やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

四世紀の倭国

2006-11-29 15:38:06 | 古代史
 前回まで、「三国志魏志倭人伝」に記された「邪馬壹国」を通して、三世紀の倭国の様子を見てきました。いまわたしたちが見ることのできる百衲本二十四史「三国志」は、宋の史官裴松之(はいしょうし、372-451年)の注釈つきのものです。「倭人伝」の中の「魏略にいう、その俗、正歳・四節を知らず。ただ春耕・秋収を計りて、年紀と為す」のたぐいで、これを「裴注」といいます。同じ宋の史官范曄(はんよう、398-445年)は、426年ころ「後漢書」を上梓しました。史局に机を並べ同じ史料を使ったのでしょうが、范曄は五世紀当時の知識によって「後漢書」の地の文に「その大倭王は、邪馬臺国に居す」と書き、裴松之は「魏志倭人伝」の女王国「邪馬壹国」に何の注釈もつけませんでした。これによっても三世紀は「邪馬壹国」であり、通説のいう「邪馬臺国」は間違いであることが証明されます。そして六、七歳の壹与が250年ころ王に共立され、魏より禅譲された(西)晋の武帝二年(266年)に張政を送るついでに貢献しました。(西)晋は280年ころ敵対していた呉を滅ぼして中国を統一し、同じころ倭国の呉に対する防衛都市であったあの吉野ヶ里もその役目を終えたようです。たった一度の壹与の貢献以来倭国は姿を消しますが、力を増していた匈奴や鮮卑などの五胡が華北に侵入し始め、貢献どころではなくなったからではないでしょうか。そしてついに316年(西)晋は匈奴に滅ぼされ、翌217年に南に逃げた皇族が建康(いまの南京)を都とする(東)晋を建てました。倭国が再び舞台に上がるのは、四世紀終わりから五世紀にかけて活躍する「倭の五王」と呼ばれる王たちです。
 では、四世紀の倭国の動向は何も分からないのでしょうか。幸いにして、三つの史料に残されていました。一つは、前に紹介した「日本書紀神功皇后紀」です。いまはなき「百済記」などの史料を流用(盗用?)し、ほとんど本文化して倭と百済との国交開始の姿を残しています。神功紀に記された百済王たちは実在していてその即位年や在位年数などはわかっていますので、記事そのものは信用できるそうです(大和との交渉かどうかは疑わしい)。しかしどうも「倭人伝」からの引用に引き寄せられて百済記の記事を120年(二運)ほど前倒しに取り入れていることから見ると、書紀の編集者たちは神功皇后を四世紀半ばから後半にかけて実在していた…と考えていたのでしょうか。次は半島の史料「三国史記」「三国遺事」です。「三国史記」は高麗の仁宗二十三年(1145年)に完成したものです。後代史料ですが、(神話的部分を除き)三韓時代の年代などは信用がおけるそうです。「三国遺事」は高麗の忠烈王七年(1281年)ころ編集された物語風史書です。倭が新羅と敵対している様子が伺えます。三つ目は「高句麗好太王碑」といわれるものです。四世紀終わりの391年より五世紀初めの407年までの、「倭・倭賊・倭寇」と高句麗との衝突が書かれています。好太王碑は414年に、子の長寿王によっていまの遼寧省集安近郊に建てられました。同時代史料といえます。三世紀魏の時代、二千里四方(韓半島の四分の一)であった領土を韓半島の北半分を含む広大な国に拡げたことを称えられ、「国崗広開土境好太王」と呼ばれました。さてこれら史料に表れる「倭」とは、筑紫でしょうか大和でしょうか。ではこれらの史料を横において、記された事件を年代順に並べて紹介し、四世紀の倭国の様子を見てみましょう。「日本書紀神功皇后紀」を「神功紀」と、「三国史記新羅本紀」を「史記新羅紀」と、「高句麗好太王碑」を「好太王碑」と略します。
 「史記新羅本紀」によると、一世紀・二世紀・三世紀においても倭・倭人・倭兵・倭国は新羅に攻め入っています。しかし阿達羅尼師今二十年(173年)条に「倭の女王卑弥乎、使を遣わし来聘す。」とあり、ヒミカは230年ころ即位した…とすると六十年(一運)ほど前倒しであり、一般に三世紀後半あたりからの記事は信用できる…とされています。通説では当然「倭国は大和政権である」とされていますが、最近では古田説によって「九州王朝」とする説が強くなっているようです。
