やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(12)

2006-11-27 16:20:06 | 古代史
 前回紹介しました明帝の詔書は、日本書紀には採録されていません。邪馬壹国が大和にありヒミカの後裔が近畿天皇家であったとすれば、魏の明帝より「親魏倭王」の称号と金印紫綬をもらったことは、特筆大書してもいいはずです。しかし貢献記事は(孫引きで?)載せても詔書を省いたことで、ヒミカの後裔は近畿天皇家ではない…と自白しているに等しいと思います。
では「魏志倭人伝」に戻りましょう。再び貢献記事です。なお、景初二年は238年です。

<正始元年(240年)、太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)らを遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔をもたらし、金帛(きんぱく、金や絹)・錦罽(きんけい、錦の毛せん)・刀・鏡(あの百枚の)・采物(さいぶつ、異なる彩を持つ衣服など)を賜う。倭王、使いによって上表し、詔恩を答謝す。>
帯方太守のもとに装封してあった二年前の下賜品が、いよいよ建中校尉梯儁らによって倭国に運び込まれました。確かに梯儁らは、ヒミカに直接拝謁したのです。「拝仮」とは、魏の都以外で謁見することをいうようです。このときの印象が、「年すでに長大…」と記録されたのでしょう。そしてこの旅や、あとに出ます張政らの旅における道中の方向・距離の報告が、陳寿によって「倭人伝」に残されたのです。
古田先生は、この年の倭国行きは初めてでもあり、倭国が魏の体制に組み込まれたこと(前回の詔書の始めに「親魏倭王卑弥呼に制詔す。」の「制詔」によってわかるのだそうです)を知らせるべく大々的なデモンストレーションの旅ではなかったろうか、といわれています。
そして重要なこと、それは「倭国の高官らは、漢文を読むことも書くこともできた」ということです。もたらされた(齎された、bringの意味)証書や詔を読み、「上表して答謝」しているのですから…。倭国が建武中元二年(57年)、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印をもらったとき、意味もわからずキョトンとしていたのでしょうか。この年や永初元年(107年)の使いは、「国書」を持っていかなかったのでしょうか。持って行ったからこそ、倭王の名「帥升」も記録されたのではないでしょうか。
書紀では文字の伝来は応神のとき(五世紀始め)王仁(わに)によってもたらされた論語・千文字が初めとか、いやいや継体のころ(六世紀はじめ)とか定まりませんが、倭国の場合は三世紀半ばにちゃんとヒミカが国書によって「答謝」していることが記録されているのです。このときの国書に、自署名「俾彌呼」が書かれてあったのでしょう。さて、書紀はどのように引用しているのでしょうか。やはり「分注」です。

『(神功)四十年。魏志に曰く、正始の元年に、建忠校尉梯携らを遣わして、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。』
これだけです。しかも「建忠」「梯携」と二ヶ所も間違っています。上表して答謝したことなどありません。

<その四年、倭王、また使大夫(しだいふ)伊声耆(いせいき)・掖邪狗(えきやこ)ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布(はくふ)・丹・木付(けもの犭編がつく)・短弓矢を上献せしむ。掖邪狗ら、率善中郎将の印綬を壹拝す。>
答礼として、再び使いが遣わされました。こんどはすこし余裕があったのか、掖邪狗ら八人と、倭錦を含む精一杯の贈り物です。そしてまた彼らも、魏の直属の臣となりました。難升米と同じ爵位でしょうか。
ここに印象的な言葉があります。「壹拝」です。当時大陸では、ことのほか「弐(二)」が憎まれたそうです。魏・呉・蜀の巴(ともえ)になった戦いの中、二心(ふたごころ)、つまり裏切りに通じる「弐」は嫌われました。その反対に、忠節を表す「壹」は尊ばれました。このことは記憶に留めておいておいてください。

 さて、書紀は、
『(神功)四十三年。魏志に曰く、正始の四年、倭王、また使大夫伊声者・掖耶約ら八人を遣わして上献す。』
人名を間違えるなんて…。近畿天皇家の使いではなかったからでしょう。

<その六年、詔して、倭の難升米に黄幢(こうどう、黄色の旗は将軍の証し)を賜い、郡に付して仮授せしむ。>
難升米は、倭で最もヒミカに近い臣だったのでしょうか。軍事権を握っていたのかもしれませんね。それで魏は難升米に黄幢を授け、倭軍を魏に取り込んだのでしょうか。
この後書紀には、倭人伝による記事は(ヒミカの宗女壹与(イチヨ)の記事を除いて)ありません。唐突として、四世紀中から後半にかけての、倭と百済の国交開始(と思われる)記事が(百済記より引用して)本文化された形であります。

<その八年(247年)、太守王頎(おうき)官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴(こぬ)国の男王卑弥弓呼(ひみくか)と素(もと)より和せず。倭載(ゐさい、国名の倭を姓とし名を一字とした。壹与のさきがけと見たい)・斯烏越(しおえつ)を遣わして郡に詣り、相攻撃する状(さま)を説かしむ。塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わし、よりて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄(げき)をなしてこれを告喩(こくゆ、広く人民に告げ諭す)せしむ。>
倭国三十ヶ国外にあった狗奴国と、ついに戦になったようです。倭載・斯烏越の二人を帯方郡に遣わし、太守に戦況を知らせます。倭国不利…と見たのか、郡の辺境守備の任にあった張政という軍人を部隊と共に派遣しました。詔書・黄幢を魏の臣たる難升米に与え、張政ら部隊は率善中郎将である難升米の指揮下に入ったのではないでしょうか。戦況は好転したのでしょうか。

