やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

九州王朝衰退への道(2)

2007-04-14 11:46:47 | 古代史
 「旧唐書」の倭国伝をもう少し見てみましょう。
まず、倭国伝です。「高表仁、…朝命を宣べずして還る」のあとです。
<二十二年に至り、また新羅に付し表を奉じて、以って起居を通ず。>(貞観二十二年、648年)
十七年ぶりに、また使いを送ったようです。この年は孝徳四年(大化四年と称しているが、この大化は九州年号(695-700年)である)だそうですが、岩波「旧唐書」の注記(p36)では「この遣唐使のことは日本の記録にはない」としています。まあ、九州王朝の使いですから、書紀に見えないのは当然ですが…。
何のための使いかは分かりませんが、「旧唐書倭国伝」はこれで終ります(帝紀には、654年にまた使いしたことが記されています)。これより十四年後の662年、倭国九州王朝は唐・新羅連合軍と戦い敗れました。そのためこれで終ったのかもしれません。倭国敗戦のようすは、書紀や旧唐書百済伝あるいは三国史記などで見てみます。後で紹介しましょう。

 上記の一年前、孝徳三年条に次の記事があります。
<…新羅、上臣大阿飡(だいあさん)金春秋を遣わして、…来たりて孔雀一隻・鸚鵡一隻を献る(たてまつる。書紀の名文による謂い)。よりて春秋を以って質(むかはり)とす。春秋は、姿顔(かほ)美(よ)くして善(この)みて談笑す。>(孝徳紀三年(大化三年)条、647年)
この金春秋という人はのちに新羅の武烈王となる王子ですが、質などではなく、筑紫九州王朝や山跡を探りに来たのではないでしょうか。一つの傍証ですが、岩波書紀の春秋に対する注記(p305、注23)に、「(春秋は)翌648年、唐に入朝、これより唐と結んで百済・高麗に当たり、朝鮮を統一するという外交路線がしかれた」と書かれてあります。これより新羅は唐服を着用するようになったそうですから、もし百済を攻めれば倭国はどう出るか…などを探ったのかもしれません。上記「旧唐書倭国伝」にあります「新羅に付し…」という意味は、唐に入朝した金春秋に倭国の使いが従っていた…ということでしょうか。(そうだとすれば、少々情けない…。)金春秋は人当たりの良さにも拘らず、したたかな策略をめぐらす策士だったようですね。
 因みに「645年に大化の改新が行われた」と習ってきましたが、学者の研究で「それはうそ…、大化の改新はなかった」と分かってきています。本ブログと直接関係ありませんので、そのあたりは省きます。
しかし「大化」という年号は大和王朝のもの…というのが通説ですが、皆さんはこれは九州年号である…ことをご承知ですね。大化五年のあと孝徳六年(650年)には「白雉」と改元されこれも五年続いたことにされ、それから三十二年後の天武十五年(686年)に突如として半年だけの「朱鳥」が出てきます。この書紀に挿入された三個の九州年号は、例え飛び飛びでも、建元・改元の詔がなくとも、701年以降の大和王朝下において「これを信じない者は死罪…。九州年号も九州王朝はなかったのだ…。あった…という者は死罪…」というほどの威力を持ったのだろう…と古田先生はいわれます。すさまじい九州王朝隠しの執念ですね。通説を信じる方は、その執念に呪われている…。

 筑紫太宰府には653年、百済義慈(ぎじ)王の王子豊章(ほうしょう)が質として来ました。百済としては、東より新羅に圧迫され、西よりは唐に窺われるこのごろ、どうしても筑紫倭国の軍事援助がほしかったのでしょう。
<(義慈)王の十三年(653年)、倭国と好を通ず。>(三国史記百済本紀)
書紀では、二十二年前の631年に来た…としています。
<百済の王義慈、王子豊章を入れて質とす。>(舒明紀三年条、631年)
しかし百済義慈王の即位は641年(舒明十三年)ですから、舒明三年(631年)はまだ即位前になります。ですから百済本記の「倭国と好を通ず」のとき、証しとして豊章が来た…とするほうが納得できます。書紀は九州王朝の史書を盗用し、山跡と百済の交流を早い時期であったと捏造しようとしたのでしょうか。
しかし筑紫倭国はこれで百済を救援する決意を固め、新羅は唐と組んで百済に対抗する方針を固めたようです。

 豊章が筑紫倭国に質として来た653年(孝徳九年、白雉四年)と654年(同じく十年)、山跡は立て続けに「遣唐使」を派遣しました。孝徳九年の使いは学問僧十三人ほど(中臣鎌足の長男定恵も)を含み、総勢二百四十人余の大使節団でした。確かに、山跡も力をつけてきています。しかし「旧唐書」の帝紀にも、また倭国伝あるいは日本国伝にもありません。まだ列島の主権者ではないからでしょう。
また翌孝徳十年の使いも、人数は不明ですが大使節団だったようです。少し書紀を紹介しましょう。
<二月に、大唐に遣わす押使(大使の上位におくという)大錦上高向史玄理(たかむこのふひとげんり)、…(あと八人の名がある)ら、二船に分かれ乗らしむ。留連(つたよ)うこと数月。新羅道をとりて、萊州(らいしゅう。山東半島北岸)に泊まれり。ついに京(長安)に到りて、天子に観え奉(たてまつ)る。ここに東宮監門(皇太子の宮の護衛を司る官)郭丈挙(かくじょうきょ)、悉くに日本国の地里及び国の始めの神の名を問う。みな問いに従いて答えつ。押使高向玄理、大唐に卒(みう)せぬ。…>(孝徳紀十年条(白雉五年)、654年)
この「問いに従いて答えつ」も一つの要因として、前に紹介しましたように「その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以って対えず。故に中国、これを疑う」ことを招いたのでしょうね。書紀が上梓される七十年ほど前なのですが、「いまに見てみろ、筑紫を追い越して見せよう…」との自負は強烈だったようです。
 地理についての、唐側の記録があります。「中国、これを疑う」の直後です。
<またいう、その国の界、東西南北各々数千里あり。西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外はすなわち毛人の国なり、と。>(旧唐書日本国伝)
この日本国が主権者となった後の近畿大和とすると、(大まかにですが)西は大阪湾(または関門快海峡?)で、南は熊野灘(太平洋)で限られていますね。また東は木曽山地や赤石山地で遮られ、北は伊吹山地や飛騨山地で遮られています。だいたい地形として合うのではないでしょうか。その山地の外には…、毛人が住む…と。この「毛人」という言葉は、倭王武の上表文にも出てきました。他の文化圏の人々でしょう。

