やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(8)

2006-11-22 14:24:19 | 古代史
 検査の結果、12月4日に入院し、6日に手術だそうです。お正月は我が家で迎えたいものです。…わたしのことはともかく、本題に入りましょう。

 さて前回で、「共同改訂その三」の実例が出ました。しかし「魏志倭人伝」が正しい…ことは、「邪馬壹国(3)」で説明しましたね。古田先生が「邪馬壹国」として解明された博多湾岸は、通説ではあの「奴国」とされています。後の世に、博多湾岸が「那の津」と呼ばれたことが証拠とされています。ですからあの金印「漢委奴国王」も、「かんの・わの・なこくおう」と読まれたのです。しかし「魏志倭人伝では「な」の音は「彌彌那利」の「那」であって、「奴」は「ぬ」音でした。ですから博多湾岸は、決して「奴」国ではありえないのです。次は倭国の風俗などの紹介です。

<男子は大小となく、みな鯨面・文身(げいめん・ぶんしん、顔面や身体に刺青をすること)す。古(いにしえ)より以来、その使い中国に詣(いた)るや、みな自ら大夫(だいふ)と称す。夏后少康(かこうしょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪・文身、以って蛟龍(こうりゅう)の害を避けしむ。いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、文身しまた以って大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)う。後やや以って飾りと為す。諸国の文身各(おのおの)異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。>
これは「共同改訂その一」に挙げたところですが、「東治」が正しく「東冶」は間違いである…ことについては、「邪馬壹国(2)を参照ください。次ぎに参りましょう。

<その風俗、淫(いん)ならず。男子はみな露紒(ろかい、冠をかぶらず髪を露出させている)し、木綿を以って頭にかけ、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪(ひはつ、髪を結ばないでそのまま垂らす)屈紒(くっかい、曲げて結ぶ)し、衣を作ること単被(たんぴ、ひとえの衣)のごとく、その中央をうがち、頭を貫きてこれを着る(貫頭衣といわれる)。禾稲(かとう、稲)・紵麻(ちょま、麻)を植え、蚕桑(さんそう、養蚕をする)・緝績(しゅうせき、糸をつむぐ)し、細紵(さいちょ、細い麻で織った布)・縑緜(けんめん、絹の布と綿布)を出だす。>
「淫ならず」とはいい評価ですね。髪型や衣裳などは、本文でお分かりでしょうか。また布も、麻や綿のほかに、国産の(?)絹織物もあるようです。次です。

<その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(じゃく、かささぎ)なし。兵に(武器として)矛・楯・木弓を使う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん、竹の矢)はあるいは鉄鏃(鉄の矢じり)あるいは骨鏃なり。有無する所、儋耳・朱崖(たんじ・しゅがい、いまの海南島にある郡名)に同じ。>
特産の動物です。牛や馬は弥生墓から骨が出ますからいたのでしょうが、特産品となるほどではなかった…ということでしょう。武器として、矛と楯を使う…と。出土した矛よりすると、矛は実戦用ではなく女王の館などを守る護衛兵のシンボルのようである…と。実戦は銅矢じりの弓矢でしょう。鉄や骨製の矢じりは、めずらしかったので特筆したのでしょう。木弓は、ほれ今の和弓にそっくりですね。その風俗は、ここが海南島といわれてもわからないほど似ている…と。

