」の位置が通説では道後温泉となっていますが、はっきりしていません。万葉集には、額田王がここで作ったという有名な和歌がありますね。
   熟田津に 船乗りせむと 月待てば
     潮もかなひぬ いまは漕ぎ出でな       (万葉8番歌)
しかし古田先生やその説に納得される方々は、この熟田津は「のちの持統の吉野幸は34年前だ」のところで述べました佐賀県諸富町の寺井津、つまりむかしの呼び名「新北津」に比定されています。吉田東吾の「大日本地名辞書」の「肥前」の章によれば、佐賀郡城崎(きさき)郷の「寺井津」は「新北(にきた)津」ともいい、延喜式で肥前国駅名に「新分(にきた)」がある…と紹介されています。この読み方は、「大分」が「おほきた」と読まれていたことから納得できますね。
歌の内容を第一級資料とすれば、伊予の道後近くであれば「潮もかないぬ…」と歌われるような遠浅で干満の激しい海ではなさそうです。有明海の新北津であれば、ぴったりと状況が一致します。ですからこの歌は、新北津で百済救援に向かう軍船を見送る歌…ではないでしょうか。
(2)備中国風土記逸文に、「中大兄皇子は、備中国下道郡邇磨(にま)で二万の兵士をリクルートした。だからここを「二万」という…」と、地名にかこつけた説話があるそうです。しかし結果は、(説話が本当としても)この二万の軍は一度も用いられませんでした。
(3)上記に「御船、還りて那大津に至る。」とありますね。この「還りて」に対する岩波書紀の注は、「熟田津は寄り道。本来の航路に戻っての意」とあります。古田説では、「いやそうではなく、新北津での閲兵式などを終えて、船で那大津(博多港)へ帰ることだ」としています。ですからこの斉明紀は、どうも激しく潤色しているのではないか…とされています。
(4)本注の「ある本に曰く…」とは、何のことでしょうか。本当に足姫(斉明)ら一行が朝倉宮に遷ったのなら、堂々と本文に書けばいいのではないでしょうか(後では本分中に出てきますが…)。天子「幸山」らが太宰府より少し奥まった朝倉宮へ遷った…とするほうが、すんなりと納得できますね。ですから、盗用して挿入した…?。

 同じ年(661年)です。
<秋七月の…に、天皇、朝倉宮に崩(かむあが)りましぬ。八月の…に、皇太子(中大兄皇子のこと)、天皇の喪(遺体のこと)を奉徙(ゐまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る。…冬十月の…に、天皇の喪、還りて海に就く。(中略)十一月の…に、天皇の喪を以って、飛鳥の川原に殯(もがり)す。…(本注:日本世紀に曰く、十一月に、福信が獲たる唐人続守言(しょく・しゅげん)ら、筑紫に至るという。(後略))>(斉明紀七年条)
足姫(斉明)は、7月の下旬に亡くなってしまいました。中大兄皇子がいつ筑紫に来たか不明ですが、足姫が亡くなった7月にはいたようです。そして10月の上旬にこれを奇貨として、遺体と共に大和へ帰ってしまいます。中大兄皇子が帰ったのですから、もし大和から軍を連れてきていたとしても、全員が引き上げたと考えざるを得ません。天智紀二年条にも出てきます「唐人続守言ら…」は、名のある唐の武人は筑紫に献上し、雑兵が大和に回した…ということのようです。
わずか足掛け2ヶ月余で、中大兄皇子は後で紹介します「即位前紀」の条にあるようなことをしたのでしょうか。

 しかしいずれにせよ、書紀による限り、大和の将兵は(中大兄皇子を含めて)誰一人半島に出兵していないようです。つまり唐・新羅連合軍との戦「白村江の戦い」には、参戦していないのです。
通説では、潤色・脚色された書紀の記述を鵜呑みにして、「この戦いの当事者は大和…」とされていますが…。本当にそうか…、古田説を紹介します。

