やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

「九州王朝」の七世紀(6)

2007-04-09 19:09:46 | 古代史
 これまで「隋書」を見てきましたが、始めて「唐・大唐」の現れる「推古紀」を少しおさらいしてみましょう。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ。推古と諡)という女帝が山跡で即位されたのは、593年です。そのあたりから…、

・元年(593年):四月に厩戸豊聡耳(うまやとのとよとみみ。聖徳太子)を立てて皇太子とした。
・三年(595年):高麗の僧慧慈が帰化し、皇太子の師となる。
・四年(596年):法興寺を建立。
・八年(600年):「隋書」によれば多利思北孤が使いを出した年だが、推古紀にはない。この年境部臣と穂積臣(共に名はわからぬ…と)に万余の軍をつけて、新羅を討たせた…と。彼らは筑紫九州王朝の将軍ではないか…。また五年・六年・七年と、百済や新羅が何々を献ず…とあるが、山跡と半島の国々との間に一定の交渉があったということだろう。全てを九州王朝…とすることは出来まい。
・九年(601年):聖徳太子が、宮室を斑鳩に建てた。
・十年(602年):聖徳太子の弟来米皇子に二万五千の軍を授け、新羅を討たせようとした。筑紫まで来たとき病になり、討伐は出来なかった。翌年、死。あるいは九州王朝の檄に呼応したのか…。
・十一年(603年):十二月に「冠位十二階」を定めた。「徳」を上位におき、あと「仁・礼・信・義・智」として「上・下」をつけた。本当とすれば、九州王朝の五常「仁・義・礼・智・信」を真似したのであろうが、取って付けたような…。
・十二年(604年):諸臣に冠位を授けた。聖徳太子は四月に、「憲法十七条」を制定した。しかし第三の「君をば天とし、臣をば土とす」ということより、これは「天子」の統治する九州王朝にふさわしく、よってこの憲法十七条は九州王朝で制定されたもの…と古田先生は言われる。「一、和を以って貴しと為す。二、篤く三宝(仏・法・僧)を敬え。三、詔を承りては必ず謹め。君をば天とし、臣をば土とす。四、群卿百僚、礼を以って本とせよ。五、餮(あじはいのむさぼり)を絶ち欲(たからのほしみ)することを棄てて、明らかに訴訟を弁(さだ)めよ。…(後略)」
・十四年(606年):鞍作鳥が、丈六の銅の仏像を作る。元興寺の金堂に入れようとするが仏像が大きく、堂の戸を壊すしかあるまい…と。しかし鞍作鳥がうまく入れたので、その功により「大仁」の位を賜った。
・十五年(607年):七月、大礼小野臣妹子と通事の鞍作福利の二人を、「大唐」に遣わした。しかしこれは、十五年ほど後の、本当に「大唐」に行ったときの記事だ…と。
・十六年(608年):四月、妹子らが「大唐」より帰国。「大唐」の使人「鴻臚寺の掌客」裴世清が、十二人を従えて山跡に来た。「隋書」による裴清(唐になって作られた隋書では、第二代李世民(太祖)の「世」を避けたもの)の官職は「文林郎」であり、「鴻臚寺の…」は唐代の官職と見られる。また皇帝の国書には「朕、宝命を欣び承けて、区宇に臨み仰ぐ。…」とあった。これは唐第一代の天子李渕(高祖)の言葉にふさわしく、煬帝のような第二代にはそぐわない。帰国に当たっての山跡の返書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝にもうす。使人鴻臚寺の掌客裴世清至りて、久しき憶(おもい)、方(みざかり。やっと、ようやく)に解けぬ。…」とあった。これは、「隋の朝廷と九州王朝の交渉を横目で見ながら過ごしてきましたが、やっと大唐となり李渕(高祖)さまと連絡出来ました…」という思いが詰まっている文だ。やはり十五年ほど後のことだ。
・十七年(609年):筑紫太宰が「百済の使いらが肥後葦北津に流れ着いたが、隋に行こうとしても国中が内乱のさなかにあって入国できなかった…といっている」と伝えてきた…と。隋末の616年ほどから内乱となり、唐は618年に建国とはいうものの、623~624年ほどまで乱は続いた。この記事は、7年か10年ほど前倒しだ。因みに書紀でこの記事が「筑紫太宰」の初出だそうだが、通説では山跡が定めた…となってはいる。しかし、いつ・誰が・どのような理由で定めたのだろう。書紀には一切記録がない。やはり五世紀末から六世紀始めにかけて、倭王武の称した「開府儀同三司」をベースに、筑紫王朝の都として定められたものだ。当初は南朝の天子のもとでの「太宰」でありその「太宰府」であったろうが、六世紀終わりころ南朝が滅び、筑紫の大王が「天子」を名乗ったときより「太宰府」は九州王朝の「政庁」となったのだ。なお、九州王朝の天子の宮殿は、いまの「天満宮」の下に眠っている…といわれる。この年の九月、福利を残して妹子は帰国した。
・二十六年(618年):高句麗から使いがきて、「隋の煬帝、三十万の衆を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。…」といった。煬帝は611,613,614年の三度にわたる高句麗遠征を試み傾国の原因を作ったが、書紀の編者は「唐」と「隋」を混同してはいない。だから書紀の「唐」はあくまで「唐」であり、通説にいう「推古天皇や聖徳太子の『遣隋使』は…、『なかった』」のだ。
・二十八年(620年):聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)は、「天皇記及び国記」、それに臣らの「本記」を録した。
・二十九年(621年):二月五日、聖徳太子は斑鳩宮に薨じた。しかし通説ではこの本文を信ぜず、「法隆寺釈迦三尊像光背銘」などにより、「推古三十年(622年)二月二十二日」とすべき…などという。後で述べる。
・三十六年(628年):二月七日、推古女帝崩ず。