 さて女王の治める「邪馬壹国」の位置は、文献学的にはこれまでの説明のように、道里を解明して博多湾岸から春日・太宰府を含む拡がりを持つ地…に導かれました。次ぎに考古学的には、上記の国産絹や矛・戈そして銅鏃は言うに及ばず鉄鏃などを豊富に出土する地でなければなりません。
そしてこの地は、筑紫矛の通名のごとく「銅矛」が大量に出土そているのです(福岡:123、壱岐・対馬:97、佐賀:12、大分:50、熊本:9、鹿児島:1、「ここに古代王朝ありき-邪馬一国の考古学」より。以下同じ)。しかも「銅矛の鋳型」は、博多湾岸からしか出土していないのです。銅矛やその鋳型は、近畿では一つも出土していないのです。
鉄鏃も九州が多く(九州:51、近畿:22)、剣などの鉄の武器は比べ物になりません(九州:83、近畿:2。ただし、銅剣鋳型片は昭和41年に尼崎市田能遺跡で、また平成19年6月には東大阪市鬼虎川遺跡で発見された)。
そして国産絹の出土はこの列島で、春日市の遺跡から四例(もう一例は中国の絹。これが問題!!)とあと福岡県三例長崎県一例の八例(中国絹とも九例)しかありません。
文献と遺物からして、「邪馬壹国」は博多湾岸から春日・太宰府に拡がる地にあった…としか考えようがないのです。ですからイデオロギー的に大和であるとか、音当てで自分はここと思うとか、恣意的な誘導は許されないことなのです。必ず文献上は「短里」の概念を持った行程の解明と、考古学上は出土品が「倭人伝」に書かれたものと同じと考えられること、この二つが一致する地でなければならないのです。

<倭地は温暖、冬夏生菜を食す。みな徒跣(とせん、はだしで歩く)。屋室あり、父母兄弟、臥息(がそく、ふしやすむ)処を異にす。朱丹を以ってその身体に塗る、中国の粉を用いるがごとし。食飲には籩豆(へんとう、共に食物を盛る器・たかつき)を用い手食す。その死には、棺(かん、死体を入れる容器・この時代はみか甕)ありて槨(かく、棺を保護するもの・木槨や石槨など)なく、土を封じて冢(ちょう、小さな盛り土をした墓)を作る。始め死するや停葬(喪に服するを止めて日常に戻る)十余日。時に当たりて肉を食わず、葬主哭泣(こくきゅう)し、他人就いて歌舞飲食す。すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴(そうよく、洗い清める)し、以って練沐(れんもく、頭から水をかぶって体を鍛える)のごとくす。>
温暖な地で、いつでも生野菜が食べられる…と。
みなはだしで歩き、家では同居生活で、父母兄弟それぞれに部屋があるそうです。朱色を身体に塗る風習があるようです。そう言えば、みか棺も朱色のものがありました。
食物は高い食器に盛っているようですが、まだ箸はなく手で掴んでいたようですね。人が死ねば"みか"に入れ、その上から土をかぶせるだけだ…と。そして十日ほど喪に服し、その間喪主は肉を食わずずっと泣き、通夜・葬儀に来た人は歌舞飲食する…と。喪に服している間、死体はもがり(墓が完成するまで仮に置くまたその場所)に安置されたようです。そして冢に納めたあとは、家を挙げて潔斎沐浴(けっさいもくよく)したようですね。いまの風習とよく似ています。

 私たちのいまある文化は、このころから連綿として続いている…ことがよくわかります。わたしたち日本人として、わが国の歴史を知ることが如何に大事か、その上に立ってこそ国際人として通用する…ことが分かって頂けたと思います。ではまた…。

邪馬壹国(7)

2006-11-20 18:01:57 | 古代史
 さて、いよいよ末盧国からの陸路の旅です。

<東南陸行、五百里、伊都(いと)国に到る。官を爾支(たぶん、にし。西)といい、副を泄謨觚(せもく?)・柄渠觚(へこく?)という。千余戸あり。世に王あるも、みな女王国に統属(とうぞく、従う)す。郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり。>
末盧より道なりに東南を目指し、五百里で伊都国に着きました。西唐津あたりから五百里(約38~39km)ですから、伊都国とは前原市の波多江前後のあたりだったのでしょうか。この国には、女王国の他に唯一王がおられますね。そして郡よりの使いは、必ずこの地に(ある迎賓館などに)駐まる…というのです。しかし今までの記述からすると、王はいても女王国から派遣された官・副によって統治されているように見られます。対海国・一大国は、明らかに女王に派遣された官・副によって治められていましたから…。郡使の駐まる伊都国から、通説のごとく女王国が筑後山門あるいは近畿大和(あるいはその他の説でも)のごとくけっこうあるいははるか遠い所であったら、いざ鎌倉…というときに間に合わないように思いますが、皆さんはどう感じられますか。さて…、