 同じ年、筑紫倭国も使いしたようです。
<倭国、琥珀・瑪瑙を献ず。>(旧唐書帝紀工送電、654年)
唐の現状を探ることが第一の目的だったのでしょうが、百済への侵略を止めるように依頼することも目的だったのでしょう。

 さて今回はこれまでとし、次回からは"忍び寄る戦いの足音"…を聞いていただきます。

九州王朝衰退への道(1)

2007-04-11 14:44:32 | 古代史
 622年に「日出でる処の天子」多利思北孤が崩御(三尊像銘では、天子に対する用語「登遐」が使われています)されました。そして翌623年、太子「歌彌多弗の利」が即位されたのでしょう。年号も「仁王」と改元されたのです。
以前の"自立の六世紀(3)"を見てください。そこには多利思北孤の年号「法興」はありません。古田先生は、こう言われます。
……大業三年(607年)に隋へ行った使者は、煬帝に多利思北孤の言葉を伝えた。「聞く、『海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す』と。故に遣わして朝拝し、兼て沙門数十人をして、来りて仏法を学ばしむ』と。」といった。この「重ねて」という意味は「再び」であるから、最初は九州王朝(俀国)の吾が興した…という自負の元での言葉だ。「仏法を興す」の表現は、まさに「法興」であろう。そしてまた、「俀王は天を以って兄となし、日を以って弟と為す。天いまだ明けざる時、政を聴き跏趺して坐し、日出ればすなわち理務を停め、云う『わが弟に委ねん』と。」と言わしめている。この「天いまだ明けざる時」の政に用いた(裏の?)年号が、『法興』である。いわゆるダブル年号である。……
もう一度"自立の六世紀(3)"を見てください。多利思北孤が即位したであろう591年は「端政三年」であり、崩御した622年までに(表の?)年号は五個もあります。しかしこのダブル年号は、一代で終わったようですが…。

 天子「利」になって九年目(仁王九年)に、大業三年(607年、九州年号では光元三年だった)以来の使いを遣わします。当然大陸では隋より唐になり、かつ皇帝も第二代太宗(李世民)になっています。
<貞観五年(631年)、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あはれ)み、所司に勅(みことのり)して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし。各州に常置され、州内を巡察し政治・軍事を報告する官)高表仁(こう・ひょうじん)を遣わし、節(天子の使いたる徴)を持して往きてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才(すいえんのさい。遠い地方を鎮め安んずる才能)なく、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還る。>(旧唐書倭国伝)
九州王朝倭国の使いは、国書を持参したのでしょう。そこには「天子利」と自署名があった…。しかし唐としては、天子はこの世に二人とあってはならないもの…だったのです。
 表仁はそこを説いたのでしょうが、倭国の王子は「わが九州王朝は南朝の天子を継いだものであり、貴大唐はほ北朝の天子ではないか…」などといったのでしょうか。歴史に想像は禁物ですが、しかし結局は説得が実を結ばず、表仁は朝命を宣べずして還った…と。このあたりから唐の倭国九州王朝を見る目が変わった…と考えても、あながち荒唐無稽な夢想ではないような気がします。
 九州王朝が衰退への道を辿ることは、一方山跡王朝が力をつけ進展していくことでもあります。山跡王朝は、630年に二人の使いを唐に派遣しました。そして632年に高表仁という人物を迎えるのですが、608年に「鴻臚寺の掌客」裴世清を迎えて以来二十四、五年ぶりの唐との接触となりました。後で見てみましょう。

 因みに唐の歴史を記した「旧唐書(くとうしょ)」は、唐が滅びて四十年ほどして上梓された史書で、やはり同時代史書といえます。編者は五代後晋の劉昫らで、高祖の命により945年ころ完成しました。
しかし「旧唐書」は面白い史書で、東夷伝の最後に「倭国伝」と「日本国伝」が並んで立てられているのです。かつそれから百年ほどたった千六十年ころ、史料が散逸していた「旧唐書」を補う目的で「新唐書」が作られました。それで岩波文庫の「中国正史日本伝(2)」には「旧唐書」が採られているのですが、「『新唐書』の…は宋の欧陽修…宋祁のえらんだ…『旧唐書』より数十年後に出来ただけであり、倭国と日本を併記するような不体裁なこともなく、記事もととのっているが…」とあるのです。何故併記されているのか、唐の時代この二国はあったのか…などを深く探求することもなく、ただ「倭国と日本を併記するような不体裁…」でかたずけているのは学問の放棄だ…と古田先生は考えておられるのです。

 「旧唐書倭国伝」の出出しはこうです。
<倭国は、古の倭奴国なり。(その後、魏志倭人伝や隋書俀国伝などと同じような記事が続く)。…>(旧唐書倭国伝)
王統の断絶や都を遷した…などの記録はありません。ずばりと、一世紀後漢の光武帝から金印をいただいた「倭奴国」の後継だ…といっています。この意味は、旧唐書でいう「倭国」は三世紀ヒミカの邪馬壹国の後裔であり、五世紀「倭の五王」の後裔であり、そして隋に使いした阿蘇山のある「俀国」の後裔である…ということです。そしていま倭国は、私たちが「九州王朝」と呼ぶ国なのです。

 では「旧唐書日本国伝」はどうでしょうか。
<日本国は、倭国の別種なり。その国日辺にあるを以って、故に日本を以って名と為す。あるいはいう、倭国自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す、と。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国に地を併(あは)せたり、と。…>(旧唐書日本国伝)
「旧唐書」というのは天子「多利思北孤」や天子「利」がいたころより三百年ほど後に作られていますから、当時十世紀に「日本」と称していた国名の由来が不確かになっていたのでしょう。しかしいま、私たちは知っています。筑紫王朝は五世紀後半、それまで「ゐ」と発音していた「倭」が鮮卑などの北朝の影響が及ぶにつれ「わ」となっていった。それで筑紫倭国自らが、「日本」と称したことを…。そして筑紫王朝の史書に、「日本旧記」と命名したことを…。
しかしいま十世紀の時点、「倭国」はいまは滅んでしまった九州王朝を指し、「日本国」は山跡王朝が列島の主権者になった後の姿であるのです。

