やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(11)

2006-11-24 16:35:58 | 古代史
 前回まで紹介しました倭国への道順とか風俗などの説明は、陳寿の「地の文」といいます。つまり陳寿が執筆している時点あるいはそのすこし前の事実を、魏の使節の報告書や魏朝廷の公式記録、あるいは天子の日常を記したメモ(これを「起居注」という)などを参考にしてしたためたものです。
では次ぎに「年代記事」に入っていきましょう。

<景初二年六月、倭の女王、大夫難升米(なんしょうまい?)らを遣わし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏(りゅうか)、吏を遣わし、将(ひき)いて送りて京都に詣らしむ。>
この「景初二年」に対する共同改訂については、「邪馬壹国(2)および(3)」を参照ください。

これがどのように「日本書紀」に取り入れられているか、見てみましょう。
『神功紀三十九年。(分注)魏志に曰く、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わして、群に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守夏、吏を遣わして将(い)て送りて、京都に詣らしむ。』
本文ではなく、分注です。ここに「明帝の景初三年」とはっきり書いてありますね。原文には「明帝」はありませんが、始めて書紀を見る人のための説明…と考えて、これはよしとしましょう。しかし「景初二年」を「三年」にまた太守「劉夏」を「夏」に間違えるなんて、あるいは孫引きか…と疑がわれます。
しかし現在に至るまで学者先生らが「景初三年」が正しいとするのは、同時代(三世紀の)史料を信用せずに後代(八世紀の)史料による間違いを犯しているのではないでしょうか。
しかも「魏志」によれば、「景初三年六月」であれば肝心の明帝は亡くなり、喪に付している真っ只中でしょうに…。三年六月にのこのこと顔を出せば、下記に示すような豪華なお土産どころではないでしょう。国が滅びますよ。
 さて、次は詔勅(しょうちょく、天子の意思を表明する文書・詔書や勅書など)です。

<その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔(せいしょう、魏の制度に従って詔を出す)す。帯方の太守劉夏、使いを遣わし、汝の大夫難升米・次使都市牛利(としぎゅうり?)を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じ、以って到る。汝のある所遠きを踰(こ)え、すなわち使いを遣わして貢献せしむ。これ汝の忠孝、我はなはだ汝を哀れむ(賞美する・めでる)。いま、汝を以って親魏倭王と為す。金印紫綬(きんいんしじゅ、金印のつまみに紫の紐がついたもの)を仮し、装封して帯方太守に付して仮授す(直接手渡さず、帯方太守より授ける)。汝、それ種人を綏撫(すいぶ、慰めいたわり)し、勉(つと)めて孝順(こうじゅん、天子によく尽くし、その意に逆らわない)をなせ。>
倭国の使いは難升米と都市牛利の二人だけ、そして貢の品は男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈だけの貧弱な物でした。これは明帝の公孫淵討伐を聞いたヒミカの、取る物もとりあえず魏に二心ないことを示すための政治的決断による使節派遣だったからでしょう。
しかし戦中の使いに、明帝はたいそう喜びました。ヒミカを「親魏倭王」となし、金印紫綬を賜ったのです。そしてこれは装封され、帯方太守より渡すように段取りされました。続きです。

<汝が来使難升米・牛利、遠きを渉(わた)り、道路勤労す(来るまでの途中、心身を労して任務にはげむ)。いま、難升米を以って率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう、太守に比する爵位)となし、牛利を卒善校尉(そつぜんこうい、宮城の宿衛を司る官)となし、銀印青綬を仮し、引見労賜(いんけんろうし、天子が謁見し、いたわって物を賜う)して遣わし還す。>
二人の使いにもねぎらいの言葉がかけられ、倭国女王の臣ながら魏の直属の臣ともなったのです。難升米は太守と並ぶほどの爵位(二千石という)、牛利も相応の官位をもらい、かつ二人には銀印青綬が下されました。

<いま絳地交龍錦(こうちこうりゅうきん、赤地に龍の縫い取りのある錦)五匹・絳地縐粟罽(しゅうぞくけい、赤の縮み?)十張・蒨絳(せんこう、茜色の絹)五十匹・紺青(こんじょう、鮮やかな明るい藍色の絹)五十匹を以って、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に、汝に紺地句文錦(こんじこうもんきん、藍地でカギ形の文様のある錦?)三匹・細班華罽(さいはんかけい、細い文様の華やかな絹?)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀(長さ1mくらい)二口・銅鏡百枚(これが三角縁神獣鏡に擬せられている鏡)・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、みな装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以って汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしめるべし。故に鄭重に、汝に好物を賜うなり。>
金印紫綬は帯方太守より渡されますが、(見てください!)この豪華絢爛たるお土産はみな装封され二人が持って帰ることになっていました。
邪馬壹国に対するお土産のほかに、「汝の好物」としてヒミカ個人へのお土産もあります。その中に、あの「銅鏡百枚」もありますね。ひところは近畿地方より多く出土する「三角縁神獣鏡」を以って、この「銅鏡百枚」に当てていました。それが正しければ、邪馬壹国は近畿大和で決まり…だったのです。しかし早くより古田先生を含む何名かの方々は、「三角縁神獣鏡は国産ではないか…」といわれていました。
まず肝心の三世紀の墓からは出ず、四世紀以降の古墳時代の墓からしか出なかったからです。しかしこれには、「鏡は伝世(親から子・孫へと伝わる)する」という理論が出されました。しかし「すべての鏡がそうか」と質問されれば、誰も答えられませんね。
次ぎに、肝心の中国からは一面も出土していないのです。これに対しても、「倭国の特注品だから、中国に出ないのは当然」とされました。しかしまぁ偉い学者先生が、伝世とか特注とか「見てきたような嘘をいい…」でいいのでしょうか。
数年前、中国考古学研究所長の王仲殊さんの「三角縁神獣鏡は、中国製ではない」という論文が出ました。日本の考古学界はそのときひどく衝撃を受けたのですが、「邪馬台(壹ではなく)国、近畿大和説」を死守したい先生方は、「そうはいっても…、伝世説も捨てきれない…」と煮え切らない態度だそうです。
古田先生が強調されるのは、「邪馬壹(台ではない)国を好きなところへ持っていくのはかまわないが、文献学的には「魏志倭人伝」に従い、方位や距離を一字も変えず、「魏・西晋朝短里」の概念を採らなければならない。考古学的には筑紫矛やその鋳型が多く出土し、魏よりもらった「前・後漢鏡」の出土が多く、かつ中国錦(絹)や国産絹の出土を見なければならない」ということです。
近畿大和でもいいのですが、南を東へ直さず・一月を一日に直さずたどり着けますか、矛が出ますか・絹が出ますか…と質問してみましょう。鏡だけでは、だめなのです。

 そして、年が明けた景初三年早々、当の明帝は病に斃れ亡くなりました。「邪馬壹国(2)」を参照ください。そして、次回の記述へと続きます。