<東南、奴(ぬ)国へ至ること、百里。官を兕馬觚(じまく?)といい、副を卑奴母離(ひぬもり)という。二万余戸あり。東行、不彌(ふみ)国へ至ること、百里。官を多模(たも?)といい、副を卑奴母離という。千余家あり。>
奴国と不彌国の、二国を紹介しました。しかしよく見てください。奴国だけには、「(狗邪韓国)水行・歴…到、(対海国)度…至、(一大国)渡…至、(末盧国)渡…至、(伊都国)陸行…到、(不彌国)東行…至」のように「動詞+至・到」の形がありません。単に「(方角)至」です。これより古田先生は、この「奴国」は邪馬壹国への直線行程よりはずれた「傍線行程である」とされました。つまり新幹線で東京へ行くとき、「左に見えますのは富士山でございます」という案内みたいなものだ…と。なぜ案内したかというと、二万余戸の大国だからです。なお不彌国の人口も「家」で表されていますね。大陸の人も半島の人もいたのでしょうか。
これまでの大半の通説では、対海国・一大国は「点」として島半周はいれず、また奴国も行程の一部として、不彌国までの距離を「7000+1000+1000+1000+500+100+100=10,700余里」としていました。後で出てきます総距離「万二千余里」に合わず、ですから「魏志倭人伝」は信用ならない…」とされたのです。
しかし古田先生の説によれば、その距離は「7000+1000+800+1000+600+1000+500+100=12,000余里」となりました。何の不都合もないのです。不彌国の位置はすなはち伊都国より百里(7.7km)ですから、福岡市西区の姪浜から室見川下流あたりになるでしょうか。奴国は伊都国の東南百里といいますから、日向(ひなた)の南の背振山地に沿ったところだったと思われます。そこらにはいまも、「野河内・一の野・湯の野・内野・野方」など「ぬ」が転化して「の」になったと思われる地名があります。

<南、投馬(つま)国に至ること、水行二十日。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五万余戸なるべし。南、邪馬壹(やまいち・やまい)国に至る。女王の都する所、水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いしま?)あり、次を彌馬升(みましょう?)といい、次を彌馬獲支(みまかし?)といい、次を奴佳鞮(ぬかてい?)という。七万余戸なるべし。女王国より以北、その戸数・道里、得て略載すべし。その余の傍国は遠絶にして、得て詳らかにすべからず。(二十一ヶ国が国名だけ投げ出されてあります。最後は二つ目の奴国がありますが、位置不明です)…これ、女王の境界の尽くる所なり。その南、狗奴(こぬ)国あり、男子、王たり。その官に狗古智卑狗(ここちひこ)あり。女王に属さず。郡より女王国に至る、万二千余里。>
いよいよ、「邪馬壹国」へ到着しました。投馬国もまた、傍線行程にある国ですね。「(方向)至」しかありません。「水行二十日」は、あくまでその国へ行った場合に要する日数の説明なのです。古田先生は、「船で不彌国から二十日といえば、鹿児島県指宿あたりではないか…」とされました。五万余戸の大国です。
また明らかに「邪馬壹国」も、「動詞+至」の形ではありません。では傍線行程か…?。さにあらず。冒頭の「郡より倭に至るには…」の目的地ですから、不彌国を邪馬壹国の玄関として着いたのです。古田先生は、「邪馬壹国は、博多湾岸から春日・太宰府を含む一帯で、七万余戸を擁する広がり(面積)を持つ」とされました。
倭人伝の行程における距離・方角より導かれたこの地は、結果として弥生遺跡・遺物が多く発掘された「弥生ゴールデンベルト」を包含していたのです。
陳寿は、ここに示された邪馬壹国を含む九ヶ国は詳細を記すことができたが、使訳通づる三十国の残り二十一国については、あまりにも遠く情報が不足して記すことはできなかった…といっているのです。
最後の狗奴国は女王に属していませんから、三十国には入っていません。
さて、郡より女王国までの距離は、「万二千余里」というのです。これはまさに、古田先生の「部分を加えていった総和は、必ずここに記された万二千余里とならなければならない」ということが証明されたのです。