 九州王朝が滅んであと、山跡日本が唐に「遣唐使」を派遣したことは、ご承知の通りです。唐の史官らは、新しい国山跡日本をよく知ろうといろいろ使いに尋ねたはずです。ところが…、
<その人(つまり山跡からの使者)、入朝するもの多く自ら矜大(きょうだい。おごりたかぶること)、実(じつ)を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う。…>(旧唐書日本国伝)
千年の間列島の主権者であった九州王朝に代わり、ようやく山跡日本が主権者として認められたのです。「入朝するもの多く自ら矜大…」という態度は、無理なからぬところがありますね。ここでいう「実」とは…、唐側が知っているこれまでの中国と列島の主権者との交流の数々でしょう。山跡の遣唐使は720年に出来たばかりの「日本書紀」で理論武装をして行ったのでしょうから、唐が持っている中国の史書…例えば後漢書・三国志・宋書・梁書などと比べて、どうも本当のことを言っていない…と。それで「故に中国、これを疑う。」となったのでしょう。
やはり「日本書紀」は、近畿天皇家が古よりこの列島の唯一の主権者であった…と主張するイデオロギーの書だったのです。
では戻って、そこに至るまでの道筋、いや歴史を辿ってみましょう。

 さて貞観五年(631年)に九州王朝太宰府に使いした高表仁は、次の年(632年)その東にある山跡へ使いしたようです。しかしこのことは、「旧唐書」にはありません。書紀にあるのです。国交のある国との交渉だけを記録する…という建前からすれば、いまだ山跡は列島の主権者とは認められていなかった、国交は結ばれていなかった…ということがいえます。
<秋八月に、大唐、高表仁を遣わして三田耜(みたすき。大仁犬上君三田耜、舒明二年に使いしていた)を送らしむ。共に対馬に泊れり。…冬十月の…に、唐国の使人高表仁ら、難波津に泊まれり。すなわち大伴連馬食を遣わして、江口(淀川河口、いまの中島あたり)に迎えしむ。船三十二艘及び鼓・吹(ふえ)・旗幡、みな共に整飾(よそ)へり。すなわち高表仁に告げて曰く、「天子(太宗)の命のたまへる使い、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」という。時に高表仁、応えて曰く、「風寒(すさまじ)き日に、船艘(ふね)を飾整ひて迎え賜うこと、歓び愧(かしこま)る」ともうす。ここに難波吉士小規……難波吉士八牛を遣わして、客らを引て館に入らしむ。…>(舒明紀四年条、632年)
太宰府で「綏遠の才なく王子と礼を争」ったときと違い、ずいぶんと和気藹々とした様子が見て取れます。翌年の正月に表仁らは帰国しますが、太宗に対する報告は「筑紫の倭王朝は「天子」を称して無礼千万なやからでしたが、東の山跡にある国はわが唐に従順と見ました。万が一倭国と事を構えるようなことになった場合は、遠交近攻…の兵法どおり東の山跡と組むことを進言いたします…」なんてことだったのでしょうか。いや失礼!これも文献にはありませんでした。
このことから九州王朝は唐から次第に疎んじられ始め、山跡は次第に唐に取り入れられるようになったようです。

 通説では、「旧唐書」による貞観五年(631年)の高表仁の(九州王朝への)来訪と欽明紀四年条(632年)の(山跡への)来訪を結び付けていますが、「旧唐書」にある「表仁、綏遠の才なく王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る(5)」をうまく説明できていないようです。岩波文庫「旧唐書」の注記(p36)で、「(5)礼を争ったことは日本の記録にないが、当時の実状としてありそうなことである」と述べています。つまり、「礼を争った王子のことは日本側では不詳。聖徳太子の御子山背大兄王は、当時朝廷に重きをなしておられたから、あるいはそうだったかもしれない」ともいっています。王子と争った話は、本当に山跡でのことでしょうか。

 次回は、半島の史料も交えて紹介します。では…。

「九州王朝」の七世紀(6)

2007-04-09 19:09:46 | 古代史
 これまで「隋書」を見てきましたが、始めて「唐・大唐」の現れる「推古紀」を少しおさらいしてみましょう。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ。推古と諡)という女帝が山跡で即位されたのは、593年です。そのあたりから…、

