やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(8)

2006-11-22 14:24:19 | 古代史
 検査の結果、12月4日に入院し、6日に手術だそうです。お正月は我が家で迎えたいものです。…わたしのことはともかく、本題に入りましょう。

 さて前回で、「共同改訂その三」の実例が出ました。しかし「魏志倭人伝」が正しい…ことは、「邪馬壹国(3)」で説明しましたね。古田先生が「邪馬壹国」として解明された博多湾岸は、通説ではあの「奴国」とされています。後の世に、博多湾岸が「那の津」と呼ばれたことが証拠とされています。ですからあの金印「漢委奴国王」も、「かんの・わの・なこくおう」と読まれたのです。しかし「魏志倭人伝では「な」の音は「彌彌那利」の「那」であって、「奴」は「ぬ」音でした。ですから博多湾岸は、決して「奴」国ではありえないのです。次は倭国の風俗などの紹介です。

<男子は大小となく、みな鯨面・文身(げいめん・ぶんしん、顔面や身体に刺青をすること)す。古(いにしえ)より以来、その使い中国に詣(いた)るや、みな自ら大夫(だいふ)と称す。夏后少康(かこうしょうこう)の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪・文身、以って蛟龍(こうりゅう)の害を避けしむ。いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、文身しまた以って大魚・水禽(すいきん)を厭(はら)う。後やや以って飾りと為す。諸国の文身各(おのおの)異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、まさに会稽東治の東にあるべし。>
これは「共同改訂その一」に挙げたところですが、「東治」が正しく「東冶」は間違いである…ことについては、「邪馬壹国(2)を参照ください。次ぎに参りましょう。

<その風俗、淫(いん)ならず。男子はみな露紒(ろかい、冠をかぶらず髪を露出させている)し、木綿を以って頭にかけ、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。婦人は被髪(ひはつ、髪を結ばないでそのまま垂らす)屈紒(くっかい、曲げて結ぶ)し、衣を作ること単被(たんぴ、ひとえの衣)のごとく、その中央をうがち、頭を貫きてこれを着る(貫頭衣といわれる)。禾稲(かとう、稲)・紵麻(ちょま、麻)を植え、蚕桑(さんそう、養蚕をする)・緝績(しゅうせき、糸をつむぐ)し、細紵(さいちょ、細い麻で織った布)・縑緜(けんめん、絹の布と綿布)を出だす。>
「淫ならず」とはいい評価ですね。髪型や衣裳などは、本文でお分かりでしょうか。また布も、麻や綿のほかに、国産の(?)絹織物もあるようです。次です。

<その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(じゃく、かささぎ)なし。兵に(武器として)矛・楯・木弓を使う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん、竹の矢)はあるいは鉄鏃(鉄の矢じり)あるいは骨鏃なり。有無する所、儋耳・朱崖(たんじ・しゅがい、いまの海南島にある郡名)に同じ。>
特産の動物です。牛や馬は弥生墓から骨が出ますからいたのでしょうが、特産品となるほどではなかった…ということでしょう。武器として、矛と楯を使う…と。出土した矛よりすると、矛は実戦用ではなく女王の館などを守る護衛兵のシンボルのようである…と。実戦は銅矢じりの弓矢でしょう。鉄や骨製の矢じりは、めずらしかったので特筆したのでしょう。木弓は、ほれ今の和弓にそっくりですね。その風俗は、ここが海南島といわれてもわからないほど似ている…と。

 さて女王の治める「邪馬壹国」の位置は、文献学的にはこれまでの説明のように、道里を解明して博多湾岸から春日・太宰府を含む拡がりを持つ地…に導かれました。次ぎに考古学的には、上記の国産絹や矛・戈そして銅鏃は言うに及ばず鉄鏃などを豊富に出土する地でなければなりません。
そしてこの地は、筑紫矛の通名のごとく「銅矛」が大量に出土そているのです(福岡:123、壱岐・対馬:97、佐賀:12、大分:50、熊本:9、鹿児島:1、「ここに古代王朝ありき-邪馬一国の考古学」より。以下同じ)。しかも「銅矛の鋳型」は、博多湾岸からしか出土していないのです。銅矛やその鋳型は、近畿では一つも出土していないのです。
鉄鏃も九州が多く(九州:51、近畿:22)、剣などの鉄の武器は比べ物になりません(九州:83、近畿:2。ただし、銅剣鋳型片は昭和41年に尼崎市田能遺跡で、また平成19年6月には東大阪市鬼虎川遺跡で発見された)。
そして国産絹の出土はこの列島で、春日市の遺跡から四例(もう一例は中国の絹。これが問題!!)とあと福岡県三例長崎県一例の八例(中国絹とも九例)しかありません。
文献と遺物からして、「邪馬壹国」は博多湾岸から春日・太宰府に拡がる地にあった…としか考えようがないのです。ですからイデオロギー的に大和であるとか、音当てで自分はここと思うとか、恣意的な誘導は許されないことなのです。必ず文献上は「短里」の概念を持った行程の解明と、考古学上は出土品が「倭人伝」に書かれたものと同じと考えられること、この二つが一致する地でなければならないのです。

<倭地は温暖、冬夏生菜を食す。みな徒跣(とせん、はだしで歩く)。屋室あり、父母兄弟、臥息(がそく、ふしやすむ)処を異にす。朱丹を以ってその身体に塗る、中国の粉を用いるがごとし。食飲には籩豆(へんとう、共に食物を盛る器・たかつき)を用い手食す。その死には、棺(かん、死体を入れる容器・この時代はみか甕)ありて槨(かく、棺を保護するもの・木槨や石槨など)なく、土を封じて冢(ちょう、小さな盛り土をした墓)を作る。始め死するや停葬(喪に服するを止めて日常に戻る)十余日。時に当たりて肉を食わず、葬主哭泣(こくきゅう)し、他人就いて歌舞飲食す。すでに葬れば、挙家水中に詣りて澡浴(そうよく、洗い清める)し、以って練沐(れんもく、頭から水をかぶって体を鍛える)のごとくす。>
温暖な地で、いつでも生野菜が食べられる…と。
みなはだしで歩き、家では同居生活で、父母兄弟それぞれに部屋があるそうです。朱色を身体に塗る風習があるようです。そう言えば、みか棺も朱色のものがありました。
食物は高い食器に盛っているようですが、まだ箸はなく手で掴んでいたようですね。人が死ねば"みか"に入れ、その上から土をかぶせるだけだ…と。そして十日ほど喪に服し、その間喪主は肉を食わずずっと泣き、通夜・葬儀に来た人は歌舞飲食する…と。喪に服している間、死体はもがり(墓が完成するまで仮に置くまたその場所)に安置されたようです。そして冢に納めたあとは、家を挙げて潔斎沐浴(けっさいもくよく)したようですね。いまの風習とよく似ています。

 私たちのいまある文化は、このころから連綿として続いている…ことがよくわかります。わたしたち日本人として、わが国の歴史を知ることが如何に大事か、その上に立ってこそ国際人として通用する…ことが分かって頂けたと思います。ではまた…。