 通説では、不彌国から投馬国までの水行二十日も行程に入れ、「(投馬国は九州東岸の宮崎県・鹿児島県のどこかと考えざるを得ませんから)それより水行十日・陸行一月とは何たることぞ…とか、郡よりの距離「12,000余里×435m=5,220km」は、フィリッピンやインドネシヤも通り越しオーストラリアの近くまで行くではないか…」とされたのです。
ですから「南」を「東」に改変したり、「一月」は「一日」の間違いだろう…と、各人が自説に都合のいいように各個改訂に走られました。これは距離「万二千余里」と日程「(水行二十日も)水行十日・陸行一月」とを、別物と考えているからです。その結果、「魏使は伊都国までしか来ず、後は褒章目当ての誇大報告を陳寿はそのまま鵜呑みにして記した…」など、陳寿を阿呆にして済ませているのです。
古田先生は、「軍事目的の報告書であれば、距離(万二千余里)とそれに要する日程(水行十日・陸行一月)は、欠かすことのできない情報のはず」とされたのです。
国名の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」と改変しているのは、説明の要もない自明の大前提とされていることは、前にお話しましたね。江戸の松下見林以来、誰も疑ったことのない(馬鹿な)前提なのです。「倭人伝」では明らかに「邪馬壹国」であるにもかかわらず…。

 いままでの「行程を直列につないでいく」という考えは、破綻していることは明らかでした。それを救わんとしたのが「榎(えのき)説」でした。それは「放射線読法」といわれるもので、「魏使は伊都国までしか行っていないのは事実であろう。そして伊都国より、奴国(陸路百里)・不彌国(陸路百里)・投馬国(船路二十日)・邪馬壹国(船で十日行き陸路で一月)へそれぞれに放射線状に行く距離あるいは日程で表したもの…とされたのです。それまでは距離で表していたものが、投馬国と邪馬壹国は日程で表したのものだ…と。加えて無理な解釈をされました。
「邪馬壹国へは、船で行けば十日だが、陸路では一月かかる…」とされたのです。そして郡より伊都国までは万五百里だから、残りの千五百里を船では十日、また歩けば唐代の『「六典」による歩行一日五十里』を使って割り算すれば三十日つまり一月となる(1,500÷50=30)…とされたのです。しかしよく考えてみれば、唐代では「長里(1里=435m)」・魏代では「短里(1里=77m)」ですから、メートルをフートで割るようなことになり、この説も破綻しました。

 やはり古田先生の方法が、唯一素直に理解できるやり方です。短里説では、帯方郡衙(いまのソウル辺り)から邪馬壹国まで「12,000余里×77m=924km。余里を考慮すれば、950~1000km」となり、博多湾岸より春日・太宰府あたりになることがお分かりでしょう。
さて次回は、邪馬壹国とはどのような国か、その風俗などを見て行きます。では…。

邪馬壹国(6)

2006-11-20 13:14:09 | 古代史
 前回は、魏の使いが倭国へ行くさわりを紹介しましたね。(帯方)郡衙(ソウル付近)からいったん仁川あたりに出て、船でたぶん牙山湾奥深くに上陸し、そこより陸路で乍ち南し乍ち東する旅を続け、倭国の北岸狗邪韓国へ到達。そこまで七千余里であった…と。
古田先生は、この魏使の旅は倭国が魏の臣下になったことを宣伝するデモンストレーションの旅であったろうし、また倭国が窮地に陥ったとき魏軍を派遣するための日数・距離そして道順を知るための旅でもあったろう…といわれます。
いやその調査結果に従って、陳寿は「三国志魏志倭人伝」を著したのです。ですから通説のごとく、魏使は倭国へは行っていず倭人から聞いたことを誇張を交えて記録した…などということは決してない、といわれます。