・元年(593年):四月に厩戸豊聡耳(うまやとのとよとみみ。聖徳太子)を立てて皇太子とした。
・三年(595年):高麗の僧慧慈が帰化し、皇太子の師となる。
・四年(596年):法興寺を建立。
・八年(600年):「隋書」によれば多利思北孤が使いを出した年だが、推古紀にはない。この年境部臣と穂積臣(共に名はわからぬ…と)に万余の軍をつけて、新羅を討たせた…と。彼らは筑紫九州王朝の将軍ではないか…。また五年・六年・七年と、百済や新羅が何々を献ず…とあるが、山跡と半島の国々との間に一定の交渉があったということだろう。全てを九州王朝…とすることは出来まい。
・九年(601年):聖徳太子が、宮室を斑鳩に建てた。
・十年(602年):聖徳太子の弟来米皇子に二万五千の軍を授け、新羅を討たせようとした。筑紫まで来たとき病になり、討伐は出来なかった。翌年、死。あるいは九州王朝の檄に呼応したのか…。
・十一年(603年):十二月に「冠位十二階」を定めた。「徳」を上位におき、あと「仁・礼・信・義・智」として「上・下」をつけた。本当とすれば、九州王朝の五常「仁・義・礼・智・信」を真似したのであろうが、取って付けたような…。
・十二年(604年):諸臣に冠位を授けた。聖徳太子は四月に、「憲法十七条」を制定した。しかし第三の「君をば天とし、臣をば土とす」ということより、これは「天子」の統治する九州王朝にふさわしく、よってこの憲法十七条は九州王朝で制定されたもの…と古田先生は言われる。「一、和を以って貴しと為す。二、篤く三宝(仏・法・僧)を敬え。三、詔を承りては必ず謹め。君をば天とし、臣をば土とす。四、群卿百僚、礼を以って本とせよ。五、餮(あじはいのむさぼり)を絶ち欲(たからのほしみ)することを棄てて、明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。…(後略)」
・十四年(606年):鞍作鳥が、丈六の銅の仏像を作る。元興寺の金堂に入れようとするが仏像が大きく、堂の戸を壊すしかあるまい…と。しかし鞍作鳥がうまく入れたので、その功により「大仁」の位を賜った。
・十五年(607年):七月、大礼小野臣妹子と通事の鞍作福利の二人を、「大唐」に遣わした。しかしこれは、十五年ほど後の、本当に「大唐」に行ったときの記事だ…と。
・十六年(608年):四月、妹子らが「大唐」より帰国。「大唐」の使人「鴻臚寺の掌客」裴世清が、十二人を従えて山跡に来た。「隋書」による裴清(唐になって作られた隋書では、第二代李世民(太祖)の「世」を避けたもの)の官職は「文林郎」であり、「鴻臚寺の…」は唐代の官職と見られる。また皇帝の国書には「朕、宝命を欣び承けて、区宇に臨み仰ぐ。…」とあった。これは唐第一代の天子李渕(高祖)の言葉にふさわしく、煬帝のような第二代にはそぐわない。帰国に当たっての山跡の返書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝にもうす。使人鴻臚寺の掌客裴世清至りて、久しき憶(おもい)、方(みざかり。やっと、ようやく)に解けぬ。…」とあった。これは、「隋の朝廷と九州王朝の交渉を横目で見ながら過ごしてきましたが、やっと大唐となり李渕(高祖)さまと連絡出来ました…」という思いが詰まっている文だ。やはり十五年ほど後のことだ。
・十七年(609年):筑紫太宰が「百済の使いらが肥後葦北津に流れ着いたが、隋に行こうとしても国中が内乱のさなかにあって入国できなかった…といっている」と伝えてきた…と。隋末の616年ほどから内乱となり、唐は618年に建国とはいうものの、623~624年ほどまで乱は続いた。この記事は、7年か10年ほど前倒しだ。因みに書紀でこの記事が「筑紫太宰」の初出だそうだが、通説では山跡が定めた…となってはいる。しかし、いつ・誰が・どのような理由で定めたのだろう。書紀には一切記録がない。やはり五世紀末から六世紀始めにかけて、倭王武の称した「開府儀同三司」をベースに、筑紫王朝の都として定められたものだ。当初は南朝の天子のもとでの「太宰」でありその「太宰府」であったろうが、六世紀終わりころ南朝が滅び、筑紫の大王が「天子」を名乗ったときより「太宰府」は九州王朝の「政庁」となったのだ。なお、九州王朝の天子の宮殿は、いまの「天満宮」の下に眠っている…といわれる。この年の九月、福利を残して妹子は帰国した。
・二十六年(618年):高句麗から使いがきて、「隋の煬帝、三十万の衆を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。…」といった。煬帝は611,613,614年の三度にわたる高句麗遠征を試み傾国の原因を作ったが、書紀の編者は「唐」と「隋」を混同してはいない。だから書紀の「唐」はあくまで「唐」であり、通説にいう「推古天皇や聖徳太子の『遣隋使』は…、『なかった』」のだ。
・二十八年(620年):聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)は、「天皇記及び国記」、それに臣らの「本記」を録した。
・二十九年(621年):二月五日、聖徳太子は斑鳩宮に薨じた。しかし通説ではこの本文を信ぜず、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」などにより、「推古三十年(622年)二月二十二日」とすべき…などという。後で述べる。
・三十六年(628年):二月七日、推古女帝崩ず。

 さて、聖徳太子の死亡時期に大きな影響を与えた、つまり銘に刻まれた人物を聖徳太子と見ている「法隆寺釈迦三尊像光背銘」を見てみましょう。
実は「夏四月…、夜半の後、法隆寺に災あり。一屋余すなし(建物はもちろん、本尊などの仏像も…全て焼けた)」と天智紀九年条(670年)にあります。ですからいま私たちが見ることのできる「釈迦三尊像」は、後年どこからか持ち込まれた仏像でしょうね。ともかく、その光背銘をみましょう。すばらしい漢文です。(古田武彦著「古代は輝いていた-Ⅲ、法隆寺の中の九州王朝。p234)

  1)法興元三十一年(621年)十二月、鬼前(きぜん)太后(たいこう。天子の母をいう)崩ず。
  2)明年(法興三十二年、622年)正月、上宮法皇(じょうぐうほうおう。法皇とは仏法に帰依した天子をいう。この言い方で特定できた天子である)、枕病(しんびょう。病で床に就く)してよからず。
  3)干食(かんじき)王后(おうこう。天子の皇后をいう)、よりて以って労疾(ろうしつ。疲れや心配から病になる)し、並びに床に就く。
  4)ときに王后・王子ら、及び諸臣と与(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)き(深く愁い心配し)、共に相発願す(祈願した)。
  5)「仰ひで三宝(仏・法・僧)により、まさに釈像を造るべし。尺寸の王身、この願力を蒙(こうむ)り、病を転じ、寿を延べ(命を延ばし)、世間(せけん。生あるものが生活する空間、仏教用語)に安住せんことを。もしこれ定業(じょうごう。前世から定まっている善悪の報い)にして、以って世に背かば、往きて浄土(じょうど。一切の煩悩や穢れのない国土、特に阿弥陀仏の住む世界)に登り、早く妙果(みょうか。善を行うことによって得られる果報)に昇らんことを」と。
  6)二月二十一日、王后、即世(そくせい。世を去る、死ぬ)す。
  7)翌日(二月二十二日)、法皇、登遐(とうか。天子の崩御をいう)す。
  8)癸未年(623年)、三月中、願の如く、釈迦尊像並びに俠侍(きょうじ。左右に侍っている像)及び荘厳の具(厳かで立派な仏事のための道具)を敬造し竟(おは)る。
  9)その微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹隆(しょうりゅう。継いで盛んにする)し、遂に彼岸(ひがん。悟りの浄土・境地)を共にせん。六道(衆生(しゅじょう。人間のこと)がその業(ごう)によって行く六種の世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に普遍(ふへん。広く当てはまる)する、法界の含識(がんしき。感情や意識など心の動きを有するもの)、苦縁を脱するを得て、同じく菩提(ぼだい。悟りの境地に達すること)に趣(おもむ)かむ。
  10)使司馬(ししば)・鞍首(くらのおびと)・止利(とりあるいはしりという土地、あるいは職能集団)仏師、造る。