 さて、聖徳太子の死亡時期に大きな影響を与えた、つまり銘に刻まれた人物を聖徳太子と見ている「法隆寺釈迦三尊像光背銘」を見てみましょう。
実は「夏四月…、夜半の後、法隆寺に災あり。一屋余すなし(建物はもちろん、本尊などの仏像も…全て焼けた)」と天智紀九年条(670年)にあります。ですからいま私たちが見ることのできる「釈迦三尊像」は、後年どこからか持ち込まれた仏像でしょうね。ともかく、その光背銘をみましょう。すばらしい漢文です。(古田武彦著「古代は輝いていた-Ⅲ、法隆寺の中の九州王朝。p234)

  1)法興元三十一年(621年)十二月、鬼前(きぜん)太后(たいこう。天子の母をいう)崩ず。
  2)明年(法興三十二年、622年)正月、上宮法皇(じょうぐうほうおう。法皇とは仏法に帰依した天子をいう。この言い方で特定できた天子である)、枕病(しんびょう。病で床に就く)してよからず。
  3)干食(かんじき)王后(おうこう。天子の皇后をいう)、よりて以って労疾(ろうしつ。疲れや心配から病になる)し、並びに床に就く。
  4)ときに王后・王子ら、及び諸臣と与(とも)に、深く愁毒を懐(いだ)き(深く愁い心配し)、共に相発願す(祈願した)。
  5)「仰ひで三宝(仏・法・僧)により、まさに釈像を造るべし。尺寸の王身、この願力を蒙(こうむ)り、病を転じ、寿を延べ(命を延ばし)、世間(せけん。生あるものが生活する空間、仏教用語)に安住せんことを。もしこれ定業(じょうごう。前世から定まっている善悪の報い)にして、以って世に背かば、往きて浄土(じょうど。一切の煩悩や穢れのない国土、特に阿弥陀仏の住む世界)に登り、早く妙果(みょうか。善を行うことによって得られる果報)に昇らんことを」と。
  6)二月二十一日、王后、即世(そくせい。世を去る、死ぬ)す。
  7)翌日(二月二十二日)、法皇、登遐(とうか。天子の崩御をいう)す。
  8)癸未年(623年)、三月中、願の如く、釈迦尊像並びに俠侍(きょうじ。左右に侍っている像)及び荘厳の具(厳かで立派な仏事のための道具)を敬造し竟(おは)る。
  9)その微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主に随奉し、三宝を紹隆(しょうりゅう。継いで盛んにする)し、遂に彼岸(ひがん。悟りの浄土・境地)を共にせん。六道(衆生(しゅじょう。人間のこと)がその業(ごう)によって行く六種の世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に普遍(ふへん。広く当てはまる)する、法界の含識(がんしき。感情や意識など心の動きを有するもの)、苦縁を脱するを得て、同じく菩提(ぼだい。悟りの境地に達すること)に趣(おもむ)かむ。
  10)使司馬(ししば)・鞍首(くらのおびと)・止利(とりあるいはしりという土地、あるいは職能集団)仏師、造る。