これは、一里約435mであるとする固定観念よりすると、後に出てきます倭国までの総距離「万二千余里」ははるかフィリッピンあたりの海を指す…と見られるからです。
明治の白鳥庫吉博士(東大)はその著書「卑弥呼問題の解決(1)」で、「一体倭人伝に見える魏使経行の里程や、不彌国から邪馬臺(元字は壹であるが…)国までの日程に、非常な誇張があることは何に依るであろうか。…ここに一々数字を挙げてみるまでもなく、現行の正確な地図・海図等により、最も普通なる航路を測ってこれを魏里に引きなおしてみると、約五倍の誇張がある」とされたそうです。論敵であった内藤湖南博士(京大)もこれを承認し、里数値を論証に使わないほうが賢明である…と共通の土台が作られ、現在に至るまで「倭人伝は信用できない」といわれているのだそうです。確かに一里が435mと思い込んでいるのであれば、本来「魏・西晋朝の短里」である77mで書かれてある里程は、5.65倍ほどの違いがありますよ…ね。今回は、狗邪韓国よりの船旅にご案内しましょう。

<始めて一海を度(わた)る、千余里、対海国に至る。その大官を卑狗(たぶん「ひこ、彦」だろう)といい、副を卑奴母離(ひぬもり?)という。居るところ絶島、方四百余里なるべし。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径のごとし。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき、米を買う海産物を売るの取引)す。>
魏側よりいう対海国・倭側よりいう対馬へ着きました。たぶん下県のことでしょう、面積は四百余里四方のようです。狗邪韓国より千余里で、人口は千余戸…と。
対馬海流を考えれば、狗邪韓国を出て島伝いにできる限り西へ行き、帆に風を受け力いっぱい漕げば自然に海流に乗り、対海国へ着く…ということではないでしょうか。海の航路は、すべて西へ出て海流に乗る…ことが肝要なのでしょう。
ここで注意!! 通説では対海国を「点」としか見ていませんが、古田先生は、里程としては半周八百里を考慮すべき…とされました。ですからここを発つまで、魏使は千八百里を旅したことになりますね。
因みに、人口の単位「戸」は、税や軍事力の元となる下部単位であり、「国(郡に相当)-県(けん、あがた)-邑(ゆう、村・に相当)-戸」という魏の制度が導入されているのではないか…とされました。興味深い問題です。
さてこの国のありさまを、民俗的な目で見ています。どうも米はあまり取れず、船で半島側や北九州側に渡って交易しているようすが伺えますね。
そしてもう一つ、「卑狗」に注意ください。これが「彦」なる官位であろうということは、記紀においてある所の長官に「日子」や「比古」「毘古」などが多出し、これらは「彦」であろうことは間違いないとされているからです。同じように、「みみ、彌彌・耳」や「たらし、足・垂」も長官を表しているようです。
さて、次の航路です。

<また、南、一海を渡る。千余里、名づけて瀚海(かんかい)という。一大国に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里なるべし。竹林・叢林(そうりん)多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せども食するに足らず。また南北に市糴す。>
ここはいまの壱岐で、対海国を出てから千余里で到着です。古田先生は同じように、航路には島の半周六百里を加えなければならない…とされました。
なお「瀚海」に意味を考えられたとき、「瀚」じのサンズイを取ったら「はね、やまとり、はやくとぶ」などの意味(諸橋漢和辞典)があることを見いだされました。そこでひざを打って、「なるほど、対馬海流だ」と叫ばれたのだそうです。
次ぎにここの人口は「家」で示されていますね。先生が検証された結果、この「家」は税などの対象となる倭人の「戸」と半島などの人々が交易などのため留まっている人口とを加えたものだ…とされました。いまの感覚でいえば、国際都市…なのですね。
なお、倭国の官名とか人名は、当時の倭人から聞いた倭語の発音を漢字で書き残したもの…と考えられます。しかしお気づきのように、あまたある同じ発音の漢字の中からあまり芳しからぬ漢字を選んで表わしています。「ひ・卑」「こ・狗」「ぬ・奴」「や・邪」のごときです。注意して見ていてください。