 では論点を挙げて説明しましょう。
(1)銘の中には上宮法皇の他に、鬼前太后・干食王后および王子らと諸臣、そして三尊像を造った鞍首の止利仏師(集団と見る)が現れている。しかし鬼前太后が崩じた後二ヶ月もしないで、こんどは干食王后が即世し、その翌日法皇画上が登遐されたのである。天子とその王朝の中枢の人たちの死である。そして通説ではこれを山跡王朝内とし、上宮法皇を聖徳太子に当てているのだ。
(2)この銘には、天子にふさわしい言葉…登遐や諸臣など…が散りばめられている。「法皇」にふさわしい。聖徳太子は山跡内でNo.2であり、終生No.1の天皇にはならなかった。よって「法皇」を称することは出来ない。
(3)この銘には、肝心の推古女帝が現れていない。聖徳太子の病の快癒を祈願するための像であれば、山跡の中枢のその中心たるNo.1 の推古女帝がいないのはおかしい。
(4)この銘は、上宮を本拠とする法皇が、上宮で登遐したことが示されている。しかし、聖徳太子は斑鳩の地で薨じたのである(推古紀29年条)。ただし「上宮・中宮・下宮」は一般名詞であるが、「上宮法皇」で特定できる天子だったのだ。「上宮」で聖徳太子と特定できる…とするのは、「関白」とあれば豊臣秀吉…とするに等しい。
(5)八世紀初頭の山跡の英知を集めて編集された「日本書紀」(720年上梓)は、百年ほど前の英雄聖徳太子の死亡年月日を間違えたのだろうか。そうであるはずはなく、よって上宮法皇と聖徳太子を結ぶことはできない。
(6)この「法興」というのは、591年を元年とする年号である。591年は山跡の泊瀬部(崇峻)の4年に当たり、その翌年泊瀬部は蘇我馬子に殺されている。よって改元もなく32年間も続く「法興」年号は、山跡胎内の年号ではない。
(7)作者の「鞍首止利仏師」を個人名とし、推古紀14年条(606年)に現れる「鞍作鳥」としている。が、姓(かばね)が違う。銘では「首(おびと)」であるが、鞍作鳥は(祖父よりして)「村主(すぐり)」である。また鞍作鳥は大仏をうまく堂に入れた功績により「大仁」の冠位を賜っているが、銘にはない(いや「使司馬」が爵かもしれない)。名誉ある冠位だろうから、隠す必要はない。

 この591年に即位し622年に登遐された上宮法皇とは、600年と607年に隋に使いを出し、608年には隋の使い文林郎裴清を迎えた「日出る処の天子」、あるいは「東の菩薩天子」を名乗った俀国王「多利思北孤」その人ではなかったか…と思われます。いや、その人なのです。王后とは、「王の妻は雞彌と号す」と記された方でしょう。王子らの筆頭は「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」の、「利」その人でしょう。この理解の方が、無理やり聖徳太子に当てるよりも納得できます。本当に、腑に落ちるのです。

 さて次回から、次第に戦乱の黒雲に覆われていく九州王朝を見てみます。どのように、歴史は展開していくのでしょうか。では…。

「九州王朝」の七世紀(5)

2007-04-07 15:50:11 | 古代史
 陳舜臣(ちん・しゅんしん)といわれる方が1981年12月に第一刷を出された「中国の歴史」(平凡社)というシリーズの小説、その第七巻「隋唐の興亡」を使用させていただきながら、隋の興亡及び唐への禅譲あたりの事情をかいつまんでご紹介します。

 隋第一代の天子「楊堅(ようけん。後に文帝と諡された)」は、鮮卑族の王朝「北周」の外戚で隨国公の爵でした。もともと「普六茹(ふろくじょ)」という胡姓だったようですが、北魏のとき孝文帝による漢化政策で「楊」姓を名乗ったようです。楊堅は581年、北周静帝から禅譲されて「隋」を建て、元号を「開皇」としました。そして589年に南朝の陳を滅ぼし、中国を統一したのです。
長子の楊勇(ようゆう)が皇太子に立てられていましたが、楊堅の皇后つまり楊勇の母独孤氏から見れば放蕩息子であったため皇后の勧めで廃嫡され、次男の楊広(ようこう)が皇太子になったのだそうです。しかし楊広は、父の皇帝(604年死亡)や母(602年死亡)が生存中は猫をかぶっていい子を演じていたようです。

 父楊堅が亡くなり楊広が王位を継いだのは、605年のことで、「大業」と元を建てました。(楊堅は楊広に暗殺された…と見る向きもあるそうです。)のち楊広は、「女性を好み礼を遠ざく・礼を去りて衆を遠ざく・天に逆らい民を虐ぐ」という意味のある「煬帝(ようだい)」と諡されました。
 父楊堅は倹約に勤め、楊広が継いだとき国庫には富があふれていたそうです。この富と、もともと楊広にあった派手好きな性格とが相俟って、楊広は都長安の建設を大々的に始めました。また南北朝の人民の融和を図り、南北の物資の輸送を便ならしめるため…などという理由で、南北中国をつなぐ大運河を作りました。このころが、楊広の絶頂期だったでしょう。
また南朝の文化にあこがれる楊広の心を満たすため、長江下流の揚州に仙人も迷うというほど巨大で華麗な離宮をも作らせました。そして611年に第一次の、613年に第二次の、翌614年には第三次の高句麗遠征が行われました。

 第二次第三次高句麗遠征あたりから、労役や兵役に狩り出される人々が離散し、あちこちで徒党を組み始めました。いやそればかりか、地方の豪族・任侠の徒・山賊ら・租税が払えない逃亡者…などのグループもあったそうです。

 そのような中楊広は大業十二年(616年)、江南で作らせた竜舟(船のへさきに竜の装飾を施した遊覧船)で、東都洛陽から運河を通って揚州へと行きました。そのとき長安には孫の代王楊侑(ようゆう)を置き、洛陽には同じく越王楊侗(ようとう)を留めたのです。そして楊広は揚州の豪華な離宮で、隋が瓦解していく音を聞くのです。

