やさしい古代史

古田武彦氏の仮説に基づいて、もやのかかったような古代史を解きほぐしていこうというものです。

邪馬壹国(4)

2006-11-15 17:23:21 | 古代史
 どうも、十二月になれば再入院のようです。その検査のため、しばらく休んでいました。お正月は家で迎えたいのですが…。
さて愚痴はこれくらいにして、今回は「三国志」(西晋の史官陳寿が280年ころ上梓した魏・呉・蜀の史書。同時代史料といえる)の中の二千字余の「魏志倭人伝」を紐解きながら、いわゆる「各個改訂」について紹介しましょう。それを、古田先生の著書「倭人伝を徹底して読む」(大阪書籍、1987.11)に沿って説明します。

 <倭人(ゐじん)は、帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国。漢のとき、朝見するものあり。いま、使訳通づる所、三十国。>
倭人伝は、上の文章から始まっています。何の説明もなくいきなり「倭人」とありますが、当時の読者(西晋の天子や知識人ら)には理解できたのでしょうか。

 理解できた…と、古田先生は言われます。
まず、周代にはどのように認識されていたのでしょうか。
<東方、夷という。被髪文身、火食せざる者あり。>(「礼記」巻十二)
「東方の民を夷という…と。彼らはざんばら髪で、体にいれずみをしている。そして火を通さずに(獣や魚を)食べている…」と。半島の民も夷でしょうが、生で食べる風習はわたしたち列島人のほうが当てはまるようです。

<島夷、皮服す。(注釈)海曲、これを島という。島に居るの夷。…島はこれ、海中の山。>(「尚書」巻六)
この「尚書」は周代に著され、天子や知識人の読むべき古典です。どうも夷は、海の中の山…島に居るらしい。それで倭人伝の冒頭の文を読んだ人々は、「あぁ「倭人」というのは、「尚書」に出てくる「島夷、皮服す」の人々なんだな」と受け取るはずですね。

そして「尚書」を読み進むと、最後のほうに次の文を見出します。
<海隅(かいぐう)、日を出だす。率俾(そつび)せざるはなし。>(「尚書」巻十六」)
殷を滅ぼした周の武王は、建国後まもなく亡くなりました。そのとき幼い成王を助けてくれるよう、弟の周公丹に頼みました。周公はその遺言を守り、成王が立派な天子になるまで「佐治天下(さじてんか)」しました。上の文は、晩年の周公の言葉だそうです。
「率俾」とは、「天子に対し、臣下として忠実に服従すること」だそうです。「私のいままでの苦労の結果、周王朝の基礎も固まり、海のかなたの日の出る所の人々も心服し貢物を持ってくるようになった」という満足感に満ちた言葉だそうです。

 そして「倭」がはじめて出てくるのが、周の終わりころ「戦国時代」に書かれた「山海経」というものです。
<蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。>(「山海経」海内北経)
燕は戦国の七雄の一つで、いまの北京から遼東半島あたりまで領していました。蓋国は、いまのピョンヤンあたりにあったそうです。ですから戦国時代には、倭は列島だけではなく半島の南半分辺りにも居住していたようです。戦乱がひどくなるにつれ逃れる人々が半島になだれ込み、倭人は押し出されて半島南岸や洛東江流域まで下がってきたのでしょう。
「倭は燕に属す」とは、燕を通して周に貢献していたのでしょう。まだ「尚書」には「倭・倭人」はありませんが、周の初めに倭が通好していたことを史実としなければ、後漢の王充の「論衡」の文は成り立ちません。

<成王のとき、越常(ベトナム)雉を献じ、倭人暢(ちょう、香り草とされる)を貢す。>(「論衡」巻十九)
また王充と同じ後漢の史官である班固は、前漢の史書「漢書」を著しました。
<楽浪海中、倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以って来たり献見す、という。>(「漢書」地理志燕地)
「百余国」の状態は紀元前108年に武帝が朝鮮に四郡を置いたころのものでしょうが、「献見す」は前漢時の状況ではないようです。「…という」なる書き方よりすれば、論衡のいう事件以来「ずっと、決まった年に来ている」というニュアンスがあります。
 前にも言いましたが、紀元57年に倭王が「漢委奴国王」の金印を賜ったとき、王充30歳・班固25歳で使いにも会った可能性が高い。ですから三世紀の人々は「尚書」や「論衡、「漢書」の知識・教養を以って「三国志」を読むのです。ですからいきなり「倭人」とあっても、「あー、あの論衡や漢書にある倭人か、建武中元二年に金印を賜ったあの倭人なのだな」と理解したことでしょう。
「倭人伝」といい「倭伝または倭国伝」といわないのは、論衡や漢書の前例に倣ったものでしょうか。

 次ぎに「帯方の東南大海の中にあり」は、漢書の「楽浪海中、倭人あり」に倣ったのでしょう。しかし三世紀当時は、倭国は楽浪郡より分かれた「帯方郡」に属していたようです。
次の「山島に依りて…」は、「礼記」や「尚書」の知識が具体化しているのではないでしょうか。しかし当時、魏や西晋の人々はいわゆる「本州」を「島」と認識していたのかどうか…。つまり、津軽海峡で切れている…と知らなかったのではないか。古田先生はこういわれ、この「山島」はもともと「九州島」と当時の中国の人々に認識されていたのではないか…とされました。ですから倭国の位置について、「九州説」・「大和説」など無意味だったのかもしれません。
「旧百余国」も、「漢書」を受けた文ですね。「漢のとき、朝見するものあり」は、建武中元二年(57年)や安帝の永初元年(107年)の使いのことでしょう。因みに、「朝見・朝献・朝貢」など「朝」がつく場合、使いは必ず王朝の都(洛陽や長安など)に行っていることを表します。しかし「貢献」は王朝の出先、例えば燕を通した貢とか帯方郡までの使い…などを表すそうです。
そして最後「いま、使訳通づる所、三十国」は、陳寿が書いている三世紀の状況です。のちに出てきますが三十国がばらばらに通好しているのではなく、盟主である「邪馬壹国」が取りまとめているようです。

 今回はこれまでにしましょう。