<また一海を渡る、千余里。末盧(まつろ)国に至る。四千余戸あり。山海に沿うて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒(ぎょふく、魚やあわびなど貝類)を捕え、水深浅となく、みな沈没して(潜って、さすが海人・海女だ!)これを取る。>
一大国より千余里で、末盧国へ着きました。いまの「松浦」は、「末盧」の遺称ではないでしょうか。いまの唐津市街の北東部(西唐津?)ではないかと考えられています。「みな沈没してこれを取る」とはいい表現ですね。そのしぐさが、目の前に生き生きとよみがえります。
この末盧国からは、倭国本土の陸の旅です。

 さてここまでは、一応直線的な旅の行程でした。「郡衙-(仁川-牙山)-狗邪韓国(七千余里)-(千余里)対海国(半周八百余里)-(千余里)一大国(半周六百里)-(千余里)末盧国」でした。
さて陸路は、どのような行程を通るのでしょうか。次回をお楽しみに…。

邪馬壹国(5)

2006-11-16 14:50:39 | 古代史
 前回の補強をします。当時三世紀の「三国志」の読者は、まず「魏志」の「帝紀」から読み始め、ついで「列伝」「夷蛮伝」へと読み進むはずです。列伝の最後にある「夷蛮伝」から読む人はいないのではないでしょうか。そうであれば、最初の「倭」を次の記述に見出すはずです。

<(正始四年)冬十二月、倭国女王俾彌呼、使いを遣わして奉献す。>(「魏志三少帝紀」第四斉王)
「倭国女王」があります。倭国に住み女王の統治下にある人々が「倭人」でしょう。ここに「俾彌呼」と書いてありますね。「俾」とは「従う」意味ですから(前回の「率俾」を思い出してください)、この名は国書に署名した女王の自称ではないでしょうか。「倭人伝」の中では、「卑」で書かれていますが…。次です。

<韓は帯方の南にあり、東西、海を以って限りと為し、南、倭と接す。>(魏志韓伝)
当然ここの「倭」は、帝紀にあった女王の治める「倭国」だな…と理解されるはずです。上の記述から当時、半島の南岸は「倭の領土」であったことがわかります。そして倭地に拡がりがあったとすれば、それは壱岐・対馬から九州島を含みいまの中国地方…であったのではないでしょうか。いわゆる「銅矛・銅剣」祭祀圏です。

<(辰韓)国に鉄を出だす。韓・濊・倭、みな従いてこれを取る。>(魏志韓伝)
<いま辰韓人、みな褊頭、男女、倭に近し。また文身す。>(魏志韓伝)
<弁辰は辰韓と接す。…その瀆盧(とくろ)国は、倭と界を接す。>(魏志韓伝)
「韓伝」は「倭人伝」の前にありますから、読者はここまでで「倭国」の位置をはっきりと認識するはずです。
これで「倭人伝」に唐突に「倭人」が出てきても問題なかった…ことはお分かりいただけたでしょうか。

 さて古田先生の仮説の中には、「魏・西晋朝の短里」という概念も含まれます。
『「三国志」という史料の中で、魏本国に使われた「里」単位と、夷蛮伝などにある「里」単位は違うはずはない』というものです。
何の証明もせずに、「中国本土と韓伝や倭人伝の中の「里」単位は違う」と各個改訂に走られる先生方もおられるのです。魏の前の漢(周を除く)や後の東晋以降の王朝では、「1里=約435m」だったのです。いまの中国では「1里=500m」ですし、日本では「1里=約4km」だったことはご承知の通りです。
古田先生は、韓伝の次の記述に注目されました。