 北周の八柱国という貴族の一人で隋では浪人していた李密(りみつ)は、造反集団を乗っ取り、617年2月に政府の穀物倉庫郡のある洛口倉(洛水が黄河と合流するあたり、洛陽の東)を襲い、占拠して倉庫を開放しました。これを聞いた付近の民や弱小造反集団が来て加わり、李密は数十万を擁する大きな集団の長となったのです。そして「魏」公となり、元も「永平」と建てました。李密の魏は隋に代わるという意思を、世に敢然と示したのです。そして当然のこととして、李密は楊侗の守る洛陽を攻撃します。

 同じく北周の八柱国の一員で母が楊広の母の妹であった「李渕(りえん)」は、616年の12月、太原(洛陽の北350kmあたり)の留守(りゅうしゅ。皇帝に代わってその地のことを全て裁決する権を持つ)という要職で赴任しました。そして翌年の7月、李密が洛陽を攻めていることを聞くや、李渕は三万の兵と突厥に借りた兵でなる軍を率いて長安めがけて太原を発ったのです。そして長安の楊侑を立てよう…と檄を飛ばしました。そして10月、関中に入って長安に近づいたときには二十万に膨れ上がっていました。この年李渕の長子李建成は29歳、次男の李世民は20歳、そして太原に留守としておいてきた四男の李元吉は15歳でした。そして11月に李渕は長安に入城し、楊侑(のちに恭帝と諡)を即位させました。元を「義寧」とし、揚州にいる楊広を太上皇に棚上げしました。

 李密はまだ洛陽を攻撃しています。
揚州の皇帝楊広は、洛陽を救うため王世充(おう・せいじゅう)に軍を授け派遣しました。そして王世充軍は洛陽に入り、楊侗を立てて元を「皇泰」としました。ですから楊侗は「皇泰主」と呼ばれます。

 翌618年、揚州にいた楊広は自分の近衛兵の長宇文化及(うぶん・かきゅう)に殺されてしまいました。関中出身者の近衛兵らは、揚州に腰を落ち着けた皇帝を疎ましく思ったのだそうです。

 これを聞いた長安の李渕(のち高祖)は、もう遠慮することなく楊侑から禅譲され、「唐」を建て元を「武徳」としました。
ですから618年は、大業十四年であり、義寧二年であり、武徳元年でもあるのです。

 揚州の近衛軍団は宇文化及に率いられ、楊広の甥の楊浩(ようこう)を皇帝として擁立していました。その一団には、離宮に侍っていた宮女たちも含まれていました。士気は低かったようです。

 しかし勝手に皇帝を称した者は各地におり、唐の李渕は各地に割拠した群雄の一人に過ぎませんでした。
洛陽には皇泰王を擁した王世充、洛口倉には李密、長安目指して進んでいる楊浩と宇文化及の軍、河北の南部に竇建徳(とう・けんとく)の大勢力、空となった楊州に発生した李子通などあまたの集団…。
李密は王世充に帰順して宇文化及を攻撃し、敗走した宇文化及は楊浩を殺し自ら皇帝(国号は許、元は天寿)を名乗りましたが、竇建徳に討たれました。
また李密は王世充から疑いをかけられ攻撃され、敗れた李密は長安の李渕を頼りました。勢いに乗った王世充は皇泰王を廃して、自ら皇帝(国号は鄭、元は開明)となりました。

しかしこれらあまたの群雄も、623から624年にかけて唐の皇帝となった李渕に平らげられました。唐が最後の勝者になったのです。その理由として、李渕が判断よく太原からまっすぐ長安を突いたこと、李渕自身が大きな包容力を持って敗者や来る者を拒まずに受け入れたこと、次男の李世民が決断力に優れこれら群雄を次々に打ち破っていったことなどがあるそうです。
このことから分かることは、隋末の615年ころより唐初の624年ころまで、中国は大きな混乱の中にあった…ということです。

 前にも紹介しましたが、推古紀を見てみましょう。
<夏四月…、筑紫太宰、奏上して言さく、「百済の僧道欣・恵彌を首として十人、俗七十五人、肥後国の葦北津に泊まれり」とまうす。…問はしめて曰く、「何か来し」という。対へて曰く、「百済の王、命じて呉国に遣わす。その国に乱れありて入ることを得ず。…」という。>(推古紀十七年条、609年)
上に述べましたように、この話が本当に609年であれば、そのころは煬帝の絶頂期にあったはずです。しかし10年ほど後の619年ころとすれば、確かに隋末唐初の混乱期にあります。
ですから本当は山跡と「唐」に関る話を、八世紀には入手していた「隋書」にある隋と俀国九州王朝の話にすり替え、九州王朝の痕跡を消すためにその時代を前倒しにして推古紀に挿入したのではないでしょうか。

 全て「唐・大唐とあるのは本当は隋」と岩波書紀の注にありますが、しかし書紀の編者は隋と唐を混同していません。
<秋八月の…に、高麗、使いを遣わして方物を貢す。よりて曰く、「隋の煬帝、三十万の衆(いくさ)を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。…」ともうす。>(推古紀二十六年、618年)
どうですか。ちゃんと「隋の煬帝」と書かれています。「隋と唐を混同している」という言い訳は、全く通用しませんね。煬帝の第二次高句麗討伐が613年、第三次が614年ですから、上の記事は618年かもしれませんが、あまりに間隔があきすぎです。615年か616年だったかもしれません。

 ですから推古紀の「唐・大唐」は、年代を後ろにずらして素直にそう解釈するほうがいいと思います。
・推古紀十五年条、607年。「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす」⇒620年~623年
・推古紀十六年条、608年。「小野臣妹子、大唐より至る」  ⇒621年~624年
このように年代をずらせば、前回指摘しました疑問は氷解します。
このことから、通説となっている「推古天皇・聖徳太子の遣隋使は『なかった』」といえそうです。

 前回、俀国・山跡に使いした使人の名が「隋書では裴清、書紀では裴世清」となっていることを、「隋では「世」が使えなかったのかもしれない」としました。
これは誤りで、唐の時代に出来た「隋書」には、唐の第二代の天子「李世民(太祖)」の「世」を使うのを避けた…というのが真相のようです。

 では次回では、少し推古紀を追ってみます。

「九州王朝」の七世紀(4)