<倭兵、にわかに風島に至り、辺戸を抄掠す。また進みて金城を囲み、激しく攻む。王、兵を出して相戦わしめんと欲す。伊伐飡(いばつさん、新羅の官位)康世いわく、「賊、遠くより至る。その鋒(ほこ)当たるべからず。これを緩(やわ)らぐるにしかず。その師の疲るるを待て」と。王、これを然りとなし、門を閉ざして出さず。賊、食尽きて将に退かんとす。康世に命じ、勁騎(けいき、強い騎兵)を率いて追撃せしめ、これを走らす。>(史記新羅本紀訖解尼師今三十七年(346年)条。)
この前の状況は、300年ころ倭と新羅は「交聘(好を結ぶ)」しました。その後、倭王に妻を送るほどにもなりました。しかし何があったのか、去年(345年)「倭王、移書して交を絶つ。」ということが生じました。そして346年の戦です。
<倭兵、大いに至る。王これを聞き、恐らくは敵(あた)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣をきせ、兵(武器のこと)を持せしめて、吐含山の下に列べ立て、勇士一千を斧峴(ふけん、慶州市南東部あたり)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃み直進す。伏せるを発して、その不意を撃つ。倭人、大いに敗走す。追撃してこれを殺し、ほとんど尽く。>(史記新羅本紀奈勿尼師今九年(364年)条)。
この事件と、神功紀に採られた「百済記」の記事は関連がありそうです。
<(366年)春三月…、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳トクジュン国(いま慶尚北道大邱テグに比定)へ遣わす。(本注:志摩宿禰はいずれの姓の人ということを知らず)。ここに卓淳の王末錦マキム旱岐カンキ、志摩宿禰に告げて曰く、「甲子の年(364年)の七月に、百済人久氐クテイ・彌州流ミツル・莫古マクコの三人、わが国に到りて曰く、『百済の王、東の方に日本の貴国あることを聞きて、臣らを遣わして、その貴国に朝(もう)でしむ。故道路を求めて、この国に至りぬ。もしよく臣らに教えて道路を通わしめば、わが王必ず深く君王を徳(おむかしみ)せむ』という。時に久氐らに語りて曰く、『もとより東に貴国あることを聞けり。然れども未だ通うことあらざれば、その道を知らず。ただ海遠く波険し。すなわち大船に乗りて、わずかに通うこと得べし。もし路津(わたり、海路上の港)ありといえども、(大船なくば)何を以ってか達(いた)ること得む』という。ここに久氐らが曰く、『然らばすなわち、ただいまは通うこと得まじ。しかじ、さらに還りて船舶を備(よそ)いて、後に通わむにや』という。またしきりていいしく、『もし貴国の使人来ることあらば、必ずわが国に告げたまえ』といいき。かくいいて、すなわち還りぬ」という。ここに斯摩宿禰、すなわち従人爾波移(にはや)と卓淳人過古ワコと二人を以って、百済国へ遣わして、その王を慰労(ねぎら)へしむ。時に百済の肖古ショウコ王(在位346-375年、東晋には余句と名乗る)、深く歓喜(よろこ)びて、厚く遇(あ)いたまう。よりて五色の綵絹(彩った絹)各一匹、および角弓葥(角の弓矢)、併せて鉄鋌(鉄材)四十枚を以って爾波移に与う。…「わが国に多くこの珍宝あり。貴国に奉らんと欲するとも、道路を知らず。志ありて叶うことなし。然れども…」ともうす。ここに爾波移、事を奉(う)けて還りて、斯摩宿禰に告ぐ。すなわち卓淳より還れり。>(神功紀四十六年条)。
前にも言いましたが、ここにある「貴国」とは「基肄に都する国」の意味だろうと、古田先生はいわれます。岩波書紀では「かしこきくに」とルビを振っていますが、相手に向かっていえばともかく第三者にいうとは…。また「日本の」という説明は、「四世紀当時「日本」は使われていた」という考え方と、「八世紀書紀編纂時の謂い」という考え方があります。ただ後の雄略紀二十一年条に、475年の「漢城の落城」といわれる事件の後始末のところに「日本旧記」という(九州王朝の)史書名が出てきます。「倭」がそれまでの「ゐ」音から匈奴や鮮卑の「わ」音に変わったのを嫌って「日の辺にある国、日本」と称したとしてもおかしくはありません。もう少し後か…とも思われますが…。この四十六年条は、すべてを「百済記」より採って(盗って)本文化しているとされています。また「斯摩宿禰」も「姓を知らず」と注があることから、「斯摩」は名であっていわゆる「苗字」を知らない…と。ですから筑紫倭国では名さえいえばすぐ分かる将軍であったものが、書紀の編集者は知らなかった…、つまり大和の将軍ではなかった…ことが分かります。これは、筑紫倭国に百済が接触した記事でしょう。ただ百済が最初に卓淳国に接触した344年、将軍斯摩宿禰は新羅を攻略している最中だったのでしょうか。