<韓は帯方の南にあり。東西、海を以って限りと為し、南、倭と接す。方、四千里なるべし。>(魏志韓伝)
そうです。先にあげた記述の後のほう「方、四千里なるべし」のところです。「方」とは、ある面積を概正方形(四辺みな同じ長さのひし形でも良い)で表すやり方で、「方法」の元となった概念です。ソウルあたりに帯方郡の郡衙(ぐんが、出先の役所。つまりこのあたりは魏領)があったとすれば、その南部を四千里四方…と概算したのです。
これによって先生は、「三国志で使われている「里」単位は、1里が75m~90mであり、75mに近い数字」とされました。そのご谷本といわれる方が、西周のころ著されたという最古の天文算術書「周髀算経(しゅうひさんけい)」を研究されて、「1里=76m~77m」と導かれました。そして「この一致は偶然ではない」といわれたのです(「邪馬一国の証明」角川文庫版)。つまりこの「短里」は、周と魏・西晋のみで使われたことが証明されたのです。このブログでは、「1里=77m」としましょう。さて「魏志倭人伝」に戻ります。

<郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに乍(たちま)ち南し、乍ち東し、その北岸、狗邪(こや)韓国に至る、七千余里。>
郡より倭に至るには…、たぶん仁川(インチョン)あたりに出て船路を取り、西岸を島伝いに南下して牙山(アサン)湾の奥深くに上陸したのでしょう。ざっと見て110km~120kmとしましょう。千五百里…。「歴」は「並んだ点を次々と通る」という意味で、「陸行」に変わったことを示します。また「乍」字は「Aと思えばたちまちBになる」ということで、「南に行ったと思えばすぐ東する」という陸路の道中がよく表れています(因みに「~しながら」と読むのは日本語特有のもの)。そして着いたところは「その北岸、狗邪韓国」…。「その」は何の代名詞でしょうか。すこし前に出てくる「倭に至るには…」の「倭」ですね。すなわち、ここは倭の領地だったのです。「狗邪韓国」は魏より見た名、倭より見れば「任那(みまな)」です。いまの「釜山(プサン)から金海(キムヘ)」あたりがそうだといわれています。郡より狗邪韓国まで七千余里、郡より仁川を経て牙山までを約千五百里としましたから、陸路は五千五百里であったことになります。

 さて次は対馬海流を突っ切って、対馬・壱岐経由でいよいよ倭国本土への船旅です。では…。

邪馬壹国(4)

2006-11-15 17:23:21 | 古代史
 どうも、十二月になれば再入院のようです。その検査のため、しばらく休んでいました。お正月は家で迎えたいのですが…。
さて愚痴はこれくらいにして、今回は「三国志」(西晋の史官陳寿が280年ころ上梓した魏・呉・蜀の史書。同時代史料といえる)の中の二千字余の「魏志倭人伝」を紐解きながら、いわゆる「各個改訂」について紹介しましょう。それを、古田先生の著書「倭人伝を徹底して読む」(大阪書籍、1987.11)に沿って説明します。

 <倭人(ゐじん)は、帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢のとき、朝見するものあり。いま、使訳通づる所、三十国。>
倭人伝は、上の文章から始まっています。何の説明もなくいきなり「倭人」とありますが、当時の読者(西晋の天子や知識人ら)には理解できたのでしょうか。

 理解できた…と、古田先生は言われます。
まず、周代にはどのように認識されていたのでしょうか。
<東方、夷という。被髪文身、火食せざる者あり。>(「礼記」巻十二)
「東方の民を夷という…と。彼らはざんばら髪で、体にいれずみをしている。そして火を通さずに(獣や魚を)食べている…」と。半島の民も夷でしょうが、生で食べる風習はわたしたち列島人のほうが当てはまるようです。

<島夷、皮服す。(注釈)海曲、これを島という。島に居るの夷。…島はこれ、海中の山。>(「尚書」巻六)
この「尚書」は周代に著され、天子や知識人の読むべき古典です。どうも夷は、海の中の山…島に居るらしい。それで倭人伝の冒頭の文を読んだ人々は、「あぁ「倭人」というのは、「尚書」に出てくる「島夷、皮服す」の人々なんだな」と受け取るはずですね。