 さて続けましょう。
<九月に、皇太子(中大兄皇子のこと)、長津(那珂津)宮におはします。織冠を以って、百済の王子豊章に授けたまふ。…すなわち大山下狭井(さい)連檳榔(あじまさ)・小山下秦(はた)造田来津(たくつ)を遣わして、軍五千余を率いて、(豊章を)本郷へ護り送らしむ。ここに豊章が国に入るときに、福信迎え来て、稽首(をが)みて国朝の政を奉(あげ)て、みな悉くに委ねたてまつる。>(天智即位前紀、661年)
足姫(斉明)が7月に亡くなって、10月に大和に向かって筑紫那の津を発つ直前の処置のようです。しかしどうも潤色くさい…。彼等は大和の将兵にあらず、筑紫の将兵でしょう。
前にも言いましたが、660年7月に百済が滅び、すぐさま福信らがゲリラ戦をしている状況です。国にすぐにでも帰って再興を図るべき豊章が、のんびりと一年を過ごすでしょうか。一年前の660年9月には、豊章はすでに帰国しているはずです。
この二人の将に率いられた五千の軍は、満を持しての筑紫の救援軍、先遣隊ではないでしょうか。あるいは前回言いました如く、書紀年を一年前倒しにして、660年9月に豊章を守って行ったのかもしれませんが…。
 この一月前には、兵站を担当すると思われる軍も派遣されています。上記の直前の文です。
<八月に、前将軍大花下安曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救はしむ。よりて兵杖・五穀を送りたまふ。(本注:ある本に、この末に継ぎて曰く、別に大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を使わして、百済を守護らしむという。)>(天智即位前紀、661年)
この8月の派遣軍も筑紫の軍でしょう。でも、その規模は不明です。しかし本注にあるように、二人の将軍の行動が9月の記事につながるとすれば六千人規模と思われ、残り千人ほどで兵站の構築に携わったのではないでしょうか。武器や食料の調達、軍の編成をじっくり一年をかけて行ったことが伺えます。あるいは急遽、一年前の660年8月に豊章の帰国に先立って派遣されていたのかもしれません。そうとすれば、武器・食料は前々から準備されていたことになりますね。
個人的には、全てが660年8月,9月のことだった…、冬の陸戦の準備に一年をかけたとするほうが、何やら落ち着きますが…。

 同じころ、再び郭務悰らが太宰府にやって来たようです。
<九月の(23日)に、唐国、朝散大夫沂州司馬(きしゅうのしば)上柱国劉徳高等を遣わす。(本注:等というは、右戎衛郎上柱国百済禰軍(ねぐん。人名)・朝散大夫柱国郭務悰をいう。すべて二百五十四人。七月二十八日に、対馬に至る。九月二十日に、筑紫に至る。二十二日に表函を進(たてまつ)る。)…十二月の…に、劉徳高等、罷り帰りぬ。この歳、小錦守君大石らを大唐に遣わすと、云々。…(本注:…蓋し唐の使人を送るか。)>(天智紀四年条、665年)
軍使の往来に三年のズレ、旧唐書年との一年のズレを勘案すれば、これは665年ではなく四年前の661年、半島では冬の陸戦がこれから起る…という時期です。
9月20日に筑紫(太宰府)に入り、迎賓館としての鴻臚館に泊まり、22日に表を提示しました。そして23日に、九州王朝の天子幸山に会ったのではないでしょうか。ですから上記のような本文になった…。唐の使節は決して大和に来たのではなく(三日間で大和へ行けない)、筑紫太宰府だったのです。
どのような天子の親書だったのでしょうか。最後通牒だったのでしょうか。幸山とは、どのような話をしたのでしょう。254人もの兵を引き連れての強迫だったのでしょうが、しかし戦端は開かれてしまったようです。
大和の派兵したくない理由が分かりました。いや、はっきりと筑紫王朝には与しない…と宣言したのです。それがこの、守君大石らの唐への派遣というか同道だったのではないでしょうか。