2007-04-04 14:39:01 | 古代史
 「隋書俀国伝」の最初の年代記事は、「開皇二十年(600年)」の記事でした。国書を持参した…とは記録されていないのですが、俀王の名「阿毎 多利思北孤」がきちんと表されている以上、国書がありそこに自署名があったことは間違いないでしょう。しかしこの開皇二十年に対応する記事は、推古紀(書紀)にはありません。そのような意味で書紀は、正直に「山跡からは隋に使いを出していません。わたしたちも九州王朝のように、隋と交流したいな…と思っています。しかし受け入れてくれない。うらやましい」と告白しているのです。
そして前回までの地の分が続いたあと、いよいよ次の年代記事です。

<大業三年、その王多利思北孤、使いを遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、『海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す』と。故に遣わして朝拝し、兼ねて沙門(さもん。僧侶のこと)数十人をして、来りて仏法を学ばしむ。」と。その国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや。云々」と。帝(楊広。煬帝、在位604-617年)、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿(こうろけい。海外よりの使いを担当する役所の長官)に謂って曰く、「蛮夷の書、無礼なる者あり。復た以って聞するなかれ」と。>(隋書俀国伝大業三年、607年)
下記します推古紀と合わせ、通説ではこの使いを「小野妹子」としています。しかし隋書では沙門数十人を含む、大人数の使節団だったようです。多利思北孤の意思により、仏教を再び興隆させた隋に、仏法をより深く学ばせようというのです。煬帝に「海西の菩薩天子」と呼びかけていることからすると、多利思北孤は自らを「海東の菩薩天子」とみなしているのではないでしょうか。418年に百済から仏教が伝わってから二百年弱、九州王朝ではそれほどに仏教が盛んだったようです。
 そしてその国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々」とあったようです。通説では、この国書を出したのは聖徳太子…とされていますね。そしてこれは、太子の隋に対する対等外交を意味する…と。しかしこれまでの説明で、それはありえないことをご理解いただけたでしょうか。というより、対等外交を目指したのは、九州王朝の日出る処の天子「多利思北孤」その人だったでしょう。

 では推古紀を見てみましょう。
<…秋七月の…に、大礼小野妹子を大唐に遣わす。鞍作福利を以って通事(いわゆる通訳)とす。…>(推古紀十五年条、607年)
ここに「大礼」小野妹子とありますが、この九州王朝の冠位とは順位が似ても似つかぬ十二階は、急きょ四年前の推古十一年十二月に制定されたものです。やっつけ仕事…ということが、よくわかります。
よく見てください。「大唐に遣わす」…と。岩波書紀は、「事実は隋。隋書俀国伝、大業三年条に見える」としています。隋書大業三年条の使いと、推古十五年条の使いをどうしても同じもの…としたいのです。だから、書紀の編者が間違ったのだ…と。しかし後に出るように、編者は決して「隋」と「唐」を間違えてはいません。「唐」はやはり「唐」のようです。このことからも(唐の建国は618年)、書紀は十四、五年ほど前倒しで挿入したのではないか…との疑惑も出てくるのです。
またこのときの使いは、小野妹子と鞍作福利の二人だけだったようです。九州王朝の大使節団とは…、違いますよね。

<明年(明くる年)、上(煬帝)、文林郎裴清(はいせい)を遣わして、俀国に使いせしむ。百済を度(わた)り行きて竹島に至り、南耽羅(たむら、済州島。耽の元字は身偏に冉)国を望み、都斯麻(対馬のこと)国を経、迥(はる)かに大海の中にあり。また東して一支(壱岐のこと)国に至り、また竹斯(筑紫のこと)国に至る。また東して、秦王国に至る。その人華夏(中国、中華のこと)に同じ。以って夷州(いしゅう。台湾)と為すも、疑うらくは明らかにする能(あた)わざるなり。また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より以東は、みな俀に附庸す(ふよう。大国の勢力下にある)。>(隋書俀国伝大業四年、608年)
無礼なる書をよこした俀国とはいかなる国か、その王の面をよく見てまいれ…と、煬帝は「文林朗」という官職を持つ輩清を遣わしました。俀王の都のある筑紫までの行程も、現地音(和語)を忠実に拾って記録されています。風俗などはほとんど中国と変わらなかったと見え、「ここは台湾だといわれても、疑わずにうなずくほどだ…」と言っていますね。秦王国を含んだ十数ヶ国(恐らく福岡県東部と大分県北部)を東すれば、海岸に出る…と。恐らくいまの福岡県、佐賀・長崎県、熊本県及び大分県を含む範囲が、俀国の中枢部ではないでしょうか。

 俀王は、裴清一行を歓待します。
<俀王、小徳阿輩臺(あはだい?)を遣わし、数百人を従え儀仗を設け鼓角(こかく。太鼓と笛)を鳴らして来たり、迎えしむ。のち十日、また大礼可多比(かたひ?)を遣わし、二百余騎を従え郊労(こうろう。都の郊外で行う歓迎の式典、直接都に入るのは無礼とされた。郊迎ともいう)せしむ。すでにかの都へ至る。その王(多利思北孤)、清と相見えて大いに悦んで曰く、「我聞く、海西に大隋礼儀の国あり、と。故に遣わして、朝貢せしむ。我は夷人(東夷の人、謙遜している)、海隅に僻在して(かいぐうにへきざい。海を越えた遠い所にいて)、礼儀を聞かず。これを以って境内に稽留して(けいだいにけいりゅう。我が領域に留まって)、即ち相見えず(会うことがなかった)。いま故(ことさら)に道を清め館を飾り、以って大使を待つ。冀(ねがは)くは、大国維新(いしん。全てが改まり新しくなる)の化を聞かんことを」と。清、答えて曰く、「皇帝、徳は二義(天と地)に並び、沢(徳の潤い)は四海に流る。王(多利思北孤のこと。あえて「日出る処の天子」は使わない)、化を慕うの故を以って、行人(自分、裴清)を遣わして来らしめ、ここに宣論す」と。すでにして清を引いて、館に就かしむ。その後、清、人を遣わしてその王に謂って曰く、「朝命、すでに達せり。請う、塗(みち)を戒(いまし)めよ(帰国の準備をしてほしい、帰路の護衛をしてほしい)」と。ここにおいて宴享を設け(宴を張って客をもてなす席を設け)、以って清を遣わし(隋に帰国させ)、また使者をして清に従い来って(俀国の使者が清に従って隋に来て)、方物を貢せしむ。この後、遂に絶つ(この貢献を最後に、交流が絶えた)。>(隋書俀国伝大業四年、608年)
遂に隋使、文林郎裴清が来ました。それを迎える小徳阿裴臺、及び大礼可多比。通説ではまず阿裴臺を推古紀十六年条に見える大河内(直)糠手(ぬかて)の音の一部を写したものか?とか、可多比を同じく額田部(連)比羅夫の「(ぬ)かたべ」ではないか?と音当て遊びをしています。あとの二人は姓(かばね)はありますが、冠位はないようです。
裴清は、直接俀王「足し矛」に会ったのです。ですから開皇二十年(600年)のときの描写は、正確だったのです。裴清はまた、俀国内を視察したようです。ですから民の姿や風俗なども記すことが出来、何といっても噴火する阿蘇山に畏敬の念を持ったのでしょう。中国には、噴火する山などありませんから…。
そして朝命を達したあと、「戒塗、みちをいましめよ」と。この漢語は使えそうですね。そして何月に帰国の途についたのか分かりませんが、再び俀国の使者が隋へ行って方物を貢した…と。「此後遂絶」、壮絶な国交断絶です。理由は書いてありませんが、煬帝は高句麗攻略を計画していましたので、あるいはそこらあたりに理由が…。