そして「尚書」を読み進むと、最後のほうに次の文を見出します。
<海隅(かいぐう)、日を出だす。率俾(そつび)せざるはなし。>(「尚書」巻十六」)
殷を滅ぼした周の武王は、建国後まもなく亡くなりました。そのとき幼い成王を助けてくれるよう、弟の周公丹に頼みました。周公はその遺言を守り、成王が立派な天子になるまで「佐治天下(さじてんか)」しました。上の文は、晩年の周公の言葉だそうです。
「率俾」とは、「天子に対し、臣下として忠実に服従すること」だそうです。「私のいままでの苦労の結果、周王朝の基礎も固まり、海のかなたの日の出る所の人々も心服し貢物を持ってくるようになった」という満足感に満ちた言葉だそうです。

 そして「倭」がはじめて出てくるのが、周の終わりころ「戦国時代」に書かれた「山海経」というものです。
<蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。>(「山海経」海内北経)
燕は戦国の七雄の一つで、いまの北京から遼東半島あたりまで領していました。蓋国は、いまのピョンヤンあたりにあったそうです。ですから戦国時代には、倭は列島だけではなく半島の南半分辺りにも居住していたようです。戦乱がひどくなるにつれ逃れる人々が半島になだれ込み、倭人は押し出されて半島南岸や洛東江流域まで下がってきたのでしょう。
「倭は燕に属す」とは、燕を通して周に貢献していたのでしょう。まだ「尚書」には「倭・倭人」はありませんが、周の初めに倭が通好していたことを史実としなければ、後漢の王充の「論衡」の文は成り立ちません。

<成王のとき、越常(ベトナム)雉を献じ、倭人暢(ちょう、香り草とされる)を貢す。>(「論衡」巻十九)
また王充と同じ後漢の史官である班固は、前漢の史書「漢書」を著しました。
<楽浪海中、倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、という。>(「漢書」地理志燕地)
「百余国」の状態は紀元前108年に武帝が朝鮮に四郡を置いたころのものでしょうが、「献見す」は前漢時の状況ではないようです。「…という」なる書き方よりすれば、論衡のいう事件以来「ずっと、決まった年に来ている」というニュアンスがあります。
 前にも言いましたが、紀元57年に倭王が「漢委奴国王」の金印を賜ったとき、王充30歳・班固25歳で使いにも会った可能性が高い。ですから三世紀の人々は「尚書」や「論衡、「漢書」の知識・教養を以って「三国志」を読むのです。ですからいきなり「倭人」とあっても、「あー、あの論衡や漢書にある倭人か、建武中元二年に金印を賜ったあの倭人なのだな」と理解したことでしょう。
「倭人伝」といい「倭伝または倭国伝」といわないのは、論衡や漢書の前例に倣ったものでしょうか。

 次ぎに「帯方の東南大海の中にあり」は、漢書の「楽浪海中、倭人あり」に倣ったのでしょう。しかし三世紀当時は、倭国は楽浪郡より分かれた「帯方郡」に属していたようです。
次の「山島に依りて…」は、「礼記」や「尚書」の知識が具体化しているのではないでしょうか。しかし当時、魏や西晋の人々はいわゆる「本州」を「島」と認識していたのかどうか…。つまり、津軽海峡で切れている…と知らなかったのではないか。古田先生はこういわれ、この「山島」はもともと「九州島」と当時の中国の人々に認識されていたのではないか…とされました。ですから倭国の位置について、「九州説」・「大和説」など無意味だったのかもしれません。
「旧百余国」も、「漢書」を受けた文ですね。「漢のとき、朝見するものあり」は、建武中元二年(57年)や安帝の永初元年(107年)の使いのことでしょう。因みに、「朝見・朝献・朝貢」など「朝」がつく場合、使いは必ず王朝の都(洛陽や長安など)に行っていることを表します。しかし「貢献」は王朝の出先、例えば燕を通した貢とか帯方郡までの使い…などを表すそうです。
そして最後「いま、使訳通づる所、三十国」は、陳寿が書いている三世紀の状況です。のちに出てきますが三十国がばらばらに通好しているのではなく、盟主である「邪馬壹国」が取りまとめているようです。

 今回はこれまでにしましょう。