<卑弥呼以って死し、大いに冢(ちょう)を作る、径百余歩。徇葬する(じゅんそう、従って死ぬ)者、百余人。>
この冢の規模はどれほどでしょうか。この「歩」というのは「里」の下部単位で、「1里=300歩」です。通説では1里=約435mの頭しかありませんから、(435÷300×120~130=)174~189mの巨大古墳と考え、奈良県にある箸墓(前方後円墳)に当ててきました。
しかしいま、私たちは知っています。「魏志および倭人伝」においては、「魏・西晋朝の短里」で書かれていることを…。ですからこの冢は、(77÷300×120~130=)31~34m程度の円墳のようです。ヒミカの冢が見つかれば、「親魏倭王」の金印とともに殉死した百人の骨もあることでしょうね。

<さらに男王を立てしも、国中服せず。こもごも相誅殺し、当時千人を殺す。また卑弥呼の宗女壹与(いちよ)、年十三(実際は六・七歳)なるを立てて王となし、国中ついに定まる。政ら、檄を以って壹与を告喩す。>
ヒミカはいつ死んだのでしょうか。はっきりとは分かりませんが、狗奴国との戦の最中か次の年…あたりではないでしょうか。
男の王が立ちましたが、こんどは内戦です。ヒミカの宗女、つまり一族の娘といいますからヒミカを佐(たす)けた男弟の娘かもしれませんね。まだ幼いといっていい壹与ですね。この「壹与」は、魏に二心なきことを示す国名「邪馬壹国」の「壹」を姓とし、「組する、あずかる」の意味を持つ「与」を名としたのではないでしょうか。

<壹与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政らを送りて還らしむ。よりて臺(だい)に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠(こうしゅ)二枚・異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢す。>
さて、張政らが帰国したこの貢献は、いつのことでしょうか。幸いにして、書紀よりわかります。

『(神功)六十六年。この年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居注に曰く、「武帝の泰初の二年の十月に、(貴)倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ」という。』
実際は、泰始二年(266年)です。この前年、魏より禅譲されてあの司馬懿(しばい、宣王)の孫である司馬炎(えん)が「(西)晋」を建てていました。張政は247年に倭国に来ていましたから、足掛け二十年間も留まっていたのです(木佐という方の発見…という)。
張政の晋の武帝に対する報告書は、正確を極めたのではないでしょうか。これより十四、五年後に、陳寿は「三国志」を上梓したのです。このことだけでも「魏志倭人伝は信用ならない、誤りが多い…」などという非難は吹っ飛ぶのではないでしょうか。

 また「景初二年」の、卑弥呼の記事はこうでした。
「景初二年六月、倭の女王、…天子に詣りて朝献せんことを求む。…」
次ぎに、壹余の記事と比較してみましょう。
「壹与、…を遣わし、…よりて臺に詣り、…」
「天子に詣る」と、「臺に詣る」とは、まったく同じ事をあらわしていますね。つまり「天=臺}だったのです。あれほど「卑字」を使った「魏志倭人伝」の中で、著者の陳寿は二心なき倭国を表す「邪馬壹国」は使えても、天子を表す「邪馬臺国」は決して使えないのです。ですから「魏志倭人伝」においては、決して「邪馬臺国」でもなければ当用漢字を使った「邪馬台国」でもないのです。
でも「臺」のインフレとなっていた五世紀、范曄は遠慮せず「後漢書」に「大倭王、邪馬臺国に居す」と書けたのです。

 そしてもう一つ、日本書紀はどうして天皇でもない「神功皇后」紀を特設したのでしょうか。書紀の編集者が、ヒミカと神功皇后を間違えた? いえ、そうではなく確信犯のようです。古田先生によれば、中国や東夷の世界に名高いヒミカ・イチヨの貢献記事を(女王の名を伏せてでも)神功皇后紀に取り入れたのは、魏に貢献していたのは大和朝であったとせんがため、かつ神功の時代はこのころであったという書紀の時間軸を定めるため…だということです。
しかし、神功紀は不思議です。羽白熊鷲のように羽根のある超人の神話世界から、三世紀半ばのヒミカ・イチヨの話を取り入れ、加えて筑紫倭国と半島百済の四世紀後半の国交開始の話まで…。足かけ四、五百年にわたる事項を、一人の人物に充てるとは…。なんともはや、にぎやかなことです。
なお書紀の底本には「貴倭(きゐ)の女王」とあるそうですが、これは壹与が「基(基肄)」に都していた反映ではないか…とされました。
実は四世紀後半の倭と百済との国交開始の記事(神功紀に、百済記より採って本文化している)にも、第三者の言うせりふの中に「貴国」という言葉が出てくるのです。壹与の後裔の王朝は、基(基肄)に都していたのでしょうか。