 661年の12月、百済軍に合流していた檳榔や田来津らと五千の筑紫軍は、百済の州柔(つぬ。錦江下流の山か…と)城で軍議を持ちました。一年にわたって合同軍事演習などをして、気心は知れたのでしょうか。
<冬十二月の…に、百済の王豊章、その臣佐平福信ら、狭井連(本注:名をもらせり)朴市(えち。秦)田来津と、議(はか)りて曰く、「この州柔は、遠く田畝(たはたけ)に隔たりて、土地磽确(やせ)たり。農桑(なりわいこかい)の地にあらず。これ拒(ふせ)ぎ戦う場なり。ここに久しくおらば、民(たみ)飢饉(う)えぬべし。いま避城(へさし。州柔の南方、全羅北道金堤か…と)に遷るべし。避城は、西北に帯びるに古連旦(川の名)の水を以ってし、東南は深泥巨堰(付近の池の堤)の防(ふせぎ)によれり。めぐらすに周田(周囲一面の田)を以ってし、渠(みぞ)をさくりて雨を降らす。華実の毛(花も実もある樹木の茂る肥えた土地の産物)は、三韓の上腴(肥えた土地)なり。衣食のみなもとは、二儀(あめつち。天地)の隩区(くにむら。一定の地域)なり。地卑(くだ)れりというとも(平地ではあるが)、あに遷らざらんや(遷らない理由はない)」という。>(天智紀元年条、662年)
これも一年のズレで、661年の12月…雪の舞う冬…。どうも百済の王豊章は、この険しい山中にある堅固な州柔城をお気に召さぬようです。食料を確保するには、平地の避城がいい…と。
 田来津が諌めます。上の続きです。
<ここに朴市田来津、独り進みて諌めて曰く、「避城と敵(あた。唐・新羅の連合軍)のおる間と、一夜に行くべし。相近きことこれ甚だし。もし不慮(突然敵の攻撃を受けるようなこと)あらば、それ悔ゆとも及び難からむ。それ飢えは後なり、亡びは先なり。いま敵のみだりに来たらざる所以は、州柔、山険(やまさか)を設けおきて(山の険しさを利用して)、尽くに防禦として、山峻高(やまさが)しくして谷隘(せま)ければ、守り易くして攻め難きが故なり。もし卑き地(平地)におらば、何を以ってか固くおりて、揺動(うご)かずして今日に及ばましや(今日に至ることが出来たでしょうか、出来なかったでしょう)」という。遂に諌めを聴かずして、避城に都す。>(天智紀元年条、662年)
田来つがこんこんと諭しましたが、豊章は聴かずに避城へ遷りました。そしてその後、百済軍内に不協和音が生じたようです。
唐・新羅の連合軍はこのチャンスを見逃さず攻めてきたようですが、筑紫・百済の軍も必死で応戦して、一進一退の状態でこの年は暮れたようです。

 さて年が明けた662年…、
<春二月の…に、…新羅の人、百済の南の四州を焼燔(や)く。…ここに避城、賊を去ること近し。故、勢居ること能(あたわ)ず(従って、必然的に避城にはいられなかった)。すなはち還りて州柔に居り。田来津が計る所の如し。…>(天智紀二年条、663年)
これも一年のズレで662年の早春…。百済の四州とは、居列(慶尚南道居昌)・居忽(全羅北道南原)・沙平(不詳)それに徳安(忠清南道恩津)だそうで、結局新羅は広範囲にわたって総攻撃をかけてきた…ということだそうです。避城であればいつ攻撃されるか分からず、そうなれば守りきれないことがやっと豊章にも分かったのでしょう。また州柔へ戻りました。

 この661年冬から662年早春にわたる戦を、古田先生は「冬の陸戦」と名づけられました。しかし陸戦では決着は就かなかったようです。この年の「夏の海戦」時、田来津らは陸での戦いで戦死したようです。書紀は短く伝えています。
<…朴市田来津、天に仰ぎて誓い、歯をくいしばりて嗔(いか)り、数十人を殺しつ。ここに戦死せぬ。…>(後出)

 今回はこのあたりで…。


1 コメント

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田来津らの戦死 (向井 藤司)
2009-08-16 18:12:15
『田来津(たくつ)らは陸での戦いで戦死』というのは九州王朝衰退への道(7)によれば、『海での戦いで戦死』の間違いだと思いますが、・・・。
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