 では論点を挙げて説明しましょう。
(1)銘の中には上宮法皇の他に、鬼前太后・干食王后および王子らと諸臣、そして三尊像を造った鞍首の止利仏師(集団と見る)が現れている。しかし鬼前太后が崩じた後二ヶ月もしないで、こんどは干食王后が即世し、その翌日法皇画上が登遐されたのである。天子とその王朝の中枢の人たちの死である。そして通説ではこれを山跡王朝内とし、上宮法皇を聖徳太子に当てているのだ。
(2)この銘には、天子にふさわしい言葉…登遐や諸臣など…が散りばめられている。「法皇」にふさわしい。聖徳太子は山跡内でNo.2であり、終生No.1の天皇にはならなかった。よって「法皇」を称することは出来ない。
(3)この銘には、肝心の推古女帝が現れていない。聖徳太子の病の快癒を祈願するための像であれば、山跡の中枢のその中心たるNo.1 の推古女帝がいないのはおかしい。
(4)この銘は、上宮を本拠とする法皇が、上宮で登遐したことが示されている。しかし、聖徳太子は斑鳩の地で薨じたのである(推古紀29年条)。ただし「上宮・中宮・下宮」は一般名詞であるが、「上宮法皇」で特定できる天子だったのだ。「上宮」で聖徳太子と特定できる…とするのは、「関白」とあれば豊臣秀吉…とするに等しい。
(5)八世紀初頭の山跡の英知を集めて編集された「日本書紀」(720年上梓)は、百年ほど前の英雄聖徳太子の死亡年月日を間違えたのだろうか。そうであるはずはなく、よって上宮法皇と聖徳太子を結ぶことはできない。
(6)この「法興」というのは、591年を元年とする年号である。591年は山跡の泊瀬部(崇峻)の4年に当たり、その翌年泊瀬部は蘇我馬子に殺されている。よって改元もなく32年間も続く「法興」年号は、山跡胎内の年号ではない。
(7)作者の「鞍首止利仏師」を個人名とし、推古紀14年条(606年)に現れる「鞍作鳥」としている。が、姓(かばね)が違う。銘では「首(おびと)」であるが、鞍作鳥は(祖父よりして)「村主(すぐり)」である。また鞍作鳥は大仏をうまく堂に入れた功績により「大仁」の冠位を賜っているが、銘にはない(いや「使司馬」が爵かもしれない)。名誉ある冠位だろうから、隠す必要はない。

 この591年に即位し622年に登遐された上宮法皇とは、600年と607年に隋に使いを出し、608年には隋の使い文林郎裴清を迎えた「日出る処の天子」、あるいは「東の菩薩天子」を名乗った俀国王「多利思北孤」その人ではなかったか…と思われます。いや、その人なのです。王后とは、「王の妻は雞彌と号す」と記された方でしょう。王子らの筆頭は「太子を名づけて利と為す。歌彌多弗の利なり」の、「利」その人でしょう。この理解の方が、無理やり聖徳太子に当てるよりも納得できます。本当に、腑に落ちるのです。

 さて次回から、次第に戦乱の黒雲に覆われていく九州王朝を見てみます。どのように、歴史は展開していくのでしょうか。では…。