 いままでは「隋書俀国伝」でしたが、帝紀に気になる記事があります。
<(大業四年三月)、百済倭赤土迦羅舎国並遣使貢方物。…(三月)百済・倭・赤土・迦羅舎国、並びに使いを遣わし方物を貢ず。>(煬帝紀大業四年、608年)
確かに「俀」ではなく、「倭」とあります。ですから古田先生は、「この二国は別だ、「倭」は大和の推古朝だろう…」といわれます。この年は、隋使裴清(はいせい)が俀王と会った年なのです。ですから上記は、俀国の使いではありえない…。
推古紀十五年条(607年)によれば、七月に小野妹子と鞍作福利の二人は「大唐へ」遣わされ、翌十六年(608年、三月の上記朝貢記事を挟んで)四月に二人とも大唐からの使い裴世清(はいせいせい)と共に帰国します。ですから上の帝紀の記事は、この二人とされています。でも推古紀が十五年ほど前倒しに挿入しているとしたら…、上の推測は崩れますね。ですから、誰だか不明となりました。
そして推古紀十六年条によれば、五ヶ月の滞在のあと九月に裴世清らは帰国しますが、再び小野妹子・吉士雄成と通事鞍作福利は学生・僧侶八人を伴ない従います。
また、
<(大業六年春正月)、倭国遣使貢方物。…(正月)倭国、使いを遣わして方物を貢ず。>(煬帝紀大業六年、610年)
推古十七年(609年)九月、小野妹子と吉士雄成は通事の鞍作福利と八人を残して帰国します。ですから上記帝紀の記事は、鞍作福利たち…とされています。しかし前倒しに…とすれば、これも不明となりました。

 では推古紀を見てみましょう。十六年条です。
<夏四月に、小野臣妹子、大唐より至る。唐国、妹子臣を号して蘇因高(そいんこう)という。即ち大唐の使い裴世清・下客十二人、妹子臣に従いて、筑紫に至る。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召す。…六月の…に、飾船三十艘を以って、客等を江口に迎えて…。…大河内直糠手…を以って掌客とす。(中略)秋八月…に、唐の客、都に入る。その日に飾馬七十五匹を遣わして、…。額田部連比羅夫、以って礼の辞を告す。…時に使主(おみ)裴世清、親ら書を持ちて…。その書に曰く、「皇帝、倭皇を問う。使人大礼蘇因高ら、至(まう)でて懐(おもひ)を具(つぶさ)にす。朕、宝命(ほうめい)を欽び承けて、区宇(くう。天下のこと)に臨み仰ぐ。(中略)故、鴻臚寺の掌客裴世清らを遣わして、ようやくに往く意を宣(の)ぶ。…」という。(中略)九月の…に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。即ちまた小野妹子臣…。吉士雄成…。福利を通事とす。…ここに天皇、唐の帝を聘(とぶら)う。その辞に曰く、「東の天皇、敬みて西の皇帝にもうす。使人鴻臚寺の掌客裴世清ら至りて、久しき憶(おもい)、ほう(みざかり。まさに、ちょうどいま。ようやく)に解けぬ。…」という。この時に、唐の国に遣わす…ら、併せて八人なり。(後略)>(推古紀十六年条、608年)
ここに「大唐、唐国など」が出てきますが、これは岩波書紀の注にあるような「隋の間違い」ではないのではないか。「唐は唐」ではないか。
その理由を箇条書きしましょう。
(1)隋書の裴清と推古紀の裴世清、これは同一人物と見てよさそうだ。隋では「世」が使えなかったのかもしれない。
(2)隋書では「俀王」と呼んでいたが、推古紀では「倭皇」と呼んでいる。これは中国で、王朝が隋より唐に変わったからではないか。
(3)皇帝の国書に、「宝命を欽び承けて…」とあるが、これは王朝第一代の天子(李渕、高祖)にふさわしく、隋朝第二代の天子煬帝にはそぐわない。よってこの国書は、唐高祖の国書ではないか。
(4)裴(世)清の官職は、隋書では「文林郎」であったが、推古紀では「鴻臚寺の掌客」となっている。隋である程度の高官であった裴清は、唐になってその地位を下げられ、しかし俀に使いした経験を買われて唐の使いとして来たのではないか(隋から唐へは、一応は禅譲)。
(5)隋書で俀王は、自称「日出る処の天子」であった。しかし推古紀では自称「東の天皇」としている。「天子」の影も気概も感じられない。
(6)鴻臚寺の掌客裴世清が山跡へ来たのは、推古紀にいう十六年(608年)ではなく、唐になって国内が落ち着いたころ…623年ころ、つまりこの推古十六年条はほぼ十五年前倒しに挿入しているのではないか。推古紀の記事は、どれも十五年前倒し…ではないようですが…。
(7)つまり通説・定説となっている「推古天皇及び聖徳太子による遣隋使」…、は『なかった』といえそうです。

 次回は、隋の末期の状況を見てみましょう。では…。